いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

新しい街でもぶどう記録;第381週

2022年02月26日 17時53分33秒 | 草花野菜

▲ 今週のみけちゃん

▼ 新しい街でもぶどう記録;第381週

■ 今週の武相境斜面

今週は晴れの日が続いた。そのせいで、むしろ、朝は放射冷却で冷え込んだ。霜柱も連日できていた。

■ 今週の草木花実

■ 今週の満載

■ 今週の「歴史」

2022年2月24日、ロシア、ウクライナ侵攻を伝える新聞。歴史になるニュースだ。

■ 今週の駆動力としての物語、あるいは、ルサンチマンとか、レコンキスタとか


<騎士道物語を読み耽るドン・キホーテ>(部分)

今回のロシアのウクライナ侵攻の原因について、プーチン大統領の個性が重要であるとの説が出回っている。すなわち、KGB時代に東独でソ連・共産主義の崩壊に立ち合い、ソ連解体後の縮小したロシアの惨状を経験することによりルサンチマンを抱くようになり、ついに、レコンキスタ(失地回復運動)を開始することとなったと。ルサンチマンとかレコンキスタとか中二病的ブログに頻出する語彙で表現されるプーチン大統領の動機とは何か。

ドン・キホーテさんは騎士道物語を読み耽り、ついには、従者・パンサと闘いの冒険に出る。ドン・キホーテさんの武器は高々槍であり、闘う相手は風車である。ところが、プーチン大統領は核戦争も辞せずと言明し、実際の主権国家に攻め込んだ。この開戦に際し、プーチン大統領は演説した。そして、「物語」を述べた。ドン・キホーテさんにとっての騎士道物語に相当する物語がプーチン大統領にあったという話だ。大ロシアにとって、ウクライナは「半国家」だとのこと。

産経新聞 プーチン氏「被害者」演出 親露派国家承認を正当化

プーチン氏は「ロシアは旧ソ連崩壊後もウクライナに貿易などで多大な支援を与えてきた」と主張。しかしウクライナは恩を忘れ、親露派政権を2014年の「クーデター」で崩壊させたとした。米国がクーデターを支援したとも述べた。

プーチン氏は、南部クリミア半島(ロシアが同年に併合)や東部の親露派支配地域の武力奪還をウクライナは目指していると主張。北大西洋条約機構(NATO)は同国を支援し、ロシアを戦争に引き込もうとしているとの認識も示した。

プーチンが元来現実的な人間、すなわち、そんなに極端なイデオロギーに囚われない政治家であったとのこと。しかし、今では、「正教的大ロシア主義物語」(?)に脳が浸透されて、今度の挙に及んだとの説。ニューヨーク・タイムズの記事を奥山真司さんが解説している。プーチン大統領が西洋の現代の思潮、とくに同性愛容認などのリベラリズムに反感をもっているとのこと。立場は、同性愛などを容認しないロシア正教的なものでもあると推定される。具体的には、「正教的大ロシア主義物語」を騙る知識人からプーチン大統領は話を聞いて、影響を受けているとのこと。

■ 今週の爆鳴音、発砲音

部屋に居たら外で爆発音、発砲音がすごい。こっちにも露助さまが、いらっしゃったのか!?とビビる。窓から見ると、季節外れの花火だった。

■ 今週の専門家@世が世なら海軍大将

伊藤俊幸さんという人がいる。wikipedia。現在、金沢工業大学教授、元海上自衛隊の海将。世が世なら海軍大将だ。一般向けのラジオ番組のコメンテーターもやっている。語り口が一般受けするキャラクターで、話すことが説得力があった。

今回のウクライナ危機では、軍事合理的な観点から、ロシアのウクライナ侵攻はないと予想していた。

大丈夫なんだろうか? 日本の自衛隊の軍事合理性認識。

■ 今週のイカ


https://www.skylark.co.jp/bamiyan/menu/bamitei/index.html

現実↓ 上のメニューでは「うれしい!小盛」と称しいっぱい載っているが、実際は本当に小盛だ。

■ 今週の完食

鳥たちが啄み尽くした柑橘の実

■ 今週の「右翼の国粋主義者」

 私は右翼の国粋主義者でも、イングリッシュグリーンのジャガーが一番美しいとずっと表面には出さずに思っていた。 佐野洋子、『死ぬ気まんまん』

佐野洋子、『死ぬ気まんまん』は、2010年に死ぬ前年、前前年に書かれた文章をまとめた本。死後に出版された。死ぬ間際で書いたものなので、これまで率直に書いてなかったことも書いたのだろう。敗戦前に大陸で生まれた兄弟3人が、引揚の受難の中で、幼くして死んでいく様が書いてある。

Amazon

■ 今週の幼子

        
むつひとちゃん(14歳)[1]  ひさひとちゃん(15歳)

[1] 聖徳記念絵画館壁画「践祚」(川崎小虎)の部分 (全体図

今日2月26日は2・26事件から86年。昭和維新が成功しなかった条件にひとつがすめろぎさまが「とうがたって」いたからだ。この時、昭和天皇は35歳。分別さかりである。

一方、明治天皇が践祚したのは、15歳。賊臣慶喜を 殄戮せよ=謀反をなした臣下であるヨシノブを、はずかしめて・ころして・ことごとく・ほろぼせと勅令を出したことになっている(愚記事)。薩長クーデター勢力はこのお墨付きを根拠にしている。15歳といえば、今のひさひとちゃんと同い年だ。自分の文章と他人の文章の区別がつかない年ごろだ(?)。あるいは、中二病をこじらせていたら、殄戮せよくらいのことはいうかもしれない。

なお、1980年代中頃の話。幕末に薩長が仙台伊達家に錦旗を送りつけてきた。これを掲げて会津を討て、と。その錦旗が仙台市立歴史博物館の常設展示にあった。説明書きには、「薩長は自らを官軍と称し、幼帝を戴き、うんぬんかんぬん、仙台伊達家に錦旗を送りつけてきた」(おいらの記憶)とあった。

