いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

新しい街でもぶどう記録;第364週

2021年10月30日 17時24分48秒 | 草花野菜

▲ 今週のみけちゃん

▼ 新しい街でもぶどう記録;第364週

■ 今週の武相境斜面

■ 今週の草木花実

■ 今週のつくば

スーパーで見つけた。「つくば」の名の故に買う。

バター風味で薄甘い。もちは本当のついた餅のような感触ではなく、もち「風味」の何か。

なぜ「つくば」なのかわからない。バター餅とは、北秋田市で40年以上前から地域で食されてきたという郷土菓子。水に一晩浸したもち米をつき、ほかの材料(バター・小麦粉・卵黄・砂糖など)を加えて混ぜて作られている、ものとのこと(wiki)。

■ 今週の「さよなら京都」

9月の京都旅行のおみやげのちりめん山椒がこれで最後となった。さよなら、京都。

■ 今週の日の丸

日の丸が認められるので、海上自衛隊の哨戒機と思われる。プロペラではないので、P3Cではない。そもそも、今調べるとP3Cは退役したらしい。P-1と思えるのだが、尾翼の形が違うようにも見える。

■ 今週の航行の自由

同省統合幕僚監部によると、中国艦5隻とロシア艦5隻は、18日に津軽海峡を通って日本海から太平洋に出た後、太平洋を南下し、伊豆諸島の須美寿島と鳥島の間を通過。22日に大隅海峡を抜けた。領海には侵入しなかった。 (中露の艦艇10隻、大隅海峡も初めて同時通過…中国駆逐艦ヘリ発着で空自が緊急発進 )

アメリカさまの核兵器搭載艦船通過のためわざと公海にしている海峡を、中露さまが通過したのだ。

つまりは、戦勝国がやりたい放題ってことだ。 ここで中共は戦勝国ではないだろう、という御仁がいたら間違いである。中共は常任理事国である。中共を常任理事国に引き入れて世界を支配しようとしたのは米国、ニクソンとキッシンジャーである。そして、50年後、こうなった。そして、今さら!、あわてて、台湾肩入れに躍起だ。虎児に餌を与え続けた結果なのに。地域を分断して、場当たりで都合の良いほうに肩入れして自分の覇権を維持しようとする米国のやり方も無理が見えている。ことが起きれば、横須賀も沖縄もミサイルを撃ち込まれる。日本は本当の「自衛力」が必要だ。自衛隊の米衛力ではなくて。

https://www.yomiuri.co.jp/national/20211023-OYT1T50247/様より無断転載

■ 今週の確認

漱石は『三四郎』にて、日本は「亡びるね」と、三四郎にとって初対面の男、のち広田先生に言わせている。

「しかしこれからは日本もだんだん発展するでしょう」と弁護した。

すると、かの男は、すましたもので、「滅びるね」と言った


  --漱石、『三四郎』、東海道線浜松駅での三四郎と初対面のやせた男との会話-- (愚記事;「滅びるね」 @浜松駅

江藤淳(昭和7年12月生まれ)は敗戦時12歳であり、その年の5月の大久保の生家の屋敷を戦災で失なった。焼け野原の自宅を父と訪れ、惨状を目の当たりにした。早熟であり、のち漱石論でデビューした江藤が敗戦と焦土東京の前に『三四郎』を読んでいたのか、おいらは知らない。でも、漱石の「(日本は)亡びるね」発言を江藤がどう思っていたのか知りたいと思っていた。おいらは、『漱石とその時代』を読んだことがなかった。でも、この夏買った。みてたら、あった;

『三四郎』の(一の八)が「東京朝日」のたのは9月8日、米艦隊の来航に先立つこと一か月と10日である。 その後現実に起こった日米関係の歴史を顧みると、この時期に漱石が自作の登場人物に「亡びるね」と予言させているのは、ほとんど信じがたいほどの洞察と言わざるを得ない。思えば今日に至るまでの全てがこの時期に始まっているからである。あるいは、漱石は、米艦隊歓迎に浮き足立っている民心の底に澱む無力感を、言い当てていただけだったのかもしれない。バルチック艦隊を撃破して 、「日露戦争に勝って」も、それで泰平の世が戻ってくるわけではないまるすぐまた新手の「白船」がやって来る。そしてこの「白船」はいくら「一等国」の国民が総出で歓迎してみても、それで引き下がるような生易しい相手ではない。今回はおとなしく帰って言っても、いつかまたもっと強力な「黒船」となって、日本を「亡ぼし」にやって来るに決まっている。 (『漱石とその時代 第四部』)

<白船が来た1908年>

気付かなかった。『三四郎』が発表されたのは、白船が来た頃なのだ。米国の軍事的示威の時代だ。

1898年、米西戦争に勝利したアメリカはフィリピン、グアム、カリブ海のプエルトリコを得て、1903年にはパナマ運河の建設に取り掛かっており、海軍力の整備が急務であった。1904年から1907年までに11隻の戦艦を新造し、海軍力を誇示するタイミングをうかがっていた。

アメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトは1907年に大西洋艦隊を太平洋岸のサンフランシスコへ回航すると議会で発表する。発表当時はまだ世界一周航海であることを伏せていた。同年12月16日、ルーズベルト大統領をはじめとする大勢の見物人の見送る中、バージニア州のハンプトン・ローズを出港する。翌年の3月11日にメキシコのマグダレナに到着すると、3月13日にルーズベルトは航海の目的が世界一周だと発表する。

航海の目的はアメリカの海軍力を世界中、特に日露戦争に勝ったばかりの大日本帝国(日本)に誇示すること、アメリカ西海岸のアメリカ国民に軍備拡張の支持、具体的には戦艦4隻を新造するための予算を取り付けることが目的だったといわれている。カリフォルニア沖では艦隊遭遇演習を行なう予定で、米国が渡洋作戦を予期していることがうかがわれた[1]。GWFはアメリカ大西洋艦隊に配備されていた新造の戦艦16隻を基幹に編成された。旗艦はコネチカット(16,000t)であった。動員された海軍人の数は、14,000人にのぼる。 wikipedia[グレート・ホワイト・フリート]

 

日本に対する影響

アメリカは当時、大西洋に艦隊が集まっており、太平洋には装甲巡洋艦が1隻配備されているだけであった。まだパナマ運河も建設中で太平洋側で有事があった場合の不安が強くあった。また日露戦争でロシア艦隊が消滅すると、太平洋上には日本海軍だけが突出する状態となった。アメリカの保守派や軍人たちはアメリカの植民地であったフィリピンの孤立を恐れていた。

日本側にはアメリカへの日本人移住制限の検討が行われたことに対する世論の反発や、ポーツマス条約の仲介を行ったルーズベルト大統領に対する批判や不満もあり、日米関係は緊張状態にあった。また日本政府は前年の1907年の帝国国防方針で初めてアメリカを第一の仮想敵国としていた。

艦隊が世界一周航海を始めると、アメリカやヨーロッパ諸国での世論は日本とアメリカの戦争が間近であると騒ぎ立てた。駐フランス大使の栗野慎一郎は「フランスの新聞は日米戦争不可避と書き、日本の外債は暴落した」と伝える。また駐スペイン公使の稲垣満次郎は「スペインの貴族や資本家から軍資金の提供の申し出があった」(スペインは米西戦争に敗北直後)と伝えてきていた。またアメリカの新聞も右派系を中心として連日に渡り、日本との戦争不可避と伝えた。

セオドア・ルーズベルトの伝記では、日本艦隊との交戦の可能性は1割ほど捨てきれなかったと回想したと伝えている。

一方、日本政府は6日後の3月19日に艦隊に日本への招待の申し入れを行った。1908年10月に入り入港が迫ると連日歓迎・友好の記事で新聞が賑わった。アメリカ艦隊はその姿から、幕末の黒船との対比として白船と呼ばれるようになった。10月18日、横浜港に入港すると最高潮に達した。10月18日の朝日新聞に大隈重信は「艦隊来航観」という文章を寄せている。

艦隊の乗組員の日本上陸の許可をするか否かが大きな問題となっていたが、艦隊を率いる将校は連日に渡る園遊会、晩餐会に招待された。当時、海軍軍令部長だった東郷平八郎大将は戦艦三笠の艦上で歓迎会を催した。また水兵3,000人の日帰り上陸が許可され、浅草・上野などの観光を楽しんだといわれている。こうした歓迎ムードのなか10月25日に艦隊は横浜を出航した。  wikipedia[グレート・ホワイト・フリート] 

■ 

 

 

 


神代植物公園 2021年 秋バラ、あるいは、深大寺そば:一休庵

2021年10月24日 10時26分48秒 | 東京・横浜

毎年、春と秋に行く神代植物公園のバラフェスタ。秋の「バラフェスタ」は7度目。過去記事は; 2015年、 2016年2017年2018年2019年)、2020年)。今年の春コロナ禍で行けなかったので、丸1年ぶりとなる。ただし、今秋「バラフェスタ」ではないようだ。

まずは、名無しのバラコーナー。

▼ 本園 今回は遠景を中心に;

■ そば

十割玉子だれそば。 太くて腰がある麺だった。

お団子もいただいた。

そばを打つ様子を若い女性が長い間じっと見ていた。

深大寺そば 一休庵 web site


新しい街でもぶどう記録;第363週

2021年10月23日 18時00分02秒 | 草花野菜

▲ 今週のみけちゃん

▼ 新しい街でもぶどう記録;第363週

■ 今週の武相境斜面

■ 今週のメタセコイア

■ 今週の草木花実

■ 今週のケーキ

毎年、春秋の2回(ここ2年はコロナ禍で秋のみ)、神代植物公園に行く。そのため調布に行くのだが、稲田堤で乗り換える。去年、豆腐屋を見かけた。今年は、寄ってみた。とうふケーキを買う。食べると、生クリームの後に、豆の風味。近いものでは、ずんだシェーク的風味、味覚。

