いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

新しい街でもぶどう記録;第355週

2021年08月28日 18時12分15秒 | 草花野菜

▲ 今週のみけちゃん

▼ 新しい街でもぶどう記録;第355週

■ 今週の武相境斜面

■ 今週の草木花実

■ 今週の看板

■ 今週の「ちがいがわかるおいら」

川田稔 [wiki] と川北稔 [wiki]

■ 今週の購書

最近グローバルヒストリーの本[1]を読んでいるので、入門的基本書を押さえようと思った。「砂糖の世界史」は読んだことがあった。

一方、川北稔は自伝をみつけた:「成長パラノイア」とイギリス資本主義 : イギリス近代経済史研究の50年 のsiteのpdf。これはおもしろい。1940年生まれ。西部邁と同い年だ。「一般の方が歴史に求めるものは何か。私は、突き詰めて考えると、明日の世の中がどうなっていくのかということへの関心であると思います。」と述べている。

そうだよな。明日とはいわなくても、今日、この現在、何でこんなことになっちまったのか?という素朴な疑問。それにしても昔の歴史学を志す人の多さの話。信じられない。川北稔は文学部の「歴史学プロパー」らしく、マルクス学的歴史学派(いわゆる唯物史観 [今では死語])ではないらしい。近経をやって「右翼」といわれたとある。この『世界システム論講義』はアメリカを造った人々はイギリスの「クズ」だとある。

[1] 杉原薫、『世界史のなかの東アジアの奇跡』

昨日の福沢諭吉と仙台伊達家の件で、幕府の遣米使節に参加した仙台藩出身の玉蟲左太夫というひとがいる。アメリカに行った人ではあるが、諭吉と接点があったかはわからない。『福翁自伝』には出てこない。『福翁自伝』に出てくる仙台伊達家の大童信太夫は玉蟲左太夫と一緒に仕事をしているのに。その玉蟲左太夫が渡米しさらにアフリカを回って世界一周した旅の記録が、『航米日録』。その現代語訳の本が出ていたと知ったので、買った。AmazonとHontoで値段がとても違った;

新刊。対米開戦「主戦論」者の内在的論理が書いてあるのだろうと思い、買ってみた。

■ 今週の「米越同舟?」

南シナ海巡り対中圧力強化策を模索、米副大統領がベトナム訪問

ホーチミンと星条旗の取り合わせがシュールなので、貼ってみた。1945年春、フランスとの条約で駐屯していた日本軍はクーデターを起こす。担いだのがバオ・ダイ帝(wiki)。8月の日本敗戦で、バオ・ダイ帝は、「全く地下組織として越南独立を画策しつつあった南越革命党に組閣の命を下し、皇帝は退位の意志を闡明するに至った。」(朝日新聞、1945.8.30;江藤淳、「他人の物語と自分の物語」より孫引き) 南越革命党の指導者は、ホー・チー・ミン [wiki]。 ただし、wikiには、上記朝日新聞にあるバオ・ダイ帝の組閣命令は出ていない。


門閥に介入する諭吉; 福沢諭吉、『福翁自伝』の東西伊達家に関する記述への註、そして疑問

2021年08月27日 17時31分01秒 | 日本事情

■ 門閥制度は親の敵

福沢諭吉と云えば、「門閥制度は親の敵」の惹句で有名。その諭吉が仙台伊達家の殿様選びに関与していたのだという。

まずは、このくだりはこういう文章の一部;

如斯こんなことを思えば、父の生涯、四十五年のその間、封建制度に束縛せられて何事も出来ず、むなしく不平をんで世を去りたるこそ遺憾なれ。又初生児しょせいじ行末ゆくすえはかり、これを坊主にしても名を成さしめんとまでに決心したるその心中の苦しさ、その愛情の深さ、私は毎度この事を思出し、封建の門閥制度をいきどおると共に、亡父ぼうふの心事を察してひとり泣くことがあります。私のめに門閥制度は親のかたきで御座る。

コピペ元

門閥制度に批判な諭吉。自分の藩である豊前中津の奥平家。奥平家は戦国時代の奥平信昌(1555-1615)[wiki]は徳川家の譜代で、長女・亀姫は家康の長女という家柄。その奥平家に対し、諭吉はもらっった紋付をすぐ売り払ったり、扶持米をもらっても乞食に与えるといったり、かなり大人げない対応をしている。ある種の受動的攻撃の発揮であるとしかみえない。「怨望」が隠し切れなかったのではないか?

■ 門閥制度。つまり、殿様がいて、最下級の藩士がいて、しかもそれらが世襲であるという武家の制度に批判的であるはずの諭吉が、殿様選びに携わり、しかも、後日、その殿様に、あの時は"おれ(たちふたり)が選んだのだから"といって、ある策の遂行のため面会するという話を、諭吉が『福翁自伝』でしている。

■ 仙台伊達家の殿様選び

昨日の愚記事で大童信太夫について書いた;

幕末に仙台伊達家の大童信太夫 [wiki] という'留守居役"(藩の対外折衝役)が、福沢諭吉と「友達」だった。これは諭吉の『福翁自伝』にも出てくる。『福翁自伝』に書かれていないこととして、大童信太夫は2,500両を諭吉に預け、洋書購入を依頼したとのこと。

大童信太夫は正式には公義使[1]という仙台伊達家の江戸藩邸に勤める300石の家臣。公義使=留守居役ということで、藩の外との折衝役だった。それで、福沢諭吉とも知己となる。『福翁自伝』には、2,500両での洋書購入の話は出てこない。出てくるのは、大童信太夫の命を救った話。大童信太夫の命が危なくなったのは戊辰戦争の敗軍処分で命を狙われたからだ。諭吉が大童信太夫の命を助けられた理由は、諭吉が仙台藩主を知っていたからだという。おいらは、にわかには信じられないのだが、『福翁自伝』にある;

ソコで私がこの藩主にむかって大に談じられる由縁ゆかりのあるとうのは、その藩主と云う者は伊達だて家の分家宇和島うわじま藩から養子に来た人で、前年養子になると云うその時に、私があずかっおおいに力がある、と云うのは当時大童おおわらが江戸屋敷の留守居るすいで世間の交際が広いと云うので、養子選択の事を一人で担任して居て、或時あるとき私に談じて、「お前さんの処(奥平おくだいら家)の殿様は宇和島から来て居る、その兄さんが国(宇和島)に居る、その人の強弱智愚如何いかんきいもらいたいと云うから、早速取調べて返事をして、ず大童の胸に落ちて、今度は宇和島家の方に相談をして貰いたいと云うので、れから又私は麻布あざぶ竜土りゅうどの宇和島の屋敷にいって、家老の桜田大炊さくらだおおいと云う人に面会してその話をすると、一も二もなく、本家の養子になろうと云うのだからただ難有ありがたいとの即答、一切いっさい大童と私と二人で周旋して、れから表向きになってもらったその人が、その時の藩主になって居るので、ソコで私がその藩主に  (後略)

つまり、諭吉は大童信太夫[2]と二人で仙台伊達家62万石の殿様の人選に携わったというのだ。まずは、史実を確認する。幕末・維新の時の仙台伊達家62万石の殿様は伊達慶邦(wiki)。戊辰戦争では奥羽越列藩同盟の「盟主」となる。伊達慶邦は世継ぎとして伊達宗敦(wiki)を養子として、宇和島伊達家からもらった。伊達宗敦の実父は伊達宗城。奥平昌邁(wiki)もその息子。したがって、このあたりの事情は、諭吉の話と矛盾はしない。史実は下記の通り;

