いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

横浜散歩;東戸塚駅→こども植物園→英連邦戦死者墓地→弘明寺駅

2019年10月27日 17時52分29秒 | 東京・横浜

JR東戸塚駅(戸塚区)から弘明寺(ぐみょうじ)駅(南区)まで散歩。上の地図にあるように横浜の南部。第一目的は「横浜こども植物園」に行くこと。「横浜こども植物園」を経由する散歩経路を考えた。JR東戸塚駅と弘明寺駅(京急、市営地下鉄)を始点・終点とすることにした。

 
1:JR東戸塚駅、5:横浜こども植物園、6:英国連邦戦死者墓地、11:弘明寺、黄色破線:下末吉海進時の汀線

この散歩経路の大部分は多摩丘陵域であり、弘明寺の近くが下末吉台地。多摩丘陵と下末吉台地の境界は、12万年前の下末吉海進(wiki)の時代の汀線。現在の地形上の表面上の特徴からはこの境界は直感的にはわからない。弘明寺付近は谷底平野。縄文海進時に堆積が生じたところ。

● 1:JR東戸塚駅5: から 5:横浜こども植物園 まで


1東戸塚、2、5横浜こども植物園

■ 1.JR東戸塚駅

・東戸塚駅から東へ。斜面を行く。坂は緩い。

■ 2. 環状2号


環状2号に行き当たる。


環状2号

▼環状2号を右折。再び東へ。斜面を上がる。



平戸4丁目付近。尾根の最高地。ここを超えると下り坂。

■3. 平戸3丁目


このあたり、谷筋。南北方向に川が流れている。跨いで、東へ。


再び、尾根を上る。


振り返る。

■ 4. 国道1号。平和台交差点付近。

国道1号を北上。

■ 4. こども植物園


紙でつくった柿オブジェ。

コムギの研究で知られる遺伝学者の木原均は、静岡県三島市の国立遺伝学研究所所長への就任を機に、京都府の物集女にあった研究所の横浜への移転を1955年に決定。1957年5月、当地に敷地面積1万坪(33000m2)の研究所を開設した。1970年、横浜市は敷地の一部を購入し児童の理科学習や教職員の研修所として利用した。1974年に管轄が教育委員会から緑政局に移り、1976年に都市緑化植物園としての都市計画決定を受けた。国際児童年を記念して、1979年(昭和54年)6月23日に開園した。 (wikipedia


木原均(wikipedia

▼ 植物園を出る

● 6:英連邦戦死者墓地 から 11:弘明寺駅 まで

■ 6.英連邦戦死者墓地

戦中、日本国内で死亡した連合軍捕虜約3500人のうち、アメリカ人とオランダ人の遺骨は戦後母国に持ち帰られましたが、イギリス、オーストラリア、カナダ、インド、ニュージーランドなど英連邦の人々の遺骨は横浜の英連邦戦死者墓地に埋葬されました。

英連邦戦死者墓地の敷地は、戦前は横浜市の児童遊園地でしたが、戦後進駐軍に接収され、1951年のサンフランシスコ講和条約によって、ここを英連邦の戦死者墓地にすることが決められました。土地は日本政府の所有ですが、イギリスに本部を置く英連邦戦死者墓地委員会に永久無償貸与され、同委員会が管理しています。

13ヘクタールの広大な敷地は、イギリス区、オーストラリア区、カナダ・ニュージーランド区、インド・パキスタン区、戦後区に分けられ、各区に1人1人の墓碑が整然と並んでいます。墓碑には氏名、部隊名、階級、認識番号、死亡年月日、年齢、遺族の言葉などが刻まれています。またイギリス区の一角にある納骨堂には、南方から捕虜輸送船で門司港に到着した直後に死亡した335人分の識別不能の遺骨が合葬されており、この中にはアメリカ人48人、オランダ人21人の遺骨も含まれています。この墓地全体の被葬者は約2000人ですが、うち約1700人が捕虜として亡くなった人々で、その他は戦後進駐軍として駐留中に死亡した人々や朝鮮戦争の犠牲者です。