■ 今週のキリ番

 


ニクソン訪中50年、同時期に札幌オリンピック、あさま山荘事件

2022年02月21日 18時10分37秒 | 日本事情


ニクソン訪中;1972年2月21日。 リチャード・ニクソンの漢字は、理查德·尼克松  。

今日でニクソン訪中50年。おいらは記憶はない。ただし、このニクソン訪中の18日前の札幌オリンピックの開会式は覚えている。行ったから。


札幌オリンピック開会式;1972年2月3日 (開催期間は2月13日まで)

そして、札幌オリンピックが終わって6日後に始まったのがあさま山荘事件。これも記憶がない。テレビの視聴率が高かったと伝えられる。おいらの家でテレビであさま山荘事件の中継を見ていた記憶はない。


あさま山荘事件;1972年2月19日から2月28日

なお、あさま山荘事件が始まって2日後にニクソン訪中。あさま山荘事件の犯人たちは「連合赤軍」と自称し、京浜安保共闘なる組織[1]と赤軍派なる組織の「連合」なのだそうだ。そして、京浜安保共闘なる組織は毛沢東主義を掲げる共産主義者組織であった。

[1] 日本共産党(革命左派)神奈川県常任委員会 。 連合赤軍や日本労働党の母体の一つとして知られる。「毛沢東思想で武装した革命党建設」を目標とし、「反米愛国」を掲げ、当初は労働運動を、後に武装闘争を中心とした活動を行った。 (wikipedia

すなわち、反米を掲げる毛沢東主義者は、ニクソン訪中という現実に直面するのだ。なお、ニクソン訪中は1971年7月15日に公表された。これが(ひとつの)ニクソンショック。

 

■ 米中関係50年

50年を経て、ようやく米中関係は見直しとなった。米国がやっと気づいたのだ。でも、もう遅いだろう。中国が米国を追い越すとは予想できないにしても、大国化した中国を抑え込むのも難しいだろう。中国が大国化できたのは日米など「帝国主義」諸国と組んで、経済発展を実現させたことだ。これまで順調に経済成長できたのは、中国が米国に警戒されず、敵視されずに、大国化の意図をあからさまにせず国力を高めていったからだ。韜光養晦作戦。 中共はソ連と組んでは豊かになれないとわかっていたのだ。

この米国と組んでの富国強兵戦略を実現させたのが毛沢東だ。この策は中国共産党の原理に照らしてみればありえないことだ。もし、中共原理主義を奉ずる一派が中共内にいて、力をもっていれば、米中接触などありえない。しかしながら、現実は、強大な権力を持つ独裁者の毛沢東が決断したので、米中国交が実現した。毛沢東は1976年に死ぬが、もし毛沢東の存命中に米国との関係を始めなければ、誰もそれをできなかったに違いない。なぜなら、米国は、中共がいうこの世の最高の悪である帝国主義者であり、その悪魔と手を結ぶなどということは、中共の第一原理に反するからだ。

なお、1972年は文化大革命が継続中である。このあと、この毛沢東の対米関係開始を契機として、林彪が死ぬ。謀反を起こしたが失敗したとされる。

林彪、日本の連合赤軍にとって米中和解が驚天動地の出来事であったことは、ともかく。日本政府の佐藤内閣にも激震。なぜなら、米国に「追従」して、台湾の国民党政府を支持していたからだ。この頃、そのうちなくなる南ベトナムの政権をも、米国に「追従」して、支持していた。全く、はしごをはずされたのだ。

■ ソ連と日本を敵視して手を結んだ米中; これが効いたのは1990年以降の日本の産業空洞化

もし、毛・ニクソン会談、ひいては米中関係改善がなかったら、その後の歴史でありえなかったことは;

1.ソ連の解体
2.日本の停滞

米中が仲良くなれたのは、ソ連を共通の敵としたことだ。さらにこの当時からすでに貿易摩擦で悩む米国は日本に警戒していた。

日本は冷戦終結まで、その後20年は経済発展できた。しかし、冷戦終結で、ソ連の脅威がなくなったとき、米国民は一番脅威な国として挙げたのが日本だった。それを受けて、対日構造改革要求が功を奏して日本は停滞し、現在に至っている。

日本の停滞の原因は、中国のグローバル経済への参入で、日本の資本の投資が中国に行われ、日本に行われず、家電などが典型だが、工場の更新が日本でなされず、中国に移転し、日本の産業空洞化が進行した。1990年以降だ。

■ 米国の天秤戦略、あるいは、分割・統治

米国は御都合主義である。現在、ウイグル問題で中国に制裁を加えている。たしかに、中共は人権弾圧を行っている。したがって、人権弾圧をする中共に制裁を加えるのは正当であると見える。ただし、中共は成立以来チベットなど周辺民族の人権弾圧を行ってきている。昨日・今日の話ではない。例えば、2008年の北京夏季五輪は米国ブッシュ大統領は参加した。米中経済関係も興隆を極めた。ただ、人権弾圧をする中共に制裁を加えることをしなかった。理由は、米国の利益に違いない。

米国の利益になっている間は、周辺民族の人権弾圧には目つぶるが、現在のような米国経済に脅威を与えるようになると、周辺民族の人権弾圧を理由に対中制裁を加えるようになった。

米中関係が安定しているのは軍事的力があるからである。この米軍の対中軍事力は在日米軍が担っている。つまり、軍事力を背景に米中関係を安定させ(中国の対外武力行使を封止し)、経済的利益を得ている。

そして、この在日米軍の存在意義は日本を軍事的に抑え込み封印し、中国への脅威を滅するのだと合意したのが、1972年の米中会談である。

■ 毛沢東の書斎

ニクソン訪中の時、中南海にある毛沢東の書斎で、会見が行われた。

この中南海の毛の書斎での会談の特徴は、参加者を絞ること。この会見では、米国側の通訳が参加しなかったとのこと(ソース)。上の画像では、ニクソンとキッシンジャーのふたりだけが確認できる。