1863年 既にふたりは知古
1866年 諭吉渡米。大童信太夫から洋書購入(2,500両)を請け負う。
    藩主・慶邦の世子・茂村(もちむら)(1850-1867)逝去 
1868年 3月  伊達宗敦 養子となる
    戊辰戦争 (鳥羽伏見の戦い 1月)
    8月、奥羽列藩同盟に組したことから、慶邦と共に新政府から官位を剥奪
    9月15日 仙台伊達家降伏。藩主親子は江戸に送られる(10月、芝増上寺で蟄居)。
    宗敦、廃嫡。仙台藩28万石に減封。後継藩主は、伊達亀三郎(のちの伊達宗基)。
1869年/明治2年 9月、慶邦、宗敦、謹慎を解かれる
1870年/明治3年 10月、大童信太夫赦免

[1]  公義使  : 初名は聞番。他藩の江戸留守居に相当する。他藩での定府を仙台藩では「江戸定詰」と呼ぶがその代表的な役職。役列は召出以上。役高300石。(wiki [仙台藩の役職])

[2]  大童信太夫と福沢諭吉について(【福澤諭吉をめぐる人々】 大童信太夫

■ 素朴な疑問

それにしても300石の家臣が殿様の養子=次の当主を「一人で担任」するなんてことは史実なのだろうか?ここで、300石の家臣の意味を確認する。300石の俸禄の級というのは旗本でいえば、並。公義使(江戸留守居役)の地位は、江戸家老(仙台伊達家では奉行と云った、3000石)の部下の若年寄(1000石)の部下である。次の当主を「一人で担任」するのが江戸家老というならまだわかるが、300石の公義使(江戸留守居役)[1]がやっていいのか、とおいらは疑問に思っている。

なお、伊達宗敦の実父は、上の諭吉の文章にもある通り「分家」の宇和島伊達家の伊達宗城であり、当時、島津久光(薩摩)、山内豊信(容堂、土佐)、松平慶永(越前)と4大名と四候と称される徳川慶喜側近の実力政治家であった。これも上の諭吉の文章からわかるように伊達宗城の息子たちは大名家に養子に行っているとわかる。

このように、自分のつくった息子たちを大名家に養子に送る/押し込む大名は、例えば、井伊直弼の父[3]や徳川斉昭[4]などがいる。

[3] 井伊直弼がお見合いを失敗したのは、はたちぐらいの頃だ   七男・直教(なおのり)⇒中川久貴(なかがわひさたか)に養われ、豊後岡七万石藩主。
 八男・直福(なおとみ)⇒内藤政峰(ないとうまさみね)に養われ、三河挙母(ころも)二万石藩主。
 九男・勝権(かつまさ)⇒松平勝升(まつだいらかつゆき)に養われ、下総多古一万二千石藩主
 などなどは大名。 他の兄弟たちは家臣に養われる。

[4]   例えば、鳥取池田家の十二代藩主慶徳は水戸中納言徳川斉昭の五男だ。徳川斉昭には、男女あわせて37人の子供がいた(wiki[徳川斉昭])。そして、岡山藩池田家宗家11代・池田茂政は、徳川斉昭の九男(wiki [池田茂政])。

こういう状況から考慮して、大童信太夫が「養子選択の事を一人で担任して居」たというのは、仙台伊達家の養子は、宇和島伊達家しかないのだから、伊達宗城の息子たちの中から誰にするかに、事実上、絞られていたと家老(仙台伊達家では奉行という)や藩主に共通認識があったということか?

■ 素朴な疑問2  その時、彼は、もはや、殿様ではない

諭吉が「この藩主にむかって大に談じられる由縁ゆかりのある」ことで、「この藩主」、つまり伊達宗敦に「談じた」ことは、大童信太夫と松倉良助の死罪免除と放免の願いだ。でも、上の年表にあるように、伊達宗敦は廃嫡され、「藩主」ではないはずだ。藩主は、幼君といえども亀三郎(宗基)であり、むしろ幼君であるからこそ「取り巻き」がいたのではないだろうか?廃嫡された元藩主が、大童信太夫と松倉良助の死罪免除と放免の権限を持っていられらのだろうか?疑問である。

諭吉が、大童信太夫の命を救うため伊達宗敦に会い、仙台家臣を宥め、すかし、最後は脅して、さらには薩摩のお墨付きまで、かけづり廻って得て、成功したくだりは下記

一切いっさい大童と私と二人で周旋して、れから表向きになってもらったその人が、その時の藩主になって居るので、ソコで私がその藩主にうて、時に尊藩の大童、松倉まつくらの両人が、この間仙台から逃げてまいったのは、彼方あっちに居れば殺されるから此方こっちに飛出して来たのであるが、の両人は今でも見付け出せば藩主において本当に殺す気があるのか、ただし殺したくないのか、ソレをうけたまわりたい。「イヤ決して殺したいなどゝう意味はない。「しからばモウ一歩進めて、お前さんはソレを助けると云う工夫をして、ドウかして、命のつながるようにしてやっては如何いかが御座ござる。実はお前さんは大童おおわらむかっおおいに報いなければならぬことがある。知るや知らずや、お前さんが仙台の御家おいえに養子に来たのはう由来、れ/\の次第であったが、れを思うても殺すことは出来まい。屹度きっと御決答ごけっとうを伺いたいと、顔色がんしょくを正しくして談じた処が、「決して殺す気はないが、れは大参事にかしてあるから、大参事さえ助けると云う気になれば、私には勿論もちろん異論はないと云う。マダ若い小供でしたから何事も大参事に任かしてあったのでしょう。「しからばお前さんは確かだな。「確かだ。「ソレならばよろしい、大参事におうといって、そばの長屋に居たから其処そこ捻込ねじこんだ。サア今藩主に話をして来たがドウだ。藩主は大参事次第だと確かに申された。しからばすなわち生殺はお前さんの手中にある、殺す気か、殺さぬ気か。しや殺す積りで捜し出そうと云ても決して出る気遣いはない。私はちゃんと居処をしって居る、捜せるならこころみに捜して見るがい、捕縛すると云うなら私の力の有らん限り隠蔽いんぺいして見せよう、出来るだけ摘発して見なさい、何時いつまでたっても無益だ。そんな事をして人を苦しめないでもいだろうと、裏表から色々話すと、大参事にも言葉がない。いよ/\助ける、助けるけれども薩州あたりから何とか口を添えてれると都合が宜いなんてまた弱い事を云うから、よろしいとてゝ、れから私は薩州の屋敷にいって、う/\云う次第柄だから助けてやって呉れぬかと云うと、大藩とか強藩とか云うので口を出すのは実は迷惑な話だが、何もむずかしい事はない、宮内省に弁事と云うものがあるから、その者について政府の内意をきいて上げるからといって、薩摩の公用人が政府の内意を聞て、私の処に報知してれたには、かくも自訴させるが宜しい、自訴すれば八十日の禁錮ですっかり罪は滅びて仕舞しまうと云うことがわかった。れから念のめ私は又仙台の屋敷に行て大参事に面会して、政府の方は自訴すれば八十日と極て居るが、これにお負けが付きはしないか、自訴と云えばこの屋敷に自訴するのであるが、この屋敷で本藩のわたくしもって八十日を八年にしてろうなんと云うお負けをりはしないか、ソレを確かに約束しなければ玉は出されないと、念に念を入れて問答を重ね、最後にはし違約すれば復讐するとまで脅迫して、いよ/\大丈夫と安心して、ソレからその翌日両人を連れて日比谷の屋敷に行た、所が屋敷の役所見たような処には罪人、大童おおわら松倉まつくら旧時むかしの属官ばかりがならんで居るだろう、罪人の方が余程エライ、オイ貴様はドウして居るのだと云うような調子で、私は側から見て可笑おかしかった。夫れから宇田川町の仙台屋敷の長屋の二階に八十日居て、ソレで事がんで、ソレから二人は晴天白日、外を歩くようになって、その後は今日に至るまでももとの通りに交際してたがいに文通して居ます。

