散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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レベッカ

2019-06-30 18:19:42 | 日記
2019年6月30日(日)
 イサクはネゲブ地方に住んでいた。そのころ、ベエル・ラハイ・ロイから帰ったところであった。夕方暗くなるころ、野原を散策していた。目を上げて眺めると、らくだがやって来るのが見えた。リベカも目を上げて眺め、イサクを見た。リベカはらくだから下り、「野原を歩いて、わたしたちを迎えに来るあの人は誰ですか」と僕に尋ねた。「あの方がわたしの主人です」と僕が答えると、リベカはベールを取り出してかぶった。僕は、自分が成し遂げたことをすべてイサクに報告した。
 イサクは、母サラの天幕に彼女を案内した。彼はリベカを迎えて妻とした。イサクは、リベカを愛して、亡くなった母に代わる慰めを得た。
(創世記 24章62-67節)
***

 事情や背景を知らなければ、いや、それでも何か胸を騒がせ疼かせるものがここにはある。まして経緯を知ったならば。
 今年度の小学科は低学年が多く、礼拝堂の雰囲気はどちらかといえば幼稚科のそれに近い。与えられた箇所は、24章全体が4ページにわたって語るイサクの嫁取り物語の、寡黙にして雄弁な結びの部分である。
 さかのぼって語る。老齢の両親アブラハムとサラに子が与えられたこと、先週聞いたその子イサク奉献の物語、主の山の備えによって救われた少年イサクが既に壮年に至り、老母サラが思いを残しつつ他界したこと、イサクに嫁を迎えるにあたり、居住地カナンではなく出身地ナホルに人を求めたアブラハムの思い、主命を受けて成算のない旅に出る無名の僕、そしてナホルの井戸端での僕の祈り、リベカとの出会い。
 井戸で水を汲んでは、重い水瓶を肩に載せて往復する女性らの姿が、唐突に太古の昔と現代とを結びつける。変わるものと変わらないもの、ことさら薄暮に野辺を散策するイサクの胸中、ふと見上げる目に幻のように浮かぶらくだの列、人が ~ 女性がらくだから降りてベールをかぶる。母から譲られたベールでもあろうか。駆け寄ってくる老齢の僕。
 子どもたちが口をポカンと開け、長い話に身をよじりながら目だけは逸らさず聞いている。
 訳文にして300字足らず、読み慣れた創世記のこんな片隅に、これほどの感動が存在するとは今朝の今朝まで気づいていなかった。

 「イサクは、母サラの天幕に彼女を案内した。彼はリベカを迎えて妻とした。イサクは、リベカを愛して、亡くなった母に代わる慰めを得た。」

so is it.

Ω

 

 

 

ラジオ体操15ヶ月ぶり再開

2019-06-29 07:25:19 | 日記
2019年6月29日(土)
 こわごわ万歳してみると・・・できた、挙がった!
 勇躍、朝のラヂヲ体操を再開する。15ヶ月ぶりぐらい?
 年齢詐称の五十肩が突発したのが2018年春、ちょうど半年経って母が急逝した頃、すぅっと右が良くなるのと入れ替わって今度は左。
 五十肩の不思議は、時間はかかるけれど日が経つにつれひとりでに治ることである。基本的に加齢の随伴現象だというなら、ひたすら悪化の一途を辿るのもありそうなところ、なぜ治る、なんで良くなる?
 自身の変化に自身が適応するということか、それって人やモノの名前を思い出せない自分に、いつの間にか寛容になっていることと同じかしらん。これ、案外深い原理につながっているのかもしれない。
 それにしても15ヶ月の間に、もともと固い体がまたいっそう固くなったこと。身のこなしも鈍重になるわけだ。頭の中もこんなふうなのかな。