引用元: POW研究会 英連邦戦死者墓地

 ▼ 墓地を出る

■ 8.永田台

■ 8.永田みなみ台

9.永田南の斜面を下る

▼ 平戸桜木道路


京急 弘明寺駅


弘明寺商店街 http://www.gumyouji-shoutengai.com/


地下鉄弘明寺駅

おしまい。


新しい街でもぶどう記録;第259週

2019年10月26日 19時30分11秒 | 草花野菜

■ 今週のよそのぶどう


こども植物園(横浜市南区)

■ 今週の看猫

■ 今週のよその猫 (こども植物園 [横浜市南区])

■ 今週の武相境斜面

■ 今週の草木花実

■ 今週の横浜駅=サグラダ・ファミリア=永続工事

■ 今週のレコンキスタ 不可能施設探訪

英連邦戦死者墓地(横浜市保土ヶ谷区)。

第二次世界大戦後の1946年に、現在の横浜市保土ケ谷区に所在していた保土ヶ谷児童遊園地/保土ヶ谷錬成場が接収され、英連邦戦死者墓地が作られた。  約3ヘクタールの土地にイギリス1013基、オーストラリア278基など全部で1518基の墓碑が建立された。wikipedia

つまり、この地は敗戦直後に戦勝国に接収された。英国軍は「基地」ならぬ「墓地」を建設。葬られたのは日本で死んだ英連邦出身の戦争捕虜。米軍の捕虜で死没した者の遺骨は本国に帰った。米軍は墓地を日本でつくっていない(例外はこの英軍墓地に葬られた米兵)。
 接収地なので講和条約後は返還する建前だが、墓地だ。現在は、「敷地は、日本国政府より英連邦戦死者墓地委員会に対し無償かつ自動更新(30年期限)で使用を許可している」(wiki)そうだ。基地なら撤退してもらって返還してもらうこともできるだろう。事実、東京、横浜の米軍接収地はかなり返還されている。でも、墓地を撤回して更地にして返還せよ!というと鬼畜扱いされるので、この先もずっとこのままなのだろう。恐るべし、大英帝国。大英帝国の正統とは何か!死者には墓石で示して貰わなければならないという戦略だ。

■ 

合計 6,952 2,438
日付 閲覧数(PV) 訪問者数(IP)
10月19日 1,254 441
10月20日 987 352
10月21日 1,042 353
10月22日 1,057 373
10月23日 933 345
10月24日 744 273
10月25日 935 301

 

 

 

 

 

 


神代植物公園 2019 秋のバラフェスタ  

2019年10月21日 18時00分09秒 | 東京・横浜

 

神代植物公園の秋のバラフェスタは5度目。 過去記事は; 2015年、 2016年2017年2018年)

施設のweb site; 神代植物公園 2019 秋のバラフェスタ  

台風のせいなのかバラの咲き方は不調のような感じ。花びらが落ちていた。バラ画像を貼る;

遠景画像;

命名前の未発表バラの領域もこんな感じ。去年2018年とは違う。

帰り、お祭りのお囃子車をみた。お囃子の人のお面には名前があるらしい⇒Google[お囃子 お面 名前]


新しい街でもぶどう記録;第258週

2019年10月19日 18時44分16秒 | 草花野菜

 

■ 今週の看猫

■ 今週の草木花実

■ 今週の世襲独裁親子


https://twitter.com/ikagenki/status/1159771748461498368

https://twitter.com/shhcaa/status/1184987160652333056


https://twitter.com/TODAYonline/status/1184639171194810370

■ 今週、本屋でみた本


『<優勝劣敗>と明治国家 加藤弘之の社会進化論 』(Amazon). 2019/9/30発売。出版社の紹介文

紹介

「優れる者が勝ち劣れる者は敗れる、これ天理かな」
幕末に洋学者として出発し、維新後は明六社社員として立憲政治の啓蒙に努めるも、のちに天賦人権説を否定した東京大学初代綜理・加藤弘之(1836-1916)。加藤の唱えた社会進化論が明治国家の思想に与えた影響を考察、学者としての加藤の実像に踏み込み、近代日本の形成期における社会進化論と国体論との相克/親和を描き出す。

