いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

2009年回顧

2009年12月31日 09時22分39秒 | プロフィール
 
老舗と新参の便所比較(今年行ったスペインにて)
左、プラド美術館(マドリー); 右、グッゲンハイム美術館(ビルバオ)

■2009年回顧  ねたんで、ひがんで、嗤って、転げまわった一年。苔が生えないことだけが幸いです。

【5月】
スペインに遊びに行った。 初めての海外観光旅行

【6月】
・9日、愚記事、床次正精 福山城にアクセス多し。のち、この夜(2009/6/9)、"開運 なんでも鑑定団"に床次正精作品が出たらしいと推測がつく。こういう誰も言及していない些細なネタがある日突然陽の目をみるというのがうれしい。それにしても、がんばってるな、吉田真由子。在職期間があきひと天皇陛下に次ぐくらいの立派さだ。苔が生すまでがんばって、人間国宝を目指しているんだろうかと思った。

・仙台に州之内コレクション展を見に行く。

3年ぶりに札幌に行く。

【8月】
自民党壊滅。 下種なおいらはざまぁみろ!と思った。この日以来、おいらは毎晩豚のようにぐっすり眠ることができるようになり、体が快適だ。街頭で落ち武者を見かけたら罵倒でもしてやろうと思っていたのに、全く姿を見ない。冬となった今、民主政権がまぬけなのに自民党の存在感が全くないのに驚く。つまり、自民だろうと民主だろうとおクニのふぁんだめんたるが重篤なので、小手先のことではどうしょうもない。自民に戻したからといって悪化こそすれ、改善はしないだろうという国民の感覚なのだろう。

・生まれて2番目に高額の買い物をする。スライド書棚(3重式)、33万円。ちなみに1番目は20年あまり前に買った車。本棚の収納力は冊数で示すより、「長さ」であらわした方が有益。これは22メートル。写真ではまだ棚を入れてない。6(-7)段入る。1段の高さは約25センチメートル。普通の単行本が入るサイズ。22メートルなので、本の厚さを1冊2センチとすると、1100冊、1冊4センチとすると550冊収納できる。
  

・読んだ。書いた、『羊をめぐる冒険』。今回これら一連の読みで気付いたことは、読む度に新発見があること。さらには、引用のために書き写す最中で新発見に気付いたこと。このことは本当に読むには、写経しないといけないのか!と驚く。"読むこと"に際限はないことを改めて気付いた。"読むことのアリャマー"。

【9月】
おいらのお花畑が踏みにじられる

【10月】
レヴィ・ストロース死去。
愚ブログのこの与太記事"冷たい社会と熱い社会"は検索経由で来訪者がコンスタントにある。レヴィ・ストロースの悲惨さは、その業績が、構造主義ではなく、陳腐な素人向けの"構図"主義に堕してしまったことだろう。「中心と周辺」とか。構造をはっきりさせるには抽象的数学の"開発"が必要だったのに、あのあきれるほど発展し、開発された新古典派経済学の"つまらない"数学による形式化に比べて、レヴィ・ストロースの業績の発展が数学的、つまりは理論的、形式的に発展しなかったのは、これがわかっていながら、なぜかしら遂行しなかった。西部邁のせいである(?)。そして、なにより、構造主義の新しい数学・人工言語で形式化をしないで、旅の先を急ぐポスト構造主義が一番、レヴィ・ストロースを悲惨にしたのではないだろうか。(以上、このパラグラフは与太です、すみません)

