いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

1945年8月30日、横浜に進駐する米軍を米英旗で迎えるがきんちょたち

2023年01月31日 20時41分01秒 | 日本事情

過去のブログ記事(1945年9月8日、東京に進駐する米軍を米英旗で迎えるがきんちょたち)が誤っていたので、訂正する。


マ元を歓迎する浜っ子たち、横浜市戸塚区

敗戦直後の占領軍の進駐において、米英旗を振って米軍を「歓迎」するがきんちょたちの映像を見た。こんな光景を見たことがなかった。この映像は、有名な映像供給会社のパテ・ニュース (google) のものなので、戦後ずっと公知であったはずだが、あまたあるテレビ番組・ドキュメンタリーにおいて、敗戦日本を語るための実写映像として使われているのを、おいらは、見たことがなかった。

このがきんちょたちが米軍を「歓迎」したのは、1945年9月8日にマッカーサー元帥(マ元)が横浜から東京の米国大使館に「入城」した日の出来事ではなく、マ元が「厚木」に舞い降りた日(14:05に着陸した)の「厚木」から横浜のホテル・ニューグランドへの移動中の戸塚区での出来事らしい。服部一馬、斎藤秀夫、『占領の傷跡』、有隣新書、1983年 (Amazon) にあった。ただし、詳細は記されていない。


服部一馬、斎藤秀夫、『占領の傷跡』より

そもそもこの米英旗で米進駐軍を歓迎するがきんちょたちは下記動画からのもの。今から見えれば、パテ・ニュースの映像は米軍の東京入城(1945年9月8日)を物語ったものだ。その物語の見せ場のひとつは チェイス少将 とデイビス上等兵の物語、東京入城第一人者のデイビス上等兵とチェイス少将の握手。1945年9月8日。ただし、この映像は、1945年8月30日にマ元が「厚木」飛行場に到着した以降のいろいろな場面で撮られた映像を編集したものであるらしい。そして、この米英旗を振るがきんちょたちは横浜は戸塚の子供たちとのこと。つまり、この動画の冒頭に港で上陸する第一騎兵師団が登場。記章で明らかに第一騎兵師団とわかる。史実として、1945年9月2日午前11時半横浜港大桟橋に4-5000名が上陸。動画は、おそらく、この場面であろう。一方、この動画の20秒以降の米英旗を振るがきんちょたちが出てくる場面は8月30日のことらしい。この場面ではトラックのみが写っていて、戦車は写っていない。「厚木」飛行場に到着したマ元は「最高司令官用として特別に準備された乗用車におさまり、乗用車二五台・トラック十〇台に分乗した完全武装の主力部隊一二〇〇名を従え、戸塚経由、横浜へ向かった」(『占領の傷跡』)とのこと。つまり、トラックに乗っているのは、第11空挺師団。そして、このがきんちょたちの米英旗による歓迎は戸塚での情景らしい。ただし、米英旗を振るというのは誰かの差し金だろう。いい映像を撮りたい米国側か?進駐を順調に進めたいと意志をもつ日本人グループか?わからないが。

■ 関連記事

1945年夏の敗戦、東京入城の米軍は八王子方面から

 


新しい街でもぶどう記録;第428週

2023年01月28日 18時00分00秒 | 草花野菜

■ 今週の武相境斜面

明日24日(火)からはこの冬一番、また近年でも最強レベルの寒波が襲来します。日本海側は大雪や暴風雪に最大限の警戒が必要です。大阪や名古屋など、太平洋側の都市部でも雪の積もるところがあり、生活に影響が出るおそれがあります。ソース

京都では雪が降ったが、東京では雪は降らなかった。上空の温度は下記図でわかるように京都でも東京でもかわらない。温度の観点から見ると東京は積雪の条件となっている。しかし現実には東京には雪は降らない。理由は山脈である。山脈で雪雲が水分を落として関東に吹き込むので、関東では雪が降らない。一方、京都ではその北方の山脈の壁としての効果が低く、雪雲が京都までやって来てしまうのだ。名古屋も同様。京都や名古屋で、意外にも、東京より雪が多い事情だ。気象は地理的因子も重要である。

■ 今週の草木花実

■ 今週の「止め火事」

こどもの国線、「うしでんしゃ」。



https://www.kanaloco.jp/news/social/case/article-965145.html

この焼けた家屋の裏を電車が走っている。 下記画像は線路側から撮ったもの。この「金子建材」と書いた塀の手前が線路。

焼ける前。Google Map

■ 今週の「切り落とし」

「パンのみみ」ならぬケーキのみみ

ラムシロップを染み込ませたスポンジでマロンクリームをサンドし、ホイップクリーム、渋栗クリームをしぼり仕上げました。人気の切り落としシリーズの新フレーバーです。ソース