この店について調べると、埼玉に本社があるチェーン店らしい。

株式会社篠崎屋

■ 今週のお魚

わらさ。

■ 今週のノート

「君も博士になれる展」速報レポート!自分だけの博士ちゃんノートが作れて直感で学べる知育型アトラクション

おいらは、博士になって人生を棒に振ったので、複雑な気持ちでこのポスターを見た。

■ 今週のコリアン

そもそも韓国料理の器は金属なのか? 調べた。 本当なのかは確かめられないが、朝鮮戦争のせいなのだという(ソース)。宮廷での銀製器が、見た目だけ、庶民に広まったのか?

プルコギ。 

■ 今週の「変」

調変

■ 今週の古本 ゾッキ本 (最後の講座派を除く)

日頃ブックオフの100円コーナーでの購書を楽しみにしている。今週のゾッキ本。今週は100円じゃない本を贖う。『米中対立』、『戦争はいかに終息したか』などわりかし最近刊行の本を、おのおの610円で入手。Amazon中古では買えない価格だ。一方、ちゃんとゾッキ本も贖う。中村政則、『戦後史』、これは100円。中村政則。最後の講座派だそうだ。講座派 [1] って今の人は知らないだろう。おいらも、よく知らない。読んでみよう。

[1] おもしろいらしい


https://twitter.com/n_jacoken/status/1372563239809077250

 


新しい街でもぶどう記録;第362週

2021年10月16日 17時40分01秒 | 武相境

▲ 今週のみけちゃん

▼ 新しい街でもぶどう記録;第362週

■ 今週の草木花実葉

■ 今週知ったこと;有田みかんは佐賀ではなかった

■ 今週のわけありと返礼品


わけあり


ふるさと納税返礼品

■ 今週のぼっち

■ 今週の群れ

■ 今週の今季初めて

まだ暖かいが、今のうちに灯油を買いにいった。1リットル、110円。

■ 今週の輪切り

■ 今週のもったいない本舗

車谷長吉、『贋世捨人』を買う。今回の購買で気づいた。もったいない本舗の本はAmazon(中古)より楽天(中古)の方が50円安い。Amazonは中間マージンコストを多く取っているとわかる。

『贋世捨人』は自伝的小説。自歴譜が載っている。初めてみた。これまで車谷長吉の虚実を考えてきたが。自称の「実」がわかった。でも、かえって、わからないことも多くなってきた。車谷の対米観を考えていたのだが、直截に『贋世捨人』には記述してあった。わからないことは、「毛唐嫌い」の車谷がなぜカフカ全集を原語で全部読んだのか?など、など。

■ 今週の本カバー:チラシがもったいないのでカバーにという発想

■ 今週のNGワード

車谷長吉、『赤目滝四十八瀧心中未遂』の風景、京都、柿傳

■ 今週の多義語

A fire-man with the dream of FIRE (Financial Independence, Retire Early movement) could be fired.

ファイヤーを夢想する消防士さんは、(うつつをぬかしていると)馘になるかもよ。

■ 今週の新しいシャツ

襟の有無で揃えた。各々、1,250円。 過去5年間、年平均の衣料品購入額は5,000円いかないと思う。おそらく、3,000円以下。このシャツも5年は確実、10年もつかもしれない。


車谷長吉、『赤目滝四十八瀧心中未遂』の風景、京都、柿傳

2021年10月15日 04時11分06秒 | 国内出張・旅行

先月、京都に行った。今年2回目。前回は、3月に行った。「車谷長吉の『赤目四十八瀧心中未遂』に今宮通り、小山花ノ木町が出てくるので、見物することにした」とある。今回は、柿傳をみにいった。

そこから歩いて西洞院丸太町上ル夷川町の、昔、下働きとしておいてもらっていた柿傳へ寄って見ようかと考えた。柿傳ではよくしてもらった。にも拘わらず、私はだし抜けに柿傳を上がった。上がった、というのは板場言葉で、辞めた、ということであるが、私はこれと言ういわれもなしに上がった。それを思うならば、私にはやはり顔出しのしにくいところだった。この「これと言ういわれもなしに。」という曖昧さが、私を決定する凶器のように、いつも私の中にぶらさがっていた。私はもうええ加減に自分を見放したいような気持で、また鴨川の方へ歩いていった。そして雨に降り込められた北山を見た。それから祇園町で「壱銭洋食。」を喰うてアマへ帰った。(車谷長吉、『赤目滝四十八瀧心中』)

車谷長吉は、『文士の魂・文士の生魑魅 [いきすだま]』で、『赤目滝四十八瀧心中未遂』について説明している;