日本の田中角栄の事例も同様。おいらの記憶だが、佐々淳行の本にこの中南海の毛沢東・田中角栄会見に日本の警備要員(事実上のお目付け役)が排除されたとのこと。なお、この会見に出席したのは、大平正芳と二階堂進

 


神奈川散歩:東急田園都市線 鷺沼駅 ⇒ 有馬梅林公園 ⇒ あざみ野駅

2022年02月20日 15時46分43秒 | 東京・横浜

1;鷺沼駅、2;有馬川 三田橋付近、3;有馬梅林公園、4;「豪族の家」、川崎市(有馬)・横浜市(牛久保)境、5;日吉元石川線・北山田9号線交差付近、6;日吉元石川線・国道246線立体交差、7;あざみ野駅

■ 1.鷺沼駅、2;有馬川 三田橋付近、3;有馬梅林公園

鷺沼駅は掘り込んで切通しにして線路を通している。改札口と駅舎は上の階にある。

鷺沼駅から南下。246の高架をくぐる。

川崎市有馬


有馬川

▼ 夢庵(川崎有馬店)でかつ丼を食べた。

▼ 有馬梅林公園

 

■ ⇒ 4;「豪族の家」、川崎市(有馬)・横浜市(牛久保)境、

「豪族の家」の変遷を調べた。地図、地形図、1960年代航空写真、同1970年代、同1984-1986、同1987-1990。

「豪族の家」は1986年までは存在しない。1987-1990年に建てられたとわかる。つまり、バブル期だ。周囲の新興住宅地の宅地造成と建築を考慮すると、「豪族」は金を得た地主と、おいらは、邪推している。

豪族のある尾根筋の最高地=峠を越えて、下る。

■ ⇒ 5;日吉元石川線・北山田9号線交差付近

BOSCHに出会った。ドイツの切断関連機器メーカー [1]。ものづくりで輸出でやっていけているのだから、すばらしい。確かに、ものが良い。以前、現場で見た事例は、鋼鉄の配管をたくさん切断しなければいけない作業で、BOSCHの切断機の威力を見た。ポイントは切断機本体ばかりでなく、鋼鉄の切断作業では、刃を替えなければならない。替え刃をBOSCHは売っている。これば利益の源泉のひとつに違いない。本体の売り切りではないのだ。ドイツから日本に、輸送料をかけて、持って来て利益が出る。おそらく、価格も高いのだろう。それでも売れる。薄利多売なぞやらない、欧米メーカーの方針で利益をしっかり出しているに違いない。

[1]  wikipedia

日吉元石川線から横に入る。旧鎌倉道らしい。牛久保地区。土地が整形されていない。

土蔵をもつ旧家。

日吉元石川線を跨ぐ陸橋。牛久保地区は日吉元石川線で分断されている。それを乗り越える陸橋だ。

下る。 246や東名高速が走る低地へ。

■ 6;日吉元石川線・国道246線立体交差

■ ⇒ 7;あざみ野駅

あざみ野駅には、ひとつ尾根を越えなければならない。

尾根の峠。下る。


早淵川

あざみ野駅

● まとめ

通過町

川崎市 宮前区
小台、有馬

横浜市 都筑区
牛久保 あゆみが丘

横浜市 青葉区
荏田 新石川 あざみ野

 

 

 


新しい街でもぶどう記録;第380週

2022年02月19日 18時00分16秒 | 草花野菜

▲ 今週のみけちゃん

▼ 新しい街でもぶどう記録;第380週

■ 今週の武相境斜面

■ 今週の草木花実竹

■ 今週の「豪族」邸

川崎市宮前区のすみれが丘という丘陵を開発した住宅地の西の牛久保というところを散歩した。東西に走る谷筋、尾根筋、谷筋を南北に縦断する、登り・降りの道を歩いた。尾根付近に、大きな家屋がみえた。見えるだけの部分からも、いかに全体が大きいか察せられた。地元の「豪族」の家だろうと空想した。家に帰り、ググって、鳥瞰的に見た↓

下の凹凸地形図の赤矢印のところ;

■ 今週の公園

有馬梅林公園

■ 今週の灯油価格

1-2か月前と比較して、1リットルあたり、5円高くなっている。

■ 今週の電車好き

「電車好き」駐日米大使、京急で横須賀基地へ…異例の移動「期待裏切らない体験でした」ソース

■ 今週の見切り品

ビーツをスライスしてサラダに入れて、食べます。我が家では、ボルシチは作りません。

Cookpad  ビーツたっぷり簡単ボルシチ

■ 今週の購書(ブックオフ)

『海の地政学』には『戦国日本と大航海時代』の図が、加修正され、引用されていた。

■ 今週の比喩:かつ丼=近代日本文明

かつ丼を食べた。久しぶりだ。どれくらいぶりかわからないくらい、久しぶりだ。若い頃の一人暮らしの自炊生活では、とんかつも作った。とんかつは一度にたくさん作ると、冷凍して保存できる。休みにたくさん作って冷凍保存すると、平日に食事準備の時間を簡潔にできるので、便利だった。それでも、かつ丼は一度もつくったことはなかった。なぜなら、とんかつがもったいないと思ってしまうからだ。ソースかつ丼なら歓迎だ。さて、このとんかつをかつ丼にするのはもったいないという考えは、世の中にあると確認した; Yahoo 知恵袋 揚げたてのトンカツをカツ丼にするのは、なんだかもったいない感じがします。そんな気持ちわかりますか??