  (コピペ元

■  「れから又私は麻布あざぶ竜土りゅうどの宇和島の屋敷」の画像がネットで見つかった;

宇和島伊達家の屋敷は、3万6千坪であった。現在の六本木、新国立美術館あたり一帯。ちなみに、近くの、今の仙台坂のところにあった仙台伊達家の下屋敷は2万1千坪。

『琉球人行粧之図』『琉球人往来筋賑之図』の作者と伝来 のsiteのリンク先pdfより

■ 家紋  左;仙台伊達家、右;宇和島伊達家

 

 


新しい街でもぶどう記録;第354週

2021年08月21日 19時30分53秒 | 草花野菜

▲ 今週のみけちゃん

▼ 新しい街でもぶどう記録;第354週

■ 今週の武相境斜面

■ 今週のメタセコイア

■ 今週の草木花実

■ 今週の夏野菜

■ 今週の非袋系飾り物

夢庵:飾りいなり

■ 今週の久しぶりに見た(バスより)

黒塗りの家に住む親米派

■ 今週のこどもの国

■ 今週の訃報

Google [訃報:冨山妙子 99歳]  wikipedia[冨山妙子]

冨山妙子の自伝(1968革命の頃の出版)をもっていたはずのなだが、すぐに出てこなかった。

■ 今週の購書

 高田宏、『言葉の海へ』Amazon

幕末に仙台伊達家の大童信太夫 [wiki] という'留守居役"(藩の対外折衝役)が、福沢諭吉と「友達」だった。これは諭吉の『福翁自伝』にも出てくる。『福翁自伝』に書かれていないこととして、大童信太夫は2,500両を諭吉に預け、洋書購入を依頼したとのこと。その話が、この本にも出ているらしいので買う。この本は辞典をつくった大槻文彦の伝記。

(江戸に)着任して間もなく信太夫は、大槻磐渓を介して福沢諭吉を知った。二人はこれからの日本の青年の教育について語り、共鳴することが多かった。 翌万延元年、諭吉が咸臨丸で渡米した時には、信太夫は藩金二千五百両を預けて洋書の購入を依頼した。洋学を志す若者たちのために、最新の洋書をできるだけ限り備えてやりたかった。初めて日本人だけで操船して太平洋を渡るという、命がけの冒険航海に出る咸臨丸だ。そこへ二千五百両もの公金ー咸臨丸が二万五千両だから乗って行く船の一割にもあたる金だーを預けようという無茶な話である。しかし福澤はえ大童の人柄と考え方をよく知っている。大童も福澤をよく知っている。福沢は気軽にこの金を預かり、四か月後の五月に品川に寄港した時には大量の要素を持ち帰ってきた。 高田宏、『言葉の海へ』

ネットにもあった。例の機関紙のon lineだ;

福沢諭吉をめぐる人々 大童信太夫

■ 今週の「ゾッキ」本

■ 今週の今世紀初めて

タワーレコードの前を通ったので、入る。何十年ぶりだろう。少なくとも、今世紀は初めてだと思う。 ↓ 何か売ってるものが、何十年と変わらない ↓ 違う。輸入盤ではないのだ、と今気づく。

おいらが初めてタワーレコードで買ったのが、Anita Bakerの Raptureだ(wiki)。当時は、すべて輸入品だったに違いない。そして、CDとレコード盤が共存していた時代。CDを買った。1年もたたず、レコード盤は店頭から消えた。その時点で、ジャケットが大きくて見栄えがするレコード盤もあれば、飾りにいいのになと考えた記憶がある。当時、日本発売のLPが2,500円で、輸入盤が1,000円ほどだった。断然、安かった。輸入CDの値段は記憶がない。

 ↓ Anita Baker はなかった。

何で急にタワーレコードかというと、戦後日本の偽毛唐化問題(=戦後日本社会のアメリカ化)を考えていたから。松任谷由実は、1970年前後?、横田か立川のPXでレコードを買っていたとのこと[1]。つまり、プラザ合意の後、1980年代のタワーレコードというのは、PXのレコード売り場が、巷に展開したということだ。

[1] 「八王子の家から、20分ぐらいで立川とか横田のベースへ行けたわけ。(略)だいたいはハーフの友達とか、みんな16ぐらいでもうクルマ持ってたから、そういう友達に迎えにきてもらうのよ。ベースに行くとPXでレコードも買えるのね。彼女たちはおしゃれとか男の子に夢中で、どうしてそんなにレコード買いあさるのよ、って変な眼で見てたけど、私はもうレコードに夢中。輸入盤は840円ぐらいだったんじゃないかな」(松任谷由実『ルージュの伝言』(Amazon) 42―43ページ)(引用元)

後記:調べると、今のタワーレコードは米本社からは独立しているとのこと(wiki).


新しい街でもぶどう記録;第353週

2021年08月14日 18時45分38秒 | 草花野菜

▲ 今週のみけちゃん

▼ 新しい街でもぶどう記録;第353週

■ 今週の草木花実

■ 今週の不混和 (ここで、「不混和」とは融合(fusion)の対義語として使用)

タリバーン、アフガン州都の半数を制圧 首都カブールへの進撃加速 Google

▼対蹠としての「融合」▼ アメリカをありがたがるアジア諸国

20世紀後半の東アジアを考えてみよう。第二次世界対戦後、アメリカとの技術格差、所得格差は圧倒的に見えた。自家用車や郊外の広い家、耐久消費財をベースにしたアメリカのライフ・スタイルが書物やマスメディアを通して伝えられ、人々の憧れの的となった。

昨日の記事より

なお、シンガポールの外交官で今は評論家として活躍しているキショール  マブバニは、1960年代のシンガポール育ちで、テレビでアメリカの連続ホームコメディを羨望をもってみていたといて、1960年代のアメリカの中産階級の生活ぶりがすごかったと回顧している。 そして、その頃、同じくシンガポールにいたはずなのが、 Su Chin Hock、史進福さんだ(愚記事)。

 
google

東アジアにおける「融合」事例だ。

● ということで、アフガニスタンは20年にわたり米軍支配にあったにもかかわらず、アメリカのライフ・スタイルは浸透しなかった。イスラム法に忠実とされるターリバーン [wiki]がアフガニスタンを支配しようとしている。

つまり、アメリカの支配が成功したのは日本(とドイツ)だけという歴史的結果だ。

巷の声も、yahoo ニュース、米のアフガン撤収は「誤り」 英国防相のコメント欄に見える。

なお、アフガニスタンは「帝国の墓場」といわれ、今回の米国は英露(ソ連)に続くものである。でも、呼び名は、「帝国の墓場」でもいいが、「毛唐の墓場」でもいいだろう。

■ 今週のもったいない本舗

■ 今週の、ちょっと、我が眼を疑う

「堂」入り

■ 今週の購書

三根生久大の『戦略』(Amazon)[1円だった]は、ベトナム戦争のサイゴン陥落(米軍撤退)を受けての本。おりしも、カブール陥落が時間の問題だという今週にあがなう。副題は、アメリカはアジアを見捨てたか、とあるが、1970年代横浜の本牧、岸根、淵野辺、などなど、東京の横田などなど米軍基地・施設の閉鎖、返還が相次いだ。つまり、「負ける」と「逃げて」いくのだ。

台湾で失敗したら、ついに、日本列島から「逃げて」いくのではないだろうか?