■ 今週の単価

灯油1L、115円。

■ 今週の初めての「鍋」

初めてちゃんこ鍋を食べた。といってもファミレスだ。ガスト ちゃんこ霧島監修 両国ちゃんこ鍋(半玉うどん入り)(google)。そもそも、おいらは、ちゃんこ鍋の定義を知らない。印象は、お相撲さんの食事。wikipediaでみた。鍋料理全般ともある。相撲部屋の寄せ鍋(wiki)と云えそう。食べてみて、出汁は鰹因子が一番強かった。具は下記にある;

商品紹介・東京・両国にある元大関霧島の店「ちゃんこ霧島」から監修をいただき、かつお・鶏・豚骨の出汁の絶妙な配合をガストで完全再現しました。
・「ちゃんこ霧島」監修 秘伝のスープと鶏つみれ・かつお・鶏・豚骨の出汁を使った味噌しょうゆ味。鶏肉、鮭、野菜に半玉うどんも入った具沢山のちゃんこです。
・ニラ、白菜、しめじ、厚揚げ、鮭、鶏もも肉、半玉うどん ガスト web site

■ 今週の自伝;20円=チロルチョコの"娘"

たまに行く『三田評論』のある待合室でみた。無造作に手に取ったのは、2021年11月号。「話題の人」としてインタビューに応じている「塾員」は関美和。投資家で翻訳家。大量に売れた『FACTFULLNESS』の翻訳家。

 

そして、彼女は、チロルチョコを製造する会社の社主の娘と知る。ビンゴ!愚ブログで、2022年4月9日、チロルチョコ=20円に言及した。興味深く思ったのが、20円のチョコレートをどこで作っているのだろう?ということ。こういう単価の低い製品の生産状況を知りたかった。包装に工場の住所があった。福岡県田川市。ググった。Google Map

福岡県田川市は本来、石炭の街だったと関美和さんの自伝:インタビューで知る。インタビューはネットで全文を見られる

──なるほど。ここに至るまでの関さんの道のりはとても興味深いのですが、お生まれになったのは福岡の現田川市という炭鉱町だそうですね。

 私は4人兄弟の末っ子なんです。兄が3人いて12歳年上の兄(松尾利彦チロルチョコ株式会社会長)が慶應の法学部に入った時、私は小学1年生でした。

(中略)

でも周りは炭鉱町という特異な環境で生活がとても厳しい人たちもいました。父は「チロルチョコ」という会社を経営していたのですが、兄が大学に入るぐらいまでは工場も苦しかった。

私が小学校に入ってからは少しずつ家計が豊かになっていきましたが、同じ小学校には「炭住」という炭鉱労働者の長屋に暮らす閉山した炭鉱の炭鉱夫の子が多くて、日本が高度成長していく中で取り残された町という感じでした。小学校の同級生は私が高校生の時にチロルチョコの工場で働いている方もいらっしゃいました。

──現在、AUW(アジア女子大学)で貧しい国の学生たちの支援をしていらっしゃるのは、そういった経験も影響があるんでしょうか。

 ありますね。運良く生き延びて、教育を受けられたことを少しでもお返ししていきたいと思います。

貴重で興味深く、リアリティがあり、ある種生々しい話だ。「小学校の同級生は私が高校生の時にチロルチョコの工場で働いている方もいらっしゃいました」。

ここで想起しないでいられない;

人は生まれながらにして貴賤貧富の別なし。ただ学問を勤めて物事をよく知る者は貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人となるなり。 (『学問のすすめ』)

関は、「人は生まれながらにして学問を勤める機会の別あり」と知ったのだ。そして、そのことを現在、このインタビューでその認識を確認している。諭吉の「間違い」を知っているのだ。だから「運良く生き延びて、教育を受けられたことを少しでもお返ししていきたい」といのであろう。

現実の資本主義はこうだ。生まれながらにして学問を勤める機会がなく、学問の力がなくて手足を用うる力役のようなやすき仕事をする身分軽き人がいなければ、あまたの従業員を召し使う工場主などは存在できない。どんなに、工場主に学問の力があったとしても。

もっとも、愚かで貧しく(学問の力があると称する人からみて)下人であったも、不幸とは限らないかもしれない。中卒の女工さんだった人が今では幸せであることを祈るばかりだ。むしろ、学問に勤めかしこき人となり富める者となり身分重くて貴き者となっても「不幸」はやってくるかもしれない。