本屋に表紙を全面に立ててあった。あー、本になったのだと思った。著者は筑波大の助教で田中友香理という人で、博士論文を単行本化したと思われる。なぜ知っているかというと、こういうのを以前にネットで見つけたから;近代日本における進化論と国家思想 : 加藤弘之を中心として 。これは、学位論文審査報告書らしい。なぜこのpdfファイルにたどり着いたかというと、「加藤弘之 一の矢神社」でググると出たから。この学位論文審査結果には下記ある;

終章「成果と残された課題」では、大正2年と同3年に加藤が自分の祖先の地として茨城県筑波郡大穂村を訪問し、同地の一の矢神社に石碑を建立し扁額を奉納したことが、晩年の加藤の心象風景として紹介されたあと、本論文の成果と残された課題がまとめて提示されている

この一の矢神社は筑波大学のすぐそばにある。

 「加藤弘之 一の矢神社」の話は以前にした;愚記事:御蒜守 。そのとき書いた;

■ どうでもいいけど、リンク先を見て気付いた;
リンク先、一の矢神社の文章にある「老樹天を摩す境内には、加藤弘之博士の追遠碑等もみられます」加藤弘之(1836-1916)は、出石藩(外様)という超マイナーの藩の藩士で、しかしその頭脳で成り上がり、新政府では「東京学士会院会長、東京大学綜理、帝国大学総長、貴族院議員、帝国学士院院長、枢密顧問官」になった人。維新の志士と同世代の人。山県有朋より2歳年上。学術で出世。出石藩とは今の兵庫県の日本海側。城崎温泉があるところ。

加藤は、筑波山麓とは関係ないはずで、かつ「加藤の思想は現実的で、終世唯物論者だった」にもかかわらず、祖先が筑波山麓の出自である(小田家家臣?)とし、筑波山麓に碑を建てた(出典は忘れたがつくばの郷土史の本だったとおもう)

 今でも、加藤弘之の思想内容は知らない。出版社と著者には悪いが、価格が高く容易く購入できないので、図書館に入ったらのぞいてみたい。

 さて、加藤弘之についてその後知ったことは、『福翁自伝』、福沢諭吉の自伝、に活写されていること。加藤弘之って今の人は知らないだろう。福沢諭吉の知名度に比べると雲泥だ。加藤弘之の方が「出世」、学者としては官位を極めたのにもかかわらず。wikiには、例えば、1873年(明美たれ治6年)には福澤諭吉、森有礼、西周らとともに明六社を結成、とある。でも、そもそも幕府で一緒だったのだ。二人とも、幕府に「出仕」していた。そして、薩長によるクーデター、鳥羽伏見の戦い。慶喜が大阪から江戸城に逃げ帰ってきたときの江戸城でのことが『福翁自伝』には書いてある。

 さて慶喜さんが京都から江戸に帰って来たというその時には、サア大変。朝野共に物論沸騰して、武家は勿論、長袖の学者も医者も坊主も皆、政治論に忙しく、酔えるが如く狂するが如く、人が人の顔を見たればただその話ばかりで、幕府の城内に規律もなければ礼儀もない。(中略)私は時勢を見る必要がある、城中の外国方に翻訳方などの用はないないけれども、見物半分に毎日のように城中に出ていましたが、その政論流行の一例を言ってみると、ある日加藤弘之と今一人、誰であったか名を覚えませぬが、二人が裃を着て出て来て外国方の役所に休息しているから、私がそこへ行って、「イヤ加藤君、今日は裃で何事に出て来たのか」と言うと、「何事だって、お逢いを願う」というのは、この時に慶喜さんが帰えって来て城中に居るでしょう、ソコでいろいろな策士論客忠臣義士が躍起となって、上方の賊軍が出発したから、何でもこれは富士川で防がなければならぬとか、イヤそうでない、箱根の嶮阻に拠って二子山の所で賊を皆殺しにするがいい、東昭神君三百年の洪業は一朝にして捨つべからず、吾々臣子の分として、義を知るの王臣となって生けるは恩を知るの忠臣となって死するに若かずなんて、種々様々の奇策妙案を献じ、悲憤慷慨の気焔を吐く者が多いから、言わずと知れた加藤らもその連中で、慶喜さんにお逢いを願う者に違いない。ソコデ私が「今度の一件はドウなるだろう、いよいよ戦争になるか、ならないか、君たちにはたいていわかるだろうから、ドウゾそれを僕に知らしてくれ給え、是非聞きたいものだ」「ソレを聞いて何にするか」「何にするッてわかっているではないか、これがいよいよ戦争に決まれば僕は荷物を拵えて逃げなくてはならぬ、戦争にならぬと言えば落ち付いている。その和戦如何はなかなか容易ならぬ大切なことであるから、ドウゾ知らして貰いたい」と言うと、加藤は眼を丸くして「ソンナ気楽なことを言っている時勢ではないぞ、馬鹿々々しい」「イヤイヤ気楽などころではない、僕は命がけだ。君たちは戦うとも和睦しようとも勝手にしなさい、僕は始まると即刻逃げていくのだから」と言ったら、加藤がプリプリ怒っていたことがあります。 (『福翁自伝』、強調、おいら)

