いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

新しい街でもぶどう記録;第351週

2021年07月31日 19時47分18秒 | 草花野菜

▲ 今週のみけちゃん

▼ 新しい街でもぶどう記録;第351週

■ 今週の武相境斜面

■ 今週の草木花実

■ 今週の半額

定価75円の半額で購入

■ 今週の100円

■ 今週のインド旗翩翻

■ 今週の「それ、言う?!」

ソース

中国は米国に対して攻撃を続けています。絆を復活させるための要求のリストを引き渡す

●アメリカは中国が新疆(ウイグル自治区)で種族絶滅を図っていると言い掛かりをつけているが、アメリカ大陸にいた原住民を絶滅させて国家を建設したのは、どこの国なのか。現在もなお人種差別をしている国はどこなのか?自国の人種差別と非民主性を改善してからものを言え。

遠藤誉 米中天津会談、中国猛攻に「バイデン・習近平会談」言及できず―それでも習近平との近さを自慢するバイデン

アメリカって外交交渉で他国から、「おまいたちはジェノサイド起源国家だろう、おまけに奴隷主が創った国だし」といわれたことはあるだろうか、「ナチも日帝もしなかった"快挙"」ではないだろうか!(????????)

ハルノートかょ、って感じ。

Xie pointed out that historically, the United States engaged in genocide against Native Americans. Presently, the United States has lost 620,000 lives because of its halting response to COVID-19. Internationally, the frequent U.S. military action and the wars caused by the United States lying about the facts have brought undue catastrophe to the world. "How can the United States portray itself as the world's spokesperson for democracy and human rights?" (ソース

■ 今週のヤマザキのトラック  YouTubeのサムネよりのパクリ

https://www.youtube.com/watch?v=t9zGYajw8zI テレ東Biz

関連愚記事:今週の「中華の巷(ちまた)低く見て」

■ 今週の購書

 
Amazon

キショール  マブバニ ;シンガポールの外交官・研究者・評論家。インド系だけど、「援中派」。  (google

▼ ゾッキ本、合わせて2,330円


新しい街でもぶどう記録;第350週

2021年07月24日 18時04分27秒 | 草花野菜

▲ 今週のみけちゃん

▼ 新しい街でもぶどう記録;第350週

■ 今週の武相境斜面

■ 今週の草木花実

■ 今週の破損

お茶碗を落として割りました。

■ 今週の国産とか日本製とか


新しい茶碗を買った

駄知焼(google

■ 今週の「東京」、あるいは、立派な理念、はたまた、自由な人たち

級友にうんこを食わせたと自慢した小山田圭吾氏。その批難を揶揄したいとこの田辺晋太郎氏。前者が和光学園で後者が成城大学の出身なのだという。つまり、うんこを食わせる虐待の舞台となったのは和光学園。なんでこんなことになったのか調べた。素朴に、クラスに障碍者がいることに興味をもった。すると、和光学園はインクルーシヴ教育、あるいはインクルージョン教育という、障碍者を入れた教育をやっているとのこと。

そして、その和光学園は成城から「成城事件」(google)というのを経て、分離独立したと知る。和光も成城も何か立派な理念をもっているらしい。そして、立派な理念を掲げる五輪に参画していたのが立派な理念の教育を受けた小山田圭吾さんだ。

 
立派な理念の成果


https://twitter.com/minazo_/status/1415680843259858956

あるいは、

note 加害と被害の断絶、僕が経験したW学園の「吊し上げ」の記憶  藤井大地

■ 今週の昭和の成仏のために; 東京五輪1964

昨晩の開会式は見なかった。昔の五輪ネタを貼る;

江藤淳の「影をなくした日本人」という文章(1964年)で出てくる雑誌「ニューヨーカー」の表紙がnetにあった。

”これが東京オリンピックだといったら、日本人はたいてい憤慨するだろうけど”(江藤) "どうしてですか?だってこのとおりじゃありませんか"(米人女学生)

■ 今週も朝日新聞の欺瞞

それなら、最初のコロナウイルスをチャイナ型原型株と言えよ!

■ 今週の いか@、あるいは、追憶

イカ墨パスタ、モロッコインゲン入り。

イカスミの追憶

愚記事:いか墨パエリア と いか墨スパゲティー を追憶

 


杉原薫 『世界史のなかの東アジアの奇跡』 第12章 "戦後世界システムとインドの工業化" メモ

2021年07月23日 15時09分34秒 | 

杉原薫、『世界史のなかの東アジアの奇跡』、2020年、名古屋大学出版会という本を借りて読んだ。2回借りだし、計8週間かけて読んだ。もちろん、かなり理解していない。そこで、興味ある事項いついて、メモをつくった。

出版社の広告での内容概要紹介文(ソース)ではこう説明されている;

脱〈西洋中心〉のグローバル・ヒストリー。—— 豊かさをもたらす工業化の世界的普及は、日本をはじめとする「東アジアの奇跡」なしにはありえなかった。それは「ヨーロッパの奇跡」とは異なる、分配の奇跡だった。地球環境や途上国の行方も見据え、複数の発展径路の交錯と融合によるダイナミックな世界史の姿を提示する、渾身のライフワーク。 

このブログ記事ではこの本『世界史のなかの東アジアの奇跡』の第12章、"戦後世界システムとインドの工業化"の概要をメモする。なぜこの本なのか?というのは後日別途書く。

この本は東アジアの経済発展を奇跡として論じている。その中でインド=南インドにも言及している。東アジアも南アジアも西洋の衝撃、支配を受け、没落した地域だ。特にインドはイギリスに完全支配された。そのインドの経済発展経路は、東アジアの経済発展経路を検討するうえで、良い参照対象となるからだ。著者は「戦後インドの工業化の奇跡をたどることによって、東アジアの奇跡と冷戦体制はどのように構造的に関連していたかという問題意識がある」と云っている。

この記事では下記3項に分けて本書の概略と第12章のメモを書く;