■ 今週の「焼き尽くされたのと焼き尽くされなかったもの」

 上記の『三田評論』2021年11月号の書評は『日本大空襲「実行犯」の告白──なぜ46万人は殺されたのか』だ。ネットでも読める。著者の鈴木冬悠人は「塾員」。さて、焼き殺されたのが46万人とあるが、生き残ったのが小泉信三。小泉信三が受難者であったとは、数年前この待合室で見た『三田評論』で知った。この記事は今検索するとこれ(【慶應看護100年インタビュー】戦時に小泉信三先生を看護して)であったとわかった。それをきっかけに『小泉信三』(小川原正道)で確認して、愚記事(今週の焼夷/傷痍知識人)に書いた。さっき、本屋で『伝記 小泉信三』(神吉 創二)を立ち読みした。受難の日、三田の小泉の家で、空襲警報が出ているのに、予め防空壕に逃げず家の屋根で水を撒いていた。すると海岸ー田町方面から来たB-29からの焼夷弾本体(本体から枝弾がばらけて地上を広範囲に襲い、焼く)が家を直撃したとのこと。

さて、一連の東京空襲で、特に1945年3月10日の墨東地区の空襲は焼死者10万人であり、民間人大量虐殺だ。ジェノサイドである。こういうことをする米国が戦後主導する「民主制/democracy」を何ら抗うことなく受け入れた小泉信三ら「親米」知識人を、おいらは、全く理解できない。虐殺・民主主義だ。仮に、大日本帝国が人類に挑戦する極悪非道であったとして庶民(democracyとやらの担い手のはず)が虫けらのように焼き殺されていいわけはない。小泉信三ら「親米」知識人は戦後なんらこのことについて意見していない。

ところで、おいらが福沢諭吉に興味があるのは、諭吉が訪米時にはまだ奴隷制があり、そもそも米国は先住民の駆逐と虐殺に基づく。そんな連中の社会を「文明」といって、ありがたがるのだ。これがどうにも不思議だ。今に至るまで、KOに対するおいらの偏見は、欧米をありがたがる人たちである。そういうのは彼らの勝手ではあるが、どうしてそういう人たちがいて、現実の日本でのさばっているのか?ということである。やはり、欧米はありがたいので、思わず観光[1]てししまうのだろうか?

[1] (諭吉の子供たちが)成長すれば外国に留学させたいと思っている。ところが世間一般の風を見るに、学者とか役人とか言う人が動[ヤヤ]もすれば政府に依頼して、自分の子を官費生にして外国に修行させることを祈って、ドウやらこうやら周旋が行き届いて目的を達すると、獲物でもあったように喜ぶものが多い。嗚呼[アア]見苦しいことだ。自分の産んだ子ならば学問修行のために洋行させるも宜しいが、貧乏で出来なければさせぬが宜しい、それを乞食のように人に泣きついて修業をさせて貰うとは、さてもさても意気地のない奴共だと、心ひそかにこれを愍笑[ビンショウ](以下略)『福翁自伝』

なお、おいらが小泉信三に興味を持つのは、その戦時中の攘夷情念(反米感情)の横溢である;

このことは以前に書いた。

小泉信三は戦時中の慶応の塾長であった。上記のように激情的「攘夷」になったとのこと。激情的「攘夷」は諭吉が最も嫌ったものにほかならない。学生を戦場に送る立場であった。戊辰戦争のとき、上野の戦闘を「紅旗征戎吾が事に非ず」と講義を行った諭吉のような贅沢は与えられなかった。というか、諭吉もやらなかった政府への参画を「内閣顧問」として行っていたと清沢の証言でわかる。

慶応の塾長なら、国が決めた戦争だから従事しないわけにはいかない。ただ、せめてスポーツに参加するように淡々とルールに則り従軍すべし」くらいですましておけばよかったのに、「米国の奴隷」とか叫んでしまったらしい。その小泉信三が書いた諭吉の伝記。冒頭、諭吉の生没年とヴィクトリア朝時代が一致するとの指摘。なるほど、そうだ。ということは、諭吉が没した時、漱石はロンドンにて、ヴィクトリア女王の葬列を見送り、その後、『三四郎』で亡びるねと広田に言わせた日本は、諭吉の没後50年もたたず亡びるのであった。何なんだった、文明開化ってことだ。

ところで、戦中の言葉と戦後の行動を整合させると、小泉信三は米国の奴隷となって天皇の師となり、自由主義者であったことになる。

 


新しい街でもぶどう記録;第427週

2023年01月21日 18時00分00秒 | 草花野菜

みけちゃん、11歳、(避妊手術以来)にして初めて動物病院へ行く。くしゃみを連発するので、連れて行った。レントゲン写真観察では肺や気管支に異常は認められなかった。費用、約1万円。

▲ 今週のみけちゃん
▼ 新しい街でもぶどう記録;第427週

■ 今週の武相境斜面

■ 今週の草木花実

■ 今週の訳あり

山形のラ・フランス  5kg、2,500円

■ 今週の深みへ

地下鉄・永田町駅

■ 今週の抜

抜歯した。親不知以外で初めて抜いた。これはいけない。死への一里塚。歯周病で歯と周りの歯ぐきの肉の間に隔が発達。ぐらついてきた。「8020(ハチマルニイマル)運動」というのがある。80歳までに、自分の歯を20本は抜かないで保とう、とすることを目指す活動(日本歯科医師会)。残り、27本。

