いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

The maple leaf saves Canadians, or they implicitly insist; We are NEVER U.S. people

2011年09月29日 20時21分21秒 | 北米出張・事情

10数年前から気付いていたことだが、カナダ人旅行客は自ら進んでカナダ人であることを示す。

一方、星条旗を海外の旅行先で掲げている米国人なぞ見だこたねぇ。 石を投げられるからだろう。

案外このメープルを掲示している毛唐さんは、アメリカ人かもしれない。

"アメリカのコンサルティング会社・レピュテーション・インスティテュート社による「世界で最も評判のいい国ランキング」が発表された"。⇒ 世界国別評判ランキング発表 / 1位はカナダ、日本は12位、韓国34位 [1]

なぜカナダが世界一評判いいのか?という理由は、カナダが相当、周到に戦略的に演じているからだ。

・例えば、先のカナダ提督は、ミカエル・ジャンである。彼女はハイチ生まれの、移民(というか難民)である(wiki)。移民1世、しかも難民でカナダ提督だ。もちろん、カナダ提督はカナダ国王が任命する。そして、カナダ国王は、今は、エリザベス英国女王に他ならない。改めて確認する、世界で一番評判にいいカナダは、王国である。「主権者」は、エリザベス英国女王。

今夜もどうでもいい話だが、カナダの各州にはgovernor (lieutenant governer)がいる。ロンドンはバッキンガムの英国女王から任命、派遣されているのだ。

国内は安定で、豊か。そして、世界から移民を受け入れることで、世界中の人に、いざとなったらカナダ人になる/なれるという印象を与えいる。実は、「いざとなったらカナダ人になる」と一番切実に感じているのはアメリカ人である。カナダは移民の国だが、その出身者が[一番]多いのは、(年によって変わるが)米国なのだ。

■Canadians=conservative, U.S.people=aggressiveというステロタイプをおいらは持っている。

そこで、カナダ人の戦争。カナダ人だって戦争をするのだ。

カナダはテロとの戦いのアフガニスタンにも出兵している。つまりは、そこそこ「手伝い戦さ」にも同調している。もちろん、第二次世界大戦にも参戦。対日戦勝国である。さて、カナダ人自身の戦争。それは、1812年の対米戦争。これは、米英戦争。もちろんカナダは英軍の尖兵。

つまりは、カナダ人がカナダ人自身のために闘った戦争は対米戦争。

そして、1997年。googleの日本語検索でなかったワード。「鮭戦争」、「サーモン戦争」。⇒google; salmon war
(全く関係ないが、salmonの英語としての発音は、日本語の「査問」として聞こえる。決して、長母音ではなかった。)

1997年初夏、ダイアナ妃が死ぬ直前、アメリカとカナダの間で「大変」なことが起きた。「戦争」。

鮭、サーモンの漁獲をめぐって、カナダとアメリカが対立。カナダの漁民がアメリカのフェリーをロックした。フェリーを漁船で囲んで動けなくした。当然、フェリーの人たちは監禁ということだ。

もし、こんなことをアラブの国やイランやパキスタンがしたら、すぐ空爆だろう。

もちろん、オタワは安泰。だって、カナダだから。世界一評判いい。世界の嫌われ者(世界評判ランキング23位)のアメリカはどうしょうもできない。

そして、この1997年のサーモン戦争は10年後に決着したと、最近おいらは知った。米国人は、相手次第では、話し合うってことを知っているのだ。

やはり、戦争発動も二枚舌の米国さま。

[1]:アメリカのコンサルティング会社・レピュテーション・インスティテュート社による「世界で最も評判のいい国ランキング」が発表された。

  世界50の国と地域を対象に行われた調査によると、第1位はカナダとの結果が出た。同じ北米のアメリカは23位。日本は12位との結果であった。

  この調査は「信用度」「敬意」「称賛」「好感」を軸に、「国民の生活の質」、「治安」及び「環境保護の意識」を考慮し世界中の4万2000人からのアンケート形式で行われたものだ。

  1位はカナダ、以下スウェーデン、オーストラリア、スイス、ニュージランドと続き、トップテンにはノルウェー、デンマーク、フィンランド、オランダ、オーストリアもランクインしている。高評価を得た国のほとんどが、北欧とオセアニアで占められる結果となった。