A.  この本の概要、特に19世紀まではインド、チャイナは世界一の生産大国だった、そして今

B.   第二次世界大戦以後のインドの衰退⇒復興

C. 『世界史のなかの東アジアの奇跡』 第12章 "戦後世界システムとインドの工業化"メモ


A. この本の概要、特に19世紀まではインド、チャイナは世界一の生産大国だった

① 昔豊かだった、インド、チャイナ


世界工業生産水準の地域別構成(元データはBairoch, 1982)本書では補論1(p191)。

19世紀が始まった時の中印の偉大さがわかる。これが毛唐の餌食となってしまうのだ。ムガール帝国(インド)は、英国に浸食され始めたころ、英国よりはるかに大きな工業国だった。インド大反乱(セポイの乱;1857年)の時には英国の工業生産の方が大きくなっている。

↓ 2010年までの各地域/国のGDPの盛衰。2000年以降のチャイナに注目;

ソース

② 経済発展経路 (南アジア(インド)の経済発展経路を論ずる前に、西洋、インド、チャイナ全体)

杉原薫 『世界史のなかの東アジアの奇跡』の要旨


杉原薫、東アジアの奇跡の要点。図序ー1 世界経済の発展経路。

縦軸が時間経過;上から1500年→1820年→1950年→2008年。横軸が地域;左から西洋→東アジア→南アジア。したがって、4X3=12のマトリックスがある。各マトリックスは経済規模=人口(世界に占める割合%)とGDP(世界に占める割合%)。各マトリックスの下段には特徴。

<この図の要旨>

1820年、東アジア(統計上、日本、チャイナのみ)は推定世界人口の41%、推定世界GDPの37%を占めていた。これに対し、ヨーロッパは、それぞれ12%、22%に過ぎなかった。ところが、御存知、産業革命、アヘン戦争(1840年)でアジアは西洋の餌食となる。この産業革命が「大分岐」。大分岐ということは、それまで似た道を来ていたが、大きく分かれたということ。産業革命前まではヨーロッパも東アジア(の一部;例えばポメランツが指摘する揚子江下流)は似たような「スミス的」経済発展をしていたという説。

     「大分岐

ポメランツの「大分岐」論とは、要約すれば、18 世紀半ばまでヨーロッパ(主にイングランド)とアジアの発達した地域(主に中国の長江デルタ)の農業生産性や生活水準はほぼ拮抗していたが、「石炭」と「アメリカ新大陸」という「偶発的」な要素が、木材不足や人口増加など、ヨーロッパで生じていた生態環境的な諸問題を解決し、最終的にヨーロッパはアジアから「分岐」して成長に向かうことができた、という議論である (斉藤 誠によるポメランツ、「大分岐」への「書評」link

1950年、第二時世界大戦後5年、朝鮮戦争勃発時。アメリカの絶頂期。欧米で世界のGDPの51%を占める。今から見れは、毛唐文明の絶頂期。その後、朝鮮戦争、ベトナム戦争の中、「東アジアの奇跡」。2008年で東アジアの世界のGDPに占める割合は31%。欧米、33%。1820年と比して、インドはともかく、チャイナは復興してきた。「東アジアの奇跡」とは東アジア型経済発展経路と西洋型経済発展経路との「再編」、「融合」なのだというのが本書の大仮説。

この「東アジアの奇跡」とは何であったのか? それは、「融合なのだ」という説を検討するのが本書、杉原薫 『世界史のなかの東アジアの奇跡』の新規性の提案(他の経済史では見ない)。

◆ 2つの経路;ヨーロッパの発達経路と東アジアの経済発達経路

昔(1980年代以前)はヨーロッパの発達経路が典型的、あるいは唯一無比の経済発展経路とされ、日本などの他の地域はヨーロッパ経済社会とは異なった「遅れた」地域、「遅れた」文明、専制政治に支配される東洋専制国家、20世紀になっても「独立で自由な自作農民層」がいない封建制色濃い絶対主義政治社会(その中から軍国主義が出て来てこの世を亡ぼす)であるとの信念があった(日本の"インテリ"層に支配的な観念)。

ヨーロッパの発達経路(西洋型経路)とは「私的所有権の確立と土地なしの労働者の集積、都市人口の増加によって成立したイギリス資本主義と、資本集約的・資源集約的な経路を発達させたアメリカ資本主義によって牽引された」経済社会の発達経路。この経路は「産業革命」が決定的に重要。「生産の奇跡」。「ヨーロッパの奇跡」。

一方、東アジア型経路は、中国と日本にみられる経済成長経路であり、近世における「勤勉革命」による「スミス的成長」が特徴。「スミス的成長」とは、産業革命以前の漸進的な経済成長であり、市場の発展とプロト工業化、農業の商業化を属性とする経済成長のひとつの形態。 しかし、東は西洋勢の来襲した「19世紀後半から1930年代までの時期に、日本と中国は労働集約型工業化を、生活水準を上げることができないままにではあるが、遂行した。そして、第二次世界大戦後、日本、NIES, ASEAN, 中国と続く、一連の高度成長を経験し、その一部では高い生活水準を実現した。」 「東アジアの奇跡」 。

B. 第二次世界大戦以後のインド、チャイナの衰退⇒復興

インド、チャイナのGDPに占めるシェアの変化

🔻 1950年→1980年; インドのシェア低下の時代、あるいは、非同盟時代の顛末


アジアのGDPに占めるシェアの変化 1950年→1980年(%);杉原薫、『東アジアの奇跡』、第3章、図3-14(部分)

第二次世界大戦後、インド、中華人民共和国ともに独立。インドは非同盟、中共は中ソ同盟&非同盟オブザーバー国。ウエスタンインパクト以来、独立以前からの凋落は免れず、相対的繁栄はアメリカと連携する他のアジア諸国に転移する。

↓こういう時代だ;周恩来とネルー、1950年代。中印直接武力紛争は1962年[wiki]。

 