この小説は私が経験したことの顛末を綴ったものではなく、九割九部が作り話であるが、併しそれでも私の心に膿のごとく溜まっている罪悪感が書かせたものだった。 (車谷長吉、『文士の魂・文士の生魑魅 』、「文学における悪」)

一方、

 昭和五十一年の秋、当時、京都柿傳の料理場で下働きをしていた私は、寂聴瀬戸内晴美さんに仲秋の名月の宴に招かれ、嵯峨野の寂庵へお邪魔したことがある。(車谷長吉、『文士の魂・文士の生魑魅 』、「伝記小説」)

とあるので、京都の柿傳で働いていたことは、九割九部でない残りの一部の事実であるらしい。

なお、『赤目滝四十八瀧心中未遂』の設定は、昭和53年、1978年である。

一方、『赤目滝四十八瀧心中未遂』の後の作品である『贋世捨人』には京都、柿傳について詳しく書いてある;

 三月十四日、私は風呂敷荷物一つで、京都へ出て行って、上京区西洞院丸太町上ル夷川町の柿傳に勤めた。柿傳は江戸時代は御所の天皇家の料理を作っていたが、明治維新で天皇が東京へ去ってからは、茶道の表千家不審庵の茶料理を務め、親ッさんの木村淳郎氏は九代目だった。店には客の座る席はなく、すべて出張り料理だった。客は、たとえば祇園のお茶屋なり寺なりに席を借りて、そこへ柿傳の料理人を呼んで、茶懐石料理を作らせ、また別に呼んである男の配膳さんに、厨から座敷まで料理を運ばせるのだった。配膳さんとは、京都独特の職能の人で、紋付き・袴に扇子を差して、客一人一人の食べ具合を測っていて、よい潮時に、料理を運んでいくのだった。無論、月々の不審庵での茶会にも、出張する。 (車谷長吉、『贋世捨人』)

柿傳(上京区西洞院丸太町上ル夷川町)と御所の位置関係を下の地図に示す;

柿傳は地図の左上、日本赤十字社京都第二病院の西(向かって左)にある。御所は地図右上

『贋世捨人』には、主人公、生島与一が東京での生活が破綻し実家に帰るも、居心地が悪く、料理屋などの「下働き」をする過程が描かれている。勤め先を転々とする。ただし、勤め先を変わる時は前の勤め先の人の口利き、指図で勤め先が決められると説明される。ただし、京都、柿傳へなぜ務めたのかは書いていない。

今週、『贋世捨人』を買ったのだが、自歴譜があった。初めてみた。下記、あった;

 昭和五十二年(三十二歳)三月、みかしほ調理学校を卒業。四月、京都上京区西洞院丸太町上ル夷川町の「柿傳」で料理場下働き。十月、神戸元町の「石翁」で料理場の下働き。(以下、略)

とある。柿傳に勤めていたのは事実なのだ。 

そして、この自譜をみて驚いたのが、車谷は調理師学校に通っていたのだ。この、学校に行ってなんとかしようとする発想を車谷はもっていたのだ。そして、そのことは小説には書かない。大学で文学を学び、作家として成功できなかった主人公を描いているが、調理師学校出て、料理場下働きの方が「不本位」度は高いはずだが。

『贋世捨人』で車谷は料理場で働く多数の登場人物を中卒だ、高卒だと示している。でも、職人なんだから学歴は関係ないだろうと思うのだが、車谷は書く。これは、職人に対しても学歴にこだわる主人公の偏見を描いているつもりということなのか。そもそも、「下働き」という認識がすごい。まずは、職に上下をつけて、「下」なのでやりましょうという発想が、その仕事をなめてる。だから、「贋世捨人」ということで、よく書けているというべきなのか。事実、『贋世捨人』には偉い人、有名人がたくさん出てくる。そういう偉い人、有名人との縁を書くことも俗物でいとおかしということか。

『赤目滝四十八瀧心中未遂』から四半世紀。車谷は調理師学校に通っていたと初めて知った。京都、柿傳へなぜ務めたのかは書いていないのは、柿傳は卒業した調理学校の伝手で紹介されたからではないか。 厭世者が学校に行って勤めましたでは話にならないからではないだろうか?


新しい街でもぶどう記録;第361週

2021年10月09日 16時49分43秒 | 草花野菜

▲ 今週のみけちゃん

▼ 新しい街でもぶどう記録;第361週

■ 今週の武相境斜面

■ 今週の東京

■ 今週の草木花実


野ばら


レモンなんだろうか?