【11月】
・科学者がお花畑を踏みにじられて、発狂。 この(一部?大部?)科学者や研究者の発狂には ぎょっ とした。仕分け人の責任者が「野依氏は非科学的」と指摘したのは当然。ところで、ポスドクなど任期付き"若手"研究員ら数万人が発狂するのは理解できる。なぜなら、地獄行きの列車に乗っているのだから。その列車から抜け出せるのは高々20-30%程度だろう。しかしながら、その博士多産多死システムと今回の事業仕分けとは関係ない。事実、事業仕分けの提言にもかかわらず予算が減らなかったが、ポスドクら数万人が地獄行き列車に乗って、30歳後半無職という破局に向かっていることは解決されない。この博士多産多死システムは15年以上前の自民党政権によって大学院重点化という政策ではじまった。立案者の固有名は今いち不詳。一方、実行時代のひとりが有馬郎人文部大臣、(地獄への道はよき意図をもって舗装されている)。民主党や今回の政権交代は関係ない。むしろ、血のかよった生身の人間のヤンバダム問題である。恐ろしい話ではある。政権交代で改めて明らかになったこと。戦略なき無駄なダム!戦略なき無駄な地方空港!戦略なき無駄な博士・数万人!すべて自民党政権の責任である。自民党こそ何ら戦略性などなく、いきあたりばったりでやったのに、今回の事業仕分けで発狂した科学者たち(一部?)は「民主党には科学技術戦略がない、ビジョンが見えない」とかいう。ただ、カネさえもらってれば何でもいいくせに(事実、自民党の戦略なき政策には発狂していなかった・カネが出てたから)、何殊勝ぶってのかね。事実、今回予算がついたら、文句言わなくなった。ヤンバダム中止で工事がなくなって騒いだ土建屋と同じメンタリティだね、科学者様たち。これで、国民の 「"やっぱり、バカにしてもいい"リスト」 に自民党、官僚、土建屋に続いて科学者集団は晴れて登録された。これまで躊躇していたけれども、タガがはずれた。あの野依氏や益川氏を見て、庶民は「やっぱ、アタマおかしい」と心中含むところができた。これはあの自民大敗へと結果した静かな庶民の認識革命なのだ。もちろん、科学者は単細胞なので、気付かないし、絶対認めない。
 それにしてもブログはあまたあれど、30歳後半無職博士の職探しブログってのはないよね。30歳後半無職博士が、いかに社会(private section/ tax-payer section)から用がないかという恐ろしい地獄絵が報告されてない。そして、学生が、知ってか知らずか、その地獄行き列車に乗り続けている。"生活保護"という表現はひどいが、学振の採用数を減らすというのは一種の親心だと思う。なぜなら、地獄行き列車の座席数を減らすからだ。

【仕事】
・特許2つ出した
・出張
南の島(7月)
瀬戸内地域(すなわち、おいらががきんちょの頃当時興隆真っ盛りとしてガッコで習った"瀬戸内海工業地帯"、だけど現在さびつき真っ盛りのお仕事場)(2月、3月、4月4月-2、
・プロジェクトの状況は良くない。不況のせいにしてごまかしている。
依然、おいらの不安定度、大。



5月、ビルバオで

2009年12月29日 18時05分15秒 | 欧州紀行、事情
(画像はクリックで拡大)
― 僕はサボテン飼育が趣味でいろんなサボテンを集めていますけど、採集された現地で自生するサボテンってご当地では雑草扱いです。―*1

今年5月、スペインのビルバオに行った。朝、郊外から地下鉄で市街に行く。駅を出ると古めかしい典型的ヨーローッパの街並み。でも、散歩をはじめると窓々に古い石の建物には似つかわしくないシュールな、でも見覚えのある絵柄が遠くから視界に入ってきた。村上隆じゃん。果たして、午後行くことを予定したグッゲンハイム美術館で村上隆の展示会が開催されていたのだった。

    

これまでは、画像でしか見たことのなかった"My Lonesome CowBoy"や"HIROPON"など実物を見る。 それにしてもこれら超立体フィギュアとスーパーフラット とやらがどういう関係にあるのか知るのが今後の課題ではある。特に急いでいるわけではないが。

【蛇足】柳田御大がブログでそこで,思うのですが日本語では00年代つまりゼロゼロ年代といって通るでしょうか? さらに短くゼロ年代というのが簡単かなとも、おもうのですが。どうでしょうとご発言。御大の周りではゼロ年代! ゼロ年代! ってさわいでる若い衆がいないんだろうな。理系は単細胞だからな。大学教官の幸せは生きのいい、できれば鼻っ柱の強い若い衆から刺激と情報を得ることだと思うのだが。御大は不幸だな。残念!
*1
― 僕はサボテン飼育が趣味でいろんなサボテンを集めていますけど、採集された現地で自生するサボテンってご当地では雑草扱いです。―
村上隆、"インタビュー・アート不在の国のスーパーフラット"、『思想地図vol4』