この後、加藤は新政府に出仕。男爵になるまでのことはwikiに書いてある。福沢は新政府に出仕しなかった。頼まれたのに。理由は新政府が攘夷だからという。

 まとめ


   優勝           劣敗

合計 7,127 2,317
日付 閲覧数(PV) 訪問者数(IP)
10月12日 1,290 423
10月13日 1,034 327
10月14日 962 303
10月15日 991 320
10月16日 1,016 314
10月17日 933 341
10月18日 901 289

昭和の成仏のために;札幌大通2丁目の巨大赤煉瓦建物

2019年10月17日 18時55分29秒 | 札幌

先日の記事で敗戦直後の札幌大通の話をした。その時、大通2丁目の大きな建物に気付いた。上図黄色矢印。知らない建物があるばかりでなく、この当時の大通の道が違う。すなわち、現在大通公園となっている帯状地域の北側は道路が一貫して走っている。でも、この敗戦直後の大通2丁目は北側の道路がなく、建物の敷地となっている。なんだろう?と思った。

まず、航空写真を見た;

黄色矢印が知らない建物。そして、上から見るとやはり現在では大通公園の北側の道となっている場所を跨いで建物がある。ちなみに、㋐が拓銀本店(当時)[米軍司令部として接収]、㋑が今の大通公園3丁目にできた米軍用の教会。

すなわち、現在の大通2丁目には何か巨大な建物がある。何だ?これは。


1961-1969年の間の航空写真。ある。左の3丁目は公園が造成されている。

ネット探していると、建物の色がわかった。

赤レンガの建物だった。それにしても巨大。

戦前から大通2丁目にはこんな巨大な赤レンガの建物があったのだ。聞いたこともなかった。

調べた。わかった。この巨大な赤レンガの建物は、陸軍被服支廠として建てられたもの(らしい)。ネットに真正面から解説したものは見つからなかった。でも、「陸軍被服支廠、陸軍被服工廠」でググと廣島など各地に赤レンガのこの建物に似たものが建てられたとわかる。Google[陸軍被服支廠 広島]。広島のものが現存するが、札幌のは1960年代に取り壊されたのだ。

本籍地から1kmも離れていない場所のことなのに、初めて知った。


変わらない札幌;大通駅のポールタウン入口付近のたい焼き屋

2019年10月15日 18時19分10秒 | 札幌

訂正;2020/3/8.  「変わらない札幌;大通駅のオーロラタウン入口付近のたい焼き屋」と題していた。

まちがい。ポールタウンだ。大通り駅とすすきの駅の間の地下街。今、気付いた。


札幌の地下鉄の大通駅の南側は オーロラタウン ポールタウン [1]という名の地下街への入り口となっている。ここにたい焼き屋がある。今回行ってみて確認したら、たい焼き屋はまだあった。ここには、新しくとも、1976年からあった。なぜわかるかというと、1976年に「およげ!たいやきくん」という曲が流行した(曲の発売は1975年末)。今wikiでみると、レコードは500万枚以上売れたとのこと。このとき、レコードばかりでなく、実際のたい焼きが売れた。この頃、この大通駅からオーロラタウン ポールタウンの入口へ抜けるこの場所は、たい焼き屋に並ぶ人でブロックされ大変な混雑となっていた。小学生ながらに覚えている。