■ 今週の二度咲

キンモクセイの香りがした。咲いていた。google [キンモクセイ 二度咲き] 。今から思えば、9月にキンモクセイが咲いたとき、早いなと思った。つくばにいた頃は、キンモクセイは10/1に咲くと経験上思っていた。キンモクセイと冷たい雨というのが印象だった。


梅が咲いていた。 これは驚いた。 見つけて、うれしかった。

■ 今週の蝶

■ 今週見た落とし物・忘れ物

■ 今週の黒赤

■ 今週の赤い実


バーミヤン、「果肉レモン入りオーギョーチ」

赤い実=クコの実 (google)。 オーギョーチ(愛玉子)は、つる性の植物の一種。その植物から作られるゼリーのデザートも、「オーギョーチ」と呼ばれています。ソース

■ 今週の昭和の成仏のために

古紙ゴミに電気・電子系技術者が捨てたのであろう本群を見た。

■ 今週の本

本体¥197+送料¥360  (Amazon

江藤淳の『占領軍の検閲と戦後日本 閉された言語空間』は、占領時代の占領軍による検閲を研究した本。1982年からの仕事だ。この仕事のための史料/資料集め、閲覧は1978年の滞米中に行われた。すなわち、江藤淳は1978年の9か月、ワシントンで暮らした。妻はもちろん、犬まで連れて行った。その滞米中の文章が当時の週刊誌に連載され、それらを纏めたのがこの『ワシントンの風のたより』。

この1978-1980年の時代背景は、イラン革命、米国大使館人質占拠=米国の国威失墜、ソ連のアフガニスタン侵攻、戦わなければアフガニスタンと同じ運命を辿りかねない関係の逆転米豪NZ海軍との共同演習オリンピック不参加。日本では、神奈川金属バット両親殺害事件(1980年)[wiki]=江藤はこの本でこの事件を論じている。さらには、田中康夫、『なんとなく、クリスタル』。そして、文化的ジェノサイド。 太字は現在の状況を背負って読むと、時代を越えて、同じような鍵語句が目につくなァと思わせるもの。

この時期の江藤淳を、平山周吉は浩瀚かつ詳細な江藤淳の伝記『江藤淳は甦える』において、「外国人の支配に対する憤激」というアフォリズム(エリック・ホッファー)を動機とする「戦後体制への異議申し立て」として描いている。1978年後から10年後の回顧として、江藤が1978年の滞米中の会議(学会的討議・講演会)で占領軍批判をするので、かつての進駐軍・軍人に命を狙われると警戒したという。そして、この戦後体制を造った占領政策を批判したことが、1980年代の江藤淳の「生き埋め」となったと推定している。事実、そうなのであろう。

当時も(福田恒存)、今も(小谷野敦)、江藤の占領軍による検閲研究は無駄だ、意味がないと評価されている。中川八洋に至っては、江藤を最悪の反米主義者としている。

さて、このように米国に批判的と思われているらしい江藤であるが、この『ワシントンの風のたより』には、日米の同盟の悪化への憂慮が多く書かれている。さらには、イラン問題で傷つくアメリカをいたわってさえいる。

例えば、イラン問題。1978年、イランでホメイニ革命。イスラム教による原理主義的革命の実施。当然、反米。さらには、米国大使館を占拠し米国人を人質にした。この事件は、911テロまでは第二次世界大戦後の米国にとっての屈指の屈辱であった。

その米イラン戦争寸前の状態で、当時の日本は莫大な原油をイランから輸入していた。米国の感情が悪化した。『ワシントンの風のたより』の「同盟国との付き合い方」という文章に書いてある;

 まァ、ことほどさように過去六週間ほどのアメリカは、著しく愛国的になっているのです。(中略)それがイラン危機の勃発と同時に、突然本来の面目を取り戻し、人が変わったように愛国的になった。
 もともとアメリカ人は、きわめて愛国的な国民だといってよい。それもこの国に来て日の浅い人々ほど愛国心を表面に出し、自分たちがアメリカ人になったのだということを強調しようとする傾向がある。こうなってしまえば理屈抜きで、とにかくアメリカに味方をしてくれる国はありがたく、イランの肩を持つ国は憎いという心理になる。
 庶民だけではありません。一皮むけばインテリも政府高官も同じことで、味方ならずんば敵というか白か黒かの論理が、現在のアメリカの社会心理を支配している。

と米国人の気分の傾向を述べ、次に英国のサッチャー首相が来米して、アメリカとの協調を歌い上げ、米国人の人心を掴んだことを紹介する。

 同盟国というのはすべからくこうでなければならない。相手の立場や気持ちをよく理解し、よく理解していることをいいタイミングでじょうずに相手に伝えながら、自分の言い分はチャンと通す工夫をしておく。サッチャー首相の対米外交は、この点同盟国のあしらい方として模範的といってもいいすぎではない。
 それにひきかえわが大平首相の不手際はなんということかと、情けなくて仕方がない。当地では、暮れのうちひと頃、ヴァンス国務長官がパリで大来外相に抗議するよりまえに、カーター大統領が大平首相に協力を求める親書を送っていた。その親書は北京訪問中の大平首相の手許に転送されたにもかかわらず、大平首相はそれに一顧だも与えなかった。そういういきさつがあったためカーター大統領が激怒し、ヴァンス長官の抗議となったのだという噂が、確かな筋から流れていました。
 もしそうだとすれば、同盟国のよしみどころか、これによってホワイト・ハウスと国務省がどれほど深い対日不信にとりつかれたかは想像に難くない。(中略)今度の大平首相の不手際は、アメリカ人の愛国心を踏みにじり、アメリカの”敵”の同調者という日本のイメージを、アメリカの国民大衆の心に植えつけてしまったという意味で、はるかに複雑で深刻な結果を生んでしまったといわねばならない。