益尾知佐子、『中国の行動原理』は、売れているらしく、中古で安くならない。新刊で購入。その語り口といえば、例えば、

中国人のリアリズムは、自分は善、敵は悪という前提に立ち、人間的な感情の渦巻く権謀術数の世界観である。そのサバイバル競争はホッブスの想定よりもずっと激しく、指導者はあらゆる場所で友からも部下からもだまし討ちの恐怖に苛まされ続ける。

これが正しい中国像なのか、「道徳的に劣っている中国人」というステロタイプなのか、詳細な学術的裏付けがあるのかは、よく読んでみよう。

 

Dinesh D'souza はアメリカ人1世。母国はインド。アメリカ人になった元インド人が、先住民虐殺や奴隷制度などアメリカ合衆国の正統性を疑わせる史実をどう理解・了解していくかを論じた本らしい。右は、関曠野の『なぜヨーロッパで資本主義が生まれたか:西洋と日本の歴史を問いなおす 』(Amazon)。関曠野は、上記の「融合」問題、すなわち戦後日本の経済成長を「スノビズム」の問題だといっている。つまり、アメリカ化というスノビズム(実際の自分の属性を恥じ、自分が上等、高級だと思う価値観を虚栄的に身に着けようとする挙動や心情)だといっている(『資本主義ーその過去・現在・未来ー』)。その関曠野が自分の生い立ちと「西洋」との関係を語っている。そして、そのスノビズムとは何であったのかの一端が示されている。

■ 今週の猫傷(びょうしょう)

 
無理にみけちゃんにかまったら、やられた。


‪融合:東アジアの奇跡におけるアメリカの影;杉原薫、『世界史のなかの東アジアの奇跡』

2021年08月13日 20時54分04秒 | 日本事情

‪おいらが、ものごころつきはじめた頃から気になっていたのが、戦後日本のアメリカ化現象。なんで、みんなアメリカの猿真似をしているのだろうというものだ。端的にいって、偽毛唐問題だ。

問題は、理解しやいすいことと理解しがたいことの両義性だ。つまり、最初、小学校4年生くらいの頃、1970年代後半のこと。1945年に日本は戦争に負けて貧乏になり、占領軍のお恵みを受けたという「物語」(事実と神話)を知り、敗残国民が豊かで強いアメリカに憧れることは理解できた。


敗戦後の日本人の少なからずが、アメリカ人のように暮らしたいと願い、実現させたのが高度成長を経た戦後日本なのだろう。日本人をして、「アメリカ人のように暮らしたいと願」わせしめたのはこういうイメージを見せつけられたからであるに違いない。  (愚記事:米国的生き方 [American Way of Life] としての児童公園、あるいは、パクリ元の判明)

しかし、それは屈辱的なことではないかとも思った。ちなみに、その頃、1970年代後半、札幌ではオリンピックはとうに終わり、もちろん戦争の痕跡はなく(小学生には見えず)、むしろ、ケンタッキー・フライドチキンの日本での何番目かのフランチャイズ店が、今はみないような、あのでかい"バケツ"の派手で大きなアメリカンな看板を誇示していた。悲しいことは、フライドチキンはうまく、コールスローをこんなものがあるのかと思ったことだ。

なんで、みんなアメリカの猿真似をしているのだろう(KFCがうまいからだ)ということに加えて、ちまたでは、アメリカ出羽守が圧倒的権力をもっていた。なんでも、「アメリカではこうだ」。「こんなことはアメリカではありえない」といえば、日本社会でのさばれたのである。哀れなことは、アメリカ出羽守に圧倒されることばかりでなく、自分もアメリカ出羽守のようにのさばることを望み、励んでしまうことだった。偽毛唐問題は自分の問題だった。

さて、その戦後日本の偽毛唐化、アメリカの猿真似は消費活動、経済活動で爆発的に示された、とおいらは思っていた。つまり、戦後日本の経済成長は、敗残国民の戦争傷痕の補償作用だろうと思っていた。(貧しく因循な)日本人を脱却して、(自由で豊かな)アメリカ人になろうとした文明現象だろうと思っていた。

でも、違う論を知った。昨日のブログ記事で言及した、杉原薫の『世界史の東アジアの奇跡』にあった。「融合」。戦後日本の経済発展は、異なる経済発展経路の「融合」なのである。

■ 融合以前

 GoogleMap

愚記事:京都・修学院離宮;参観申込とその実際

今年春、京都に行った。その時、日本が毛唐化する前の生産現場を訪れることができた。扇状地の斜面を、多大な労働力投入により、田園(農産物産出資本)をつくった。近代以前のことだ。つまりは、「融合」の前だ。

■ 融合を知る

戦後日本の経済発展は、敗残国民の特殊な補償行為ではなく、経済史学的に説明できる現象なのだと、杉原薫の『世界史の東アジアの奇跡』は云う。

杉原薫、『世界史の東アジアの奇跡』の第9章 アジア太平洋経済圏の興隆、4節 文明の融合と矯正、に書いてある;

 これまでの理解では、異なる文明が接触した時、衝突したり、対抗したりする場合には技術移転や文化の相互学習が起こりにくいとされてきた。 例えば植民地下のアジアでは、概して接触の強さに比べて、西洋の技術移転による経済的効果は限られていた。イギリスは、西洋文明を基準とする「道徳的物質的進歩」を植民地インドの人民に押し付けようとしたが、それ以前の文明への無理解と西洋文明の優位性への確信のために、多くのビジネスチャンスを逃してしまったように思われる。

(中略)

 しかし、文明の接触は、衝突や棲み分けではなく、「融合」をもたらすこともある。相互学習に熱心な文明の間で接触が生じた場合には、むしろ文明の違いが大きければ大きいほど、ビジネス・チャンスも増える可能性がある。それはどのようにして生じたのであろうか 。

(中略)

 ただ、工業化による大量生産方式のリズムやグローバル化によって、消費構造の突然の、しかし長期の経路依存性に依拠した変化が重要でなくなったわけではない。

 そのような視点から、20世紀後半の東アジアを考えてみよう。第二次世界対戦後、アメリカとの技術格差、所得格差は圧倒的に見えた。自家用車や郊外の広い家、耐久消費財をベースにしたアメリカのライフ・スタイルが書物やマスメディアを通して伝えられ、人々の憧れの的となった。 他方。モンスーン・アジアの稲作経済に共通する初期条件のひとつは、激しい労働になれた膨大な人口を擁するということであった。 そこでは消費や生活水準の向上と勤勉とは必ずしも個人のレベルで直結するものではなく、家族(日本ではイエ制度も大きな役割を演じた)全体の剛性を高め、その共同体における地位を維持したいという強い動機を介して結びつくのが常であった。

 教育を受けて、労働の質を向上させることに熱心な人達。直ちに西洋化はしないけれども、新しい消費財には極めて敏感に反応する人たち。こうした人たちがアメリカの大衆消費社会を発見し、自分たちの社会にも吸収可能だと感じた時、はっきりした目標が生まれた。消費意欲が労働投入の増加を誘発し、わずかな所得の増加が大衆消費財の需要を呼ぶという循環によって、大きな変化が起こるための準備が完了したのである。

日本の「実験」

 融合のひとつの形を作ったのは戦後の日本である。 みずからの社会で生産していない商品を作ろうとする場合、まずその商品を輸入し、社会がその有用性を学習しながら輸入代替が始まるのが自然である。 占領期は、日本にとってアメリカの文化を理解する。社会的学習の格好の機会を提供した。そして、1950ー60年代に、最終消費需要の性格が急速に「西洋化」していく。 その過程は、外国の資本や移民をほとんど受け入れずに、ライセンスで購入した技術と欧米からの製品の輸入だけによって国産品を作るという、いわば純粋に日本人の立場から文明の融合を図る「実験」をしているかのようであった。

