いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

つくば散歩;公園通り 赤塚公園 ⇒ 松見公園、or sentimental journey to renew old memories

2022年05月03日 15時46分58秒 | 筑波山麓

つくばに行った。昔住んでたアパートや仕事先、散歩道を再確認した。最下部にYouTubeを貼るが、つくばを特徴づける、共産圏国家を彷彿とさせる、幅広の大通りはもちろん人工的なものであるが、この記事の散歩道の「つくば公園通り」も原野にできた人工の道である。

a:稲荷前交差点、b:茗渓学園、公園通り、赤塚公園の3重点、c;洞峰公園、d;南大通り+公園通り交点、e; つくばエキスポセンター、f;松見公園

b-f; つくば公園通り、1-5; 西大通、6-10;東大通、1-10、国道354線、2-9;南大通、3-8; 土浦学園線、4-7;  、5-6;北大通

■ ひたちの牛久駅 ⇒ バス停・環境研前

▼ イオンモール

ひたち野うしく駅からTXつくば駅へ行くバスは稲岡のショッピングモールに立ち寄ることになったと知る。バスの乗客の大半がここで降りた。

■ 環境研前バス停、稲荷前交差点

▼ 西大通の稲荷前ゲート・モニュメント(a)

▼ 閉店したココス


ココスは閉店したそうです。Google[つくば 学園稲荷前店 ココス 閉店 2020年11月8日]


在りし日の姿

▼ 環境研の門

▼ がんこや かるがん

⇒ 昨日の愚記事: 岩のりチャーシューメン がんこや かるがん つくば店

▼ 動物病院

「うめちゃん」がお世話になりました。新棟ができていた。

愚記事「うめちゃん点滴」より

幸せな X 印」猫もここの動物病院の話です。

▼ 長続きの本屋さん;むさしの書房

 

▼ 国道354を渡り北上

土浦用水 (土浦市外十五ケ町村土地改良区 google

▼ 「とっとくポイント」

「集めたらとっとく」を再訪(愚記事:置き忘れられたどんぐりたち)。


芝畑

愚記事;「11年暮らしました」の窓から見える風景。アパートのとなりは芝畑だった。

■ 赤塚公園、公園通り (b)

▼ 赤塚公園

↑↓ これらの木々は人工林。

▼ c: 洞峰公園  1980年開園 (wikipedia)

公園建設に6年かかったらしい。

▼ イチョウ並木

2005年11月30日、愚記事

■ 洞峰公園 ⇒ 千現 ⇒ 公園通りに戻り、北上 ⇒ つくばセンター

▼ 研究支援センター

20年前に働いていた会社のラボがここにあった。

▼ 公園通りに戻る

この「書道教室」の看板は、少なくとも、20年前からある。


千現通り


d: 南大通り。向こうに見える道の先がどん突きとなっている。

▼ つくばセンタービル

- - つくば市(筑波研究学園都市)の中心に、世界的な建築家である磯崎新が設計した「つくばセンタービルが」あり、そこに「広場」がある。一九八三年に完成してちょうど二十年余、筆者は一度としてこの「広場」に人が憩う光景を見たことがない。時間がとまり音が消えた白昼の墓場が蜃気楼のごとくゆらめくのを誰しも無意識に幻視するだろうか。その虚ろな不気味さが、確かに人を遠ざけている。 - - 中川八洋 (愚記事;「楕円の広場に降りることはない」

降りてた。催しものをやっていた。

▼ つくば美術館

関連愚記事;「榎戸庄衛展」・茨城県つくば美術館

■ e: つくばエキスプセンター

つくばエキスポセンターに生まれて初めて行った。つくばにいた頃は、来たことがなかった。500円。やはり、来る必要がなかったと確認できた。

愚記事(谷田部細川一万六千石)より;