***

 ラヂヲ体操の後のニュースも15ヶ月ぶりになるわけだ。 
 最高裁裁判官の国民審査制度というものがあって、理念は結構だがおよそ機能しそうにないシステムの見本のようなものである。「辞めさせたいと思う人間についてバツをつける」というやり方は、独裁者の出現を予防する目的などにはそれなりに使えるもので、古くは古代ギリシアのオストラキスモス(陶片追放)に例がある。ただ、政敵のプロパガンダで不当に追放される者が出るという副作用が、当然ながらつきまとった。
 それはさておき、現今のこの制度が役に立たないというのは、一つは最高裁の司法判断を丹念に追うことに相当の見識と努力を要するため、もう一つは法廷の総意として下された判決に、個々の裁判官がどのように関与したかが見えにくいためである。「よくわからない」というのが大方の本音で、わからない時には何もしないで放置するのが人間の通性だとすれば、大多数の平均的な常識人は何も書かずに紙を投じるだろう。
 どこか釈然としないまま、そのようにふるまっていた自分の愚かさを痛感したのは、たぶん二十歳になって最初の総選挙の時である。投票翌日、月曜日の大学キャンパス、選挙の行方について三、四人の立ち話の中で、
 「で、国民審査は?」
 「全バツ」
 「全バツ、仕方ないよ」
 「僕もだ、もう少し詳しく知ってればね」
 「いや仕方ないって、制度設計がおかしいもの。信任はマル、積極的な罷免はバツ、どちらともいえないのは△っていうなら分かるよ、バツの付かなかったものはマルと見なすというのがおかしいだろ」
 「推定無罪の考え方であって、裁判官チェックの理屈ではない」
 「そもそも最高裁の判決がさ、個別にはともかく最近の流れとして」
 「そこは人によるかもしれないけど、わからないならバツにしたいよね」

 ・・・友が皆 我より偉く見ゆる日よ

 あの日はほんとに恥ずかしかった、頭はこういうふうに使うものか。
 あれから40余年、どれほど進歩したか自問するなら忸怩たるものだが、相も変わらずパッとしないのは先様も同じである。最近いちばんの落胆、というより驚きは、大崎事件の再審請求が棄却されたことだった。一、二審で認められた再審の開始を最高裁が覆した初のケースだという。最高裁というものが必要なのかどうか、よくわからなくなってきた。
 最近は僕も、裁判官のプロフィールを以前よりは丁寧に読むようになった。そうして除いた少数の名前を残し、残りは一律にバツをつける。次もまた除ける名前があることを、切に望んでいる。

Ω


 


ふるさとの海もまた良し

2019-06-26 22:39:26 | 日記
2019年6月26日(水)
 今次滞在中の写真から。


 家のすぐ下を河野川が流れ、その向こう側の斜面を半ば上がったところから西を見はるかす。瀬戸内ほど静かな海が世界中にあるものかどうか。
 あのバカでかい海原を Pacific Ocean (平和の大洋)などと呼ぶのは悪い冗談で、父母の代にはこの海で日米の青壮年が血で血を洗う戦いの末、数十万人が命を落とした(Pacific War !)。わが伯父もその一人である。真に平和な瀬戸内の海へ命ながらえて戻ることを、23歳の若者はどれほど夢見たことか。
 土曜日にお目にかかったM先生が御家庭の昔話をしてくださった。岡山に住んで竹を商っていらした祖父上は、愛媛県長浜町(現・大洲市)あたりで切り出した竹を筏に組み、はるばる岡山まで海上を運んだそうである。やがて長浜の女性と家庭を営み、御子息は満州に渡って医者となった。その余の話はあらためて紹介させていただこう。


 母が作業室に使っていた北側の部屋が、夏は涼しくて快適である。窓を開ければ目の前に鮮やかな朱色の花。父に尋ねると「ザクロ」と即答が返ってきた。毎年そこばくの実を味わっていたが、花の季節に帰省することが少なかったのである。
 この霊妙な果樹の原産地は諸説あって定まらず、東方へもたしたのは前漢・武帝の命を受けて西域を踏査した張騫との伝説があるらしい。わが国には9~10世紀の到来、中国から直達したか朝鮮半島経由か定かでないという。
 面白いのは「ザクロス山脈原産説」で、ペルシア湾北岸の同山脈地域に産した果実を、「柘榴(ざくろ)」と音訳したというのである。ギリシア神話のペルセポネー(プロセルピナ)が毎年4ヶ月を冥界で過ごさねばならなくなったのは、勧めに応じてうっかり4粒の柘榴を口にしたからだが、逆にペルセポネーの帰還と共に春が訪れることから、ローマ神話では復活の象徴とされるのだとも。


 6月の富士山はこの通り黒々している。
 う~ん、カメラ買っちゃおうかな・・・腕が悪くちゃ意味ないか。

Ω


ふるさとの山に向ひて

2019-06-23 22:32:43 | 日記
2019年6月23日(日)
 

 ほい、ここにも。実にまことに珍しくないお名前なのね。
 城山の東裾を北へ歩いて行くと、ロープウェイの登り口近くに凜々しい騎馬武者像、さてこのお方は?