 衣食住について簡単に見ると、まず衣では、和服から洋服への転換が進んだ。既製服の普及によって、サイズや体型に合った服や下着が量産され、簡単に入手できるようになったことが大きい。 また、米食からパン職への転換とともに、いわゆる副食の量が増え、むしろ副食のほうが主たる食事になった。都市では木造住宅に代わって鉄筋アパートが建てられ、しだいに郊外の住宅地が開発されていった。そのなかに家電製品がぎっしりと詰め込まれる。テレビ、洗濯機、冷蔵庫に始まり、ステレオ、エアコン 、電子レンジ 、ビデオが続いた。応接セット、ピアノなどの耐久消費財や、電話、自動車などもこれと並行して普及した(中村1993、18-23)。一連の変化が、根強く生き残っていた在来産業を衰退させ、近代的な最終消費財産業や新しい流通経路を育てた。

 しかし、厳密に言うと国内市場は完全に西洋化したのではなく、バイカルチュラルな質を獲得したのである。衣食住の体系の中で例えば醤油とスパイスの、あるいはタタミと椅子の文化的分裂性が弱まり、統一性はなかったとしても一つの連続性を持ったシステムがしだいに出来上がっていった。 

■ アメリカの影

杉原薫、『世界史の東アジアの奇跡』では、東アジアが奇跡的に経済発展した原因はアメリカと繋がったからであるといっている。自由化前のインドが経済発展しなかった理由はアメリカとの関係であると云っている;

インドが労働集約的工業化(「東アジアの奇跡」(後述)の肝)がうまくいかなかった理由は、繊維商品の市場を、「東アジアの奇跡」を経た東アジア諸国に奪われたことである。これはインドが非同盟路線を選び、米国の経済圏に参加しなかったからである。これについて杉原は「発展途上国の戦略にとって重要なのは、貿易の量やそのGDP比で表現される開放度だけではない。どの国と貿易を行い、どの国から資本を輸入したのかということが決定的に重要である。例えば、1950年代は、アメリカが世界経済の成長の原動力だった時期であり、自余の世界に願ってもない貿易と技術移転の拡大の機会を提供していた。日本はその機会の主要な受益者だったのに対し、インドはあえてそれを利用とはしなかった。」(p563)

▼ まとめ

杉原薫、『世界史の東アジアの奇跡』ほど「アメリカ万歳!」の本はみたことがない。岡崎久彦、阿川尚之も霞んでみえる。


最近読んだ本(杉原薫、『世界史のなかの東アジアの奇跡』)から思い出されたなつかしい本の話

2021年08月10日 18時50分33秒 | 

■ 最近読んだ本(杉原薫、『世界史のなかの東アジアの奇跡』)

出版社紹介site

今年、春-夏、杉原薫の『世界史の東アジアの奇跡』[1]を、横浜市立図書館から、2度計8週間借りて読んだ。この本の要旨は、下記[1]のリンク先の記事に書いた。この本において、近代世界の経済発展が複数あることを示し、さらに経路間の関係、影響の歴史について記した経済史の本。

今年の春まで、杉原薫を全くしらなかった。杉原薫を知った経緯は、アリギの『北京のアダム・スミス』[2]を読んだから。

[1] 杉原薫の『世界史の東アジアの奇跡』については、ひとつの章のメモを記事にした:杉原薫 『世界史のなかの東アジアの奇跡』 第12章 "戦後世界システムとインドの工業化" メモ

[2] アリギの『北京のアダム・スミス』も横浜市立図書館から、2度計4週間借りて読んだ。言及記事;①3/6、②4/10、③7/10

アリギの『北京のアダム・スミス』は、東アジア、特にチャイナの経済発展を、西洋的経済発展とは違うものとして認識している。「スミス的経済成長」。「スミス的経済成長」の重要要素が、勤勉革命。参照・引用の研究が杉原薫のものだった。

アリギの『北京のアダム・スミス』のあと、ポメランツの『大分岐』、A.G. フランクの『リオリエント』(愚記事)も借りて読んだ。

これらは、最近、「グローバル・ヒストリー」として注目の分野。特徴は、西洋中心史観からの脱却と人類史的視点。

最後尾に杉原薫の講演YouTubeを貼っておく。

■ なつかしい本の話


杉原薫、『世界史の東アジアの奇跡』の引用・参照文献表より

『世界史の東アジアの奇跡』は題名通り東アジアの経済発展についての本であるが、南アジア(インド)に、比較・参照のため、章を複数立てて論じている。その章のメモは愚記事にした。

『世界史の東アジアの奇跡』の引用・参照文献表に長崎暢子と中村尚司の名が、五十音順なので、並んでいた。おいらは、10代の頃から知っている名前だ。1980年代初頭だ。この文献表の文献ではないが、二人の本はもっていた。中二病の頃から「インド幻想」をもつようになった。アメリカが嫌いだからだ。排外的、右翼的政治的動機からだ。ただし、アメリカが嫌いだからといってインドに注目するとは、インドに失礼なのではあるが。その頃、映画「東京裁判」が上映され(1983年)、戦勝国の"文明の裁き"に憤り、パール判事のインドに希望をもった。もちろん幻想だ。インド人に会ったこともないのに。さらに、子供の頃から、アメリカの猿真似をしてきた戦後日本にとても違和感と嫌悪感をもっていた。偽毛唐ではない生き方、社会の在り方はないのだろうかと思った。幻想であり、欺瞞的でもあった。なぜなら、子供の頃から、アメリカの猿真似をする生活に浸かってきたからだ。これらの違和感と嫌悪感そして欺瞞性について、中二病の頃から自覚していた。

さらに、(今でいうところの"リベラル")戦後民主主義、平和と民主主義に反感をもっていた。"リベラル"はもちろん左翼も呪っていた。いわゆる(当時はそういう言葉はなかったと思うが)東京裁判史観を怨んでいた。今思えば、戦後日本はマッカーサーとソ連赤軍の「連合赤軍」によるプロパガンダが日本人知識人により喧伝されていた時代だ。

 
マッカーサーとソ連赤軍の「連合赤軍」
1945年9月2日 ミズーリ号の降伏文書調印式

帝国主義のイデオローグ:カール・マルクスの発見; インド幻想でインド関連の本を読んだ。長崎暢子、『インド大反乱一八七五年』もその1冊だ。そして、発見した。カール・マルクス、『イギリスのインド支配』(愚記事:カール・マルクス、『イギリスのインド支配』和訳全文)。マルクスは大英帝国のインド支配を当然視しているのだ。理由は、遅れた文明は進んだ文明に破壊されてこそ、再生できるという言い分だ。とても複雑な気持ちがした。大日本帝国(以下、日帝)を擁護したいおいらが、日帝を非難する人たちの教祖が帝国主義のイデオローグであるとわかったからである。

おいらは、インド関連の本でみたのだから、当然、インド研究者には有名な話であった。当時、歴史学でも「唯物史観」的理論がまだまだ支配的であった。インド研究者は、カール・マルクス、『イギリスのインド支配』に対峙しなければならなかったはずだ。ただし、当時、マルクスを帝国主義のイデオローグと批判している研究者はいなかった。ちなみに、今日現在でも、マルクスを帝国主義のイデオローグと批判している研究者をおいらは知らない。唯一人、”西欧のもっとも露骨で恥知らずな植民地主義者の文章 ”といっているのが、西川長夫である。ただし、「」といっているのであって、そうだとは云っていない点に注意。

こういういきさつで、マルクスを読んでみようとした。特に、マルクス主義と非西洋社会のこと。1980年代前半、1970年代の連合赤軍事件(リンチ殺害)、内ゲバを経て、マルクス主義批難があった(マルクス葬送派)。