このコスモ星丸なるものを見ておもうことは、そのダサさが当時、時代の最先端を切り開くとされる科学技術の祭典のシンボルになったということに驚くばかりでなく、実はコスモ星丸自身あるいはそれを創造したり受容した神経自身に責任があってそれらが色あせていったのではなく、むしろ、時代の最先端の神経を追い越してそれを古臭くさせることこそ科学技術の使命であると気づくことであり、実にコスモ星丸のだささ、つまり今日現在の神経がコスモ星丸を古色蒼然と認識することこそが、科学技術の祭典の精神、あるいはもっと俗なあさってには打ち捨てられる明日の新しいイベントや商品を必死に作り出す精神の結果に他ならないと気づくことである。

■ 公園通りに戻り、北上、松見公園へ


北大通

▼ f:  松見公園

松見公園展望施設”松見タワー”。100円の入場料を支払えば、エレベータで最上部までいける。

松見公園展望施設”松見タワー”(建築の旅 web site)から望む筑波山


内閣総理大臣として松見公園展望施設”松見タワー”に訪れた大平正芳。 本記事最下部のYouTubeの 41:52のところより。

■ 松見公園から引き返し、TXつくば駅へ

■ まとめ

通過町

つくば市

小野川、赤塚、稲荷前、長峰、二宮、千現、竹園、吾妻、天久保

ACCSスペシャル 昭和41年~47年頃のつくば


今日はつくば記念日;松竹梅のつくば戦後開拓集落について

2019年05月19日 15時02分18秒 | 筑波山麓


今日はつくば記念日。

今から49年前の今日、筑波研究学園都市建設法に、ひろひとさんが書名、押印; ぎょめーぎょじ (愚記事:ひろひとさんのゴーサイン

以前、下記書いた;

のち、学園都市建設で、名がとってつけられた。松代、竹園、梅園! 松竹梅! なめてんのかぁ、命名者!

その「筑波研究学園都市」のいちおうの中心のつくばセンターは、農地にもならない松林、雑木林台地につくられた(これは実は不正確である。立ち退いた緊急開拓地の満州からの引き上げ民がいるらしいのだが、その件はいつかまた)。

(愚記事;今日もつくばで; 苅間歩道橋、あるいは、分断された「共同体」を繋いで... 

これについて、誤りの訂正と最近知った公知情報を書く。

【誤り】上記で、「学園都市建設で、名がとってつけられた。松代、竹園、梅園! 松竹梅! 」と書いたが、誤り。具体的にどこか誤りかというと、「学園都市建設で」の部分と松代。

まず、松代と松見を取り違えた。松見、竹園、梅園!とすべきであった。さらに間違いは、松見、竹園、梅園は学園都市建設以前からあった。そして、その松見、竹園、梅園がいつできたかを下記書く。

【敗戦ゆえの緊急開拓地;松見、竹園、梅園】

<竹園の現在>


竹園は現在のつくばエクスプレスつくば駅の南の地区。学園東大通りを挟んで東西に存在する。図中の「稲荷山」はこれから見ていただく過去の地図での目印のため強調図示。

上述「立ち退いた緊急開拓地の満州からの引き上げ民がいるらしいのだが、」についてネットで情報があった。

緊急開拓地というのがある。1945年(昭和20年)11月9日に閣議決定した「緊急開拓事業実施要領」に基づく。敗戦で大日本帝国が瓦解し、満洲など外地からの引き揚げ者を"帰農させ、その食糧自給を図るため、農地開拓を緊急に実施"した(wiki)。

現在のつくば市の松見、竹園、梅園はそういう緊急開拓事業関連地区であった(らしい)。なので、昔おいらがつくばで聞いた「立ち退いた緊急開拓地の満州からの引き上げ民がいるらしい」は本当だったのだ。⇒ ネットの情報(戦後、満蒙開拓から帰国した人たちが数多く入植した。つくば市内に松見・竹園・梅園という名のついた場所があるが、それらはその人たちの入植地の名という)。下記

一方、下記をネットで見つけた;

筑波學生新聞(1983年)記事;万博のむら (出典 pdfファイル[2.5MB])