江藤淳、『日本と私』

2009年12月27日 10時35分01秒 | 日本事情


- 今朝の筑波山麓 -

江藤淳コレクション〈2〉エセー (ちくま学芸文庫)(Amazon)に収録された「日本と私」を読む。この「日本と私」は1967年の1月から3月まで「朝日ジャーナル」に連載されたもの。その後、江藤自身の決断で、お蔵入りしていた。その「日本と私」が2001年出版の上記"江藤淳コレクション〈2〉エセー (ちくま学芸文庫)"に入っているとのこと。編者は福田和也。これらのことを猫猫センセのブログ(2009-12-17 江藤淳の暗さおよび、2009-12-18 江藤淳・続き)で知る。知らなかった。あわてて、購う。江藤淳が、東京オリンピック開催直前の東京に、プリンストンの2年の滞在からから帰国した際の記録。

なお、猫猫センセは、江藤淳が夫人を殴ったことが書いてある「日本と私」を読んだ。これは1967年に三カ月『朝日ジャーナル』に連載され、中断したもので、単行本に収められていないのみか、自筆年譜からも抹消されていたと書いているが(2009-12-17 江藤淳の暗さ)、河出書房新社の「新編 江藤淳文学集成 5 思索・随想集」の著者自筆による年譜において、昭和41年(一九六六)三十三歳の項で"十二月、「朝日ジャーナル」に『日本と私』の連載を開始す。十二回を以て一旦擱筆す"とちゃんと書いてある。したがって、猫猫センセが書いている"自筆年譜からも抹消されていた"というのは間違いである。

■<細江英公>
『日本と私』の冒頭に江藤のポートレートの話が出てくる。摩天楼を背景に江藤を撮影したもの。今回『日本と私』を読んで細江英公が撮影したものと知る。講談社の"江藤淳著作集4"(昭和48年、1973年出版)に載っているこの写真を、がきんちょの頃から目にしてはいたが、その頃古本屋で見た三島由紀夫の写真集『薔薇刑』の細江英公とはきづかなかった。そして何より、1933年生まれの氏は御存命で、活躍中。ブログもある、と知る。

■<"受難する私"を演出する江藤>あるいは、<江藤淳の暗さ>
『日本と私』の基調はこういったものだ;

・ 眼に見えるもの、金で買えるものものが大がかりに建設され、眼に見えぬもの、金では買えないものが渇き、喪われて行く時代。私はいつのまにかそういう時代に突入していた日本に帰って来たのだ。オリンピックの背後で大きな力が働き、人々の心の中のお濠を渇らせ、そこに浮かべられていたボートを干割れさせる時代。「故郷」やそれとつながりを想うことを「感傷的」と考えるほど人間が衰弱してしまった時代。しかし、不思議なことにひとりひとりは衰弱している人間が、集ってさらにおびただしい力を発揮して自己破壊に狂奔している時代。これはどんな思想の力というよりも、日本人の心理に明治以来植えつけられた「近代化」という不思議な情熱の結果であるように私には見えた。それはいいかえれば、外国人に笑われたくない一心から、われとわが身を破壊し、自分ではない者になろうとする情熱だ。だが、そういう場所に「帰ってきた」者はどうしたらいいのだろう?

・ 海老茶色の古ぼけたガウンの裾をなびかせて、ノロノロと便所に出かけ、またノロノロとすりあわせながら帰って来た祖父は、どうもそういう思想
(周囲に自分を主張し、自分の輪郭をはっきりさせること;いか@註)を生きていたような気がする。そして私がこの祖父に似ているとすれば、あらゆることにかかわらず、私はこの日本の社会での「適者」になれそうもないことになる。三十をすぎてはじめてこのことに気がつくとは迂闊な話だ。私はまアそれでもかまわない。しかし私の家族はどうだろう?もし家長が「適者」でないことになれば、彼らには安息はないということになるではないか。

 ―ルサンチマンの噴出を演出―
 プリンストンから東京へ帰って来たあとを記した随筆なのではあるが、過去にさかのぼり、母親が死んだ時のこと、高校卒業時に慶応大学文学部に進学することをばかにされたこと、小学校で小便を漏らしたこと、大学時代に結核が再発したことなどなど、いやというほど自分の不幸を、帰国後の定住先が定まらない不遇の中で、江藤は思いだす。でも、ルサンチマンが噴出するとはいえず、あたかも不遇を記憶から召喚するかのようである。ここで、ルサンチマンとは字義である、再-感受(re-sentiment)に他ならない。

