散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
コメント歓迎、ただし仕事関連のお問い合わせには対応していません。

一陽来復

2019-12-28 13:38:24 | 日記

2019年12月28日(土)

 帰省当日から三日続けて12月とは思えない雨続き、今朝は一転、明るい日差しが戻った。甘夏柑から金色の滴り。

Ω


犬が木に登って降りられなくなった事情

2019-12-23 06:43:29 | 日記

2019年12月23日(月)

https://www.cnn.co.jp/fringe/35147205.html

こういうニュースを大まじめで配信するのが、日本の大マスコミと違った魅力である。

そういえばずっと昔、東京都下の山間の道で、大木にニワトリが鈴なりに生っているのに出くわしたことがある。16歳の初夏、友人らと自転車でツーリングの途次だった。絵に描けたらいいのだが・・・

描けばいいじゃないかって?

そうだよね、描けばいいのだ。

Ω


盛りだくさんな火曜の午後

2019-12-17 11:38:54 | 日記

2019年12月17日(火)

 午後から我孫子で小講演。最寄り駅で予定の電車に乗り込んだところに車内放送が入る。
 「後続の電車が大幅に遅れているため、当駅で時間調整をいたします。」
 そのまま7分間停車した後、ゆるゆる動き始めた。
 
 かねがね思うのだが、これは適切なことだろうか? ラッシュ時に混雑を平準化する目的なら理解できるが、今は午前11時台で車内もホームもがらんとしている。この状況で「後続遅れによる時間調整」を行うのは、先行電車まで無用に遅らせることによって、不便を被る人間を増やす意味しかないのではないか。
 早い話が、これでは我孫子の講演に遅れてしまう。慌てて主催のSさんにメールするやら、代替経路を検索するやらあたふたした。結果的には早めに家を出たのが幸いし、余裕をもって到着できたが、昨今の電車移動にはこんなリスクがある。
 
 この件は危険管理や迷惑の配分について、考えどころのある素材を提供する。
 「後続遅れによる時間調整が適切と判断されるのは、どのような条件がある時か勘案せよ。」
 入試の論述問題に使ったら面白いだろうと思うが、50万人の受験生に一律に実施して公平客観的に採点しようというのは、どだい無理な相談である。
 
 
 講演題は「心の健康を支えるもの」で、副題が「からだ・あたま・なかま・たましい」というのである。数年来、繰り返し論じてきたネタで、今年で6年目になるACOVAシリーズではグルッと原点に戻った観がある。
 「そもそも魂って何ですか? お墓でフワフワ浮いてる? あれは人魂か・・・」
 笑えない難問が突きつけられたのも、確かケヤキプラザ7階のこの部屋だった。 そんな経緯も記憶にあり、spirit / spiritual とは何ぞやについて少し丁寧に話してみる。するとさっそく、同世代と思われる男性から反応があった。
 spirit は宗教や良心に関わる高尚な側面だけでなく、「元気」「活気」といった感情のエネルギーに関わる、即物的な意味を含んでいないかというのである。「元気」「元気」と繰り返しながら、両手で自分の体をもちあげるような動作をしてみせてくれる。なるほどと膝を打った。
 fighting spirit は「敢闘精神」、(in) high spirits は「意気揚々」、強い酒(酒精度の高い蒸留酒、ウイスキー・ブランデーなど)を spirits と呼ぶなど、英語にはその種の用法が多々ある。 spirit というピラミッドの頂が聖霊 holy spirit であるなら、これらの用法はその広い底辺を形作るだろう。質問者は黒人霊歌にも言及したが、これなどは頂と底辺の渾然一体たるものかもしれない。
 終了後にSさんが寄ってこられた。
 「spirit に『郷愁』といった意味合いは、ないでしょうかね?アメリカに連れてこられた黒人たちが、はるかアフリカを望んで抱く深い望郷・・・」
 なるほど、なるほど。
 ドイツ語の Heimat / heimatlos といった言葉が思い出される。この種の望郷は魂の震撼を伴うもので、psychological とか emotional とかにおさまらない spiritual な性質をもつものに違いない。
 