「桜村開拓(松美・竹園・梅園)」の農家、とある。

<竹園の過去>

そこで、おいらは、松見、竹園、梅園の緊急開拓の痕跡を古い地図で探した。


1972年の地図。竹園の地名、稲荷山が確認できる。当時は桜村。

筑波研究学園都市建設法(1970年)の2年後。学園東大通りはあり、西大通りも建設中。竹園は「田」の字に道がある。これが竹園地区の緊急開拓と思われる。戸数は10戸程度か? なお、「田」の字もそしてその下の新井の下を東西に走る道も今はない。南大通りが全くない。


1974年の航空写真。南大通りができている。竹園開拓地区の「田」の字もかすかに見える。この時点でもまだ農地のようだ。植生が確認できる。しかし、竹園開拓地区の人たちがいつ立ち退いたのかわからない。


1960年の地図。研究学園都市建設前。東大通り、西大通りなど全くない時代。
稲荷山の右わきに水田の細帯状に南北に走っている。これは、谷底低地。竹園が乗っている台地とは異なる地形環境。

<松見地区>


1960年の地図。「松見」の地名は見えない。現状と大違いでわからないと思いますが、「東平塚」を手がかりにしてください。地図の右上の櫛状の道路が区画された開拓地と推定できます。松見地区など松竹梅の三開拓地ついてのネット情報です☟

https://twitter.com/kame_matsuri/status/777693075451674624

<梅園地区>


1960年の地図。「梅園/梅里」の地名は見えない。現在の梅園の位置は図の左半分の下のあたり。
大角豆(ささぎ)の地名を手がかりにしてください。なお左上に「洞峰池」あり。その少し右下に気象施設あり、今の気象研の場所。

「梅園/梅里」地区は区画化された開拓地は認められない。

[松竹梅、まとめ]

 
つくば市全体での、松見、竹園、梅園の位置は上図。これらの地区は当時の桜村。


開拓集落の地形的特徴=台地

こららの3か所は台地にある。江戸時代は(松)林などに土地利用されていた。炭をつくって江戸で売っていたらしい。これは別の観点でいうと、そういう地域は田畑にならない土地だということ。下の図で竹園の東(右)は河川により開析され谷底地形となっている(図の右上端)。このあたりは水田地域。江戸時代より「豊か」な地域であったに違いない。それに対し、台地は水がないので、農地には向かない。戦後の緊急事態になるまで農地利用されることはなかった。そういう農業に向かない土地が緊急開拓事業の舞台となったに違いない。

::そして、国策::

 成田空港と研究学園都市・つくばは、霞が関から、似たような距離にある。おそらく、官僚が地図を広げてコンパスで半径50kmの円を描き、国際空港はここ、研究学園都市はここと決めたのではないか? 半径50kmの円周上で、利用してよい土地として非農耕地&平坦=台地を選んだのではないか?

そして、両者の共通点は緊急開拓事業の入植者に立ち退いてもらったこと。成田がどれだけもめたかは周知 [1]。戦後の国策で土地を大規模に使用する場合、江戸時代以前からの伝統的村落を立ち退かせるよりは、”通りすがり”の「流民」を立ち退かせることの方が多い。つくばの研究学園都市もそういう例だ。

[1] 成田空港建設の土地収用で頑強に抵抗したのは満洲からの引き揚げ農民であったと歴史は語る。google

松見、竹園、梅園に外地から流れてきて、そして、立ち退いていった人たちの消息は、ネットでは、わからない。

 一方、現在のつくば市でも旧谷田部町にあった海軍谷田部飛行場は戦後、開拓地となった。上図の「農場」と記された場所。

<<谷田部・「農場」地区; 旧海軍谷田部飛行場跡地>>


1960年の地図。図の最上部中央に「榎戸」交差点が見える。
海軍谷田部飛行場跡地が区画され開拓地となった。農家は36戸入植とのこと。

「住民は戦後この地に入植した36戸の開拓民で、「私は二代目ですが初代はコンクリートや粘土などが混じった水はけの悪い土地を耕して落花生や陸稲を育てました」と元区長の関邦宏さん。」(引用元