🔻 1980→2016年; 中印の開放政策とシェアの拡大、あるいは、BRICSの時代


杉原薫、『東アジアの奇跡』、第3章、図3-15 (部分)


すべてはここから;1972/2/21

中共対外開放の1980年以降、1991年インド経済自由化。相対的繁栄が中共へ、そしてインドに「戻り」始める。

これはアメリカとの関係が改善したことが背景。

C. 『世界史のなかの東アジアの奇跡』 第12章 "戦後世界システムとインドの工業化"メモ

第12章の項目;
■ 第12章 戦後世界システムとインドの工業化
1. はじめに
    世界の生産と貿易の中心の移動
    アジアの地域ダイナミクス
2. インドの輸入代替工業化の特質
    輸入代替戦略の二類型
    労働集約型工業の運命
3. 自由化への試みとその挫折
    冷戦体制と成長イデオロギー
    繊維貿易と自由化
4. アジア太平洋経済圏との接触
    1991年の政策転換
    中国との比較
5. むすび 

1. はじめに

この杉原薫 『世界史のなかの東アジアの奇跡』、12章は、貿易を中心とする国際経済史的観点から、20世紀後半のインドと東アジア、東南アジアとの比較と関係についての一つの歴史像を提出する。

インドの特異性: インドは戦後、つまり独立後、政治的には非同盟の立場を取り、アメリカの自由主義的経済圏に加わらなかった。独立後は計画経済(マハラノビス・モデル)であった。むしろ、ソ連・東欧との貿易関係が強かった。それは、1991年のインド経済大転換まで続いた。冷戦終結の国際的環境変化を受けて、インドは経済の自由化路線を始めた。

さらに、インドが労働集約的工業化(「東アジアの奇跡」(後述)の肝)がうまくいかなかった理由は、繊維商品の市場を、「東アジアの奇跡」を経た東アジア諸国に奪われたことである。これはインドが非同盟路線を選び、米国の経済圏に参加しなかったからである。これについて杉原は「発展途上国の戦略にとって重要なのは、貿易の量やそのGDP比で表現される開放度だけではない。どの国と貿易を行い、どの国から資本を輸入したのかということが決定的に重要である。例えば、1950年代は、アメリカが世界経済の成長の原動力だった時期であり、自余の世界に願ってもない貿易と技術移転の拡大の機会を提供していた。日本はその機会の主要な受益者だったのに対し、インドはあえてそれを利用とはしなかった。」(p563)と云っている。

1991年以降、経済爆発する東アジア、東南アジアにインドは対応する。インドの対応の鉱区歳経済的背景を検討する必要がある。

    世界の生産と貿易の中心の移動

「東アジアの奇跡」の実現。1950年には欧米で世界のGDPの半分を占めていたが、現在では東アジア・東南アジアを含む環太平洋諸国で、世界のGDPの半分を占めることとなった。特に、1960-200年で一番成長したのは東アジア・東南アジア。「東アジアの奇跡」は、これまでの欧米中心の国際秩序を根本的に変えた。東アジア・東南アジアが工業化以降の世界で初めて自立的な経済成長の核となった。そして、インドにも直接、間接に影響を与えるようになった。

東アジア・東南アジアが成長に核になるまでの経緯は、第二次世界大戦後、ヨーロッパ諸国はアジアに復帰し再支配を進めた。しかし、イギリスは衰弱し、ヨーロッパ諸国は欧州経済k李愛共同体を形成、保護主義的貿易政策を採り、脱植民地化していった。その後のアジアの国際秩序の枠組みは中共革命、朝鮮戦争を経ての「冷戦」体制である。反共戦略のもと、日本などアジア食は経済成長が許された。特に、アメリカは日本に対して軽工業だけでなく、非軍事部門での比較的労働集約型の重化学工業(造船、自動車、家電製品)の発展による産業構造の高度化を許した。

20世紀後半ー世紀末に世界貿易におけるひじゅうがもっとも増加いたのが日本とアジア9カ国であった。つまり、インドは東側地域に活発な経済圏をもつことになる。それはインドの植民地時代と独立後10数年の期間は世界貿易の中心が大西洋であったこととは大違いである。

    アジアの地域ダイナミクス

東アジア、東南アジアでは雁行型発展で工業化が急速に普及。雁行型発展:比較的技術的水準の低い労働集約的な工業は、先進国から次に発展する国に急速に工業化が移転される。さらに10年といった短い時間で次に発展する国に工業化が移転される。例えば、日本⇒台湾⇒マレーシアとか。すべの相対的先進国は絶えず低賃金諸国からの競争による産業構造の行動が迫られる。このお尻に火が付くメカニズムで相対的先進国は成長する。

wikipedia [雁行型発展論]

さらに重要なのは、東アジア・東南アジアの域内貿易の自由。例えば、繊維は1970年代に日本、台湾、香港が分担・連携して生産し、アメリカ市場で売った。つまり、対米輸出が可能であったことが東アジア・東南アジアの経済発展の主要因。技術移転のための域内自由経済体制(貿易、資本移動、人間・情報の移動の自由)も重要。

1980年代は、この地域の経済圏に中共が参入。市場の拡大。民需に特化した東アジアの対米消費財輸出やアジア域内貿易が急速に拡大。戦後の世界貿易は、アメリカのリーダーシップと日本のNIES、 ASEAN、後には中国(中共)も含めたアジア諸国の高度成長によって牽引された。

1989年の冷戦崩壊以後。 アメリカの金融的覇権への志向。冷戦体制の崩壊は、ソ連との結びつきが大きかったインドへの貿易構造再編を迫った。1991年のインドの政策転換。

2. インドの輸入代替工業化の特質
    輸入代替戦略の二類型

インド:植民地時代、自由貿易、第一次産品輸出、輸出志向の輸送システム(鉄道というインフラ)