 人前で汗かきながら話すと、質疑応答の中に必ずこうして御褒美がある。睡眠について触れたことへの反応に、「コーヒーを飲んでから昼寝をするのはどうか」というのがあった。昼寝は健康のために推奨されるが、長すぎると夜の睡眠の妨げになる、30分未満に抑えよとは専門家の一致した御託宣である。そこで予めコーヒーを飲んでから一眠りすれば、2、30分経つうちに吸収されたカフェインが脳に回って覚醒効果を発揮するから、ちょうどよいタイミングで目が覚めるというのである。
 誰か有名人がTVででも語ったのだろうか、この説には何人か同調者があった。発想が面白いが、僕の場合はいくらコーヒーを飲んでも不思議と眠気が覚めない、紅茶か緑茶でやってみましょうと答えたのだった。
 
***
 大岡昇平の『無罪』という短編集を読みふけりながら帰宅すると、高校の同級生から出来たての著書が送られてきていた。
 
 加藤万吏乃『心理療法と音楽療法があれば認知症はこわくない』(アグネ承風社サイエンス 003)
 
 先日のクラス会でこの本の話になり、「認知症、やっぱりこわいから」と言ったら、「こ・わ・く・な・い・の」とコワい顔で睨まれた。人類進化や脳科学に言及しながら、親しみやすい語り口の好著である。
 
 
 夕食後に楽しくページをめくっていたところ、何かが耳に入ってきて不意に背筋がゾッとした。何だろう? TV画面では某局の番宣時間帯、いま映っているのは『アナザー・ストーリーズ』
 
 ・・・アナザー・ストーリーズ ?
 
 分かった、それだ。分かったら寒気に吐き気が加わった。
  「別の話」を意味する another story に「裏話」「秘話」あるいは「分岐点を別の方角へ進んだと仮定してのタラレバ話」といった含みをもたせて『アナザー・ストーリー』、そこまでは良い。調子に乗って、話は一つではない、たくさんあるのだから複数にしてやれと「ズ」を付けたのだろうが、これはいけない一発アウトだ。
 another は もともと an + other、つまり 「別の一つ」の意味で無論単数である。英語は日本語と違って単数と複数の区別に厳格であること、中一以来イヤというほど教わってきた通り。だから another の後には必ず単数が来る。複数にしたいなら other stories でなくてはならない。こんなのさしづめ基本のキといったところで、視聴者中の英語の先生や在留英語人がよく黙っているものだ。「チョイスする」などと同じで、日本人がまたやってるよと、マジメに取り合いもしない図か。
 
 入試への民間試験導入が見送られたのは良いとして、さしあたり今年度はセンター試験の英語の配点を、マークシートとリスニング1対1にするという。リスニングの比率を大幅に引き上げるわけだが、現下の状況に鑑みて「異議あり」である。
 公共放送の担い手を自負して憚らない大TV局が、こんなデタラメをやらなくなる程度にまで、読み書きの基本を徹底させるのが先決、ついでに言うなら英語より日本語が先先決である。
(翌日の新幹線車内にて、乱文御免)
 
 
Ω
 

碁敵健在ナリ/トランプの正しい使い方

2019-12-11 08:10:22 | 日記
2019年12月11日(水)
 起き抜けに寝ぼけて、長らく使っていない引き出しを考えもなく開けたら、ゴルフボールだのキーホルダーだのに混じって、使い捨てのライターがひと塊出てきた。災害時には使えそうなもので、誰が入れたのかは一目瞭然である。
 「10年ぐらい、ここに眠ってたのかな」
 「20年かも」
 「30年はないか」
 「使える?」
 「使える」