  高得点を獲得した国に共通しているのは民主制度が安定していること、一人当たりの国内総生産が高いこと、政治制度が発展していること、活発なライフスタイル、そして国民が自分の国は世界情勢対しに中立な立場であると認識していることである。

  日本はアジア勢ではトップの第12位。意外なことにアメリカは23位、韓国は34位。経済発展著しい中国は43位であった。この結果から市民目 線の国の評判は経済活動よりも、治安によって大きく左右されることがわかる。なお、ワースト3はイラク、イラン、パキスタンである。

  世界的に治安がいいとされている日本の12位は高評価か、それとも他の項目が影響し伸びなかったと見るか。自分自身のことは意外とわからないもの。ときには世界の声にも耳を傾けたい。

 

 


会津は奥羽越列藩同盟に加盟していないし、ましてや、容保(かたもり)公は、その同盟の盟主ではない。

2011年09月27日 19時33分26秒 | ぐち

   

『名前とは何か― なぜ羽柴筑前守は筑前と関係がないのか』(Amazon)、小谷野敦、(青土社)の116ページに書いてある;

 ― 偏諱に話をもどすと、会津藩主松平容保(かたもり)は、幕末期、京都守護職に任じられ、尊皇攘夷を唱え宮中に勢力を持ち始めた長州藩を、薩摩藩と協力して文久三年八月十八日の政変で追い落とし、攻め上った長州を禁門の変で打ち破ったが、その後長州征伐の最中に薩長が手を結び、将軍家茂が大阪城で没して慶喜が後を継ぎ、大政奉還ののちの鳥羽伏見の戦いで幕府軍が敗れると、慶喜、弟の桑名藩主松平定敬(さだあき)とともに江戸に逃亡し、慶喜は恭順する中で、奥羽越列藩同盟の盟主として薩長―官軍と戦って敗れたことで知られる。 ―

まつがい。  

つまりは、猫々センセは、こう言っている。

会津藩主松平容保(かたもり)は、奥羽越列藩同盟の盟主として薩長―官軍と戦って敗れたことで知られる。 (強調下線、いか@)

まつがい。会津藩は、そもそも、奥羽越列藩同盟には入っていない。関係があるはずがない。

でも、まさに、『名前とは何か』?!の問題である。もちろん、薩長―官軍と戦って敗れたことは事実である。しかし、会津藩は奥羽越列藩同盟には入っていない。ましてや、容保(かたもり)公は、その列藩の盟主ではない。

奥羽越列藩同盟、とは何か?

奥羽越列藩同盟とは東北諸藩が会津を救済するためにつくった同盟である。会津は同盟の目的の対象である。その対象者が盟主となることはない。たとえ話でいえば、会津君を救う会の会長に、救われるべき会津君がならないのは当然である。

それは、藩祖が戦国武将として超有名な由緒ある外様の大藩である、上杉家(米沢)と伊達家(仙台)が中心となって、「薩長クーデター政府」に対して、嘆願をした際に同意署名した諸藩の盟約に基づく同盟が、奥羽越列藩同盟の定義である。奥羽越列藩同盟の盟主は上杉・伊達、実際には伊達家という説を見る。一方、奥羽越列藩同盟が担いだ"天皇"、輪王寺宮[1]・北白川宮能久親王を盟主と書く例もある[2]。こういう混乱は当時には盟主は誰か?とか、その権限と責任などが特に意識されていなかったからであろう。現在の目から見て、盟主探しをしているのだ。

ただし、容保(かたもり)公ということはありえない。なぜなら、そもそも、会津藩は奥羽越列藩同盟には入っていないからだ。ただし、奥羽越列藩同盟を生んだ究極の原因は、容保(かたもり)公にあるとはいえる。

なぜ嘆願なぞしたのか? いじめ・不義・理不尽の傍観は許されないという義侠心;

猫々センセはいじめを憎む。それはいじめる張本人ばかりではなく、それを傍観する人間をも、猫々センセは憎む。

奥羽越列藩同盟の盟約書の第一にある;

強きを恃み、弱きを凌ぎ、或いは他の危急を傍観する者には、列藩を挙げて譴責を加える  (原文は漢文)