その時のたい焼き屋が今ある「福や」であるのかは断定できない。でもこの地にはたい焼き屋がまだあるのだ。

たい焼きブームが去った後もこの地にたい焼き屋はあった。中高生になったおいらはすっかり客がつかなくなったこのたい焼きを見て、あのブームの儲けでやっていけてるのだろうと勝手に判断していた。そして、43年後の今、この地にはたい焼き屋がまだあるのだ。

[1] 札幌地下鉄大通駅につながる地下街の名は「オーロラタウン」と「ポールタウン」。当時の札幌の「極地」志向がわかる。オーロラも極地も札幌に関係ないことはいうまでもない。今21世紀の札幌、北海道は稲作があたりまえの地となったそうだ。

■ なくなった店

大通駅の南側の オーロラタウン ポールタウンに抜ける通路を東に向かうと三越。

この大通駅から三越に入ったすぐの地下の売り場に、昔、1970年代、天津甘栗屋があった。いつも甘栗を炒っていて、香りがしていた。

小学生の頃、創成東地区に住む祖母のところへ遊びにいったとき、「三越に行って天津甘栗を買ってきてくれ」とおつかいを頼まれたことがある。


札幌散歩;白石警察署 ⇒豊平橋 ⇒ 創成川(南4西1)

2019年10月13日 17時58分45秒 | 札幌

札幌散歩。豊平川を渡る。札幌は豊平川という大きな川で二分される。条理制の中心街は西側にある。豊平川の東岸は、豊平や白石(しろしい)。白石は宮城県の白石からの由来。仙台伊達家の片倉小十郎家の家臣が移住したところ。
 現在、豊平橋がある地点は、江戸時代末期に渡しがあった。そこに居た和人が最初の札幌人とされる。
 おいらは自覚的に豊平橋を歩いて渡ったことがなかったので、散歩した。出発地点を「白石」がつくように白石警察署とした。


①⇒④ 白石警察署⇒創成川


今回①⇒④ 白石警察署⇒創成川
前回A⇒B: 札幌散歩;中島公園→石山通→大通公園、坂と橋の無い街を行く

■ 白石警察署


菊水3条5丁目 菊水という名は菊亭という貴族の「菊」と豊平川の「水」に由来する。

菊亭脩季が、札幌育種場より当時の上白石村の桑園5町歩を3年間の条件で無償貸与され、ホップ園を開いた。wiki


国道36線。

国道36線は月寒通ともいう。一方、弾丸道路ともよばれたことがある。

北海道札幌市と室蘭市を結ぶ国道36号線の、札幌~千歳間の呼び名。北海道で一番早く舗装された道路で、その名称の由来については「米軍の弾丸を運搬する為の道路」と言う説や「弾丸のような突貫工事で舗装が行われた」など諸説がある。wiki

朝鮮戦争の時、整備されたのだ。札幌の司令部、駐屯軍と千歳基地の流通を促進するためだ。

その頃はこんな建物がこの街道の脇には並んでいたのだ;


36号線を北上。


豊平川岸に着く。川下の


札幌開祖 志村鐵一碑。

志村 鐵一(しむら てついち)は、札幌に初めて居住した和人で、札幌開祖と呼ばれている。wiki

志村鐵一の名は小学校3年生の時から知っていたが、彼が佐幕派で維新後は役を追われたと初めて知った;

だが1869年(明治2年)、幕府に代わって明治政府が札幌に開拓使を置き島義勇が判官としてやってくると、志村は仕事を奪われ、代わりに吉田がその任につくことになった。理由は不明だが、幕府との関係が深かったのを恨まれてとも言われている。  1871年(明治4年)4月に豊平橋ができると橋守を務めたが、それも1874年(明治7年)10月に解任された[2]。  職を失った志村は絶望し、定山渓で温泉を開いていた美泉定山という僧に会いに旅立つが、定山渓に姿を現すことなくそのまま行方不明となる。wiki

ところで、この札幌「開祖」、このまま安泰なのだろうか? 「アイヌ新法」というものができて文革が始まって、血祭りに上がったりしないのだろうか?