  一瞬、間があって、

 「こんなふうに日の目を見ないライターのことを、何て呼ぶ?」
 「・・・ゴーストライター」



***

 何はともあれ今日は良い日、昨夕、セキネさんからメールがあったのだ!
 病気ではなく、見限られたわけでもなく、
 「携帯電話を紛失しまして」
 ものぐさなセキネさんは、連絡先情報をすべてケータイまかせにしていたため動きがとれなくなり、それでも保険をかけていたおかげで交換機器を入手、昨日めでたく通信再開したという。さっそく今後に備えて住所やら電話番号やらを交換し、あわせて次の対局日をとり決めた。ああよかった、安心した。

 このオチはやっぱり、普通人なら真っ先に考えるところなんだろうか。相棒はハナから「ケータイ落としたんじゃないの?」と言い続けた。ブログを覗いてくださった皆々様も、何でこいつはことさら深刻な方から考えるかと訝ったに違いない。
 なぜか僕には、最もありそうなそのことが思い浮かばなかった。むしろ独居高齢者に時として起きる、最も考えたくないある情景が脳裏を占め、白状すれば夢にまで見たのである。碁敵がいかに貴重とはいえ、これはいささか心配過剰であろう。鬼籍入りする人々がここ数年周囲に多く、人の命の儚さが骨身に沁みている証拠だろうか。
 「存命の喜び、日々に楽しまざらんや」(徒然草 第93段)
 母晩年の愛誦句を、このところ毎日のように口ずさんでいる。

***
 
 11月末に高校のクラス会あり。僕は少々半端な立場で、昨年は準備段階まで幹事だったが、校務でドタキャンして当日の司会進行を気の好いT君に代わってもらった。今年は逆に、当日の司会進行を僕が代わる約束である。会場ではまず席決めから始まるだろうが、テーブルの配置がわからない。何しろクジ引きが常道、男女入り混じって座れるには・・・奇数と偶数で分ければいいか、しかし人数が違うぞ等々あれこれ悩みつつ、ない知恵絞ってそれらしきものをこしらえた。これでよし。


 ついぞ降りたことのない赤坂で下車し、店を辿りあてるとT君がもう着いていて、ポケットからトランプを取り出し1枚引けと言う。出たのはこれ、


 「同じ色、同じ数のカードの席ね」
 「ってことは...」


 ここか。
 スペードの9って何だかブキミだが、それはともかくこれは名案、シャレてるうえに面倒な準備が要らず、色を使い分ければ男女の振り分けも容易である。頭のいいやつのすることは、いつだってスマートなものだ。

 24+24で48名のクラス。これまでに男女2名ずつ4名が他界した。当日の参加者は男子12名に女子8名、けっこう強かったサッカー部の中軸で人気者のS君が、多年の滞米から帰国して初参加。彼を中心に、貸し切りの店内は和気藹々たるものである。
 健在の欠席者24名の大半は、仕事なり遊びなりで充実ゆえの多忙。介護で家が空けられない者も当然ある。気になるのは男子1名女子3名の消息不明者で、こんなこともセキネさん騒動の背景にあったものか。
 お互いそろそろお年頃、存命の喜びはまことに貴くかけがえがない。