幼帝(むつひとちゃん、14歳)を戴いた「薩長クーデター政府」は、上杉家(米沢)と伊達家(仙台)ら東北諸藩に対し、会津藩と庄内藩の討伐を天皇の名のもとに命じた。具体的には、藩主・松平容保のクビを取れと言ってきた。

なぜ、会津藩と庄内藩"討伐"か? 簡単である。薩長がテロリストだった頃の治安担当を京都と江戸でしていたのが、会津藩と庄内藩だったからだ。典型的、逆恨みである。

京都・会津藩・蛤御紋の変:長州テロリストグループが、畏れ多くも、天皇陛下を拉致しようとした[3]。返り討ちあって当然である。敗残した長州が会津を憎む理由がこれだ。

江戸・庄内藩・薩摩藩邸「焼き打ち」事件:薩摩は幕府を挑発するため、江戸でテロ行為を頻繁に行っていた。黒幕は西郷隆盛だ。「薩摩藩が江戸市中取締の庄内藩屯所を襲撃した為、幕末の慶応3年12月25日(1868年1月19日)の江戸の三田にある薩摩藩の藩邸が江戸市中取締の庄内藩らによってに襲撃され、砲火により焼失した」(wikipedia)。テロに対する治安活動である。これまた当事者の庄内藩が、恨みを買った。

こんな理不尽な逆恨みを動機にしたちんぴらクーデター集団が、幼帝(むつひとちゃん、14歳)を戴いて、やりたい放題。そして、薩長は、会津藩と庄内藩をやっちまえと、仙台藩や米沢藩に命じた。こんな道理は通るはずもなく、通すべきでない。と、上杉家(米沢)と伊達家(仙台)はきちんと判断した。そして、薩長クーデター新政府を"たしなめた"のだ。

それが、上記の「嘆願」。 (なお、戊辰戦争、奥羽越列藩同盟に関する史実は、一般人が手に入れやすい新書に限っても、古くは、佐々木克・『戊辰戦争』(Amazon)(中公新書)、星亮一・『奥羽越列藩同盟』(Amazon)(中公新書)、最近は、友田昌宏・『戊辰雪冤』(Amazon)(講談社現代新書)などある。もちろん、いずれも、容保公が奥羽越列藩同盟の盟主であったとは書いてない。参考のためwiki・奥羽越列藩同盟から、元々は奥羽諸藩が会津藩、庄内藩の「朝敵」赦免嘆願を目的として結んだ同盟(奥羽列藩同盟)であったため、両藩は盟約書には署名していない(ただし両藩は会庄同盟を結成)。

■話が少し飛んで、同書、『名前とは何か― なぜ羽柴筑前守は筑前と関係がないのか』の43ページに書いてある。

 余談だが、のち福沢諭吉は咸臨丸で米国に渡り、初代大統領ワシントンの子孫がどうしているか米国人は知らないと聞いて、民主主義国家の特質を見たと書いているが、どうもこれは、事実だとしても、そのころフランスで、ナポレオンの甥が皇帝になっていた経緯くらい、福沢が知らないはずはないし、門地家柄を重んじる日本を批判するために、ちょっと驚いてみせたといったところか。どこの国でもある程度そういうことはあるし、第一日本人(この場合は武士)にしてからが、織田信長の子孫がどうしているか、知らなかっただろう。 (強調下線、いか@)

ここで、武士と限定しているのは、以前に、前近代の日本人が天皇を知っていたか?という論争があったので、庶民と偉い人たちでは違うだろうという観点が必要があったのだろう、と推定する。

なので、かなりまつがい。 教養ある武士は幕末において織田信長の子孫が誰であるか?知っていたはずである。 後述の通り;

江戸時代は武士こそが格差が激しかったとされている。高級武士なら、すなわち教育、情報に浴する機会に恵まれた高級武士であるならば、織田信長の子孫の行方を知っていただろう。なぜなら、江戸時代には織田を名乗る大名家が数家あったのであるから。高級武士ならば、織田信長の家だろうと、わかったはずだ。そして、21世紀のぬっぽん庶民はみんな知っている。織田信長の子孫がどうしているか?って。フィギュアスケーターだもんね。