▼ さて、比喩。関曠野(wikipedia)が近代の日本文明、すなわち、「文明としての江戸システム」(鬼頭宏)[1]が作動していた江戸時代から西洋と接触して近代化した日本の文明を、かつ丼のようなものだと云っている。佐久間象山と和魂洋才を挙げたのち、かつ丼を出している。

[1] 関曠野下記YouTubeで、「文明としての江戸システム」(鬼頭宏)を挙げて、江戸時代の日本市場社会(資本主義ではない)を評価している。

関曠野を読んだのは、40年前。欧文が達者な西洋派で、資本主義を論ずるにもプラトンを介して論ずるという「左翼」著述家だった。ただ、現状批難の通常の「バカ左翼」ではなく、珍しく(!)知的だったので、読んだ。なにより現状日本に厳しく批評し、そういう点からも「左翼」的であると当時のおいらは思っていた。ソ連崩壊前の話だ。

そんな関曠野は、最近では、江戸時代の日本社会システムを評価していると知る。YouTubeで講演があった。結構最近の6年前に、関曠野が「西洋派」になった経緯が『なぜヨーロッパで資本主義が生まれたか』に書いてある。大航海時代の欧州人の「スキャンダル」な侵略的世界支配を論じているが、この認識の前提には、敗戦国の日本が、モデルとしてのアメリカ社会を目指す社会運動の中で、支配的な欧米崇拝文化状況に関曠野が順応していったとわかる。はっきり、敗戦、占領がもたらした西洋コンプレックスといっている。そのころは、江戸時代の日本社会システムを評価なんてことはありえなかったに違いない。おまけに、関曠野は、東京裁判はプロパガンダと云っているので、立派なネトウヨだ(!!!???)。

かつ丼発言は、下記YouTubeの51分頃。

YouTube:  関曠野講演:日本および日本人について-日本の文明とその歴史を再考する


新しい街でもぶどう記録;第379週

2022年02月12日 18時38分29秒 | 草花野菜

▲ 今週のみけちゃん

▼ 新しい街でもぶどう記録;第379週

■ 今週の武相境斜面

■ 今週のメタセコイア

■ 今週の草木花実

■ 今週の東京

■ 今週の昭和の遺物@真新しい更新品

横断旗

■ 今週の不在(みきゃん)

愛媛産の柑橘類が売っていたが、みきゃんの姿は見なかった。

■ 今週の、チャーチルと会って話をしたことがある日本人って何人くらいいるんだろうか?

愚ブログで、チャーチルと会って話をしたことがある日本人って何人くらいいるんだろうか?がある。

これまで確認できているのは、重光葵と上皇陛下(当時、皇太子)だ。今週、見つけた。岸信介。1962年らしい。

チャーチルがハイドパークの片隅に住んでいたけれど訪ねて行きました。現役の海軍の佐官が秘書官としてついていたんですよ。チャーチルさんはもう八十八歳ではなかったかな。

その時の話で印象的なことといえば、皇太子殿下の訪英でご苦心してもらったお礼を言ったんですよ。すると、「日英同盟を廃棄したことはイギリス外交の大きな失敗です。あれが存続しておったら、今度の世界対戦の様相も非常に変わったろう。しかし当時のアメリカがその廃棄を強く迫ったのでやむを得なかったけれども、やはりイギリス外交の誤りでありました」という風に言った。印象に残っていますね 。(『岸信介の回想』)

■ 今週のバジパイ違い

朝鮮戦争についての本を読んでいるとインドの外交官の名前としてバジパイ卿というのが出てきた。

一方、インドの首相でバジパイという人がいた。インド人民党の初代総裁。バジパイは、1998-2004年に2度目の政権で、核実験を成功させた。

インド人民党はヒンドゥー民族主義的性格が強い、いわゆる、右派勢力。現在のモディ首相もこのインド人民党である。 

こういう事情で、冒頭のバジパイ卿とバジパイは同じ苗字なのだろうなと思い。あまつさえ、インドの「名門」の名前なんだろうか?とか思った。調べた。全然、違った。

インドの外交官の名前としてバジパイ卿は、Girija Shankar Bajpai であり、バジパイ首相は、Atal Bihari Vajpayeeであった。

Girija Shankar Bajpai :wikipedia 日本語wiki
Atal Bihari Vajpayee   :wikipedia 日本語/コトバンク

カタカナ日本語にすると、BajpaiもVajpayeeも、バジパイにされてしまうのだ。

▼ 朝鮮戦争におけるインド外交官;マッカーサーの「北進」を牽制する周恩来の伝言係

金日成の北朝鮮による南侵で始まった朝鮮戦争。マッカーサーは仁川上陸作戦を成功させ、ソウルを奪還した。38度線まで、北朝鮮軍を押し返した。ここで、38度線を越え「北進」[1]することをマッカーサーは決断し、実施した。ワシントンの統合参謀本部で反対した首脳を押し切った。今からみると、マッカーサー敗退、失脚の始まりである。マッカーサーは「北進」を二手に担わせ、指揮した。すなわち、第1騎兵師団を核とする第8軍と第1海兵師団を核とする第10軍団である。前者は雲山[1]で、後者は長津湖で中共軍と対決し、大敗・撤退、あるいは、死闘・退却する。中共軍は数万規模で戦死者を出しながら、米軍を追い返した。

[1] マ元のペット;第1騎兵師団 (1st cavalry division)、朝鮮戦争で苦戦(一部壊滅)し、主なき東京ではなく、札幌へ帰還
[2] 長津湖」とアメリカ第1海兵師団の死闘・敗退

さて、結果的に米軍を押し返した中共軍は、マッカーサーが「北進」する頃、米軍が「北進」すると中共軍が参戦するぞと警告していたという話。警告したのは周恩来。当時、当然、米中は外交ルートがなかった。北京のインド大使のパニッカーが周恩来の主張を預かる役回りとなった。さらに、ロンドン経由となる。

中国による第3の警告は、事態の緊迫性を伝えるために極めて劇的な方法でなされた。10月2日から3日にかけての深夜、周恩来が既に就寝中のパニッカーを彼の公邸に召喚したのである。12時30分から始められた会談において、周恩来は「もし米国が三十八度線を越えれば中国は朝鮮に介入せざるを得ないだろう…南朝鮮問題ではないが米国の北朝鮮への侵入は中国の抵抗に遭遇するであろうと述べ、これ以上ないほど明確な表現で中国の参戦条件を提示した。 (小此木政夫、『朝鮮戦争』)