愚記事;1985年の藤原良雄 より

▼ 中村尚司、『共同体の経済構造』

中村尚司、『共同体の経済構造』もその頃買った本。2,900円。安くない。今から思えば、なんで買ったのか理解するのが難しい。インド幻想がなせる業であったのだ。そして、そのまま積読となった。とても、専門的である。この本は、中村がスリランカに留学(1965-1969年)に留学し、村落共同体のフィールド調査を基にした研究論文。つまり、中村尚司は日本の高度経済成長絶頂期をスリランカ、インドの農村で過ごした。1968年革命も大学紛争も無縁だったのだろうか。

今回の機をとらえ、みてみた。中村尚司、『共同体の経済構造』に書いてある;西洋近代が唯一の発展モデルではなく、アジアの各地には、それぞれ固有の過去の労働の蓄積形態が展開されている。この本は1975年に刊行され、1984年に再刊行された。藤原良雄(当時新評論社)が関わっている。中村尚司、『共同体の経済構造』の観点、西洋中心主義、西洋的経済発展経路唯一主義に異を唱える観点は、杉原薫、『世界史のなかの東アジアの奇跡』と通じている。

中村尚司は、自らを、澪落した商人の倅として、西陣の路地裏社会に生まれ育ったと示す。そして、<価格>の経済学と<規格>の経済学は、嚙みくだいてみてものみこんでみても、どうすることもできないような異和を残している、と記している。ここで、<価格>の経済学は近代経済学(新古典派総合)、<規格>の経済学はマルクス経済学を示しているのだろう。

なお、竹内宏の『路地裏の経済学』は1979年なので、1975年の中村尚司の路地裏宣言の方が早い。

今、この本をみてみると、長崎浩の『叛乱論』(Amazon)が引用されている。ところで、今回、杉原薫のwikipediaをみて、長崎暢子が配偶者と知った。つまり、長崎暢子は、長崎浩と離婚して、杉原と再婚したらしい。

▼ 現代思想、1975年12月臨時増刊号、『総特集=資本論 後記マルクスへの視座』;今からみれば

『総特集=資本論 後記マルクスへの視座』が積読してあった。改めてみると、中村尚司の文章が載っていた(「労働家庭と歴史理論」)。内容は京都市内出身の中村が始めて『資本論』を読む身の上話からはじまり、「大学を卒業してから、西洋近代とは異なった社会発達のコースをとった農村社会の実態調査を行ない、書斎よりも生産現場で考えるよう心がけてきた私」を語る。「マルクスの論理をアジア社会の理解に活用するためには、(資本論の)「労働過程」の再検討が重要な課題であると。資本家的生産様式を分析する理論の一環として読めるとしている。そして、最後は、マルクスも時代の子であるから、新しい歴史理論が必要と結んでいる。

一方、この『総特集=資本論 後記マルクスへの視座』をみると、杉原四郎の文章(「ロビンソン・クルーソーと『資本論』」)と杉原薫の訳文(D. マクレラン [3]、「マルクスとその見失われた環」)が載っていた。杉原親子だ。今、気付いた。

[3] David McLellan (wikipedia) 、『マルクス伝』(Amazon)は杉原四郎が翻訳している。上の画像:愚記事;1985年の藤原良雄 より:の最下段の本は、D. マクレランのものだ(Amazon)。


京都大学2011年度最終講義 杉原 薫(東南アジア研究所 教授)「工業化と地球環境の持続性」


大英帝国に使嗾されるインド兵;北京(1902年)、東京・鳥取(1947年)、最初はアヘン戦争(1840年)、なぜシーク教徒?

2021年08月08日 19時38分13秒 | インド


北京1902年、円明園  ソース


東京1947年  ソース


鳥取 1946-47年頃  ソース

アヘン戦争(1840年)のイギリス軍の多数兵はインド兵であったと知った。今まで、知らなかった。大川周明の『英米東亜侵略史』にも書いていなかった。

でも、高校の世界史の教科書でみんな、この写真を見るはずだ;


↑義和団事変に出兵した各国兵士 左から、英・米・露・インド・独・仏・オーストリア・伊・日 

ちゃんとインド兵が写っている。義和団事変は1900年。なので、インドはインド帝国の兵士であったことになる。なお、この写真が1900年撮影。なので、このインド兵は女王陛下の兵士だ(Queen's soldier)。インド帝国の君主はヴィクトリア女王であった(彼女は1901年1月22日没)。

インド兵が最初にチャイナを襲ったのが1840年、アヘン戦争だ。

(大英帝国の)中国に対する砲艦外交では、「帝国拡張の先兵」インド軍が動員された。インド軍は、インド財政の負担で維持され、イギリス政府とインド政庁が自由に海外へ派遣できる緊急展開部隊として、インド洋周辺の地域やインドの北西国境地帯を中心に、アジア・アフリカの各地に派兵された。イギリス帝国拡張と防衛の経費は、白人自治領もその一部を負担したが、その大半はインド財政に押しつけられたのである。第一次アヘン戦争では、約五八〇〇名のインド軍が広東に、第二次アヘン戦争(アロー戦争)では約一万一〇〇〇名のインド軍が北京の攻略に動員された。ただし、この場合の中国遠征の経費は、本国側が負担した。(秋田茂、『イギリス帝国の歴史』)

そして、秋田茂、『イギリス帝国の歴史』には書いてないが、円明園のあの破壊 [1]にインド軍は参加しているのだ。

    

[1] 1856年(咸豊6年)に勃発したアロー戦争(第二次アヘン戦争)に際して、北京までフランス・イギリス連合軍が侵入、フランス軍が金目のものを全て略奪したのち、遠征軍司令官エルギン伯の命を受けたイギリス軍が「捕虜が虐待されたことに対する復讐」として徹底的に破壊し、円明園は廃墟となった。(wiki)

エルギン配下で円明園を破壊したインド軍兵士;パンジャブ連隊のシーク教徒兵士 [2]。下のYouTubeより;

[2] 8th Regiment of Punjab Infantry

Story of Indian soldiers who fought for British Army in China | James Bruce, Earl of Elgin | WION

このあいだのヒマラヤでの中印軍事衝突でインド兵が20名死亡。ところで、アロー戦争ではインド兵が清軍に捕まり拷問で20人ほど殺されたという話と円明園を破壊した話を紹介している。

■ そして、日本

敗戦後の占領下で、皇居前広場を行進するパンジャブ連隊が映っている動画を見つけた。

Ceremonial retreat at Tokyo

日本敗戦時、インド帝国のパンジャブ連隊は英連邦軍の一部として日本占領に参加した。大英帝国とインド帝国の「最期」の覇権的派遣だ。

パンジャブ連隊は鳥取に駐屯した。一方、東京にも出張り、占領軍としての示唆的行動=パレードを行っている。

パンジャブ連隊を含む英連邦軍の占領地は中国・四国地方であった。ただし、東京には連合軍としての一端を担うことを誇示するために駐屯した部隊もある。キャンプ・恵比寿。主に、豪軍[3]。そのキャンプ・恵比寿には呉など中国・四国地方から英連邦軍がしばしば訪れていたと記録からわかる。

[3]

 
左;第67歩兵連隊の所属。岡山に駐屯していた部隊。撮影場所は皇居、右;所属部隊不明、渋谷・ハチ公像前

● なぜ、シーク教徒か?

なぜ、インド軍兵士はシーク教徒なのか? あるいは、なぜヒンドゥー教徒ではないのか?