■ 今週の命日

今日は西部邁の命日と気づく。なぜなら、下記記事にアクセスがあるからだ;

西部邁死去2年、3回忌、あるいは、西部自伝への些細な註
西部邁死去3年;ハーネス(安全帯)とロープをつけて谷筋での繋留死:何處かに行かないように
西部邁の命日に、過去記事の訂正と初めて西部邁を知った日

なお、同じ村の出身であり幼馴染であった保坂正康の西部回想本が3月に刊行されるとのこと;

■ 今週の「それって、あなたの感想ですよね」:「門閥制度は親の敵:は私的体験に基づく見解

https://twitter.com/ikagenki/status/1612007584114040833

■ 今週返した本

三島由紀夫関連が2冊。

▼熊野純彦、『三島由紀夫』。清水書院のセンチュリーブックス、人と思想シリーズの1巻。哲学の熊野純彦が書く「三島由紀夫」なので癖がありそうであるが、学生向けの本シリーズとしての本。同シリーズは1966年(昭和41年)[1]に始まった。当初は小牧治(wikipedia)が編集者であったらしい。小牧治は同シリーズ第20巻目の『マルクス』の著者で「わたしは、あのとき、女子学生とともに、旗をふって、出陣学徒を見送った」と告白している。この時(1943年、昭和18年)、18歳の三島由紀夫には召集令状が来ていなかった。三島はこの時、学習院高等科、翌年10月東大へ入学。さらに翌年(昭和20年)、三島は徴兵を免れることは有名。小牧治が『マルクス』を刊行した1966年(昭和41年)、三島事件の4年前だ。三島事件の時、小牧は57歳。まさか、後世に自分が立ち上げた(らしい)このシリーズに『三島由紀夫』が登場するとは思わなかったであろう。

[1] 巻末の清水権六による「清水書院の”センチュリーブックス”発刊のことば」は、シリーズ開始直後は1966年であるが、現在では1967年となっている。

 熊野純彦、『三島由紀夫』は、三島の自伝『私の遍歴時代』を縦軸に、代表的長編小説についての解説が続く。多くの三島論と三島に関する情報に言及している。政治思想への言及は(少)ない。本シリーズの趣向である(?)入門書としては、どうなのだろうか?三島の作品を読まないでこの本を読むと、ある意味、わかってしまって、三島を理解したつもりになってしまうかもしれない。あるていど、三島の代表的長編小説を読んでからこの本を読まないと、ネタバレもあり、もったいない。なので、おいらは、自分が読んだ作品についての項を中心に読んだ。気づかされた点は多いが、三島の鍵文句に「待った(が出来しなかった)」があると知る。中条省平の指摘として複数の三島作品に夕焼けの情景が書かれている。

夕焼けの海のイマージュは、(中略)『金閣寺』の主人公の少年がとおい過去に目にした「比びない壮麗な夕焼け夕焼け」ととなり合い、響きあっているわけである。それは奇跡の訪れを待ち、だが奇跡は訪れない、という切実な感覚の表彰なのである。決して到来することのない奇跡を、みずから引き寄せようとした行為こそが、金閣寺への放火なのであった(中条:「反=近代文学史」)。

そういえば、「われわれは四年待った。最後の一年は熱烈に待った。もう待てぬ。自ら冒涜する者を待つわけには行かぬ。」と昭和45年11月25日の「激」(全文)で言っていたと思い出す。

なお、哲学の熊野純彦として、三島のハイデガー理解についての言及がある。「案外精確」と。

▼内海健、『金閣を焼かねばならぬ』は精神科医として、実際の金閣放火(実行犯:林養賢)と三島の小説の相違を明らかにしている。林養賢は「精神分裂病」、つまり、統合失調症であったことを示し、放火はこの症状の往路で生じたという。さらに、その動機の探求については、動機という考えが妥当ではないことを指摘する、すなわち、動機とは因果律が支配する世界を前提とした思考であり、自由な世界では動機が無くて行動がなされるという考え。カントの定言命令的に「金閣を焼かねばならぬ」となったらしい。この本では林養賢の生い立ちから、履歴、精神状態推定まで詳細に書いてある。さらに、同様に、三島も分析されている。三島の性格を論じ、「離隔」という言葉で三島と世界との独特の関係を論ずる。その三島と世界の媒体が言葉だ。