パニッカー駐中共インド大使は、本国インドにすぐに報告する。デリーでインド外務省は英国に報告する。ロンドン経由でワシントンへは10月3日の夕方伝えられた。これを受けて米国はデリーの駐インド米国大使のヘンダーソンがインド外務省を訪れ、インド外務省のバジパイ卿からパニッカーの電文をみせてもらう。

こういう経緯の話で、最上部の「バジパイ卿」が出てきたのだ。

史実は、ワシントンも中共の警告を認知したが、中共参戦を信じず、あるいは重大事と認識しなかった。

■ 今週の購書(古本)

マイケル・シャラー、『「日米関係」とは何だったのか』。なお、この本は今、Amazon及び日本の古本屋で品切れである。その理由は察しがつく。おいらもその理由で買ったのだ。YouTube (ライブ)[1]中に3冊売れていったのを見た。

[1] 【伊藤貫の真剣な雑談】第4回「アメリカ人も呆れた、属国主義で核武装議論から逃げてきた日本の保守政治家達」[桜R4/2/5]

朝鮮戦争で、マッカーサーと米軍、米国が初めて理解したことがある。それは、韓満の地政学的重要性であり、大日本帝国及び満州帝国の意味である。近代日本が半島・大陸でやったことはロシア帝国の膨張の阻止、さらに赤化したソヴィエト・ロシアの阻止である。満州帝国は防共帝国であった。この防共帝国がないと朝鮮半島は「守」れない。あまつさえ、赤化勢力を半島・大陸で発生・存在させてはいけない。それなのに、米国はソ連と組んで防共諸帝国(日本、満州)を亡ぼした。亡ぼした後、きちんと統治すればまだしも、赤化勢力が膨張し始めた。国共内戦での中共軍の勝利。朝鮮戦争。何やってんだ!米国。日本を亡ぼせばそれで済むと思って、ボサっとしていたのだ。ソ連、中共を巻き込んで金日成の北朝鮮が南下して来たのを押し戻し、最後に成敗しようとしたマッカーサーは中共軍に押し戻され、敗退。押し戻してきた中共軍の出撃地は満州と認知。満州に反撃しようとするも本国に止められ、解任。つまり、朝鮮半島の半分しか統治できなかった。韓満を支配した大日本帝国以下である。日清・日露の山縣有朋ら日帝軍人の業績以下である。

こういう事情で、マッカーサーと米軍、米国の反共勢力は大日本帝国及び満州帝国の意義をようやく悟ったのだ。こういう悟りを背景に、吉田-マッカーサー時代から岸-ダレス時代と戦後は推移していく。この過程も描いているのが、マイケル・シャラー、『「日米関係」とは何だったのか』だ。主旨は、ともかく、些細な点

でおもしろかったのは、これまでの岸の回顧、回想、伝記に書いてなかったこと。

1960年1月19日岸はアメリカで歓迎を受けた。それは暴動の傷跡を残した東京出発の時とは鋭い対照をなしていた。『タイム』誌は表紙に、活気にあふれる工場を背景にした、笑みを浮かべた岸の顔を載せ、『ニューズウイーク 』誌は「友好的で抜け目のない、日本のセールスマンの到着だ」と報じた。 (マイケル・シャラー、『「日米関係」とは何だったのか』)

ネットで見つかった。活気にあふれる工場というシャラーの描写は「片手落ち」で、廃墟の日本都市と不死鳥と組で表紙は構成されている。不死鳥、岸信介なのだ。巻頭ページの文章も読める⇒ web site

初代セールスマン

ニューズウイーク誌には、セールスマンと云われたとある。日本の首相でセールスマンといえば、フランスのド・ゴールにトランジスターのセールスマンと云われたとされる池田勇人だろう。でも、それに先駆け、岸信介は海外で「セールスマン」といわれていたと知る。もっとも、「日本のセールスマン」という表現なので、トランジスタのような具体的商品ではなく、日本の価値を宣伝するという意味かもしれない。しかし、国を売るという意味にもとれるかもしれない。このマイケル・シャラー、『「日米関係」とは何だったのか』には岸政権の与党の自民党の川島幹事長が選挙資金を米国(マッカーサー大使)に無心した詳細が書かれている。そして、この本で岸信介が訪米した時、米メディアに大きく扱われたと知り、ググるとあった。

 

さて、朝鮮戦争で敗戦後日本の状況が大きく変わったと書いた。この朝鮮戦争の意味を岸信介はどう認識していたのか、見てみた、岸の回顧録、回想録はおいらが10代の頃読んだ本だ。今週改めて読むと、なんと、岸信介は朝鮮戦争について全く言及していない。これは一体どういうことだろう。おそらく、朝鮮戦争が決定的すぎて、すなわち朝鮮戦争は岸信介ら反共主義者には天祐であったので、言及できなかったのであろう。棚から牡丹餅が落ちてきましたと臆面もなく書くのが憚られたのだろうと邪推している。

■ 今週の購書(新刊;復刻本)

有田八郎、『馬鹿八と人はいう』。この本は1959年に出た本で、古本で高値であった。先月、復刊された。

有田八郎は外務大臣を4度務めた外交官あがりの政治家。

戦前は「欧米協調派」に対する「アジア派」の外交官として知られ、1936年(昭和11年)の広田内閣時代に何度も蔣介石の国民政府との防共協定を提案しており、近衛内閣時代に「東亜新秩序建設」を推進した。日独防共協定を締結したが、日独伊同盟の締結には最後まで反対した。wiki

復刻ということで、元と違うのが、解説がついていること。解説は教育社会学者の竹内洋。政治学者でも国際政治学者でも外交史家でも歴史家でもない竹内洋が、なぜ解説者なのか? 解説文にはその謎解きはない。でもおいらはすぐわかった。表紙の帯にも示されている。有田も竹内も郷里が佐渡島なのだ。おいらもふたりいる祖母のひとりが「本間」という性で佐渡ヶ島出身だ。佐渡島の本間さまとして本間雅晴中将がいる。