さて、戊辰戦争と奥羽越列藩同盟の話に戻る。奥羽越列藩同盟の成立のため、伊達家と上杉家の両藩家老が召集したのは東北諸藩の27藩。その中の天童藩は来なかった。理由はこの召集の直前に、天童藩は京都から来た東北鎮撫総督府に"唆されて"、「朝敵」である庄内藩を攻撃。返り討ちにあって、天童藩陣屋は焼き払われる。天童藩主らは落城して仙台に落ちのびた。この落ちのびた殿さまが天童織田家の殿様である。佐々木克・『戊辰戦争』にある;

午前九時から一〇時にかけて天童城は庄内勢に完全に包囲され、藩主織田信敏家族一同は城を棄て、仙台領まで落ちのびた。このあと城に火をかけられ、民家三三三戸が焼かれた。織田信長直系の天童織田氏二万石の落城であった。

  愚記事、「新嘗祭の日に」より

[1]関連愚記事;今度、吉宗クンと竹田クン。  ;馬上宮様; 「大日本帝国貴顕御肖像」解読 

[2]奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)は、戊辰戦争中に陸奥国(奥州)、出羽国(羽州)、越後国(越州)の諸藩が、輪王寺宮・北白川宮能久親王を盟主とし、新政府の圧力に対抗するために結成された同盟である。 wikipedia

[3]関連愚記事; 元祖拉致家族の末裔


磯江毅=グスタボ・イソエ 「マドリード・リアリズムの異才」のため練馬に行く

2011年09月25日 07時23分18秒 | 東京・横浜

  

週末に練馬区立美術館で開催されている "磯江毅=グスタボ・イソエ 「マドリード・リアリズムの異才」" に行く。

今年6月に初めて、ひょんなことから、磯江を知る。⇒ 磯江毅 展;そして、レアル(real)・マドリッドとマドリッド・リアリズムは全然関係ないんだなぁ

その磯江展は7月初旬から始まっていた。暑さがひと段落したら行こうと考えていた。たぶん8月末から9月頭になるだろうと思っていたら、予想に反し9月の残暑が厳しかった。この3連休はやっと涼しくなったので出かけた。練馬区。西武池袋線の中村橋駅。

 

展示作品は約百点。磯江の主だったところ全部らしい。磯江毅の作品の印象は⇒ Google画像:礒江毅

写実画の美術における意義とか位置づけとかあるんだろうけど、磯江作品を見て思ったことは、この特別展のビラの解説にある「絵による存在探究の試み」という文句がもっともらしいこと。「ものは見るから存在する」、「ものを描くにはその構成と成因を理解しなければいけない」 みたい ことを磯江は言っていたらしい。美術を超えている。例えば、人体を描くのに解剖学を学んだとか。

「シーツの上の裸婦」

磯江は1974年、19歳で単身、シベリア鉄道に乗り、ユーラシア大陸を渡り、果てのスペインに行く。なぜ、パリとかではなく、マドリーだったのかは解説されていない。

磯江が入西(got in Spain)した時は、まだフランコ"独裁"政権時代である。スペイン当局もシベリア鉄道経由で来た日本人をよくも受け入れたものだ。ちなみに、当時外国籍画学生は3カ月に一度スペイン国外に出て、再入国の手続きが必要であった。磯江はこの制度によく則り、しばしば隣国ポルトガルに出入国していたとのこと。

磯江は、マドリーの最中心部であるマヨール広場の近くの画学校に入った。当時のプラド美術館は、今と比べて、画学生による模写がやりやすかったらしい。つまり、プラドで多くの画学生がイーゼルを立てていたのだろう。磯江もプラドで模写修業に励んだ。アルブレヒト・デューラー、ロヒール・ファン・デル・ウェイデンの作品を模写。磯江は事実上「独学」である。その模写は練馬では2点展示され、この後の奈良では4点、展示される。

でも、①基礎デッサンを教える"学校"(塾みたいなもの)と②カノン(正典)の実物が展示してある美術館と③コンクールと④勲章という"制度"で、作家は絶えることなく出てくるのだ。磯江はスペインでたくさん勲章をもらっているらしい。

なお、今、プラドで模写する人は5人を超えないと思う。しかもおじさんだ。
(↓プラドで模写する人。プラドでは写真撮影は認められていません。ゆるしてケロ。

■帰り、上野でいか墨パエリアを食べた。すこしはずれた。

↓マドリーでイカ墨パエリア食べた。2007年7月

 