 ―まどろみを踏みにじること、暴力、あるいは気狂い―
 江藤は父親と確執がある、という設定になっている。具体的には江藤の父は夢にまどろむ人間を許せないようである;

 ・「宿題?宿題なら仕方ないが、心にもない気障な文句を書いてはったりするのはやめなさい。だいたいお前が『敬天愛人』というがらだと思うか」
といった。その言葉はどこか私の柔らかい部分に突きささった。


そして、このふみにじりという暴力は連鎖する、しかも抑圧の委譲だ。まどろみが許せない;

・ しかしあるとき便所に起きたついでにのぞくと、弟が義母のふとんのなかにはいってなにか食べているのが見える。
「いつまでもそんなことをしていると大人になれないぞ」
と私がいった。弟が意外にもなにか口答えをし、私がむきになっていいかえした。(中略)
「あなたも小さい子をつかまえてなんです」
と義母がたしなめると、私はもう自分を抑えきれない。私は弟をふとんからひきずり出し殴り、弟が可愛がっていた猫を戸外にほうり出し、自分でも意味のわからないことをわめいている。「気狂い、気狂い!」と弟が泣き叫ぶのがきこえるが、その小さなまるい身体は、まだ私の手にふれている。これが弟か、これがおれの弟か、と思いながら私は息をはずませて殴りつづける。


 ―庶民・職人、特に親方の前では木偶の坊たるインテリ江藤―

 この『日本と私』に限らず超個人主義者ですぐに怒気をみなぎらせいきり立つ江藤は、なぜかしら、職人、特に親方に弱い。帰国後転々とするなかで市川の取り壊された母屋の横の離れに住んでいる時には、地下足袋を履いて働く頭(かしら)とその奥さんにプライバシーを侵犯され、厚かましい温情を押しつけられ、しまいには土地の押し売りまでされるのだが、江藤淳らしくなく、木偶の坊のように甘受している。そして、作り話のようで楽しいのが、この江藤が、つまりは今日現在gooleで江藤淳を引くと何番目かに「江藤淳 保守」と出る江藤淳が、日の丸を押し売りされるのである。そんなの大きなお世話だろうと拒否するわけでもなく、日本国民としての宿命を受けいることであると合理化し、これまた木偶の坊のようにいいなりになり、日の丸を購う。

なんだろう?頭(かしら)の江藤への影響力・神通力って。そういえば、江藤淳は本名を江頭淳夫(えがしらあつお)といったっけ。抜頭(ばっとう)した、頭(かしら)の亡霊なんだべか?こんなところにも晩年に西南戦争、西郷隆盛を書く伏線を埋めんたんだ。というのも、西郷隆盛こそ国家創建の頭(かしら)であって、その非理性的、つまりは狂気、すなわち勝ち目のない戦さによって自分たちを虎に自供養する僧侶かのごとくの歴史の狡知となることによって、明治国家の完成(百姓軍隊の結成)を成し遂げたからだ。西郷を屠る「抜刀隊」は治者に不可欠の手段である。江藤はあつかましい土人の"頭(かしら)"の体験を経て、抜頭=抜刀(西郷・国父殺しの意味)=治者の重要性に経験的に悟ったにちがいない。たぶん、江藤は、市川の家を去るときにはお庭にそっと"藤"の花の苗を仕込んだのだろう。恐るべし、江藤淳。

それにしても、読んでてふきだしちゃったのが、市川の江藤が借りている家屋が突然壊されることになった時の説明記述で、無料で貸してもらっているのだというところ。大丈夫か?江藤。家賃も払ってないのに、愚痴を言うのがおかしいゾ。ちゃんと、最初から金払ってしかるべき賃貸しをかりろよ! 深刻な随筆なのか、笑かしたいのか不明。 だから、お蔵入りしたんだろう。

■<実は、帰国後溌剌と仕事をする江藤>あるいは、<江藤淳の明るさ>
しかしながら、実生活は帰国後、順調であったと傍からは見える。すなわち、「アメリカと私」の連載がすぐに朝日ジャーナルで始まる。(そして、この「日本と私」はこの「アメリカと私」を書いている舞台裏、私生活をこれまた朝日ジャーナルに上述の期間連載した。ただし、未完とのこと。)一方、雑誌「中央公論」(『中央公論』1964年10月号)における特集・戦後日本を創った代表論文の選定を、桑原武夫、猪木正道、永井道雄などの大御所らに交じり、たぶん最年少の選者として、行っている。
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●そして、江藤淳マニアに贈る、最近公知になった、江藤淳目撃情報;