三輪寿荘: 有田八郎は戦後、「護憲」派となり、社会党かた都知事選に立候補する。その理由は、社会党の三輪寿荘から立候補を懇請されたからだという。さて、三輪寿荘。岸信介の親友である。上記、岸信介回顧録に書いてある。何より、岸信介は戦後(巣鴨から出たあと)、政界入りするため国会議員に立候補するとき、社会党から出馬したいとのことであった。その経緯は、三輪寿荘が親友で政治的同志であったからとのこと。

有田八郎、『馬鹿八と人はいう』は今日買って、パラ見だが、三輪寿荘が出て来て、岸信介とビンゴしたので、書いた。


新しい街でもぶどう記録;第378週

2022年02月05日 18時15分57秒 | 草花野菜

▲ 今週のみけちゃん

▼ 新しい街でもぶどう記録;第377週

■ 今週の武相境斜面

■ 今週の草木花実

■ 今週の目安

■ 今週の尾頭付き


頭付き全一尾はおおいので、四分の一をいただきました。

愛知県知多郡美浜町 魚太郎株式会社 とろさば

■ 今週の<荊の簪を挿した御方>のおやつ

なぜ女の子はさつまいもが好きかについて

■ 今週の半世紀前


The Japan Times: The legacy of the 1972 Sapporo Winter Olympics

上記画像の部分拡大。

2月3日は1972年の札幌オリンピックの開会式の日であった。この会場のどこかにおいらはいたのだ。開会式は午前中に行われたと記憶している。今ネットで調べると、はたして、11時からであった。快晴であったのは覚えている。記録によると気温はマイナス8度であったとのこと。今から思うと相当寒い。

さて、札幌オリンピックの開会式の写真を見て、聖火走者たちは誰であったのか?調べた。簡単にわかった。 最終走者(google)。 今、初めて知ったが、彼らは当時高校1年生だったのだ。若い。

聖火はまず会場に入り氷リンクを女性ランナーがスケートで滑って運び、男性走者に渡した。男女役割分担があたりまえの時代だ。おいらにとって、このシーンは、その後、さんざん映像でみたことで記憶されたのだと思う。その当時の生記憶だと思えない。さらに確かなことは昭和天皇の宣言があったはずなのに、全く覚えていない。おそらく、「天皇」という概念をもっていなかったので、その状況が何であるかわからず、理解できず、記憶されなかったに違いない。罰当たりなことだ。おいらは、最初から尊皇家失格だったのだ。

■ 今週の訓練

朝鮮半島は以前は米韓合同軍事訓練を毎年行っていたが、今の政権の性格上、あるいは、米朝会談での取引の結果、最近は行われていない。それで、今では、主役の韓国を抜きで「第三国」の日豪が参加する別の軍事訓練を行っている。でも、このニュース、日本でやってないよね。

航空自衛隊のF-15・F-2戦闘機や海上自衛隊US-2救難飛行艇などは、2022年2月2日(水)から2月18日(金)まで、グアム・アンダーセン空軍基地を拠点に実施する「コープ・ノース22 (COPE NORTH 22:CN22)」に参加します。フランス・インド・シンガポールも参加した人道支援・災害救援(HA/DR)訓練を皮切りに、日米豪3カ国による共同訓練を実施します。(引用元:空自F-15・F-2、海自US-2など、日米豪共同訓練「コープ・ノース22」参加

18日まで行われる今回の訓練には米空軍と海兵隊2500人以上と日本の航空自衛隊、オーストラリア王立空軍1000人以上が共同で訓練を行う。30以上の部隊から約130機の航空機も参加する。韓国軍は今年は戦闘準備態勢の訓練には参加しないが、人道主義的な支援や災難救護作戦の訓練には例年と同じ水準の輸送機や兵力を派遣するという。「北朝鮮などの軍事行動阻止」米・日・豪空軍共同訓練、韓国は2年連続で不参加

コープ・ノース 2022 : 航空自衛隊が給油訓練を実施 | JASDF conducts hot-p it refueling Cope North 2022

■ 今週の日帝侵略赤ちゃん

愚ブログに「日帝侵略赤ちゃん」や「日帝侵略子供」という穏やかならぬ言葉がある。いわゆる「リベラル」(といわれている人たち)で、戦前の日本の帝国主義性を非難する人たちがいる。そういう人たちで、出身が日帝の植民地出身であることがしばしば認められる。

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今週、佐野洋子、『神も仏もありませぬ』を、横浜市立図書館から借りて読んでいる<荊の簪を挿した御方>から借りて、おいらも、読んだ。

佐野洋子は、自分の「日帝侵略赤ちゃん」的属性に言及していた。

 何億もの人間を飢えから救った国家はすごい、本当にすごい。
 中国に行けるようになってからも、私は中国に行くには複雑すぎる気持ちを片付けられなくて何十年も経った。中国に出ばって行った帝国日本を、私一人が責任取らねばならぬような気にもなって、しかも私は帝国日本人でぬくぬくと暮らしていたのだ。
 行っても私が知っている街はない。   佐野洋子、『神も仏もありませぬ』

日帝の責任を自分ひとりがとる、という「心意気」を、おいらは、初めてみた。ただし、佐野洋子はチャイナに出張っていったと云ってるのであり、侵略しに行ったとか書いていない。でも、「責任をもつ」ことに言及している。中国に行くことに逡巡してしていた佐野洋子は日本で知り合いになった唐さん(北京生まれで、文革時に下放経験)と一緒に、ついに、北京に行く;

私は唐さんが昔の家を探していると老人に話しただろうと思う。老人は嫌な感じを私に持たないだろうかとハラハラした。老人は何度も頷いて笑ってくれた。笑ってくれたと思う私、5歳だった私は帝国日本の責任を持つつもりなのか。おばさんは小さな木の実のようなものをを細いゴムで連ねた腕は送れたまる帰る時老人はザクロを三つほども入れて渡しててんまだ笑ってくれていた。 佐野洋子、『神も仏もありませぬ』