 

 


毎週、ぶどうの木の画像を撮っています; 23週目

2011年09月24日 07時28分48秒 | 草花野菜

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今朝の筑波山麓、2011/9/22

2011年09月22日 19時27分05秒 | 筑波山麓

台風一過の空。

台風一過のきれいな青空を見ていつも思うのは、泥酔明けの早朝に呑む水のうまさにほかならない。

やはり、沖積平野は危ない。近世以降の日本の最重要課題。

以前指摘した;気づかずに挑戦者  。 

::現在は日本人の多くが沖積平野に住んでいる。実はこれは「最近」のことである。どれくらい最近かというと戦国時代のあと、江戸時代から。逆にいうと近世日本とは人々が沖積平野に山間部から降りてきてつくった文明といえる。::

名古屋なぞ典型である。今回とんでもない数の人に避難勧告(?)が出た; 名古屋市 109万人に避難勧告

これは、名古屋を典型とする「沖積平野」の危険性を露わにすることに他ならない。

天井川」:立派な地理学の学術用語である。おいらは15歳の頃から概念として知っていたが、今回この画像で実感した。
(「自然堤防」も一目瞭然。)

天井川。沖積平野で日常をおくる人たちの生活空間よりも高い位置を大河が流れること。 こぇ~。


御三家。紀伊、尾張、水戸。今回やられたのが、紀伊、尾張。水戸だって本当は潜在的はあぶない。ただ、少し北にあるので、台風の勢力が衰えているため、甚大な被害が露わにならないだけだ。

紀伊、尾張、水戸; リスク大地域。ハイリスク:ハイリターン。

お米はたくさん取れるけど。水害はつきもの。

ハイリスク:ハイリターン。 リスク社会;近世以降のぬっぼん、の定義なり。

     み             か             わ 

    

     り             す            く     


 

 


パコ・ロカ、『皺』、あるいは、全員、銃殺刑だった・・・

2011年09月20日 19時44分51秒 | 

パコ・ロカの『皺』を読む。原著はフランスで出版されたマンガ。作者はスペイン人。表題の『皺』は養老院でのお話。よい。

息子夫婦に連れられ、老人ホームに入ることになった元銀行員のエミリオ。そこでは、たくさんの老人たちがそれぞれの「老い」を生きていた。やがて彼らは 「アルツハイマー」という残酷な現実と向き合うことになり……。大切な人の顔も、思い出さえも、なにもかもが失われていくなかで、人生最後の日々に人は何 を思うのか――。 まさに一本一本刻まれた「しわ」のように、さりげない描写を静かに積み重ね、2007年にフランスで刊行されるや話題となった表題作『皺』

というAmazonのお品書き。

『皺』のハイライト; tramposo!   いか@さま、ね!

  
Paco Rocaのサイトより。  右、上記翻訳本(訳、小野耕世[72歳]、高木奈々[30歳])より。

■『皺』もよかったが、おいらは、一緒に載っている『灯台』もおもしろかった。スペイン内戦に巻き込まれた/飛びこんだ青年のお話。

  

作者のパコ・ロカは、1969年の生まれ。生まれたのはヴァレンシア。ヴァレンシアは地中海に面した街。バルセロナの近く。1969年の生まれということはまだフランコ政権時代ということになる。つまり、フランコ総統が死んで、ブルボン王朝の王政が復古する1975年の6年前だ(関連愚記事; ・スペイン行った、2009 ・マドリードにおいてフランコ総統を始め,多くの人々から温かく迎えられましたが,■今日スペイン国王が来日)。

作者のパコ・ロカは、スペイン内戦の話がすこしでも公然と語られ始めた頃に物心がつき始めたではないだろうか?でも、スペイン内戦の話について、パコ・ロカは直接身近な人に聞いている;

インタビューに答えて、

当時つきあっていたガールフレンドのおじいさんが、実際に内戦に参加していた人で、当時の話を私にしてくれたのです。16歳で内戦に参加、血気盛んな若者だったので、故郷も恋人も捨て、未来に希望をかけて戦争に言った。そのおじいさんの本来の夢は、機関車の運転士になることだったのですが、内戦のせいでその夢はついえ、すべてが変わってしまいました。彼は共和国派だったので、当然敗者になってしまい、フランスに逃げるしかなかったのですが、ほとんどの人が国境で捕まり、強制収容所に入れられてしまった。(続く) 上記、パコ・ロカ、『皺』に掲載の作家インタビューより。

