散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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子どもに何を伝えるか ~ 柿ノ木坂C.S.通信から

2021-11-28 22:24:55 | C.S.通信 
2021年11月28日(日)

 近所の百円ショップで買い物をした時のことです。
 レジの前の床のマークに足を乗せたちょうどその時、横から小さな女の子が駈けてきました。どうぞお先にと譲ろうとし、女の子が一歩踏み出したところへ、後ろからきた若いお母さんが笑顔で頭(かぶり)を振りました。
 「ダメ、順番よ」と子どもを制して引き戻そうとします。女の子も引きさがらず、小さな押し問答がそこに起きました。
 「いいんですよ」とあらためて譲ろうとして、考え直しました。笑顔を保ちながら辛抱強く言って聞かせるお母さんの様子に、何かとても真剣なものを感じたからです。
 「順番を守る」という基本的なマナーを、お母さんはぜひともこの時に教えたいのではないか、ここはお母さんのそうした気持ちに波長を合わせることが、幼い子に順番を譲ってあげることよりも優先ではないか、そんな風に直感したのでした。
 子育ての中で、これはどうしても伝えておきたいと思うことがあり、今がその時であると確信する時があります。そうした場面は得てして突然、思いがけないタイミングでやってきます。その場のとっさの振る舞いを後から振り返って、私たち親の方が「自分はこのことを、こんなに大事にしていたのか」と気づかされるのです。
 子育てを通じて親もまた育てられるといいますが、その機微はこんなところにもあるのかもしれません。それぞれどんな気づきを経験しているか、顔を合わせての懇談が再開されたら、ぜひ皆さんと話しあってみたいところです。
***
 何を大事に伝えるかは、親により家庭によってさまざまですが、国や民族による文化的な背景も影響していそうです。中国人と日本人のハーフとして生まれ育った若い女性が、先日面白いことを教えてくれました。子どもを育てる時、各国の親がことさら強調するのは何だろうかというのです。
 日本の親は「人に迷惑をかけるな」としつけるのに対して、韓国の親は「人に負けるな」と叱咤する、そして中国の親は「人にだまされるな」と諭すというのが話のオチでした。
 「実際には中国の親も、韓国の親に似たところがあります。私も中国人の父に『負けるな』と叱咤され続け、父のその声が未だに耳元で響いています」と彼女は苦笑しました。
 エスニック・ステレオタイプを踏まえたジョークですが、面白いところを突いているでしょう。中国や韓国の事情はさておき、日本の親が「人に迷惑をかけるな」と教えるというのは、概してあたっているように思われます。
 「人に迷惑をかけない」のは大事な心得であり、それをきちんと伝えようとすることは日本の親の美点であると私は思います。ただ「迷惑をかけない」で止まってしまうとしたら、少し物足りないでしょう。それではマイナスを減らすにとどまり、プラスを増やすことにならないからです。
 もう何年も前になりますが、ドイツからやってきた女性宣教師が講演の中で、日本人の「迷惑精神」に苦言を呈したことがありました。助けあいのネットワークをつくろうとしても、助けを必要とする人の側から「迷惑をかけるわけにはいかない」と辞退の声が出てしまい、それが絆づくりを妨げるというのです。「困ったときはお互いさま」という美しい諺を、今の日本人は忘れていないかとも指摘されました。
 その後、東日本大震災など多くの困難を経て、助けあうことの必要性を私たちは痛感してきたはずです。それが子育ての場面に生かされ、「迷惑をかけない」に加えて「困った時は助けあう」が日本の親の口癖になったら、どんなに素晴らしいでしょうか。
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「自分が嫌なことは他人にもしてはならない」と『論語』は教えます。
(『顔淵』『衛霊公』)
「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」と聖書は告げます。
(マタイによる福音書 7:12)
 私たちは自分の子どもに、何を伝えようとするのでしょう?
Ω

《わたしたち》

2021-11-12 07:45:51 | 日記
2021年11月12日(金)
 『折々のことば』(鷲田清一)2022 から転記:

 《わたしたち》は、一つは《わたし+あなたがた》として、他は《わたし+かれら》として用いられる
エミール・バンヴェニスト

 わたしが誰かに話しかけるとき、相手が《わたしたち》に含まれる場合と含まれない場合がある。つまり、《わたしたち》は時に「包括的」に、時に「排除的」に機能すると、言語学者は言う。真の「複数」を受け容れるのは《わたしたち》ではなく、むしろ非人称としての三人称だと。
 『一般言語学の諸問題』(岸本通夫監訳)から。


自由の人

2021-11-11 07:24:11 | 日記
2021年11月11日(木)
 
 「自由を制御できない人は、自由の人とはいえない。」

 たぶん中3のとき『中三時代』か『中三コース』かどっちかの付録で見たもので、勉強の合間らしく立って伸びをする青年の後ろ姿が添えてあった。切り抜いて鉛筆削りの横に貼りつけ、長らく戒めにしたものである。学年誌も鉛筆削りも過去の記憶に属するが、自由を制御することの難しさには今に至るまで悩み続けている。今も昔もムラは大きく、ギアを入れた際の瞬発力は当然ながら年々低落していく。
 ピタゴラスの言葉と書かれてあり、三平方の定理と「自由」の取り合わせが当時は不思議に思われた。往時の学者は今日のような専門人ではない。「万物は数」とは、自然の普遍的な本質に関わる言明である。音楽・天文から形而上までも「数理」で究めようとは、いかにも壮大深遠である一方、どこか窮屈な強迫の気配がある。彼と彼の教団は完全数や友愛数を崇拝し、「無理数」を発見したメンバーに対してその諸説を認める代わりに、死刑をもって報いたという。
 B.C.582-496(585-495などとも)という長い生涯が妙に正確に伝承されているが、「サモスの賢人」の素顔は杳として知れない。暴徒化した市民に教団もろとも滅ぼされたとの逸話は、影響力のいびつな性質を暗に示している。

ピタゴラス像(ローマ・カピトリーノ美術館)Wikipedia より

 Πυθαγόρας にとって「自由」とは何だったか?まずはギリシア語原文を知りたいが、なかなかたどり着けない。英語で検索すると下記が出た。
 "No one is free who has not obtained the empire of himself. No man is free who cannot command himself.“

 「自由を制する」のではなく「自分自身を制する」のか、すると意味合いは、旧約の例の言葉に限りなく近くなる。

 「怒りをおそくするものは勇士にまさり、自分の心を治める者は城を攻め取る者にまさる。」
(箴言 16:32)
 結局このことか。

 記憶が正しいとすれば、件の学年誌は格言のポイントを微妙にずらしていたことになるが、ここはむしろ「あっぱれ」を進呈したい。自分自身/自分の心を治めること ~ 自制一般では広すぎ深すぎて、かえってものの役に立たない。せめて今この時の放埒をしばし抑えよ、それが自由への正しい一歩であるかもしれない。

Ω

かな文字入力と筆ペンと

2021-11-04 09:46:49 | 日記
2021年11月4日(木)
 前回短く更新したのが10月11日、忙しさにかまけている間に3週間以上経ち、その間にスワローズが優勝し、国政選挙が行われ、いくつかの殺人事件が起き、コリン・パウエル、坪井直、白土三平、柳家小三治が亡くなった。
 前回はローマ字入力していたが今はかな文字入力なので、これもこの間に起きた私的な変化である。かな文字入力は過去数年間に何度か試み、根気が続かず止めてしまった。この10月中旬、スケジュール管理の失敗で5日間に3つの講演・収録を入れてしまい、異なる畑の違う話を並行して準備せねばならなくなった。自業自得…
 そんな次第でほとんど正気を失っていたある日ある時、突然左手がかな文字入力の動きに走った。ある単語を勝手にかな文字で、不思議に正しく入力したのである。脳の働きが謎だというのはたとえばこういうことで、その後の作業を少しも楽にするものではなく、むしろ邪魔になるだけのことだった。
 かな文字入力の利点として、マスターしてしまえば入力が非常に速くなることが挙げられる。たぶん事実だろうが当方には無縁の話、キーボードの4段全てにわたって8本の指を走らせねばならず、ミスタッチの起きる機会が格段に増す。ローマ字入力でも人一倍ミスが多いのに、かなでブラインドタッチをマスターする頃には、とっくに人生が終わってしまう。
 それでも一度ならず挑戦するのは、できないことができるようになってみたいといういつもの虫が、新しい外国語を囓る時と同じく騒ぐせいだが、もう一理由がある。事務屋さんでもなし、速く打つことに興味はないが、静かに打てたら嬉しいと思う。けたたましくキーをこづき回し、変換確定ごとにEnter をこれでもかとひっぱたく某氏は極端として、気づけば自分も随分と騒々しい作文風景である。本来こういうものではないはずだ。