下地図での観音台が旧海軍谷田部飛行場跡地。現在、農水系独法研究所施設。

関連愚記事;旧谷田部航空隊跡地


エピローグ; 竹園の今


SUUMO(スーモ):関東の住宅・不動産購入や売買をサポートする住宅情報サイトより


■ 関連情報;

筑波研究学園都市地名攷 (https://4b3.hatenablog.com/entry/20130608/1370629933


 


1Q84; 筑波大生・天吾は、中華定食 ランラン に行ったか?、あるいは、浅田彰―野坂昭如―福田信之の時代、1984

2017年10月05日 19時25分44秒 | 筑波山麓


https://twitter.com/RanRan_tsukuba


Google [ランラン ビッグ丼]


https://cookpad.com/recipe/3102970

愚記事: 1984年で、筑波大出身29-30歳・職歴7年は無理 で言及されている天吾は1984年にはすでに筑波山麓を去り、東京都内で暮らしていた。

さて、天吾は筑波大学時代、ランランに行ったのか?『1Q84』には書かれていない。あたりまえだ。

1984年にはランランはすでにあったと、今日、知った。 1984年4月の「筑波学生新聞」(強調 いか@[1])に広告があった。 

[1] 現在、事実上廃刊したらしい:  http://www.geocities.jp/dtfmj027/

筑波大学新聞は、まだ、ある: https://twitter.com/ut_shimbun?lang=ja

 

現在のRanRanは、その昔、中華定食 ランラン、だったのだ。

1984年にはあった。 したがって、天吾が筑波山麓にいた頃にも、中華定食 ランランはあったかもしれない。

筑波大生・天吾は、中華定食 ランラン に行ったのだろうか? どうでもいい話ではある。

■ 浅田彰―野坂昭如―福田信之(愚ブログ)の時代

浅田彰は「勝共」系の新聞のインタビューに答えていたのだ。

2017/10/6 訂正。 その当時各地の大学であった「○X大学学生新聞」という原理研の新聞とは違うようだ。

→ 根拠:wikipedia [原理研究会]

今の人は知らないことだ。

さて、おいらが「ふとんの日庄」の広告があった;
(しょうの字は点が必要なのだと今知った。)

関連愚記事; 今日もつくばで; さらば! 筑波山麓 ① 日庄ふとん店

これら画像の出典はこちら::  http://hdl.handle.net/2241/105559


今日5/19は、つくば記念日、あるいは、筑波研究学園都市に来なかった「国研」

2017年05月19日 09時13分37秒 | 筑波山麓

今日5/19は、つくば記念日。

今から、47年前の今日、筑波研究学園都市建設法に、ひろひとさんが書名、押印; ぎょめーぎょじ (愚記事:ひろひとさんのゴーサイン)。

当時、通産省、科学技術庁、建設省、環境庁、文部省など諸官庁傘下の国公立研究所が「筑波研究学園都市」に移転、あるいは、新設した。

もちろん、当時、「つくば市」はない。

なお、「つくば」で最も古い研究所は、現在の気象研である。今の場所(長峰 [1])に戦前からあった。その今の長峰の気象研を中心に今の産総研や環境研があるのだ。

[1] つくば市に多少なじみのあるひとでも、あるいはつくば住民でも、つくば市長峰という地名は知らないのではないだろうか。

どうでも、いいことだが、今の産総研の敷地の中に、当時の桜村と谷田部町の境界がある。

さて、奇を衒う当ブログでは、筑波研究学園都市に参画しなかった「国研」(国立研究所)に言及する;

国立医薬品食品衛生研究所

世田谷区にあった。 先日、散歩してて見つけた。 それまで、その研究所の存在は全く知らなかった。 それは今でも国研なのだ。 つくばの国研はみんな独立行政法人化したのに。

衛生材料廠跡」という碑を見て、さては、旧陸海軍の研究所、あるいは生産組織を厚生省が引き継いだものかと、散歩の時は、思った。だって、戦場で医薬品は激烈に需要されるでしょう。

  (今の若い人は知らないと思うが、20世紀後半には厚生病院というのがあった。厚生省管轄の総合病院だ。 その厚生病院というのは、敗戦前はすべて陸軍病院、あるいは、海軍病院だったのだ。 ポツダム宣言の受け入れにより大日本帝国陸海軍は無条件降伏し、解体した。その残滓としての軍の病院が、戦後の厚生病院である。 今の古い人! 知ってた?)