ハイデガー関連が2冊。

▼ マルクス・ガブリエル、中島隆博、『全体主義の克服』

新実存論(wiki)とされるドイツの哲学者マルクス・ガブリエル(wiki)とチャイナ"哲学"者の(千葉雅也の指導教官だったらしい)中島隆博(wiki)との対談。出版社は、【東西哲学界の雄が、全体主義から世界を救い出す!】と唄っている。"「新実在論」は、全体主義の礎を築いたドイツ哲学を克服する"ということらしいので、ナチだったハイデガーはもちろんカントまでが、的にかかる。ハイデガーの「黒ノート」、反ユダヤ主義に関してのコメント;

 これ(ハイデガーは『存在と時間』のフッサールへの献辞をのちの版[ナチス時代]で削除したこと)は非常に恐ろしいことです。 フッサールがユダヤ人であるというだけで10ハイデガーはフッサールを攻撃しているのですからまる彼は残忍な反ユダヤ主義者だったと私は言いたいと思います。ハイデガーは 気分としてユダヤ人嫌いだったというレベルに止まりません。 彼は筋金入りの反ユダヤ主義信者でした。
 「我々はユダヤ人を殲滅すべきだ」とハイデガーが書き残したわけではありません。そういう文言は「黒ノート」にもありません。 (中略)
 これもよく知られた話ですが、石と動物と人間の区別についてハイデガーが書いていますよね(『形而上学の根本諸概念』)。石には世界がなく、動物は世界という点で貧しく、人間は世界を創造する動物である。 それは無生物の自然、動物、人間を区別するものです。
 そして「黒ノート」では、彼はユダヤ人のことを「世界がない」と呼んでいます。つまり、それは世界という点で貧しいのですらなく、ユダヤ人は石だと言ってるということです。 ハイデガーにとってユダヤ人は虫ですらなく、石のように物質的な自然なのです。

そして、カントへのコメント;

 その上、黒人は道徳的であることもできないとまで考えます。したがって、黒人のためにできる最善のことは、彼らを白人のために働かせることであり、それは、黒人を文明化する助けになる。黒人を奴隷にして、目的のための手段として利用しても問題ないとカントは考えていたのです。

やっと最近、カント=人種差別主義者との認識が始まったらしい。

人種論

カントは現代の国際的な自由主義の発展に多大な貢献をしたことでも知られているが、他方で近年は、カントの人種理論(人種学)には白人至上主義などの問題点を指摘されており、科学的人種主義の父祖の一人とみなされている。wikipedia

Google (Immanuel Kant  racist)

▼ 轟孝夫、『ハイデガーの超政治』


フライブルグ大学学長としてのハイデガー

上記マルクス・ガブリエルはハイデガー哲学を「いかがわしいもの」と考え、もう読むなと云っているのに対し、そうではない立場からの本;轟孝夫、『ハイデガーの超政治』。

ハイデガー哲学の最重要動機は「存在の問い」であり、それには政治性がある。「ハイデガーの存在の思索が同時代の政治的現象や事件に対する何らかの態度決定をはらんでいる」。ハイデガーは定見ある政治性でナチ政権にフライブルグ大学学長として参画し、その定見でナチ政権から離れ、離れた後もその定見でナチを批判した、というのが轟の見解。従って、その定見:存在の問いの政治性を正確に理解することが重要。

近代批判の類型とハイデガーの態度

ハイデガーは近代批判を目的としたが、同じく近代批判を目指したナチスは「近代批判批判の罠」に陥り、むしろ近代的になっていくという話と、ハイデガーはそれを自覚していたと。

 二〇世紀には実にさまざまなタイプの近代文明に対する批判が現れてきた。ナチズムもそのひとつであるし、また日本でも第二次世界大戦中の「近代の超克」をめぐる知識人の言説をがそうしたものに属するだろう。もちろんそれだけでなく、共産主義運動、民族運動、宗教的原理主義などもつねに近代批判的な要素を含んでいる。このことは今日の環境保護運動にも当てはまる。 しかしそうした対抗運動のは多くの場合、近代性を個人主義、自由主義と同一視するため、それらが目指す近代性の克服は公共の利益のために個人の自由を制限するといったものになりがちである。そしてその実現のために、往々にして暴力の使用が肯定され、戦争やテロの惨禍がもたらされることもあった。
 ハイデガーももちろん、自由主義を金科玉条とするようなタイプではまったくなかった。それゆえ彼の近代批判も容易に上述の対抗運動の一種と見なされてしまう。しかし実際のところ、彼は今見たような対抗運動には総じて批判的だった。彼は近代性の本質を西洋形而上学の歴史の帰結としての「主体性の形而上学」として捉えるべきだと考えていた。これに対して、在来の近代批判は近代性の本質を自由主義のうちに求めるため、単純に自由主義の克服だと見なしている。しかしハイデガーからすればそのとき、近代性の真の根拠としての主体性の形而上学は依然として手づかずのままにとどまっている。にもかかわらず、対抗運動の当事者は近代性が克服されたと捉えているため、結果的に近代性が無自覚に温存されてしまうことになる。このように対抗運動が近代批判を唱えつつ、近代性を助長するといった事態をハイデガーはつねに問題視していた。 