なぜここが幕末から渡しであったのか、初めてわかった(つもり)。すなわち、地図で見るとここが豊平川の川幅が一番狭い。


西岸にはもうひとりの札幌開祖 吉田茂八の碑。

吉田は、1857年(安政4年)に箱館奉行によって銭函と千歳を結ぶ札幌越新道(千歳新道)が開削されると、幕命により豊平川渡守となる。wiki

大成したらしい。 

1871年(明治4年)、戸籍を福山町から東創成町5番地(後の札幌市中央区南1条東1丁目2番地)に移す。建設請負業はいたって好調であり、1873年(明治6年)1月から6月15日までの経済動向を収録した『総高取調』の請負渡世部門9万円のうち、吉田1人で1割を占めていた。約1300平方メートルの広い宅地には、家族3人に加えて奉公人12人を抱えていたという。 (wiki


豊平橋を札幌市街側から豊平方面を望む。


戦前の札幌の典型的建物と、おいらは、思う。


創成川にたどり着く。

まとめ; 戦前からと思われる建物をいくつか見ることができた。

おしまい。

 


新しい街でもぶどう記録;第257週

2019年10月12日 18時30分27秒 | 草花野菜

■ 今週の看猫

▼ 今週の投稿ブログ記事

今週は2つのブログ記事を書いた。変わらない札幌;地下鉄ホームのベンチ、 敗戦直後の札幌市街の画像;米占領軍接収事情、あるいは、この写真はどうやって撮ったのか? 後者は、オキュパイド(occupied)もの。

以前に、愚記事で、札幌郊外の米軍ペンタゴン、があり、札幌の米軍基地 Camp Crawford について書いた。そのCamp Crawfordについての情報をネットで見つけた。札幌に進駐してきた米兵Vincent W. Allen(23歳、少尉)は回想している;

Camp Crawford, in Sapporo, was considered the best base in Japan.

Unlike Tokyo and other devastated cities, Sapporo had escaped fire bombing. Modern office buildings gleamed, trolleys trundled down wide paved streets, trains rolled out of stations.

Japan times, GIs occupied 'paradise'、 日本語訳:GIは「楽園」を占領しました

慰安所(comfort station)についても書いてあり、既婚者、独身者のどれくらいの割合の米兵が慰安所(comfort station)に行ったか「定量的」に書いてある。

合計 7,265 2,348
日付 閲覧数(PV) 訪問者数(IP)
10月5日 1,295 389;
10月6日 1,301 382
10月7日 1,008 322
10月8日 840 301
10月9日 875 309
10月10日 894 305
10月11日 1,052 340

 


変わらない札幌;地下鉄ホームのベンチ

2019年10月10日 18時21分56秒 | 札幌

札幌に行って気付いたこと。地下鉄のホームのベンチがそのまま。開業(1971年)時もこのデザインだったと記憶している。そうすると、ベンチ自体はずっとそのままなのだろうか?それとも同じデザインで更新されておりのだろうか?

備品票が貼ってあったので、見た。平成24年とある。でもこの古さは6年前のものとも思えず、開業以来ずっとそのままなのだろうと思っている。


敗戦直後の札幌市街の画像;米占領軍接収事情、あるいは、この写真はどうやって撮ったのか?