 加藤嘉明(よしあきら)は加藤清正と同じく元・秀吉の子飼いで、賤ヶ岳七本槍の一人。加藤姓は全国区だが名古屋辺りには特に多い。両加藤とも秀吉没後は家康に随身した。それが秀頼の命運を絶つにつながるなど、清正は思いもかけなかったようだが嘉明の方はどうだったか。
 命を惜しまず名を惜しむのが侍の侍たる所以、だからこそ賭けて甲斐ある親分に付きたいという気分は『太平記』あたりからはっきりしており、それが理由で主を乗り替えることは大半の侍が一度二度経験している。秀頼側近にその認識が甘かったのではないか。征夷大将軍というものの歴史的意義を考えても、もう少し深く読んで幼君の一身を守る知恵がなければならなかった等々、後世から難ずるのはたやすいことである。
 加藤嘉明は伊予に縁が深い。もともと天正13(1585)年の秀吉四国攻めで小早川隆景の与力として伊予平定に功あり、まずは淡路で城持ちとなった。文禄慶長の役でも大いに活躍して6万石に加増され、伊予正木城(現・愛媛県松前(まさき)町)に移る。この時期に家臣・足立重信に命じて伊予川の治水工事を行い、以来この川が重信川と呼ばれるようになった。重信川は道後平野・松山平野を沖積によって作り出した北予随一の一級河川、河川名が治水工事担当者にちなむ例は全国的に珍しいという。
 嘉明は領国経営に熱心であったと見え、20万石の太守となった関ヶ原戦後は石手川の改修を再び足立重信に命じ、その成果を踏まえて慶長6(1601)年に家康から勝山城築城の許可を得る。慶長8(1603)年、城の完成と共に正木城から勝山城に入り、あわせて勝山を松山と改名した。伊予松山の名がここに始まる。
 このあたりの営々たる働きぶりは、天正18(1590)年に関東入りして以来、全力を傾注して江戸建設に励んだ家康の似姿を見るようである。実際多くの大名が家康の姿に新時代の領主のあり方を感得し模倣した中で、さしづめ優等生が加藤嘉明であったかもしれない。地元民としては重信川・石手川の治水と、金亀(きんき)城の異名をもつ名城の縄張り、さらに松山の命名を加えて三つの大功をこの人物に帰することになる。
 寛永4(1627)年、会津の蒲生氏が跡目騒動の責めを問われて伊予松山藩へ転封、入れ替わりに加藤嘉明は会津に入り、寛永8(1631)年に病没している。松山といい会津といい、草創期の徳川にとっては地方のおさえの要衝で、そこを任された加藤嘉明という人物は外様中の別格と見える。同じ賤ヶ岳七本槍の福島正則の改易にあたり、正則の身柄を預かり広島城を接収する大役を担ってもいる。
 実は加藤嘉明の父親というのが、もともと家康の家臣だった。三河一向一揆で一揆側に付いたため浪人することになり、そこを秀吉に拾われたのだが、この一向一揆というものはいわゆる謀反とは性質を異にし、この儀ばかりはと敢えて主君にたてついた譜代の忠臣が少なくない。信心は別なのである。家康の謀臣本多正信なども10年流浪の末に帰参を許された口である。
 加藤嘉明の徳川家との縁も二代にわたって複雑にからみ、そのあたりが徹頭徹尾秀吉党の加藤清正などと微妙に違ったかもしれない。面白いことに加藤嘉明は、大正6(1917)年に至って叙勲に与った。大正天皇が特旨をもって従三位を追贈したというのだが、これはどういう制度、どういう趣旨だったのだろう?

***

 ・・・とこれだけ多弁を弄すれば既にネタはバレバレ、ところは伊予松山で石丸姓が多いのも当然である。ただし今回は用務あり、


 愛媛大学キャンパス内、お城の北に位置する愛媛学習センターで、1時間ほどの小講演+卒業研究ガイダンス+修士課程ガイダンス。無事に勤めた後は伊予鉄にJR予讃線、いずれも単線を乗り継いで祖父母も両親も最寄りにしていた粟井駅へ。下車すればそこは田園。



 碧山と青空が田植え後の水面(みなも)に鏡像を結ぶ。この美しさを日本と呼ぶのだ。


 わが家まで残り400mほど、背景の稜線が高縄半島の頂を為す高縄山、標高986m。思わず口をつく啄木の例の歌:

ふるさとの山に向ひて言ふことなし ふるさとの山はありがたきかな

Ω