と、烈しく、日本の大平政権を批判している。その根拠、日本政府が米国に対し同盟国としての振る舞いができていないことであるである。動機は日米関係の悪化阻止である。かように、江藤は、当時、対米関係に配慮していたのだ。

▼ 文化的ジェノサイド

占領軍の検閲を研究し始めたこの当時、江藤は表だって積極的に米国を批判していない。ただ、つぎの文章がある;

ウイルソン・センターで、言論検閲の三つの事例を比較する研究会があり、江藤も発表した。3つの事例とは、米軍占領下の日本、軍事政権下のブラジル、ソ連占領下-チャウシェスク政権下のルーマニア。

 この(国際ペンクラブ会長で日本に来たことのあるペルーの作家)ヴォルガ・ローサ氏が、討論が終わると同時に私のところにやって来て、
「米軍の検閲は『万葉集』の詩や歌舞伎まで禁じたのかい。なんとばかなことをしたのだ。」
 と、つくづく呆れかえってものがいえないという顔をしているところへ、世界で最初の『アフリカ文学史』を執筆中のナイジェリアの文学者オペチーナ氏が加わって、
「これじゃァまるで文化的民族絶滅みたいなものじゃないか」
 と、穏やかな人柄にもかわらず、心から憤慨してくれたのはまことにありがたいことでした。

と書いている。 文化的民族絶滅、って1979年にはあった言葉だと知る。cultural genocide [wiki] の日本語は、文化浄化 [wiki]となっている

▼ 検閲の内面化  パノプティコン的監視の現実化

 しかし、それにも増して私の心に残ったのは、つい先頃から客員として仲間に加わったロバート・コックス氏の、
 「検閲のなかでいちばん恐ろしいのは、編集者や執筆者の心に内面化されてしまった検閲だ」
ということばです。

江藤の占領軍による検閲研究の成果は、この占領軍の検閲が戦前日本検閲、すなわち、不適当な文書を外的に罰する検閲とは違うことを示したこと。つまり、常に検閲されているか、検閲されていないかわからないので、常に気を付ける挙動をい身につけさせられ(=身につけないと、突然罰せられる)人間になっていくことである。検閲の内面化。

占領軍の検閲は、日本人で表現する人間を、パノプティコン的監視下に置き、調教していったのだ。

▼ 神奈川金属バット両親殺害事件(1980年)[wiki]

『ワシントンの風のたより』の「宮前平の親殺し」という題で、この事件を論じている。つまりは、受験社会の弊害、学校化社会の弊害を論じている。今から見れば、近代社会における学校化による人間の家畜化批判と云える。さらに、上述の監視的検閲を加えれば、(後期)近代において人間が自己奴隷化していく過程、機構を論じていることになる。

振興住宅街の貧しさ、能力主義的近代人の貧しさを語っている;

教育と学歴以外に、何一つ息子に遺してやるものを持たない無数の日本の父親の一人の、絶望と憤懣が、今度の血なまぐさい親殺しを誘い出してしまったのでした。

 ー その時代:監獄化社会・学校化社会の認識 ー

『ワシントンの風のたより』は、1981年の刊行。栗本慎一郎の『パンツをはいたサル』と同じ年。その本は、「近代科学は、現代の学校化・監獄化社会を作りだした。実際の監獄は、そこからはみ出した者をほうり込むためにある。」を主張。近代科学は、とあるが、近代社会は、近代文明は、としたほうがよい。『「近代」の意味 制度としての学校・工場』は、1984年の本。

■ 2週間前に見た地域貢献

2週間前に京都旅行に行った。五条のホテルに泊まった。近くにフランス語人向けの学校があった。朝夕、ヨーロッパ系・白い人、アフリカ系・黒い人が通学していた。彼らがみんなフランス人かはわからない。フランス語を使うフランスではない国の人たちかもしれない。そして、日本の学校の登下校と違うのは、親子同伴で通学していた。google [フランスの小学校の通学、登下校は親が付き添う]。