佐野洋子は好きでこの運命に生まれたわけではないが、生まれたのはこの運命だったのだ。その運命とは「日帝侵略者」から生まれたことである。佐野洋子の親は;

満鉄調査部出身で東洋史が専門と書いていた。戦後は、三木氏の入学した静岡高校で世界史の先生をしていたという。また、洋子の『シズコさん』によると、利一は浦高、東大卒。洋子が19歳の時、50歳で亡くなったという。「支那に於ける封建語義の変遷」『歴史学研究』昭和8年11月号などを書いているよう であるとのこと。(ソース:ブログ 神保町系オタオタ日記 様記事; 佐野洋子の父、満鉄調査部の佐野利一

著書として、『南満州鉄道』(昭和16年)が認められる。佐野洋子は自分の父の生い立ちについて、「百姓の七男の父は馬や牛以下の存在でしかなかった」と書いている。百姓の七男で、東大に行ったということだ。

一方、佐野洋子は「終戦後二年、国に見捨てられた私たち」と書いている。これは、どういう意味だろうか? 帝国主義的施策の「尻馬」に乗ってチャイナに出張った人たちを、帝国日本が保護できなかったことを非難しているのであろうか? もしそうであるなら、在チャイナ日本人の保護のために日本はいくばくかの帝国主義的施策をとらねばならないではないか? さらに、見捨てられたと嘆くのは「出張者」気分であったということか? と、やはり性格悪いことをおいらは考えてしまった。

さて、佐野洋子の父佐野利一は北京大学で教えていたと佐野洋子は回顧している。ところで、佐野利一は何語で、何人に講義を行っていたのか?とおいらも思いもつかなかった疑問を<荊の簪を挿した御方>が発した。

■ 今週の訃報


・ 反米「保守」の原点:石原慎太郎と西部邁の共通体験;占領軍米兵が家に入り込んできた

・ 政治芸人;石原慎太郎

おいらは、もちろん、石原慎太郎に会ったことはないし、生の姿を遠くから見たこともない[1]。ただ1度、同じ建物にいたらしいのは、2002年2月14日(木)に、昭島市拝島のホテル、フォレスト・イン・昭和館である。当時、慎太郎は横田基地問題に取り組んでいた。返還、すくなくとも(?)民間機の利用を可能にすることを主張していた。当時、東京五輪の海外からの観客は横田飛行場から来日するという「夢」が語られていたと記憶している。

[1] おいらが見たことがあるのは当時自民党で科学技術関係の首領だった尾身幸次(画像あり)だ。

そういう状況の、2002年2月13日(水)に、おいらはつくばを8:30に出て、11:30に昭島駅に着き、11:45にホテルに入っている。その年の4月から務めるベンチャー会社の合宿があるからだ。それまでの人生で、横田基地に一番近づいた。もっと近づいたのは、2010年だ(愚記事; 横田基地参拝)。

この2002年の時、横田基地や旧立川基地の正確な位置関係や履歴、そして現在における意味などには詳しくなかった。ただ、立川の奥に米空軍基地があることは強く知っていた。敗戦の遺物であると。

今さら気づいたのは、この2002年にベンチャー企業がこの昭島で合宿を行ったのは、このベンチャーに投資している出資者が昭和飛行機と関連して、昭和飛行機の敷地にあるベンチャー会社にも出資していたのだ。昭和飛行機など横田基地には米空軍の需要を満たす業者がたくさんあるのだ。

2010年の横田基地参拝も、注文した実験装置を製造する企業が横田基地の傍にあったのだ。

さて、2002年2月14日(木)のホテル、フォレスト・イン・昭和館の慎太郎

合宿は丸1日で、メインは夜の懇親会であったが、2日は午前中の討議を経て、昼食後終了した。昼食のレストランを出ると、ホテルの雰囲気が妙に、ただし静かに、物々しい。ただならぬ人たちが一定間隔で立っている。何事かと聞くと、「横田基地問題で、返還を公約はしたが、とても無理なので、地元の人たちに説明する会合が開かれるため、石原慎太郎が来るのだ」とのこと。今考えれば、慎太郎が地元の人に会うというのは本当かもしれないが、「返還を公約はしたが、とても無理なので、地元の人たちに説明する」という動機、あるいは理由は本当であったかはわからない。なぜなら、今から考えれば、昭島市など横田基地周辺の住民は対基地感情は悪くなく、さらには仕事も受けているのだから、むしろ、基地返還などと言ってくれるなと慎太郎に陳情したのかもしれない。

さらに、おいらがついこのあいだ知った関東計画の結果、立川を始め多くの米空軍基地が横田に集約され相当設備投資されているので、横田基地返還の現実味は少ないと考えられる。

事実、独立国である日本の首都東京にこのような巨大な空間が君臨している。!と啖呵を切って掲げた公約「横田基地返還」は当時web siteがあったが、そのうちなくなり、公約も立ち消えた。

「横田基地返還」、すなわち、横田基地の大型輸送機を東京の空からなくすことに挫折した慎太郎が、代わりに標的としてのは;

カラス

であった。 これは web site が残っている。カラス対策プロジェクト

三千世界ならぬ東京のカラスを殺し、カラスが(死滅してしまって)朝を告げないのでずっと夜であるという東京は実現された(???)≡ 星(星条旗)を以て象徴となす米国は、太陽(日の丸)を以て象徴となす日本に君臨している、ということか????。

■ 


没百年;2月1日は山縣有朋の命日、あるいは、亡びた国を肇(はじめ)た男

2022年02月01日 13時40分00秒 | 日本事情


明治天皇と山縣有朋

1922年、大正11年、2月1日、午後1時40分、山縣有朋は小田原の古希庵で死ぬ。83歳。100年前の「今頃」だ。

山縣有朋の「肩書」は、枢密院議長議定官元帥陸軍大将従一位大勲位功一級公爵、である。

山縣有朋。日本での反政府集団どころか、毛利家においてさえ反体制少数派であった青年暴力集団(指導者;高杉晋作)において、文字通り槍働きからはじめて、藩内闘争、対政府(徳川幕府)戦争、戊辰戦争、西南戦争と日本人」を殺しまくり[1]、大日本帝国を自分でつくり、維持、発展させ、さらには支那とロシアと戦争し、日帝政府、特に陸軍を統括した。1922年に84才で死ぬ。そのわずか23年後、大日本帝国も滅亡する。(愚記事:じゅげむ・じゅげむの弁当箱