当時のインドの職業兵士;シパーシー(セポイ)の中のヒンドゥー教徒は、インダス川を渡って遠征すること、船に乗ることがタブーであった。あのセポイの乱は、下記理由で生じた;

彼らが反乱を起こした直接的な原因は、イギリス本国で新たに採用されたライフル銃(それまでの滑腔銃と異なり正確な命中精度と強力な威力を持つ)であるエンフィールド銃の薬包(先込め銃に装填する一発分の火薬と弾丸をセットで紙包みに包んだもの)に、ヒンドゥー教徒が神聖視する牛の脂とムスリムが不浄とみなしている豚の脂が使われており、この銃がシパーヒーにも配備されるという噂が流れたこと (wiki

一方、前述のように、シパーシー(セポイ)のうちヒンドゥー教徒は遠征も拒否していた(長崎暢子、『インド大反乱 一八五七年』)。したがって、大英帝国の海外遠征文体はイスラム教徒、シーク教徒となったと思われる。

こういう事情で、チャイナでも日本でも現れたインド帝国軍兵士はシーク教徒だったのだ。

なお、われらが大日本帝国が支援した「インド国民軍」は戦後インドで裁判にかけられる。


愚記事;Chalo Delhi! INA :インド国民軍


新しい街でもぶどう記録;第352週

2021年08月07日 16時25分17秒 | 草花野菜

▲ 今週のみけちゃん

▼ 新しい街でもぶどう記録;第352週

■ 今週の草木花実

■ 今週の弥縫

今週、立て続けに靴下に穴が開いた。3つの穴を繕った。

■ 今週の発見:改元の痕跡

横浜市立図書館の返却期限指示栞の日付が、令和になって西暦となったと気づく。

■ 今週の「泣きたくなるのか?」

秋に京都に遊びに行くことにした。桂離宮も行く。Google「泣きたくなるほど美しい

■ 今週の訳あり商品の惹句


訳あり焼きのり 俺の初恋

■ 今週知ったこと;板垣退助の偉業

最近、福沢諭吉を読んでいる。基本書をまず。

動機は、150年前の日本人はなぜ西洋を「文明」と見なしてありがたがったのか?という疑問。

もっといえば、なぜ今も日本人はなぜ西洋を「文明」と見なしてありがたがっているのか?ということ(下記に例外を記載:■ 今週知った言葉)。

つまり、なぜ奴隷制のある(諭吉訪米当時)のアメリカ、奴隷主が創った国アメリカ、先住民を駆逐・虐殺して創った国アメリカを「文明」なぞと認識していたのか知りたいからだ。そもそも、諭吉がアメリカが、先住民を駆逐・虐殺して創られた国、奴隷主が創った国と認識していたかという基本的事実を確認したいと思った。諭吉がアメリカ以外に行った欧州についても、奴隷貿易、植民地主義をしていたことをどう認識していたか知りたい。

でも、諭吉は、奴隷について言及している。ただし、アメリカのアフリカ系の奴隷ではない。

インド人(Indians)が英国の「奴隷」となったと云っている;

印度の人はこの貴き典籍を守り、この旧き国風を存して、高枕高眠のその間に、政権をば既に西洋人に奪われて、神霊なる一大国も英吉利(イギリス)の庖厨(ほうちゅう=炊事場)と為り、プラザマ・ラジャの子孫も英人の奴隷と為れり。(『文明論之概略』)

さらには、チャイナのアヘン問題も認識しているとわかる;

インドはすでに英国の所領に帰してその人民は英政府の奴隷に異ならず。今のインド人の業はただ阿片を作りてシナ人を毒殺し、ひとり英商をしてその間に毒薬売買の利を得せしむるのみ。(『学問のすすめ』十二編)

ただし、インドが英国の「奴隷」となったのは、古いものにしがみついていて、高枕高眠していたからだと、落ち度はインドにあるという認識である。人さまを「奴隷」にしたり、毒薬を売買するイギリスの鬼畜性を看過している。

北米の「インディアン」についても諭吉は認識している;

今の亜米利加は、元(も)と誰の国なるや。その国の主人たるインヂヤンは、白人のために逐(お)われて、主客処を異にしたるにあらずや。故に今の亜米利加の文明は、白人の文明なり、亜米利加の文明というべからず。(『文明論之概略』)

この文章は次のような要旨の文の後に続いていた。つまり、欧米は日本に来てまだ大きな害を与えてはいないが、国を憂うる人たちはこういう例もあることを知れと。

つまり、こちらに防衛対応責任があるというのだ。もちろん、警戒、防衛すべきだ。事実、諭吉は奴隷にならぬように、独立せよと言っているのだ。

でも、白人の文明とはそういう鬼畜文明だとなぜ断定できなかったのか? 

一方、『文明論之概略』では、日本の江戸時代の文明に対しての誹謗中傷が綴られている。儒学ー御殿女中神話など、戦後の「憎日」進歩的知識人の雛形だ。事実、丸山眞男は、御殿女中が大好きだ [google]。諭吉は、幕藩体制で、自分が不遇だったので、怨望を漲らせていたのであろう。でも、無知であった。無知の涙!

もちろん、当時、「学問」がないので、江戸時代の日本社会の美点、すなわち、戦乱がないこと、対外戦争もないこと、社会が200年にわたり継続できていたこと(海外からの収奪なしに)などが全くわかっていない。

慶応の速水融は、福沢をどう思っていたのか? せめて、紙つぶてとして、諭吉にこれをぶつけたい;

 

▼ そして、板垣退助

福沢諭吉が西洋文明をありがたがっていた頃、日本で西洋をありがたがる知識人の間でスペンサーの社会進化論が流行したとのこと。適者生存、優勝劣敗、もっといえば、弱肉強食。

そのスペンサーに板垣退助が論難したと初めて知った;

板垣退助がスペンサーと会見した時、板垣が「白色人種の語る自由とは、実質としては有色人種を奴隷の如く使役した上に成り立ってる自由であり、これは白人にとって都合の良い欺瞞に満ちた自由である」と発言したことに対して、スペンサーは、「封建制をようやく脱した程度の当時の未だ憲法をも有していない日本が、白人社会と肩を並べて語るには傲慢である」と論を退け、板垣の発言を「空理空論」となじり、尚も反論しようとする板垣の発言を制し「NO、NO、NO…」と席を立ち喧嘩別れのようになる一幕があった。wiki

板垣退助は、白人の御都合主義をきちんと見抜いている。「云ってることと、やっていることが違う」という今にいたる白人の欺瞞的挙動だ。

板垣退助は、ただ西洋をありがたがるばかりでなく、ちゃんと批判的に、是々非々で判断し、かつ相手に対峙して反論していると知る。

でも、日本政府は、自国が馬鹿にされ弱いことを悔しく思って、憲法制定、富国強兵の道を進むのだなあ。

■ 今週の焼夷/傷痍知識人

題に「保守」の語が入る本が目立つようになったのは平成になってからだろう。昔は、保守的な人は、自分で「保守」とは云っていなかった。

さて、1963年刊行。巷では傷痍軍人の姿がみえたかもしれない。ネットでは「”新”とあるが、1960年代の本なので、ネオコンなどとは関係ない。要するに、親米保守のハシリについて書いた本」(ソース)と軽口がある。

小泉信三と田中美知太郎の名を見つけた。ふたりとも、焼夷/傷痍知識人だ。いうまでもなく。小泉信三は福沢諭吉の創った学校の戦時中の「長」(塾頭)であった;

小泉自身も1945年(昭和20年)の東京大空襲で、焼夷弾の接触により顔面に大火傷を負う重傷で、一時は高橋誠一郎が塾長代理を務めた。1947年(昭和22年)に塾長を任期満了で退任した。wiki

田中は戦争被害者で焼夷弾で焼かれた顔は恐ろしかった (ソース

つまりは、ふたりとも、東京ジェノサイドの生き残りだ、

でも、戦後、アメリカのジェノサイド批難はしていない。それが、当時の、新保守だったのだろうか?

なお、wikipedia 小泉信三では、戦時中の小泉の反米言動については記載がない。

https://mobile.twitter.com/ankokunikkibot/status/1407957977873588225

戦後は「米国の奴隷」だったということか?