脱植民地化: 外国貿易と外国資本からの脱依存; 国産の機関車製造国営工場

植民地を経たインドは豊かな天然資源と膨大なインフラがあり、雇用と市場があった。しかし、世界的競争力がなく、世界貿易から孤立していった。

計画経済:マハラノビス・モデル 重工業優先の発展戦略==農業や軽工業の発展と国内市場の拡大に結び付かない

日本:同じく輸入代替を試みたが、目的は国の産業構造全体の高度化。国際的競争力をもった産業のために、農業部門や比較的低技術の産業を切り捨てた。自給化ではなく貿易による相互利益を目指した。近隣諸国の雁行型発展を可能にした。


    労働集約型工業の運命

独立時のインドは、国際競争力と雇用創出の両方で有望な労働集約的工業部門をもっていた。綿製品の生産。1950年にはインドは世界最大の綿製品輸出国であった。下の図は、「インド輸出貿易の商品別構成」。第一次産品は経年で減少し、工業製品が増加している。

繊維製品は経年で安定している。ただし、東アジア、東南アジアの諸国のように、拡大しなかった。それはインドでの労働集約的工業化の経路が東アジア、東南アジアの諸国のそれと違ったからだ。インドでの労働集約的工業化の経路での成長阻害要因は、輸入代替型工業化戦略のせい。織物機械の輸入規制で、生産性が向上せず、国際競争力が向上しなかった。インドの保護貿易主義のせい。インドは自ら国際綿製品市場での競争から撤退した。

このインドの撤退に乗じて、伸長したのが、東アジア、東南アジアの諸国。アメリカ主導の自由貿易と資本の自由化の制度的枠組みにおいて、労働集約的工業と自由貿易を発展させた。

インドは国際政治上も非同盟政策をとり、米ソとも距離を置き、米ソから援助は埋めたが、市場メカニズムでない方法で貿易に結び付けられたので、経済成長に至らなかった。インドは労働集約的工業と自由貿易の恩恵に無縁となった。

3. 自由化への試みとその挫折
    冷戦体制と成長イデオロギー

東アジアの経済成長は、1980年代後半の韓国と台湾の民主化の時代まで、「開発独裁」のもと行われた。冷戦下のアメリカの反共政策における開発独裁容認。自由貿易と投資の自由、非国有化を条件に容認。この東アジアの開発主義は国民の同意があり、開発の成果は国民に還元された。

冷戦終結後、反共戦略は不要となったが、アジアの政治においては開発独裁主義が中心的役割を果たしている。成長イデオロギーが国民に共有されている国、韓国、台湾では容易に民主化した。

一方、インド。 成長イデオロギーが根付かなかった。4つの要因;①自立イデオロギーが強かった。ネルー路線。輸入代替戦略。インド・ルピーの為替を高く維持。輸出産業が育たなかった。外貨獲得能力低下。貿易に依存したくなかった;②所得分配の不平等性。貧困層の存続。貿易推進勢力が国内に少なかった。保護貿易主義。③国内における中産階級育成(労働集約的生産現場の労働者であり、消費者でもある人々)のための投資をしなかった。教育と福祉の問題。;④ソ連など社会主義諸国との貿易関係が深く、労働集約的工業を犠牲にして、重化学工業工業を優先させる政策を採った。南アジアの軍事大国。

冷戦終結(1989年)以後、インドはソ連・東欧共産圏との貿易を激減させる。1991年、インド経済自由化。


 第12章、図12-3    インド輸出貿易の地域期別構成 1950-2000 年(%)

繊維貿易と自由化

1980年代、インドの繊維産業は政府の規制外にあった。すなわち、自由貿易にさらされていた。インドからの繊維製品の輸出は多く、インドの工業製品の半分であった。1980年代は、輸出の伸びは緩慢だった。一方、1980年代、中共も繊維製品を輸出していた。アジア太平洋経済圏に参入して、輸出を増加させた。中共の低賃金と労働集約的生産に基づく競争力の強さで、インドは中共に対し、アジア太平洋経済圏での競争に勝てなかった。つまり、インドはアジア太平洋経済圏から隔離された。

4. アジア太平洋経済圏との接触
    1991年の政策転換

1989年冷戦終結。計画経済から自由経済への転換。世界銀行、IMF、アメリカからの圧力。 ソ連崩壊でインドの兵器購入先がなくなり、安全保障上の問題。外貨獲得の必要性。労働集約型輸出製品の市場機会をアジア太平洋の高度経済成長市場に求める必要性が高まる。1991年以降、一人当たりのGDPが46%増加。輸出先、アジア太平洋地域。ここで、イギリス植民地時代、インド独立後訳45年のインドの歴史で特筆すべき貿易相手地域の大転換が生じた。成長地域への参画。


ブッシュ@父米国大統領とラオインド首相、1992年、ホワイトハウス
PV Narasimha Rao Remembered as Father of Indian Economic Reforms(site


    中国との比較

インドの輸出増加に貢献したのは、労働集約型の輸出商品の織物とアパレル。輸出先はヨーロッパにあわせて日米アジア諸国。中共と市場が重なりはじめた。インドが参入して、アジア内の織物・アパレル市場がより競争的となり、地域間貿易の成長がアジア太平洋経済圏の成長につながりはじめた。


1984年、北京

5. むすび

東アジア・東南アジアの経済発展の特徴;

・労働集約型工業化のためのインフラ整備
・労働集約的な工業における生産性の急速な上昇
・大衆消費市場の形成
・職場でのスキルを育むような人的資本への投資

これらはインドの発展経路で認められないことであった。さらにこれらは、欧米の歴史的経験を念頭に置いた経済発展や工業化モデルではあまり強調されてこなかった。

上記のように、東アジア・東南アジアの経済発展経路と比較して、インドは国際競争力をもつ労働集約的な工業を発展させなかった。実際のインドは、計画経済に基づく、輸入代替的工業化のため資本集約的工業を目指した。この路線はイギリスの植民地主義時代の遺産の克服のつもりであったと端からは見える。その結果、繊維製品のような労働集約的工業品の世界市場での競争力をなくした。その背景は経済的政治的自立を求めるインドの国家的イデオロギーが原因だ。さらに、それは植民地体験の結果に違いない。労働集約的工業品の世界市場での競争力をなくしたことはインド国内での良質な労働者層の形成の阻害ももたらした。