ハイデガーの「反ユダヤ主義」

ハイデガーの「反ユダヤ主義」は人種主義的な反ユダヤ主義ではない。

 ハイデガーは一九三〇年代後半になると、ナチズムを主体性の形而上学の帰結として捉えるようになる。彼は主体性の本質を「作為性 Machenschaft」と規定するが、こうした作為性の起源のひとつをユダヤーキリスト教の創造説のうちに見て取っている。つまり世界を制作されたものと見なす創造説によって、根源的な自然としてのピュシスが完全に埋没させられて、作為性が西洋形而上学の存在了解において主導的になったと言うのである。

 西洋形而上学、すなわちその完成体としての主体性の形而上学を、今述べたような意味でユダヤ的な起源を持つとみなす立場から、ハイデガーはナチズムが主体性の形而上学によって規定されていることを、ナチズムはユダヤ人を敵視しているにもかかわらず、それ自身がユダヤ的だと言って皮肉るのである。つまり彼のユダヤ的なものをめぐる覚書は、人種主義に基づいたナチスの反ユダヤ主義がニヒリズムの真の起源に対する洞察を欠いており、その結果、 それ自身がニヒリズムを助長するものとなっている点をことさらに際立たせようとする意図によって貫かれている。 (p160)

ナチスへの苦言

『血と大地』を唱えながら、つい最近まで誰もが予想できなかったぐらいの規模で都市化と農家の破壊を押しす勧めていく。

「世界ユダタ人組織」とYM体制

イギリスが実際のところ、西洋的な姿勢をもたず、またもちえないことを認識するのがどうしてこれほど遅れているのだろうか。なぜならイギリスが近代的世界の設立を始めたのが、近代はその本質に即して、地球上に存在するものすべての作為性の解放へと向けられていたことをわれわれが捉えるのはようやくこれからだからである。帝国主義勢力の「正当な権利」の分配という意味でイギリスと折り合うという考え方は、イギリスが現在、アメリカニズムやボルシェヴィズムの内部で、すなわち同時にまた世界ユダヤ人組織の内部で最後まで遂行している歴史的過程の本質を言い当てるものではない。(GA96, 243)


<イギリスが現在、アメリカニズムやボルシェヴィズムの内部で・・>の記念写真

 ここではイギリスが「地球上に存在するもの全ての作成の買い方」を目標とする近代世界の建設を始め、現在においてもなおこの「歴史的過程」を推し進めていることが指摘されている。したがってイギリスが今日、アメリカニズムやボルシェヴィズムと協調して遂行している戦争の歴史的意義は、帝国主義的な世界の分割という点にはなく、作為性の解放にあるというのである。 ここでアメリカニズムやボルシェヴィズムとともに世界ユダヤ人組織が言及されているのは、それらがナチス的に捉えれば、世界世界ユダヤ人組織によって支配されていることを念頭に置いたものであろう。 

これを解釈すると;

すなわちイギリスの推進している歴史的過程が全地球における作為性の拡散を本質とするとき、そこで世界ユダヤ人組織が何らかの役割を果たしているとすれば、それは結局、そうした作為性を自明とする人間類型の拡散を促進することでしかない。 

▼ ハイデガー哲学は反ユダヤ主義か? 轟の反論

 とは言うものの、「省虜XV」の次に引く箇所は、ハイデガーが『シオンの賢者の議定書』の陰謀論を信じていたことの十分な証拠ではないだろうか。 

世界ユダヤ人組織はドイツから放逐された移住者によってそそのかされているが、それは至るところでとらえどころがなく、その権力伸長にもかかわらず、どこにおいても戦争行為に関与することは必要とせず、それに対しわれわれはただ、自分たちの民族のもっとも優れた者の血を犠牲にすることしか残されていない。(GA96, 262)

 この箇所だけを 取れば、ハイデガーはたしかに世界ユダヤ人組織による世界支配の陰謀を信じていたように見える。しかしこの前後のテクストをよく読めば、ここがハイデガーの考えを表明した箇所ではなく、当時のステレオタイプ的言説のひとつを紹介したものにすぎないことが分かる。

そして、轟は、「多くの論者がこの箇所をハイデガーの反ユダヤ主義の証拠のように見なしているのはただただあきれるほかない」と云っている。ペーター・トラヴニー(ドイツ国 ヴッパータール教授)批判らしい。

* この轟の本の一部は過去に学会で発表されたようで、その内容へコメントがあった。ネットにpdfがあった;