さて、そのフランス語人向けの学校が、地域貢献をしているのを見た。学校の近所の人限定なのだ。


京都散歩; 銀閣寺-北白川

2021年10月03日 21時18分15秒 | 国内出張・旅行

京都旅行3日目は銀閣寺(慈照寺銀閣)と北白川を歩いた。北白川は駒井家を外から覗くのが目的。緊急事態宣言で公開していないのだ。

1、3;白川通今出川交叉点、2;銀閣寺、4;北白川郵便局、5;駒井家住宅、6;伊織町バス停

銀閣寺は京都の平野の縁の扇状地と山地に位置する。この地理的条件は先日の嵯峨野、春の修学院と類似している。この平地と斜面を利用して庭が造られている。

 
赤丸;銀閣寺、青丸;北白川、駒井家付近。黄色;扇状地、薄茶色;平野、薄黒紫;山地

■ 1、白川通今出川交叉点、⇒ 2;銀閣寺


白川通


白川通今出川交叉点


東へ向かう。

昭和風の食堂。でも値段は(今のデフレ日本とは思えない)強気価格。


扇状地を登る


銀閣寺入口

銀閣寺は2005年以来16年ぶり。2005年は11月で紅葉の時期だった。

 

■ 2;銀閣寺 ⇒ 4;北白川郵便局 ⇒ 5;駒井家住宅

▼ 駒井家住宅

駒井家住宅(こまいけじゅうたく)は、昭和2年(1927年)に遺伝学の権威京都帝国大学理学部教授駒井卓博士の自邸として京都・琵琶湖疏水分線の畔にウィリアム・メレル・ヴォーリズ設計により建てられた近代洋風建築である。  アメリカン・スパニッシュ様式。wiki


 黄色矢印;駒井家。航空写真;現在(左)、1945-1950年

敗戦後はこの北白川の少なからずの住宅が占領軍に接収され米兵家族が暮らしたらしい。駒井家住宅も接収された。追い出された駒井夫婦は敷地内の別棟に暮らしたていたとされる(下記リンク)

駒井家住宅の詳細⇒ 日本ナショナルトラスト 駒井家住宅(駒井卓・静江記念館)

■ 5;駒井家住宅 ⇒ 6;伊織町バス停

バスで三条烏丸へ行った。


新しい街でもぶどう記録;第360週

2021年10月02日 18時01分51秒 | 草花野菜

▲ 今週のみけちゃん

▼ 新しい街でもぶどう記録;第360週

■ 今週の武相境斜面

■ 今週の草実

■ 今週の京土産

京都でヒガシマル商品を買った。そのひとつ。

■ 今週の京土産+山梨物産

ほうとうをヒガシマルのカレーうどん出汁で食べた。

■ 今週の15分待ち

ワクチン2回目を打った。

■ 今週の不明基地名;Kajikawa naval base, Japan (かじかわ [梶川?] 海軍基地)

1966年(昭和41年)、ビートルズ(the Beatles)来日。6月だ。一方、9月には、スプリームズ (the Supremes)が来日していたと、おいらは、知った。日本の音楽史、外タレ音楽史にさえ、あまり載ってない史実ではないだろうか?なぜなら、一般日本人向けのコンサートは行われなかったからだ。

 

スプリームズ (the Supremes)の来日は、スプリームズの「tour in the Orient」(オリエントツアー)の一環だ。そして、それは「オリエント」駐留の米軍さまのためのコンサートツアーであったらしい。すなわち在留米軍がいる7か国をまわったのだ。スプリームズの年譜にある;

September 2-22
The Supremes on tour in the Orient (concerts: September 3-21). A film is made during this tour that is still unreleased. Main tour stops: Tokyo, Okinawa, Yokohama (Japan), Taiwan (Republic of China), Hong Kong (aboard an aircraft carrier in Kowloon Harbor), Manila (Philippines), 7 Asian countries in all.
September 22 is in conflict with the recording sessions on September 21 & 22.
 
なぜおいらが、1966年のスプリームズ来日を知ったかというと、在日米軍についてのネット情報で知ったのだ。
 
 
 
米軍基地でのコンサートツアーではあるが、(後述の高木ブーと違って)米軍基地に直接来たわけではなく、羽田に民間機で来日したらしい。そして、ホテル・ニューオータニで記者会見をしている。
 
The Supremes - Press Conference in Japan (1966) [RARE FOOTAGE]
 
スプリームズは、立川、横須賀、沖縄でコンサートを行った [1]。そして、Kajikawa naval base, Japan でもコンサートを行っている。さて、このKajikawa naval base, Japan (かじかわ [梶川?] 海軍基地)がわからない。 検索しても出てこない。
 
[1] 赤坂・コパカバーナでも歌ったという情報がある(ソース)。
 
なお、日本滞在中に本国ヒットチャート1位になったのが;
 
September 10
“You can’t Hurry Love” reaches # 1 on pop charts.       (上の年譜より)
 
 
なお、1966年というのは、今からみれば、アメリカの黄金時代もついに絶頂を過ぎ、1967年末にはベトナム戦争のテト攻勢となり、重傷兵士が日本の米軍基地にも担ぎ込まれ、あるものは九死に一生を得、あるものは日本の米軍基地で死んだ。
 