1991年の経済自由化後、繊維製品の競争力向上で、アジア太平洋圏の市場に参入し、インドは恒常的成長過程に入っている。


● いか@メモ

『世界史のなかの東アジアの奇跡』=アメリカの影

この本のこの第12章の「1.はじめに」で杉原の"思想"が書かれている;

工業化は先進国からの遮断ではなく、接触、融合によって達成できるというのが、東アジア型発展経路が示唆するメッセージであり、日本からNIESへ、NIESからASEAN、中国へと続いた、高度経済成長そのもの普及の論理であた。
 この観点から見ると、発展途上国にとって重要なのは、貿易の量やそのGDP比で表現される開放度だけではない。どの国と貿易を行い、どの国から資本を輸入したかということが決定的に重要である。例えば、1950年代は、アメリカが世界経済の成長の原動力だった時期であり、自余の世界に願ってもない貿易と技術転移の拡大の機会を提供していた。日本はその機会の主要な受益者だったのに対し、インドはあえてそれを利用しようとはしなかった。

インドのここ30年の経済成長は、アメリカの覇権がつくる舞台のアジア太平洋圏の市場に参入できたことが大きな原因。そもそも、東アジア・東南アジアの経済発展経路もアメリカ牽引のアジア太平洋圏の市場に参入できたから実現した、というのが杉原の論だ。

とすると、『世界史のなかの東アジアの奇跡』=アメリカの影ということだ。そして、インドもそこに入ったから経済成長できたということだ。

 

 


新しい街でもぶどう記録;第349週

2021年07月17日 18時33分09秒 | 草花野菜

▲ 今週のみけちゃん

▼ 新しい街でもぶどう記録;第349週

■ 今週の武相境斜面

■ 今週のメタセコイア

■ 今週の花

■ 今週も「もったいない本舗」

8月のカレンダーが2枚になった。

■ 今週の購書

20世紀後半ー21世紀に入ったここ20年、「東アジアの奇跡」とよばれる地域的経済発展が爆発している。「東アジアの奇跡」の初期を牽引した日本が停滞した後も、東南アジア、そして大陸中国が爆発的に発展している。この発展のなかで「華人・チャイニーズ」の役割が大きい。「華人・チャイニーズ」は、以前の日本では、華僑とよばれていた。「華人・チャイニーズ」は、東南アジアの各国の華人経済圏と大陸中国(共産中国)とを動き回っている。さらには北米地域で子弟を教育させグローバル人材として活躍できるようにしている、している。そういう人種を「アングロ・チャイニーズ」という。「アングロ・チャイニーズ」はWW2戦前からいる。大英帝国支配下で活躍した「華人・チャイニーズ」だ。ちなみに、あの白洲次郎はこのものいいで言えば「アングロ・ジャパニーズ」だ。鍵を握るのは「アングロ・チャイニーズ」とうたう本、『中国は東アジアをどう変えるか』を買った

この本で気づかされた。中共でも国父である孫文は、「アングロ・チャイニーズ」とのこと。老舎とかどうなるのだろう。楊潔篪は、いくら英語が話せても、違うかな。

  

一方、WW2戦時中、受難したのが「アングロ・チャイニーズ」。われらが日帝が攻め込んだからだ。特に、シンガポール。『中国は東アジアをどう変えるか』で「アングロ・チャイニーズ」の筆頭に挙げられている林文慶(wiki)について書いてあった。その林文慶が受難したシンガポール陥落についての本;

『シンガポール占領秘録』が安く出ていたので買う。これまで中古市場価格が1万円を下らなかった。

■ 今週の「毛唐の子供」、ヤマザキを比較参照として

 
左:マレーシアのグローバル菓子メーカー、ジューリーズ(Julie's)、リニューアルロゴ
右:御存知、ヤマザキパン

いつもは、ヤマザキビスケットのレモンパックを食べる。

 ヤマザキ

ところが、今週、<荊を挿した御方様>が通販でこれを買った。レモンクリームのクラッカー。ヤマザキのものよりほんの少し塩味が強いかなという印象。でも、ほぼ同じ味、食感。

メーカーについて調べた。Julie’sというマレーシアのメーカー。創立が1985年、創業者は、 Su Chin Hock という人。漢字の名前、史進福もあり(wikipedia)、YouTubeのインタビュー(Mr. Su Chin Hock in 'Start A Biz' - Part 1)では中国語を話しているので、華人であるにちがいない。マレーシア人であるかは、確証がない。一方、息子のインタビュー(次章■今週の「アングロ・チャイニーズ」)によると妻子ら家族はシンガポールに住んでいて、 Su Chin Hock はシンガポールとマレーシアを行き来してと云っている。シンガポール人なのかもしれない。


Julie's web site

この会社は1985年に1つのオーブン、1つの流れ作業機からはじまったビスケットのメーカーとのこと。Hershey’s(wiki)と提携し、企業として成長したらしい。Hershey’sとの提携はまだ続いている。Google [Hershey’s Julie's] .

Julie'sという会社ロゴは社長の発案(brainchild)とのこと。実在の人物ではない(脳内女の子)。36年前はこの赤いベストを着たロゴだった。ピッグテイルが特徴。 現在の横顔のロゴは最近リニューアルしたもの。

 
a smiling young girl with blonde pigtails [出典]

一方、ヤマザキビスケットは、以前はヤマザキナビスコといって、ナビスコと提携していた。今は、提携は解消している。ヤマザキのトラックの絵の子供は、モデル(実在の人)がいるとのこと。

▼ Julie'sと創業、社長についての情報リンク;

Did You Know The Popular Local Brand, Julie’s Biscuits Was Founded In Alor Gajah, Malacca?