品川哲彦 「超政治」の政治責任 - 関西大学学術リポジトリ

返答  轟  品川哲彦「『超政治』の政治責任」へのコメント

◆この本についての解説動画(ネオ高等遊民:哲学マスター様、 哲学と政治。ハイデガーは無罪か有罪か。)

▼ 四方田犬彦、『人、中年に至る』

 ジョージ・スタイナーの「近さの構造」という言葉について言及。この「近さ」とはアウシュビッツにおける毒ガス室とナチス職員の宿舎:そこではブラームスやモーツアルトの音楽が演奏されるの近さである。「もし彼らが藝術を弁えない野蛮人であった」ら...という。でも、これは、カマトトではないか! 上記のカントのように、応用哲学=倫理学=道徳として、「人格を「『目的』として尊重しあう」と云ったとされるが、奴隷制を容認していた。<毛唐>文明の典型的欺瞞だ。こういう欺瞞に生える「文明」であるので、ガス室と「藝術」の近さなぞ、朝飯前だろう。何、カマトトぶってんだ。


新しい街でもぶどう記録;第426週

2023年01月14日 18時00分00秒 | 草花野菜

▲ 今週のみけちゃん
▼ 新しい街でもぶどう記録;第426週

■ 今週の武相境斜面

■ 今週の月

■ 今週の陽射し

小春日和。十一月から十二月にかけての,よくはれた春のような感じがする,あたたかいひより(「三省堂国語辞書」第7版 (平成26年 三省堂))。

■ 今週の笑って許される人たち@共に東大

  
忙しくて     ぎりぎりで

① JAXA、古川聡飛行士をデータ捏造の監督責任で戒告処分…今年のISS滞在は変更なし(google

不正を行った理由について、研究者2人は「忙しくて研究に専念できなかった」と説明しているという。古川氏は実験全体の実施責任者だった。ソース

「現場はぎりぎりのところで一生懸命がんばっている」けど、紛失しちゃった!

■ 今週の来日、あるいは、様々なるインド軍の新形態

https://twitter.com/Defence_Nation/status/1612758650417725441

上の4枚の画像のうち、右上の飛行機は軍用長距離輸送機(米国ボーイング社製)、他はロシアのスホーイ社のSu-30 MKI戦闘機。つまり、米露製航空機ハイブリッド飛行軍団。

ちなみに、この米国製のC-17を日本は保有していない。

航空自衛隊は1月10日、インド空軍のSu-30MKI戦闘機などが茨城県の百里基地に到着したと発表した。日印戦闘機共同訓練「ヴィーア・ガーディアン23」を実施する。空自とインド空軍が共同訓練を実施するのは初めてで、ロシア製のSu-30MKIも日本初飛来となった。

 インド空軍機は10日から27日まで百里基地に展開。訓練は百里基地と周辺空域、入間基地で1月16日から26日まで実施し、空自からは百里基地の第7航空団所属のF-2戦闘機4機、小松の航空戦術教導団所属F-15戦闘機4機、入間の中部航空警戒管制団が参加する。

 インド空軍からは約150人が参加。西部航空コマンド第220飛行隊のSu-30MKIが4機展開し、同第81飛行隊のC-17輸送機2機が展開・撤収時の輸送に携わる。また、Su-30MKIの空中給油のため、中央航空コマンド第78飛行隊のIl-78空中給油機1機も参加する。Su-30MKIとIl-78がロシア製、C-17が米国製と、インド空軍機は東西混成となっている。 ( インド空軍Su-30MKI、百里基地に到着 日本初飛来、空自と共同訓練

Four Su-30 MKI (wiki), two C-17 (wiki), and one IL-78 (wiki) aircraft

▼ 本国からタイとフィリピンと「琉球」を経由して百里基地(茨城)に着いたインド空軍


IAF fighter jets land at Thai naval base en route Japan

沖縄の那覇空港を経由して来たとTwitterの情報からわかった。ただし、Googleニュース検索によると大手メディアは那覇空港のインド空軍についての報道の存在を、おいらは、確認できなかった。

▼ 日本人にとっての様々なるインド軍、あるいは、日英露の影

  
インド国民軍@シンガポール     インド第1パンジャブ連隊@鳥取 今回@百里基地

■ 今週の「H」の解明

十二月五日は美しく晴れていた。
H基地で、私は飛行場に居並んだF104超音速ジェット戦闘機群の銀いろにかがやく姿を見る。
三島由紀夫、『F104』

このH基地は百里基地に違いない。wikiでも確認できる。1967年12月5日には、航空自衛隊百里基地からF-104戦闘機に試乗した

▼ この機体

https://twitter.com/malta_shozo/status/905356253353746432

■ 今週の「認定」成分30%商品

ヒルス ハーモニアス ホンジュラス ウーマンズコーヒーブレンド 170g (Amazon

「フルーティーな酸味と甘みのある味わいのブレンド」と広告にある。そんなに酸味はないと思う。おいらは、やや苦みありと感じたが。酸味ー苦味Xライトーストロング マップでの本商品の位置づけは下記通り;