Ω
 

ザカリアに起きたこと / モノのなかった豊かな時代

2019-12-09 11:35:02 | 日記
2019年12月09日(月)
 待降節の第二主日、小学科のメッセージ担当。
 与えられた箇所はルカ1章の57~65節だが、ここだけでは意味が分からない ー なぜザカリアの口がきけなくなっているのか、命名をめぐる悶着がなぜ生じるか等々 ー 結果、自ずと洗礼者ヨハネの誕生物語全体をなぞることになる。
 告知の天使ガブリエルは、イエスの場合は母マリアに臨んだが、ヨハネについては父ザカリアに現れた。ザカリアとエリザベトは篤信の夫婦だが、既に老いて子がなかった。ガブリエルから妻の懐胎を予告された時、当然ながらザカリアは信じない。
 もとよりこのモチーフは、創世記18章のイサク誕生予告譚を踏まえている。そちらでは妻のサラが、うっかり笑みを漏らして天使に見とがめられ - 信じて喜んだのではなく、あり得ないと考えての苦笑 - それがイサク(「彼は笑う」の意)という命名にユーモアの深みを加えている。ザカリアはより能動的で、しるしを示せと天使に食い下がった。恐ろしいことをするものだが、これも旧約以来の伝統で、奇跡を予告された者は直ちに納得せず、しるしを求めるのが常である。
 さらに驚かしいのは、天使あるいは主御自身が決して拒まずしるしを与えることである。尻込みするモーセは奇跡を起こす力と右腕アロンを与えられ、.死病に戦くヒゼキヤは日時計の影が10度戻る(=太陽が10度後戻りする)のを見た。これ既に比類なき恩寵の確固たる裏書きであろう。
 そうとなれば、天使はザカリヤにも当然しるしを与えるものと予想され、かつそのしるしはモーセやヒゼキアのそれに相当する厚意的なものでなければならない。そして実際に何が起きたか。

 ザカリヤは口がきけなくなり、それが赤ん坊の誕生まで続いた。正確には、赤ん坊の名が通念の定めるザカリア・ジュニアでなく、天使の指示するヨハネとすべきことを証言する瞬間まで、続いたのである。
 口がきけないのは、その実質が構音障害であれ運動性失語であれ、たいへんな不便に違いない。「自分の組が当番で」(1:8)とあるところ、実際には生涯一度巡ってくるかどうかの大役で、その内容は至聖所で示された神意を人々に伝えるというものだから、口が利けないのでは勤めにならずすべて台無しである。
 まことに災難という他はないが、それというのも「時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである」(1:20)というのだから、つべこべ言い逆らったザカリアへのユーモラスなお仕置き、天使の口チャックと考えたくなるのが自然である。僕も以前に、そんなふうに話をした。
 しかし、ちょっと待った。前述の通り天使はしるしを求められて拒んだことがなく、与えられるしるしは常に聖なる厚意に満ちたものであった。そうだとすればここをどう読む?
 「口がきけなくなったこと」は罰ではなく、それこそが恵みなのである。そう考える他はない。
 我々は、しゃべり続ける限り聞くことができない。「黙って聞きなさい」と母は子をたしなめる。そのように天使はザカリアをたしなめた。黙って聞く、聞き続ける時、囁くように確かな恵みの声が初めて聞こえるからである。
 「すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、紙を賛美し始めた。」(1:64)

***

 この朝、教会への道で鞄のもち手がいきなり切れた。不吉? いやいや単に長年、使い続けただけのことで。20代の頃の知り合いに、ハンドバッグを毎年買い換えるという令嬢があったっけ。全体として贅沢や無駄遣いとは縁遠い堅実な人柄で、それだけに不思議の印象が強く残ったものだった。
 当方いたって物持ち良く、これこのとおり、ぶっつりと。



 荷物の多い日で一瞬途方に暮れたが、もち方を工夫すれば意外に耐えており、そのまま目黒から千葉まで移動して卒論発表会に臨んだ。夕からの忘年会まで無事に終え、帰りの総武線でY先生とO先生がこれに目を止めて、
 「直りますよ、それ」 
 「うん、直ります。上野駅界隈には修理屋さんが何軒かある。」
 「直したいですね、お金の問題ではなく、」
 「お金の問題だった頃もありましたが、」
 楽しそうに昔話へ流れていく。両先生は僕より数年上の同い年で、モノが大切であった心豊かな貧乏時代を経験しておられる。「直して使う」って、何て素敵なコンセプトだろう、控えめの酒で軽く上気した頭がぽかぽか温かくなった。
 こちらも元気な昭和の子ども、どうせなら店へ出すより自分で直したい。帰宅するなり家の中を見回して、ありあわせのもので軽くやっつけた。
 どうです、立派なもんでしょう!

 

Ω