今年出版された本、今野浩、『すべて僕に任せてください―東工大モーレツ天才助教授の悲劇』にある;

・ 吉田教授と江藤教授が犬猿の仲であることは、はじめから知っていた。これは保守本流同士の確執である。一方、永井(陽之助)教授と江藤教授の折り合いの悪さも半端ではなかった。江藤教授を口説いて連れてきたのは永井教授だが、文学が専門だったはずの江藤教授が領空侵犯して、政治問題に口を出すようになって以来、衝突を繰り返していた。

・ 一方白川は、文系教官集団を「びっくり箱」と呼んでいた。白川にとって、彼らは完全なエイリアンであった。私も赴任当初は、文系教授たちの生態を見て驚いたものだ。筑波でも多数の変人たちを見てきたが、理系の変人たちは文系の変人に比べれば遥かに可愛らしかった。 
 しかし文系の変人は一筋縄ではいかない。その代表は論壇のエース江藤淳教授である。そこで1ダース余りの逸話の中から、比較的正常なものを2つ紹介しよう。
 その1.学科主任を引受けるにあたって、吉田教授と"手打ち"をするので同席して欲しいと頼まれて出席したところ、会場の向島の「亀清」なる高級料亭で、6人の教官に1人ずつきれいどころがついた。どんな料理が出てきたのか記憶がないが、忘れられないのは、翌日送られてきた21万円也の領収証の写しである。これを6で割って3万5千円を支払わされた私は、このうち少なくとも2万円は江藤教授が負担すべきと考えた。なぜなら誰も、芸妓をよんでほしいと頼んだおぼえはないからである。
 その2.念願の鎌倉に自宅を構えたあと、市役所の役人の勤務実態に憤慨し、週刊誌でその実態を告発したことがあった。12時に職場を抜け出して、昼食を取る職員が多いのはけしからんというのである。
 東工大の教授はほとんど、朝から晩まで研究室に張り付いているから、ウイークデーの昼間に市役所で見張りをしている暇はない。学内では、他人の勤務実態はともかく、自分はどうなんだという声が多かったが、本人は"人間と社会を観察して、それを文章にするのが文学者の仕事だ"と反論した。



*1
猫を償うに猫をもってせよ のコピペ(あの人間違いをこっそり削るから保存、北海道空襲はなかったも消されてるしね。)
2009-12-17 江藤淳の暗さ

 江藤淳が夫人を殴ったことが書いてある「日本と私」を読んだ。これは1967年に三カ月『朝日ジャーナル』に連載され、中断したもので、単行本に収められていないのみか、自筆年譜からも抹消されていた。2001年にちくま学芸文庫『江藤淳コレクション』2に入ったのだが、180ページとかなりの分量がある。

 先日来、中島ギドー『ウィーン家族』とか仲正昌樹『Nの肖像』とかを読んで来て、やはり江藤が自殺しているということもあって、これがいちばん不気味だった。これは64年の米国からの帰国から、65年の山川方夫の事故死までを描いており、なぜか山川が「Y」という具合に、みなイニシャルで書かれている。

 私は修士論文を書いたころちょっとした江藤淳マニアで、古書店で『夜の紅茶』『こもんせんす』とか、果ては全四巻の『江藤淳対話集成』まで買い込んでいたのだが、これと『三匹の犬たち』とか『一族再会』とか、江藤が身辺や家族のことを書いた随筆は、いずれも独特の暗欝さを持っていて、何ともやりきれず、『夜の紅茶』と『こもんせんす』は売ってしまった。

 死して十年、「江藤淳論」は書かれているがまだ伝記はない。江藤はかなり詳しく自分について語る人だが、その割に隠されていることも多く、「日本と私」が未完とはいえ単行本に入らなかったのもそのせいだろう。妻を痣ができるほど殴り、しかもその間犬が吠えかかったというから、何度も殴ったことになるが、それは山川が交通事故に会う前日なので、2月18日の夜のことだ。だがその原因は書かれていない。昼間は二人でミュージカル映画を観に行き、江藤が大声をあげて笑っていたのに、映画館を出てみると妻は疲れ切った顔をしていたという。