[1] 本日、2022/2/1記す。山縣有朋の「初陣」は、下関戦争らしい。壇ノ浦。対軍艦戦なので、敵兵を殺したかは不明。おそらく殺してないだろう。山縣有朋の「初陣」の敵は、毛唐さまだったのだ。なお、山縣有朋は維新功労者で、人種闘争観を持ち、披露している人物である。これは、維新功労者唯一ではないだろうか? 維新功労者は「すべて」、尊王攘夷を捨てた。

■ 亡国の足の速さ

山縣有朋を考えるに、やはり、その死後四半世紀も経たずに、23年で、大日本帝国が亡びたことである。自分が年をとると、20年前なんてつい昨日のように感じる。そんな時間で国があっちゅーまに亡びるなんて、理解が難しい。

山縣有朋を論ずる人は、およそ、昭和の「軍国主義」と山縣有朋との関係に言及し、直接性の有無を検討するそうだ。山縣の死の直前から亡国までの年表は下記のごとく;

1868年 大日本帝国肇国
1911年 辛亥革命
1919年 チャイナ 国民党結党
1920年 宮中重大事件。有朋は色覚異常の遺伝を根拠に裕仁皇太子と久邇宮良子女王との結婚に反対する。
1921年 裕仁皇太子、摂政に(事実上の昭和の始まり)
1922年 有朋死去
1923年 関東大震災
1925年 昭和改元
1926年 蒋介石、北伐開始
1927年 山東出兵
1928年 張作霖爆殺事件
1931年 満州事変
1933年 塘沽協定
1937年 支那事変
1941年 対米英蘭開戦
1945年 大日本帝国滅亡

山縣ら維新功労者の努力の賜物の満州権益と中国権益の取り扱いをうまくできなかったことが、亡国の最初の原因。ただし、米国がこの世になかったら、対チャイナ問題でどんなに失敗しても、大日本帝国は亡びることはなかったであろう。なぜなら、日本の対チャイナ政策に断固と干渉してきたのが米国だからだ。

■ 山縣有朋の晩年の頃の状況

山縣の伝記を読んで興味深いのは、同一人物が競争相手であり味方であることだ。上の山縣以外の全員が山縣にとって味方であり、ライバルである。特に、山縣と原敬の関係は有名な話で、元来政党政治家である原敬が山縣有朋に「戦略的」に接近し、説得し、自分を認めさせたことである。一方、桂太郎は元来山縣直系の政治家であるはずあるが、後年、政党政治家と接近する。これらの力関係(山縣と政党政治との軋轢)を産みだした「原理」は、山縣有朋が「政党政治は国体に反する」と生涯、本気で信じ込んでいたことであった。

元老というのは、事実上天皇に替わって、総理大臣を決める役割である。一方、議会で総理大臣を決める方法が議員内閣制。山縣有朋は元老として自分が内閣総理大臣を決めるものだと信じていたということだ。その根拠は、国体論らしいのだが、つまりは維新の功労者ということだ。精神的・奥羽越列藩同盟敗残者的ひがみ根性でいわせてもらうと、天皇を囲ったものがやりたい放題じゃないか、ということ、なお、山縣有朋は明治天皇と怒鳴りあっていたそうだ。国体論ってなんだ?

■ 反政党政治が亡国へ

山縣有朋の死後の23年での亡国へのいきさつで、象徴的な国家指導者は近衛文麿だ。

なぜなら、近衛文麿は3度の内閣で、支那事変の拡大と戦争終結の拒否(暴支膺懲、国民政府を相手とせず)、大政翼賛会、日独伊三国同盟、国家総動員法、仏印進駐などの対米戦争不可避へつながる諸策を実施したからだ。

でも、興味深いのが、近衛文麿は政党政治家ではないのだ。その点、山縣有朋のお眼鏡に叶っている。さらには、大政翼賛会という政党政治を否定する議会制度を始めたのだから、ますます。山縣有朋のお眼鏡に叶う。

■ 亡国の近衛内閣を実現させた元老・西園寺公望、
あるいは、足軽が肇め、公卿が亡ぼした大日本帝国

 西園寺公望 [wikipedia]

西園寺公望は近衛文麿に目をかけ日本の指導者にしようとした。もし、元老が西園寺公望が拒否権を発動して近衛文麿を政治家として認めなかったら、すなわち、「英米本位の平和を排す」と主張した近衛をすぐさま見限れば、日本の歴史も変わったものになったであろう。

伊藤博文や山縣有朋ら足軽が肇めた国を亡ぼしたのは、京都の朝廷由来の御貴族さまたちでした。

最期の元老、西園寺公望=国亡族を輩出したから、自らが最後の元老になったんだよね。

■ 山縣有朋関連史跡;記念館と庭

▼ 記念館

愚ブログでの山縣有朋関連史跡の登場は2006年。那須高原の山縣有朋記念館(愚記事)。

▼ 庭

山縣有朋の趣味は庭である。庭道楽。生涯、いくつもの庭園を造っている。現在に残るのが山縣有朋三庭園。おいらは、去年(2021年)、この3庭園を全て訪れた。

1.無鄰菴(京都)

愚記事:京都・無鄰菴再訪 2021年春 ;プロポーザル入札制度のあとさき

2.古希庵(小田原)

愚記事:小田原散歩:古稀庵(山縣有朋 庭園)⇒ 皆春荘 ⇒ 小田原城

3.椿山荘(東京)

愚記事、椿山荘訪問;山縣有朋の庭、東京都文京区関口