おもしろいのが、何よりパコ・ロカがフランスに来て、活動していることである。

この『灯台』は、スペイン出奔青年の歴史を超えた物語にほかならない。

Amazon; 皺 (ShoPro Books) [単行本]

パコ・ロカ、『灯台』を気に入った人にお勧め;

Amazon; ぜんぶ、フィデルのせい [DVD]

 

 


今日の看猫2011/9/18, 熱い! 残る夏を撮った画像

2011年09月18日 17時21分47秒 | ねこ

↑十五夜を過ぎても真夏日を、おんもでしのぐうめちゃん。 ↓あさがお。

 ← おいらのえさ@夏野菜。

■ A day in my life across the death valley;

完成と炎上の狭間で。

Death valley稼業についての日記。おいらは、・役に立つこと ・お金になること」のためにバイトでがんばっている。

今年はある課題がある。今年の課題というより、3年のプロジェクトの総決算課題。その課題を達成して、「大きく強くする」 (愚記事⇒ 今日の看猫 20091210)ことができれば、1回で高給車1台分の価値がある製品できる。正確には、ある買い手が、その「大きくて強い」製品ができれば、高給車1台分の値段で買いますよ、と2010年末に言った。言った当人も、まさかそんな急にできることもないだろうから、高給車1台分の値段で買いますよ、と大きく言ったのかもしれない。それをうけて<ブルジョアさま>が、「おまい(⇒いか@バイト)、やれ!」と命じているのだ。

おいらの任務。その「大きくて強い」製品を作る技術開発。問題は量と歩留まり。今年に入って、きつい時期が続いた。特に1-2月。むしろ大震災の3月が先が見えてひと段落した頃。実は、技術完成前に上市計画が決まり、受注も始まっている。恐ろしいよね、<従業員何万人のメーカー>

そして、昨日の土曜の朝に、「大きく強くする」 技術の結果が出た。できたものの性能を測定して、成功しているか、失敗しているか、運命の結果がでるのだ。結果、まずまず。合格ラインは、軽く、クリア。この世にない機能をもった物質の大量合成に成功したことを確認。ひとまず、安心。ところが...。

■炎上。プロジェクトは炎上しそうである。実は炎上するも鎮火するも、バイトであるおいらの胸先三寸である。炎上の問題の背景は上記の 「大きく強くする」 技術のことではない。プロジェクトのマネジメントの問題。マンガに描いたようなこの問題;技術力で勝る日本が、なぜ事業で負けるのか―画期的な新製品が惨敗する理由。あまりに、典型的すぎるので、おいらは、わらっちゃった。

以前書いたようにこのプロジェクトは、ベンチャーを、売上数兆円のメーカーが買収したものだ;

<従業員何万人のメーカー>の部長級の<木村摂津>なのに、R&Dをやる人 材を割けない。会社が手下を配属してくれないのだ(#3)。バイトでやれ!と。この<従業員何万人のメーカー>は典型的高度成長期の産 業。<木村摂津>の世代でさえ入社時に会社の売上げの大部を叩きだす"ドル箱"大工場は、ルーチンで稼働。<従業員何万人のメー カー>のお貴族正社員さまたちは、出来上がったルーチン産業機構を滞りなく回すことが最大の責務だった。し、今でもそうなのである(恐ろしいこと に!!!)。あやしいR&Dなんかいやなのだろう。 (愚記事;やっぱり、おいらは、高踏派

でも、売上数兆円のメーカーの正社員さまは、自分で決断しない。あやしいR&Dなんかわからないのだ。全部、判断を末梢に押し付けてくる。ここで、末梢の胸先三寸で、プロジェクト事態が崩壊する。最近、 プロジェクトの構成員が辞めてもいいから、マネジメントの失敗によるしわ寄せの押し付けの仕事は嫌だという雰囲気が強くなった。やはり、ブラック企業の悲哀が噴出したのだ。