 ここに描かれていることで一番大きいのは、実父との複雑な関係である。江藤は幼くして実母を亡くし、父は再婚して弟妹が生まれている。そのことが複雑さを招いているのだろうが、それを江藤は全的には語らない。父を憎んでいるというのでもなく、疎ましく思っているふうに描かれている。それはまるで、『成熟と喪失』の、子が成長して旅立っていくのを嫌がる母のようなのである。かといって、父が江藤をかわいがったというのでもない。さらに江藤は、義母に対する感情をほとんど描いていないから、余計に分からない。

 江藤の妻は、病弱なのか、『アメリカと私』で、米国到着後いきなり激しい腹痛に襲われるさまが描かれていたが、その後もそういうことがあったようで、帰国後も蕁麻疹や霜焼けに悩んでいる。江藤はずいぶん若くして、同年の妻と結婚しているが、その経緯が描かれたのはまだ読んだことがない。夫人は慶大卒業後、高校教師でもしていたのだったろうか。ここで江藤は、カネがないことを憂えていて、それだけならほかの文学者にもあることだ。だが不思議なのは、夫人が働くという話がまったく出ないことである。江藤はここで、夫人が割烹着を着て働いていることが嬉しいと書いているから、江藤の意向だったのだろうか。

 幼くして実母を亡くし、義母が来たといえば、志賀直哉がいる。しかし志賀と江藤は、何かひどく対極的である。鶴田欣也もそうだが、これは米国留学中に父を失っている。江藤は家に住むための借金の保証人を、嫌々ながら父に頼む。ここで、夫人の父に頼む、という発想はないようだ。夫人の父は関東州長官だった三浦直助である。江藤はこの人のことも書かない。江藤が描く夫人は、まるで孤児のようだ。江藤夫人の母親も戦後49年、夫人が中学生のころ死去して父は後妻を迎えているから、江藤と似た境遇ということになるが、江藤のように後妻に弟妹ができたというのではないようだ。

 江藤は慶大時代、西脇順三郎に嫌われたというが、教師が学生を嫌うといっても、その嫌い方はすさまじく、いったい江藤に何があったのかと思うほどである。

 全体として、江藤は、戦前的な家長として振舞おうとしている。その一方で、近代的な個人であろうともしている。家族が鬱陶しいというのは誰しも感じることだが、やはりこの場合、夫婦ともに実母がいないということが、ある陰惨さの理由であろう。 


毎週、キンカンを撮っています。8

2009年12月26日 09時52分23秒 | 筑波山麓


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おいらは、絶対、高踏派

2009年12月24日 21時02分43秒 | 筑波山麓

よんじゅう過ぎてバイトのおいらの日常はリスクに満ちている。
今日は脚立(きゃたつ)に登り、約3メートルの天井に付いている蛍光灯を取り換えた。

子供の頃にかあちゃんに言われた。人の上に立つ人間になれ!と。
なったよ。切れた蛍光灯をパス。かぁちゃん見てくれ、この姿。


いつもは決して身から放すことのないピペットも、脚立に登る時は、机の上に置く。ただし、絶対視界の外にはずすことはない。なぜなら、脚立から転落して、アタマ打って死ぬとしても、死ぬ寸前にすかさずピペットを握り、死んでもピペットを放しませんでしたというピペドの意地を見せなければならないからだ。




ヨイトマケの唄[ライブアットパシフィコ横浜国立大ホール] 桑田佳祐



今日の看猫 20091222

2009年12月22日 20時09分31秒 | ねこ

くろさん。

■12/23で2001日目


●今夜の"ねちねち";

1. フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』、カルチュラル・スタディーズの、
 カルチュラル・スタディーズの研究者 * リチャード・ホガート (Richard Hoggard)
の綴りが間違っている。

2. 佐々木敦、『ニッポンの思想 (講談社現代新書)』の28ページに(中沢新一は)博士課程を中退しチベットを旅行し、...とある。要出典ではないか? 実際には、中沢はチベットではなくネパールに行った。さらにwikiによると、「博士課程を中退しチベットを旅行し」というのも違うことになる。博士課程在学中にネパールでチベット仏教に"触れた"らしい。もっとも、博士課程を満期・中退したあとチベットに行ってはいないという証拠もない。(なぜなら、チベットへの最短の近道は、中共コネクションを利用することであるからだ、彼は使わなかった/使えなかったのか?)