■ 今週のオリエント・ツアー/「ワールドツアー」

「立川の米軍基地から軍用機に乗って、台湾やフィリピン、返還前の沖縄にも行った。お尻が痛かったな」――。大学を卒業後、そのままプロのミュージシャンになった高木ブーさん。昭和30年代前半は、各地の米軍キャンプでステージに立った。初めて飲んだコーラの味……。ブーさんが「20代の日々」を語る。

高木ブー「軍用機に乗ってアジアの米軍キャンプをめぐった」若き日

当時は日本各地に米軍が駐留してて、ハワイアンは軍人さんに大人気だった。今日は厚木、明日は横田って感じで、毎日忙しかったな。所属していた事務所は、バンドと女性ダンサーと、マジシャンや漫談ができる人を「お徳用詰め合わせ」にしてキャンプに売り込んでた。

 言われた時間に東京駅の八重洲口とか新宿駅の南口に行くと、米軍のトラックが迎えに来る。荷台に乗せられて、その日に仕事がある基地に向かう。集合場所にはたくさんのミュージシャンが集まってた。「拾い」っていうキャンプの仕事を斡旋してくれる人がいて、「横須賀、ベースいないか?」なんて声をかけると、すぐに即席のバンドが誕生する。

 

「ワールドツアー」にも何度か出かけた。「お徳用詰め合わせ」のメンバーで、台湾やフィリピン、返還前の沖縄に行ってキャンプで演奏する。立川にあった米軍の飛行場で軍用機に乗り込んで、パラシュートを背負わされてね。旅客機じゃないから揺れも激しかったし、時間もやたらかかった。何より座席が硬くてお尻が痛かったのを覚えてる。

 海外のキャンプに着くと、だいたい1か月ぐらいいたかな。日本国内でも同じだけど、キャンプの中にはサービスクラブ、一般兵のクラブ、下士官クラブ、将校クラブと4つのクラブがあった。僕らのチームは、今日はこっち明日はあっちと、夜はどこかのクラブのショータイムにゲストとして出演する。どこもお客さんのノリがよくて演奏してて楽しかったな。

 コカ・コーラもハンバーガーも巨大なステーキもタバコの「ラッキーストライク」も、米軍キャンプで出合った。コーラを初めて飲んだときは「不思議な味だなあ」と思った

wikipedia (高木ブー)

1966年のスプリームズのオリエント・ツアーに先駆けて、1955-1960年頃にオリエント・ツアーを敢行していたのが、高木ブーだと最近のニュースでしる。ツアーの目的はスプリームズと同じく米軍向けの慰安業務だ。

高木ブーの回顧を読むと、パスポートもひったくれもなく、米軍基地から沖縄、台湾と出張していたらしい。米軍覇権のなせるわざだ。1ドル=360円だ。つまり、米軍の仕事を受けると、とても割が良い収入となったのだ。日米の貧富の差が圧倒的であった時代だ。

なお、1950年のGDPは米国は日本の9倍である。1973年には2.8倍まで縮まる(ソース)。

■ 今週借りて読んだ本

2週間前に読んだと報告したアゴタ・クリストフ(wiki)の『悪童日記』の続編とされる『ふたりの証拠』を読む。飽きることなく読み終えることができるほどおもしろかった。ただし、これは、羊をめぐる冒険のような「くすぐり」や御都合主義の要素のおかげともいえる。この『ふたりの証拠』は1988年発表。邦訳は1991年。『悪童日記』は、翻訳されて世界的に読まれたとのことなので、村上春樹の世界的読者獲得と通じるものがあるのだろうか?

状況としては、独ソ戦後の独裁(共産)主義支配の(東欧の)国(ハンガリー)をモデルとした話。そういう状況で子供(主人公)がひとりで美貌を武器に、生きていく様子は、経済的状況の説明がなく、話が寓話的で現実味はない。でも、その寓話性がこの物語の要なのだろう。戦争と占領に認められる事象は洋の東西を問わないのだろう。孤児院を運営する夫人の科白;

「うちの子供たちも、全員が孤児ではないのよ。大半は、父親不明で、強姦された母親や娼婦だった母親に捨てられた子たちなの」

日本で云えばこれだ;

■ 今週の親ガチャ、子ガチャ

"自由" ’民主’党って悪い冗談にも程がある。封建世襲党にすればいいのに。

世襲議員ではないただ一人の候補である高市は、その点とてもリベラルなはずであり、かつ女性であるから、男性優位とされる日本社会の伝統に対し、女性の自由を拡張するという定義の上でリベラルであるのに、大手既成マスコミは、その点で高市を評価するようなことはしなかった。

世襲議員批判を扇動すれば、高市に追い風になったであろう。 もちろん、大手既成マスコミは、高市が「ウヨ」なので、応援しないのだ。

▼ 子ガチャを当てたお歴々