なぜ、明治維新の時も敗戦の時も、鬼畜さまをありがたるのが不思議だ。

■ 今週知ったこと、米国の白物家電メーカー

関連愚記事;「白物家電」(家事関連電気製品)は、なぜ白い?

ワールプール・コーポレーション (wiki)

日本は三洋電機は消えたし、パナソニックなどの凋落とのこと。今の日本では、輸入品が目立つらしい。でも、米国のメーカーが健在と知る。

■ 今週知った言葉;ブリカス(google


YouTube

ブリカスとは、「ブリテン」と「カス」の合成語で、日本国内におけるイギリスに対する蔑称。発祥は2ちゃんねるの軍事板界隈とされる。  (ソース)

■ 今週のインド旗

ものを整理していたら、出て来た。デリーの街頭で、政治的か何かのグループの人に、こちらの許可もなく、服に付けてきた。ピンで。この旗は紙。 今、よく見ると、中央の糸車がインド旗の「ただの輪」とは違うと気づく。

■ 

 


続;1945年夏の敗戦、東京入城の米軍は八王子方面から、コロネット作戦/ブラックリスト作戦

2021年08月02日 18時58分36秒 | 武相境

愚記事に「1945年夏の敗戦、東京入城の米軍は八王子方面から」がある。

要旨は、敗戦後、東京に入城した米軍の経路について、のちに東京入城をする第1騎兵師団は9月2日に横浜港に上陸し、次に相模原の座間など日本軍の諸基地に進駐し、一旦留まり、9月8日に八王子を通り、府中、調布を進軍、都内に入った。多摩川をどこで渡ったかは依然わからない。

この記事ではなぜ八王子を通り、府中、調布を進軍、都内に入ったかは書いていない。今回、事由が、おいらにとって、わかった。とっくに公知のことだった。

▼ コロネット作戦/ブラックリスト作戦

コロネット作戦は日本本土占領ための上陸作戦の戦争計画。1945年8月2日に決定される。1946年3月1日に実施予定だった。しかし、日本が降伏したので、実現しなかった。一方、ブラックリスト作戦とは、降伏した日本への上陸作戦と日本各地への展開の作戦。これは実施された。

コロネット作戦の侵攻予定経路 (ソース)。主力軍は相模湾に上陸し、八王子を抜いて、関東平野北方=関東平野の扇の要を占拠する計画だったとわかる。

↓ 上の図の八王子を中心とした拡大図

コロネット作戦では相模湾から大磯-茅ヶ崎海岸で上陸し、相模原を北上し、八王子に向かうことを計画していた。実際の東京入城は、すなわちブラックリスト作戦は、横浜から上陸し、相模原の日本軍基地に進駐した。さらに、マッカーサーと第11空挺師団は空から「厚木」航空基地に進駐した。

■ コロネット作戦の話は、西村京太郎の本にも書いてあった。愚記事;(東京)陸軍幼年学校、1945年(昭和20年)、あるいは、8月2日の空襲の回想

西村京太郎が15歳のとき在籍していた八王子の陸軍幼年学校は、上陸してきた米軍を邀撃するはずであった、との回想。

西村京太郎、『十五歳の戦争』より

 

 


ジープに女を乗せて;昭和37年4月30日、現上皇后陛下夫妻(当時皇太子夫妻)

2021年08月01日 11時10分23秒 | 日本事情


昭和37年(1962年)4月30日、こどもの国の竣工式から25日後に視察する現上皇后陛下夫妻(当時皇太子夫妻)
出典:こどもの国web site :上皇陛下とこどもの国

この写真を数年前に初めて見た(愚記事)。興味深かったのは、のちに運転免許をもつこととなる上皇陛下(あきひとさん)がこの頃はまだ車を運転していなかったのだなぁということ。さらには、この地は元来旧軍の弾薬庫・弾丸製造所であり敗戦後は占領軍に接収された。その地を「こどもの国」をつくる[1]というので、米軍から返還してもらった。建設が始まって視察する皇太子ご夫妻がジープに乗っている。画像をよく読むと、三菱製だ。つまり、敗戦前にはジープなぞつくっていなかった日本が、戦後、朝鮮戦争の軍用車の供給不足で、米軍向けの生産を米軍の指導ではじめた。そもそも敗戦後、日本は自動車生産を占領軍から禁止されていた。ましてや軍需生産をやである。その日本「復活」の兆候である三菱製ジープに乗って「こどもの国」をつくろうってんだから(レコンキスタ!でも、こども!!!)、おもしろい。

[1]「こどもの国」の設計は、浅田孝(wiki)。建設コンセプトについては、「浅田孝の子供に対する環境開発の手法に関する研究 」という論文がある。

なお、この地で戦時中、動員されていた人の手記の宣伝文にある;沖縄の少女が自決に使った手榴弾。それはもしかしたら、私が造ったものかもしれない。学徒勤労動員として、田奈の森にある秘密の弾丸工場で来る日も来る日も弾丸をつくっていた当時のことを、鮮明につづる。Amazon)。そして、皇太子夫妻が沖縄で火炎瓶攻撃を受けるのは、上写真の日から13年後である。

米軍サポートから80年!? 三菱「ジープ」と「Jeep」の関係性とは

さて、ジープを含む上の写真をみて興味深かったのが以上であるが、最近知った。あの時代の人たちにとって、ジープという印象は強烈であり、ジープと女というのも「喩」を与えたのだと。敗戦時、1945年8月30日の「厚木」から、最も遅かった11月28日の松山まで全国津々浦々進駐軍が進軍した。その進軍はジープを先頭にしていたと歴史は語る。実体験が伝承されている。

最近、あの当時のことを思い出して、私に次のように言った人がいる。占領軍をむかえたとき何より強烈な印象をうけたのは、武器ではなく、ジープだったと、彼はいった。(C・ダグラス・ラミス、『内なる外国』、1981年)

さて、進軍していないこのジープ、しかもタイヤのみ(いや、凶器であったタイヤ!)の画像が、人の抗議を惹起する印象を与えたのだという。『「親米」日本の誕生』(森正人、角川選書、2018年)という本にあった;


『「親米」日本の誕生』(森正人、角川選書、2018年)p75より転載

雑誌、『旅』の表紙だ。時代は1951年6月号。つまり占領下だ。サンフランシスコ講和会議は、1951年9月8日。

この写真を見て、あなたはどう思うだろう?

この写真への苦情について、『「親米」日本の誕生』に書いてある;

(前略)月刊旅行雑誌『旅』では、一九五三年五月号で読者からの次のような投稿があった。

表紙についてですが、占領下であったにしても、独占資本を表現したような建物、それからジープとそこにいる変な形の女性、あんな表紙は二度と出さぬように(一一五頁)

 批判されているのは一九五一年の表紙だと思われる。表紙は西洋風の建築物とジープ、その間を洋装の女性二人が歩いているものだ。投稿者はそこに米軍による日本の暴力的な支配を読み取る。パルテノン神殿のような西洋建築物とジープは確かに新たに日本を統治する西洋に対する反感として理解できるが、女性二人は日本人のようである。何がどう「変な形」なのか。おそらく彼女たちがまだ珍しい洋装であること。しかも進駐軍のジープの近くを歩いていることから、米兵と関係を持っていると読み解いたのではないだろうか。

つまり、ジープと洋装の若い女性が「記号」となって、米軍支配を想起させるという事例だ。

● こういう感覚、ジープと洋装の若い女性が「記号」となって、米軍支配を想起感覚で、上の現上皇后陛下夫妻(当時皇太子夫婦)を見ると、どうなのだろう?

自前のジープも手に入れたし、女も手に入れた。これで立派な戦勝国風ってことかな。


関口宏 75歳で免許返納「進駐軍のジープに憧れた」60年のドライバー人生を“卒業 (google)