この期に及んで思想マニアまでもが、いやマニアだからこそか、『チベットのモーツァルト』という標題に引きずられているのを見ると、中沢がバカだますのも朝飯前だったんだろうなぁと思わずにいられない。

      
おバカ@1988     おバカ@2006    さて、本丸。騙したのか?、騙されたのか? それとも、共犯なのか?
今となっては
自分が仮面
だった、とバレ W!

▼参考リンク;
『オウム真理教信者への手紙』 中沢 新一

毎週、キンカンを撮っています。7

2009年12月19日 09時55分51秒 | 筑波山麓


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今週の借景

金権研究でバカ化する日本<<科学者>>

2009年12月17日 19時23分51秒 | 日本事情


今朝の筑波山麓

■ここひと月は例の業務仕分けに端を発する、科学技術と予算の問題。調べはじめて、いろいろ知ることがあったり、びっくりしたり、今だ興奮冷めやらない。

特に、ノーベル賞科学者のおバカ発言にはびっくりした。なぜなら、ノーベル賞科学者ってもっと賢人だと思い込んでいたから。それで、ついつい揶揄、罵倒してしまった。こういうおいらのような身の程知らずのブログは確認していない。でも、上品な人は上品に静かに抗議の意を示すサイトにたどりついた。

正直ちょっと疲れました。なかでも最も悲しい思いをしたのが、ノーベル賞、フィールズ賞受賞者の記者会見です。これは、なかったこととして頭の中から消したい事柄です。皆さん存じ上げ、尊敬している方たちだけに、泣きたくなりました。お一人お一人社会的立場を踏まえて意見をおっしゃるのは当然あってよいことですが・・・
4-3 中村桂子の「ちょっと一言」 2009年12月15日 ちょっと疲れました

■仕分け作業で仕分け人から「タンパク3000プロジェクトの失敗があるのにまだ大規模研究費を要求するのか!?」という意のつっこみが文部科学省になされた。この「タンパク3000プロジェクト」に中村桂子さんは必ずしも高い評価を出しているわけでない(上品に言ってみました)。「タンパク3000プロジェクト」の黒幕・和田昭允大尊師の中村への反論からうかがえる。「中村桂子さんの言われるように歴史が証明するでしょうが、中村さんとは違って私の意見は、必ずしも悪いものになるとは思っていません。

なお、「death valleyの奴らが」発言である、ただ、日本の産業界が頑張ってくれないと、「基礎科学の産業応用」が日本以外の国の成果になることは、十分予想されることです はこの直後に続く。

一方、中村桂子さんはインタビュー急接近で、"地方でNPOを長くやっている仕分け人が「500億もかけてただ反省するだけで済むのですか」と話した言葉を重く受け止めました"と言っている。この500億もかけたプロジェクトとは、578億円を使った「タンパク3000」のことだろう。

■それで、タンパク3000プロジェクトを少しでも知ろうと、"タンパク3000が残したもの ―大島泰郎博士にきく―"(現代化学 2007年5月)をみました。

うーん、どうやら、こういう15年前の西澤潤一の言葉が当てはまる研究らしいとの印象をおいらは持った;

一気に研究費が投入出来るのは、後追い研究だけである。せいぜい銅鉄主義であろう。(西澤潤一、『私のロマンと科学』)

具体的には結晶化できるタンパクをかたっぱしからNMRや高輝度のX線で構造解析する。その解析手法はルーチン化している。当事者の研究者や学生は「三次元構造の学位論文をもってきた学生に質問をしたら、実はデイフラクションの意味もあまりよくわかっていなかったということがありました」と上記記事で大島泰郎は回顧している。

これが、タンパク3000プロジェクトの一端であり、さらには大学院重点化、つまりは博士濫造の実状である。

そして問い質したいことは、こういう研究をしたり、こういうとんまな博士を輩出することが「科学技術立国」とやらであるのか?ということだ。 国営カルチャーセンター立国の間違だろう。

■さらには、中村がゲッと感じたノーベル賞科学者の抗議で一番元気だった利根川進自身が20年前に言っている;

・だけど、大半の学者は、何が本質的に重要で何が重要でないかの見分けがつかないから、どうでもいいことを研究している人たちですよ。彼らはサイエンティストを自称して、サイエンスをメシのタネにしてはいるけど、サイエンスの側から見たら、いてもいなくても関係ない人たちなんですよ。