認証農園産コーヒーが30%とある。残りの70%が気になる。

■ 今週知った「伝説」;仙台五橋「塩川書店」

 
仙台 田町通り 2013年の愚記事より。「本」の看板が見える。

この通りは「田町通り」(仙台市 web site)という名であることを今知った。2013年に旅行の際にこの地に行った理由は、若い頃、昭和末期に何度か散歩したからだ。その昭和末からこの書店はあった。


2013年

2013年にはこの書店の隣には上記のような木造の店があった。昭和末期にはこの通りにも、他の街、例えば木町通りには、このような木造の建物が残っていた。この書店には散歩時は立ち寄った。昭和末期からこのビルだった。

さて、今週、昔散歩したこの通りのことを思い出し、ネット検索すると、この書店は塩川書店五橋店といい、伝説の書店であることがわかった。伝説とは、201年3月11日の地震の後、物流混乱期に客が他県で購入した週刊少年ジャンプを寄贈し、子供たちが回し読みした伝説

塩川書店五橋店(青葉区)の塩川祐一さん(48)は、3月11日の震災から3日後、在庫だけで店を再開した。近所の人に「テレビは悲惨な映像ばかり。子どもに漫画や絵本を見せたい。いつ開くの」と尋ねられたのがきっかけだった。
 店は新刊漫画を求める客が後を絶たなかった。特に「ワンピース」などを連載する少年ジャンプ目当ての人が多かった。
 「伝説のジャンプ」が生まれたのは21日。来店した男性が「ほかの人にも読ませてあげて」と、山形市で買った19日発売の最新号を置いていった。「ジャンプ読めます」との貼り紙を出すと、小中学生らが次々に訪れた。河北新報 (伝説の「ジャンプ」 仙台の書店主が集英社に譲渡 【東北地方太平洋沖地震】


現在の 塩川書店ペグマン Google Map 右の木造の店は消えている。

前世紀から続くこの本屋さん。高山書店、アイエ書店などの仙台の有名本屋の店舗が21世紀になって消えていく中、今でも残っているのだ。今、おいらの手許には1冊づつ、それらの書店のカバーをつけた本がある。あの駅前にあったアイエ書店は2005年に閉店と知る。会社は存続とのこと。

 

■ 今週知った3年前の訃報

東京都立川市出身のDJ、パーカッショニスト、ポーキー(POKI、1955年生まれ、本名 砂川純)が、2020年3月に死んでいたと知る(wiki)。64歳。

おいらが仙台にいた頃ラジオ番組もやっていた。街やコンサート会場で2回ほど見たことがある。目立ってた。ラジオ番組でバンド・スターリンの曲を流し、歌詞に「トロツキスト (うんぬんかんぬん)」とあり、ポーキーが、リスナーに、「おまえたちは、トロツキストなんて知らなくていいんだぜ」といってことを覚えている。なお、1990年頃には、ポーキーは、"辻仁成は「インチキ」だ"と云っていた、とおいらは記憶している。

「晩年」は立川で店をやっていたようだ。おいらは、立川参りを2016年から始めた。昭和記念公園に入り、北側に「砂川口」というを見つけて、あーこれが砂川かあと思った。2019年に、砂川口から出た


新しい街でもぶどう記録;第425週

2023年01月07日 18時00分00秒 | 草花野菜

▲ 今週のみけちゃん
▼ 新しい街でもぶどう記録;第425週

■ 今週の武相境斜面

 

■ 今週の草木花実

■ 今週の巻物


伊達巻

■ 今週の親子丼

■ 今週の豆

■ 今週の時価

灯油1Lが115円

■ 今週の告白;

チャールズ英国王の次男ヘンリー王子が近刊書の中で、アフガニスタンでの軍務中に計25人を殺害したと告白していることが分かった。内容を事前入手した英メディアが6日までに伝えた。当時の反政府武装勢力タリバンとの戦闘に従事した王子が、自ら殺害したとする戦闘員らを「チェスの駒」に例え、物議を醸している。殺害した戦闘員を「チェスの駒」 ヘンリー英王子の例え物議

■ 今週の再稼働

■ 今週の「伝説」との邂逅

STVラジオの深夜放送「アタックヤング(wiki)」、臼井佳子(wiki)の最終回 (昭和56年(1981年)3月25日)の録音がYouTubeに挙がっていた。なお、こっちのYouTube(2:13)で松山千春と木村洋二が臼井佳子は「伝説」の女子アナと云っている。

「札予備ドロン」(よく投稿していたリスナーのペンネーム)とか43年ぶりに、思い出した。逆にいうと、この43年間一度も思い出したことがなかったことを、思い出した。