2019年10月08日 18時50分17秒 | 札幌

ネットで敗戦直後の札幌市街の画像を見つけた。

https://www.city.sapporo.jp/kobunshokan/kankobutsu/documents/ronkou3-2.pdf より 
1945年10月6日、米軍撮影より 作成。福林徹氏提供 米国立公文 書館所蔵
①札幌逓信局ビル(北1条西6丁目 現・アーバンネット札幌ビル) ②北海道拓殖銀行本店ビル(大通西3丁 目)③札幌グランドホテル(北1条西4丁目)④札幌市役所(北1条西4丁目)⑤北海道庁(北3条西6丁目 赤レンガ)⑥北海道新聞社(大通西3丁目)

敗戦直後残って札幌の様子を映した写真をネットで見つけた。敗戦後、大通りの北海道拓殖銀行本店ビルが占領軍司令部があったから。このことは子供の頃は全く聞いたことがなかった。知ったのはネットの時代になってからだ。

①~③のビルが米軍に接収された。②北海道拓殖銀行本店ビル⇒第77師団司令部。


現在の札幌。②が司令部のあった拓銀本店があった場所。拓銀は御存知破綻して北洋銀行になったので今では北洋銀行本店。

なお、この司令部のあった拓銀本店での記録に残る出来事は、例えば、
1947年の春に4名(北海道アイヌ協会の有力者・椎久堅市、小川佐助、森久吉、文字常太郎)はGHQ第九軍団司令部に呼び出され、ジョセフ・スウィング少将と会い、アイヌ民族に日本から独立する意志があるかを打診されたという。椎久たちは独立する意志はなく「日本国民として祖国の再建に尽くす」旨を答え、少将は独立運動など起こさず日本人と対立しないよう釘をさした。wiki) がある。 

敗戦直後の進駐軍が司令部とした当時の拓銀本店の画像は下記;


上の1945年鳥瞰画像に映る建物と一致する。

■ 上の1945年鳥瞰画像はどこから撮影したのか?

上の1945年鳥瞰画像は1945年10月6日に撮影された。撮影したのは米軍77師団の写真撮影担当の通信隊。札幌に米占領軍が進駐してきたのは1945年10月5日。ミズーリでの降伏文書調印から1か月も経っている。このことは以前書いた


昭和二十年十月四日、まず米第八軍九軍団の六千名がバーネル少将の指揮下に函館港に入港、つづいて北海道進駐米軍最高司令官ライダー少将および七七師団長ブルース少将が部下八千名をしたがえて小樽港へ向かった。
 翌五日、小樽は薄曇り、札幌は曇りのち晴れ、高くやがて晴れあがった秋日和。
 (中略)
 小樽から札幌へは海岸ずたいに三十七キロ、午前七時すぎには早くも先発のトラック四台が札幌へのりこみ、日本側の先導で、中島公園内の元北部軍司令部あとの建物に入った。つづく車両の進駐軍は手に手に自動小銃をにぎりしめ、鉄カブトをにぶく光らせながら、その前日市役所が労務者を動員して掃き清めた北一条のアスファルトの道路を通過してゆく。

なので、上の1945年鳥瞰画像は札幌進駐の翌日だ。さて、この写真はどうやって撮ったのか?鳥瞰である。映っている大通り公園の向こうの拓銀本店ビルなどが4-5階だとわかる。そのビルをかなり上から視線で撮影している。4-5階建てのビルをこのような角度で見下ろす建物は相当高い建物ではないといけない。航空写真か?最初はそうなのかと思った。でも飛行機にしては高度が低い。この高度ではあぶないだろう。調べた。撮影位置は大通り西一丁目。今井百貨店(札幌っ子は丸井さんと呼ぶ)の位置だ。ネット調べると今井百貨店ビルは大正年間にできた。でも4-5階以上の高さではない。

調べたらわかった。こんなこと全く知らなかった。生まれる前とはいえ本籍地から1kmも離れてないのに。


大通りの西1丁目には望楼があったのだという。
札幌のシンボルタワーだった消防署の望楼 昭和二年十月に大通り西一丁目に建てられた望楼は、高さ43.33メートルの巨大なもので、当時は東洋一といわれました。出典

知らなかった。昭和40年まであったそうだ。札幌で全く聞いたことがなかった。

米軍77師団の写真撮影担当の通信隊は1945年10月6日にこの望楼から撮影したのだ。

下記画像はこの望楼から撮った昭和30年頃の札幌。


■ 後記; このブログ記事の後、敗戦直後の札幌の映像が見つかった。下記記事で映像リンク先に行けて、見られる。

敗戦直後の札幌市街の映像;市街地、拓銀本店・77師団司令部、月寒駅、米軍駐屯地