・科学というのは、一般法則の発見を目的にしているわけでしょう。より一般性のある、より普遍性のある原理や法則を見つけていくことが科学の発展というものでしょう。

・たとえばね、チョウチョウのある生理的メカニズムについてあることがわかったとする。それが別のチョウチョウでどうなっているか調べる。これは世界で誰も手をつけていない研究だ。わたししかやっていないオリジナル研究だ、こういうわけ。

・科学者にとって一番大切なのは、何をやるかです。何をやるかを決めるのは、何を重要と思うかです。若いときに本当に大切なのは、この本当に重要なものを重要と判断できるジャジメント能力を身につけることなんですね。


利根川進、立花隆、『精神と物質』

今の日本政府は 何が本質的に重要で何が重要でないかの見分けがつかないから、どうでもいいことを研究している人たちにあまりにも税金を支出しすぎである。

▼そうなのだ。問題は500億円が無駄になったということばかりでなく、日本の科学技術社会にとっての最悪のダメージは、それ(大尊師が決めた研究費豊富なプロジェクト)に参画したけど「本当に重要なものを重要と判断できるジャジメント能力を身につける」ことなく”これで一本論文になるな”と税金を使って暮らす小心翼々たるちんけな研究者が続出することなのである。

事業仕分けに対し、これで日本は亡びる!と発狂したどうみても無教養な研究者ってこの範疇の方々であろう。 金権研究でバカ化する日本科学者。

例えば、今年リボソームの構造解析でノーベル賞を与えられた研究者は、仮に「タンパク3000」に参加しないか?と言われたらどうであろう。絶対、参加しないだろう。なぜなら、「より一般性のある、より普遍性のある原理や法則を見つけていくことが科学の発展」だと考えているからに違いないからだ。 (いや、「タンパク3000」を乗っ取って、あの資金570億を使って、リボソームのタンパク生成機構という原理的研究でタンパク数千種の構造の成因を明らかにしちゃったりして....)

リボソームの構造解析のために解析装置の開発と実験手法の確立をゼロから始めた研究者と、膨大な資金で購入した装置のボタンをサルのように押してルーチン解析をし、あまつさえ、「実はデイフラクションの意味もあまりよくわかっていない」学生であったのに学位を与えられた研究者の違いである。

●おいらは、おバカの続出に反対である。なぜなら、バカはおいらだけで十分だからだ。


悪党、阿呆そして革命家

2009年12月15日 01時31分40秒 | 日本事情


-都内にて-

■ 極めて政治的問題だね。総体的意味で。
民主・小沢幹事長「宮内庁長官、内閣の方針に文句あるなら辞表出して言え」「体調悪いなら、(中国副主席面会より)優位性低い行事を休んだらいい」

これは、中国、習近平副主席に会う会わない、慣習・ルール問題に留まらず、とても深く、現行憲法、あるいは民主制、ひいては近代日本を問う、さらには将来日本の"宗主国"を米中のどちらにするか?などとてつもない大問題。

おいらは、難しいことはわからないので、いつも通りおいらの気分を分析してみると、この件に関しては小沢一郎への反感はあんまりない。むしろ、賛成・反対は別に、小沢一郎の言い分は筋が通っていると思う。しつこいが、賛成・反対は別に、現行マック憲法や民主制とはこういうものなのだ。何より、あきひとさん自身が"憲法を守り"と言明している。内閣の助言を受けて国事行為をするのが当然ではないか。

むしろ、小沢会見で気付いたのが、小沢の戦略目標・標的は戦前の天皇大権の代行を戦後になっても僭主する官僚(小沢は"役人"と""罵倒"")の解体だ。それが"民主"制なのだ。

小沢はこれまでの対米従属を脱し、中国への従属とはいわないが、大国化する中国に今後の日本はある程度頭を下げて付き合っていくしかないと考えているのであろう。この考えは、賛成・反対は別に、いたしかたない選択であると理解できる。

賛成・反対は別に(しつこいな)、小沢は政治家であることの最低条件は満たしている。つまり、政治家は悪党であっても、バカにされてはいけないのである。バカにされるよりは、憎まれ、恨まれる方がまだ政治家としての資質があると言える。


悪党

  
阿呆


革命家



ひと月前は敵でした。

▼今後の興味は、平成の西南戦争の勃発です。

  
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