The story of Jurie's

■ 今週の「アングロチャイニーズ」

 
上記Su Chin Hockの息子Sai Tzy Horng

Who is the scion of Julie’s Biscuits, who wants to make the company bolder?

Julie'sの創業者のSu Chin Hockは中国語を話す映像しかない。彼が英語を話すか不明だ。

息子は英語を話す(YouTube)。シンガポールで育って、12年間カナダにいたそうだ.。つまりは、「アングロ・チャイニーズ」なのだ。鍵を握っているのだ。

■ 今週の武蔵野国、あるいは「新盆」の多義性

住宅火災で高齢夫婦死亡 新盆準備で火をたいている (2021年 7月 14日) google

13日夕方、東京・品川区で住宅6棟を焼く火事があり、高齢の夫婦が死亡しました。
 
警視庁などによりますと、13日午後6時すぎ、品川区中延で「爆発音がして家が燃えている」などと近所の住民から複数の通報がありました。火はおよそ9時間後に消し止められましたが、火元の木造2階建ての住宅およそ140平方メートルが全焼し、隣接する住宅5棟の一部が焼けました。
 
この火事で、火元の住宅に住む原田平一郎さん(90)と妻の久美子さん(87)が病院に搬送されましたが、死亡が確認されています。 出火直前、原田さん夫婦が家の外で新盆の準備として火をたいているのを同居する親族が目撃していたということです
 
新盆は死んだ人が初めて迎えるお盆のことだと思っていた。しかし、7月にお盆をやる地域(東京)では、8月のお盆を旧盆といって、7月のお盆を新盆という。
 
■ 今週の元ネタ発見
  
 
ヤマザキパンのあのマークには、元ネタがあったのだ。 Wikipedia: Sunbeam Bread
 
■ 今週の伊予名産
 
 
薄くて、少しパリッとしている。

 


55年前の今日、1966年7月16日文革勃発時、72歳の毛沢東、武漢の長江を泳いでみせる

2021年07月16日 14時50分32秒 | 中国出張/遊興/中国事情


55年前の今日、1966年7月16日文革勃発時、72歳の毛沢東、武漢の長江を泳いでみせる

このとき国家主席は劉少奇である。つまり、政府にとっては無官の72歳老人が「崛起」したのだ。

文革により中南海から引きずり出された劉少奇は、3年後に虐待を受けながら死ぬ。

下記のyou tube より

あるいは、この中共制作の動画:https://www.nicovideo.jp/watch/sm888284

■ 武漢(Wuhan: wikipedia 日本語英語)は、2021年の今では世界で北京、上海並みに有名な都市となった。もちろん、コロナウイルスの発生源だからだ。

さて、その武漢。55年前の今日、毛沢東が長江遊泳という大政治的示威(demonstration)を行った。プロレタリア文化大革命(以下、文革)が勃発した1966年5月から2か月目だ。この政治的示唆の後、毛沢東は北京に「上洛」した。8月18日の紅衛兵を100万人集めた天安門広場における文化大革命祝賀大集会実施への嚆矢だったのだ。


高 嶋   航、「文化大革命と毛沢東の水泳」なる学術論文がある。

■ 長江水泳示威の後で


1966年8月18日、天安門広場における文化大革命祝賀大集会


愚記事より

■ 裸族系独裁者

習近平党総書記・国家主席は、中国共産党設立100年で、中国の偉大さを賛美。第2の毛沢東になろうとしていると目されている。その習近平総書記はプーチンが大好きらしい(google [習近平 プーチン 尊敬])。そして、習近平総書記が崇拝する二人は裸族系独裁者なのだ。

 

まずは、一皮むけなければ。

【cn】毛沢東の中国:大いなる実験


新しい街でもぶどう記録;第348週

2021年07月10日 18時53分20秒 | 草花野菜

うめちゃんが使っていたうちわです。

▲ 今週のみけちゃん

▼ 新しい街でもぶどう記録;第348週

■ 今週の武相境斜面

■ 今週の草木花実

■ 今週の「ブログさせない」

■ 今週のもったいない本舗

8月のカレンダーの図案はひまわり畑です。

■ 今週の50年


 ソース

50年前の1971年7月9日、極秘裏に米国大統領リチャード・ニクソンの補佐官であるキッシンジャーは北京を訪問した。周恩来とニクソン訪中を約束。7月16日に米中政府が同時発表した。日本政府が知らされたのは発表1時間前であった。

■ 今週の20年

バイデン米大統領、アフガニスタンからの米軍撤収の正当性主張 タリバン勢力拡大 

2001年9月の米同時多発テロを受けて米軍が同年10月にアフガニスタンを攻撃して以来、4人目のアメリカ大統領となったバイデン氏は、米軍が駐留を続けるのは選択肢としてあり得なかったと述べた。さらに、米軍の素早い撤収については、人命保護につながったと擁護した。

9・11テロの首謀者のオサマ・ビン・ラディンを匿ったとしてタリバン政権が支配するアフガニスタンが攻撃、占領された。しかし、20年経って、タリバンは根絶せず、むしろ拡張していて、米軍は撤退する。

2001年のアフガニスタン戦争、2003年のイラク戦争と米軍は侵攻、占領するも、1945年に日本を占領、統治したような成果は得られず、撤退する。未だに、爆弾テロなどがあいついでいる。事実上の敗退である。日本はいごごちがよいらしく、70年経ってもまだいるのだ。

この20年の間、米国が西アジア、中東で足を取られている間に台頭したのが、中国だ。

■ 今週の借りて読んだ本

ジョバンニ・アリギ、『北京のアダム・スミス ー21世紀の諸系譜』(Amazon) (関連愚記事:1985年のアリギ)。なお、この本は先々週先週言及した『リオリエント』のアンドレ・グンター・フランクに捧げられている。

まず、ハイライトはこれ、興亜;

英米 VS 日中。 図は2003年まで。この後、中国は指数関数的にGDPが伸びているので、日中で英米を越えているだろう。なお、アヘン戦争の頃(1840年)、中国が圧倒的に豊かであったことが悲しい。