 筆記用具についての平行現象があり、この期に及んで筆の魅力に目覚めつつある。高尚な話ではない、ペンと筆は筆記用具の二大巨頭だが、その作りと思想が互いに全く異なっている。古くは粘土板を削る作業に淵源をもち、堅い先端で刻むことに由来するのがペンというもので、究極の進化形(あるいは退化形)がボールペンである。筆記具を掌に握りしめ、親指を突っ立てて書き殴る姿は世も末の嘆かわしさだが、筆圧で押しつける式の筆記具を使うには、実は理にかなっている。対する筆は柔らかさの集合体である毛先を紙に当て、そこから流れ出る有色の液体の輪郭を記すものだから、力をこめるよりも制御することが秘訣になる。万年筆や水性ペンは両者の中間ということになろうか。
 くどくど書くには実際的な理由がある。精神科の診療にマジメに取り組んだ場合、一日に書く文字数は相当のものになる。新米の頃はボールペンを使っていたが、これでは腱鞘炎を起こさずにはすまないと気づいた。入局翌年から水性ペンに切り替え、当時まだ少なかった選択肢が次第に広がるのを見つつ今日に至っている。今は Pentel の Energel シリーズで、これに限らず最近のゲルインキボールペンは随分よくなった。何しろできるだけ筆圧をかけずに書くよう努めるうち、ふと筆の思想に思い当たったという次第。カルテそのものを筆ペンは、残念ながら無理な相談だけれど。

 『白い巨塔』の原作末尾近く、意を決した里見医師が仕事机から硯を取り出し、墨を擦って辞表を認める姿がある。まことに奥ゆかしく、墨を擦りつつ文案を練るのも本来の姿ながら、この手間がスピード至上の現代における決定的な難点。昨晩放映の『ドクターX』では海老名センセイが筆ペンで怪しげな辞表を書いていたっけな。
 この筆ペンというのが大変な発明で、最近は水彩絵の具にも応用されている。数社のものを使い比べ、これまた Pentel が断然よいことを実感した。(同社に縁故はない。念のため)
 ネット情報によれば、大方のものがポリブチレン テレフタレート(PBT)を素材とするのに対して、唯一 Pentel はナイロンを使い、手間のかかる tapering 加工の工夫で「イタチの毛に近い」使用感を実現したとのこと。日本の技術者の力と根性ににあらためて脱帽する。

 子どもの頃、習字を嫌って逃げ回っていた報いで、折角の筆ペンもミミズの這い跡を記すばかりだが、せめて書の教える心の鎮まりをパソコン操作でも忘れずにおきたい。かな文字入力ではキーを叩く回数がほぼ半減する利点を、人は「速さ」に結びつけるところ、こちらは騒音の低減に活かしたいのである。今どきの棋士らの石の置き方に似て、熱きは内に秘め置かん。そのためにも、ああもう少しミスタイプを減らさんとなぁ…
 ところで昨夜のエンケン海老名センセイ、筆ペンを鉛筆みたいに斜めに握ってませんでした?筆は紙面に垂直にあて、垂直を維持するのが基本ナリと昭和育ちの子どもの心得。
 時代劇でもひどい持ち方をよく見るが、そこへ行くと立派なのが韓流の俳優たちである。『トンイ』でハン・ヒョジュが見事な筆使いをしていて感心したが、その後も基本に沿った運筆姿勢をくり返し見ている。漢字使用を止めた彼の国では、書は当方以上に過去のものになっているだろうに、この点の考証はきちんとしたものだ。

競わんか かかることこそ 競いたし

Ω