ところで、この<従業員何万人のメーカー>。社長さんのメッセージはすばらしい。「グローバル経済でがんばろう!」。でも、中間層の正社員さまはみんな田吾作さまである。日本 崩壊

もちろん、おいらはぬっぽん末梢 豪快 で、がんばっていこうと思う。 でも、最近、中国シンガポールでも行こうかなぁと夢想している。



毎週、ぶどうの木の画像を撮っています; 22週目

2011年09月17日 07時57分11秒 | 草花野菜

 

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先週末は、「造果」の画像を撮りました。

2011年09月15日 19時34分56秒 | 筑波山麓

毎週末、おつとめを果たしてがんばっているおいらは、先週末は 造花 造果の画像を撮った。

ひさしぶりに"学園"の千現のイタリア料理屋に行ったからだ。

つくば市、千現。おいらの嫌いなJAXAとかがある区画だ。

"学園"。今のつくば市民には死語化しているかな?「つくば市」ができてなかった頃、今のTXつくば駅周辺の地域を、周辺の古くからの住民は"学園"と呼称した。今でも"昔の人"は「学園」という。その地域は、今も昔も、つくば市の一番の"繁華街"ではあるが、「つくば市」成立以前は、桜村に他ならない。なお、学園という名称は交差点の名前として今に至る。"学園東"だの、"学園西"だの、と。

しかも桜村の周辺地域。名前が無かった。だから、梅園だの、松園だの、竹園だのどうでもいい地名ができたのだ。松竹梅、っていったい....。

さて、千現。千現の名称の起源はまだ調べていない。でも、簡単には変換しない、せんげん=千現。千の現象...、多様な世界...???。

この千現の周辺区画は、昭和末期~平成初期には、一大電器街として、周辺の田舎者さまが群がった、とのこと。

10年前、仕事で成田に行ったら、そこで会った人が、つくばの電器街にはよく行きました(よく行きます?)、と言っていた。

さらに、もっと昔の伝説のディスコ(←死語)が、JOY PACK (google)。1998年につくば山麓に漂着したおいらでも耳にした伝説。

その店は、おいらがつくば山麓に漂着した時からあった。いつもボトルに水を入れて出してくれる。そして、このボトルは多様であって、テーブルごと、お客さんごとに違うのだ。この10余年変わらないサービスがうれしい。

安い:(コストパフォーマンスがよい)。パスタランチで、840円。紅茶(or コーヒー)もつく。ラーメン屋に行くのと同じ。

つくば市千現、イタリア料理屋、「ハートランド」。
(もちろん今夜は、イタリア料理屋の「"ハートランド"」という名付けの是非については、言及しない。)
web site; 本格的なイタリア料理をリーズナブルに。つくば市のイタリア料理店です。ワインも取り揃えています。


今日の看猫2011/9/13, あるいは、彼は新宿2丁目に養子に行った。

2011年09月13日 19時41分20秒 | ねこ

『彼は新宿2丁目に養子に行った。』

週末のんべんだらりんと本を読んでいた。

江藤淳の夏目漱石に関するあれこれ。その本に漱石の年譜が掲載されていたので、見ていると、どきっとした。

慶応四年 (明治元年)(一八六八)二歳、*新宿二丁目の名主塩原昌之助(妻やす)の養子となる。(強調、おいら)

お~、御一新の時、わずか2歳で、「"あっち"」の世界に送られちゃった漱石!

で、気付いたよ。養子という江藤の脳内イメージ。そのイメージに基づく江藤の有名な吉田茂論。『吉田茂と養子政治』。

一方、『喪失と成熟』とは、実親の無条件の愛を喪失した者が、養父母の価値観の鋳型におのれを押し込むこと(成熟)にほかならない。すなわち、養子論なのだ。そして、何より、ぬっぽんずんが西洋近代への養子に他ならない。それが江藤の文明論のαであり、ωである。

これまた江藤が好きな福沢諭吉の「一身にして二世を経る」ということに通じる。二世とは、実親の無条件の愛の世界と養父母の価値観の世界である。

    (←知らねぇーよなぁ、"今"の人は)
わずか2歳で!  15になって。   すっかり大人になって。
肩書き;文豪    女王      涅槃でwait-er

椎名林檎  歌舞伎町の女王