ここでアダム・スミスとは奇を衒っているのだ。もちろん、中国共産党は100年前にコミンテルンのテコ入れで創立したのだから、マルクス・レーニン主義のはずである。事実、先日の習近平の演説の中でもはっきりマルクス・レーニン主義とうたっている。

    愚記事より なお、習近平演説には、さすがにスターリンは出てこない

アダム・スミスとは、スミス的経済成長(スミス的経済発展経路)を提唱し、マルクス的成長と対照している。

スミス的成長: 農業の商業化とプロト工業化の発展を主とする分業の発達。「勤勉革命」の結果成立。労働集約的経済成長。東アジアの特徴。

マルクス的成長:産業革命による資本集約的産業社会。一方の農業革命で根こぎになった労働者の創出。本源的蓄積が不可欠。イギリスーヨーロッパの特徴。対外植民地主義を伴う。

一方、アリギは「ヘゲモニー」概念を提出。ヘゲモニーは14世紀からジェノバ・スペイン連合 ⇒ オランダ ⇒ イギリス ⇒ アメリカ と移ってきた。 そして、今、アメリカの没落。 次は中国? という話。

アメリカの没落は1970年に始まる、としている。つまり、上記米中関係修復の前年。ベトナム戦争でアメリカの没落は始まったという史観。逆に言うと、いまだにヘゲモニー交替はされていないということ。

ヘゲモニーは、資本主義的権力領土的権力からなる。前者は経済力、後者は「帝国主義」力。

アリギは、アフガン戦争、イラク戦争でアメリカは失敗し、ますます没落し、一方、中国は台頭しているという現状認識。

この本の刊行の2007年の時点(今から見ればリーマンショック前、北京五輪前)で、中国を"「平和的台頭」の挑戦"と論じている。一帯一路もAIIBもこの本には出てこない。ましてや、習近平も出てこない。わずか10年で、激変だ。

でも、おかしい点がわかる。つまり、この本の刊行の2007年の時点では、少なくともチベット問題はあったし、ウイグルのジェノサイド問題はともかく、中国はウイグルを核実験場として、領土的権力を発動していた。

そして、アリギは北京のアダム・スミスと認識することで、北京にマルクスはいないといいたかったのだ。ここで、マルクスとは、「西欧のもっとも露骨で恥知らずな植民地主義者の文章」を書いて、イギリス帝国主義によるインド支配を容認する思想家(愚記事:イギリスのインド支配)、あるいは、アヘン戦争を資本の論理の貫徹の産婆術とみなす帝国主義的思想家である。アリギは中国共産党の中国が帝国主義的(領土的権力の拡大)台頭ではなく、スミス的経済成長に基づく台頭(本源的蓄積=どこからかの収奪による蓄積を伴わない)を幻視/希望した。

でも、実際は、中国共産党はマルクス的ヨーロッパ中心的開発主義で、チベットの統治を正当化していた。すなわち、チベット農奴解放史観をもっている。

そもそもの2乗、中越戦争ってあったよね。ベネディクト・アンダーソンが『想像の共同体』で、左翼知識人にとっての中越戦争とは!?といってた件。

これらの中国共産党の領土的権力行使については、『北京のアダム・スミス』では一切触れられていない。

なお、中国共産党は、領土的権力行使ではなく、浸透工作といわれる外国乗っ取り工作の方が中国の台頭に効果的だろう。すなわち、アリギは「領土的権力行使」なるカテゴリーをつくりその概念で現実を構築しようとするので、浸透工作といわれる外国乗っ取り工作を見逃していたのだ。

▼ どうなるのか?

この本の刊行はオバマ政権時代だ。子ブッシュの路線が修正された頃。アリギはミアシャイマーなど米中激突不可避戦略論に言及し、論難している。でも、時は流れた。わずか10年ではあるが。今や、民主党政権でもミアシャイマー流の対中対決ムードだ。大きく舵を切ったのはトランプ政権であるが、バイデン政権はその対中対決姿勢を継続している。中国を"「平和的台頭」の挑戦"と思う人は少なくなった。チャイナ・シンパもだんまりだ。

■ 今週のペテン親子

河野氏はまた、「中国と縁を切り、全部米国の世話になるほど簡単ではない。地政学的に日本が引っ越せるわけではなく、経済で補完的にやっていることもある」とも指摘。「今の中国が変わらないかといえば、そうではないかもしれない」と中国の対日姿勢の変化に期待した。

ウイグル族らが直面する人権侵害を非難する国会決議については「難しいことではない」と述べた。「人権侵害によって作られた品物を売っている(カジュアル衣料品店の)『ユニクロ』の製品は買わないということで、人権問題が解消するだろうか」とも話した。

質疑で、岩屋毅元防衛相が「多様性を包含できるリベラル勢力が自民になければならない」と主張すると、河野氏は「党本部に来て今のような意見が聞けたことは涙が出るほどうれしい。自民党は死んでいないとつくづく思った」と満足そうな様子で語った。 (引用元)[1]

 何!? このマスク

河野太郎は「モデルナワクチン供給3分1」を4月に知りながら隠し、無茶な職域接種を強行! 都議選後にしれっと言い出す背信


[1]

河野洋平元衆院議長、対中感情悪化は「中国の行為が納得できないから」 2021/7/7 19:47

自民党総裁を務めた河野洋平元衆院議長は7日、党本部で講演し、中国が強権的な姿勢をとるため日本人の対中感情が悪化していると強調した。香港や新疆(しんきょう)ウイグル自治区での人権侵害、尖閣諸島(沖縄県石垣市)周辺での中国海警局の船の領海侵入を挙げ、「好感度は最低に近い所まで悪化している。中国のやっていることが納得できないからだ」と述べた。

河野氏はまた、「中国と縁を切り、全部米国の世話になるほど簡単ではない。地政学的に日本が引っ越せるわけではなく、経済で補完的にやっていることもある」とも指摘。「今の中国が変わらないかといえば、そうではないかもしれない」と中国の対日姿勢の変化に期待した。

ウイグル族らが直面する人権侵害を非難する国会決議については「難しいことではない」と述べた。「人権侵害によって作られた品物を売っている(カジュアル衣料品店の)『ユニクロ』の製品は買わないということで、人権問題が解消するだろうか」とも話した。

質疑で、岩屋毅元防衛相が「多様性を包含できるリベラル勢力が自民になければならない」と主張すると、河野氏は「党本部に来て今のような意見が聞けたことは涙が出るほどうれしい。自民党は死んでいないとつくづく思った」と満足そうな様子で語った。

河野氏は平成5年の官房長官当時、慰安婦募集の強制性を認めた官房長官談話を出すなど党内のリベラル派で知られる。 https://www.sankei.com/article/20210707-SOHAJPCEOBPPZGB4HTUS7Y74LI/


新しい街でもぶどう記録;第347週

2021年07月03日 19時44分48秒 | 草花野菜


三毛(みけ)ちゃんの三は、三越のみつです。

▲ 今週のみけちゃん

▼ 新しい街でもぶどう記録;第347週

■ 今週の武相境斜面

■ 今週のメタセコイア

■ 今週の草木花実

■ 今週の疎水、撥水、表面張力

■ 今週の表示

バスのフロントに「視る」の表示。他に、着席というのを「視」た。

■ 今週の百歳、あるいは、日大か法政か?

中国共産党 100 年式典 (google

  ▼    中国共産党創立100周年記念式典 習近平氏演説全文

コミンテルンのテコ入れで中国共産党ができたのが1921年。最初の大会は上海で7月23日に行われた(愚記事:97年前の今日 (1921/7/23)、上海で中国共産党発足)。そして、なぜ現在、中国共産党(中共、CPC)の発足記念日が7月1日かというと、中共の発足記念日を定めようとした1938年の時点で、発足会議(中国共産党第一次全国代表大会)の日付がわからなかったからである。のち、7月23日とわかった。そして、会議の場所の特定も1950年に行われた。「中央政府は会議出席者の一人、董必武に上海まで出向いてもらった。董が実見したところ、確かに会議が開かれた李書城の住まいだった」(ソース)。そう、中共CPC発足から共和国建国まで(毛沢東以外)唯一生き残った董必武(とうひつぶ)[愚記事:董 必 武 中共国家主席@法政大学卒を知る]が確認したのだ。

その董必武は日本に留学し、さらにはちゃんと大学を卒業した。譚瓐美、『中国共産党を作った13人』には法政大学と書いてある。でも、中共一大代表が行われた会場(現在、史跡)で得た本には、日本大学とある。

■ 今週のユダヤ人たち、ときどき、バスク人、あるいは、ユダヤ人が結ぶ独裁と自由経済

   A.G. フランク(左)、ミルトン フリードマン(右)

先週、A.G. フランクの『リオリエント』について言及した。そのA.G.フランクはユダヤ人であり、シカゴ大学の博士候補学生(doctor candidate)だった時、ミルトン フリードマンが教授だったとのこと。指導教官(adviser)だったかは不明。A.G. フランクは従属理論を唱えることになる左翼経済学者であり、ミルトン フリードマンは自由主義経済原理主義者で有名。二人ともユダヤ人だ。(なお、シカゴ大学で、ミルトン・フリードマンの同僚だったのが宇沢弘文 [愚記事:つるっとした 宇沢弘文])

その後、A.G. フランクはチリで大学職を得て、研究活動に励む。アジェンデ政権の頃。そして、クーデター。ピノチェト政権樹立 (wiki)。ピノチェトのクーデターを支えたのが米国・ニクソン政権だ。ピノチェト政権下では、ノーベル経済学賞受賞者のミルトン・フリードマンが1980年代から2000年代にかけてチリ国内で行った新自由主義的改革wiki)が実施される。

A.G. フランクは国外脱出。オランダへ。

  キッシンジャーとピノチェト(左の画像)、アジェンデ(画像右)

また、ユダヤ人だ、キシンジャー。なお、アジェンデはバスク系チリ人だという。

話はここで終わらない。 キッシンジャーは米中国交樹立の立役者。そして、ミルトン フリードマンは中共に招かれて1980年に訪中。鄧小平時代だ。 ただし、毛沢東の時代から中共はピノチェト政権(米国支援のクーデターでできた独裁政権)と友好的だった。

  1971年

すなわち、今から見れば、新自由主義経済を独裁政権で行うチリのピノチェト政権は、1980年代以降の中共の前哨戦だったのだ。

さらに、さらに、A.G. フランクの『リオリエント』は、この1980年以降の中共の経済的復興という現実に刺激され書かれた本なのだ。ただし、A.G. フランクの『リオリエント』には中共党の役割や新自由主義経済について詳細な言及はない。『リオリエント』は20世紀末の本で、さらにその後の20年でチャイナは指数関数的に経済が増大した。

禍福は糾える縄のごとし

[愚ブログに現れたる ピノチェト]

■ 今週借りた本、買った本

今年4月10日の記事で、アリギの『北京のアダ・スミス』を読んだと書いてある。また、借りて読んでいる。この本は上記の『リオリエント』のA.G.フランクに捧げられいる。そのアリギの『北京のアダ・スミス』に、シカゴ大学でのミルトン・フリードマンとA.G.フランクのことが書かれている。さらに、神の見えざる手で有名で、それが市場自由主義の権化とみなされているアダム・スミスについて、当時シカゴ大学でミルトン・フリードマンはアダム・スミスを無視していたと書いてある。アリギが何を言いたいかというと、ミルトン・フリードマンの自由主義の系譜の祖はアダム・スミスではない。アダム・スミスは市場自由主義の権化の祖ではないと。

 

■ 今週の昔住んでた街

カナダ 記録的熱波で死者相次ぐ (google)

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