さて、「衛生材料廠跡」=国立医薬品食品衛生研究所の沿革の問題に戻る。

家に帰って、ググった。ちがった。 旧陸海軍の研究所だろうというおいらの邪説。

国立医薬品食品衛生研究所は、明治7年(1874年)に医薬品試験機関としての官営の東京司薬場として発足した、わが国で最も古い国立試験研究機関である

この国立医薬品食品衛生研究所は、1970年の、都内の国研を筑波研究学園都市に移転させ、以って、都内の過密を緩和するという国策から免れたのだ。 おそらく、国立医薬品食品衛生研究所職員が、「なんで世田谷から筑波山麓くんだりに行かないといけんだよ!」とブーたれたと、おいらは、邪推している???。そのブーたれに厚生省幹部は負けたのだ???。 

 

 

 


しばかれる幡谷親子;なんちって漢詩のせいで

2017年02月06日 21時05分04秒 | 筑波山麓

昨日の愚記事で幡谷祐一さんの筑波大に示してある「漢詩」が韻を踏まず、平仄も合わない故に、批判されていることを書いた。

戦闘機と「漢詩」;茗渓会新人87歳の「倭詞」は、あの幡谷さんちの息子さま 

そして、今日。幡谷祐一さんの御尊父の「漢詩」もしばかれていると知る;

茨城空港開港記念の石碑に彫られた漢詩がひどい

田舎紳士のための漢詩センセ業は、商売になるんじゃないか? なにせ、彼ら生徒は、金持ちだ [1]。

[1] この直後、重大な事実を知る ⇒ [2]

wikipedia 幡谷祐一

■ [2] わお!

幡谷祐一さん=== 茨城県漢詩連盟 会長


常磐線あれこれ

2016年08月14日 20時00分53秒 | 筑波山麓


ネット上でパクった画像

つくば時代、常磐線ワンカップ大関伝説はよく聞いたが、実際、おいらが見たことは1度もない。

■ 1983年、夜は1時間に1本

これもネット上で知った情報。常磐線、昔は本数少なかった。

1983年の時刻表を調べた。19:00以降は上野発の(今で云う快速)列車は1時間に1本。

なんと、普通列車の便数と寝台特急ゆうづるの便数がほぼ同数。

1983年は筑波万博 [関連愚記事群] の2年前。筑波大学(最寄り駅:荒川沖)は開学している。

もっとも、別途、常磐線・普通(当時の呼称は国電)が取手まであった。「国電」で我孫子あるいは取手まで行って、我孫子発の列車に乗ればから土浦へ行けたはず。つまり、当時の土浦への便数は事実上1時間に2本。

現在は19:00以降は1時間に4本程度。


(忘れてた)先週の木曜、5/19は つくば記念日 ! ぎょめーぎょじ

2016年05月26日 20時46分35秒 | 筑波山麓


愚記事より   昭和45年=1970年
筑波研究学園都市建設法(つくばけんきゅうがくえんとしけんせつほう)は、1970年5月19日に公布され同日に施行した日本の法律 (wiki)

▼そして15年後の彼(1985年)

来週5/29の「50年前の今日、XXXにて○○○誕生!」(投稿予定!)のネタに現を抜かし、つくば記念日を忘れていた。

 


筑波大、茨城大、筑波山麓―霞ヶ浦湖畔未解決女子大生殺人事件

2016年04月21日 20時05分24秒 | 筑波山麓

つくば市の事実上隣りに阿見町という街がある。茨城大学の農学部がある。もちろん、つくば市には筑波大学がある。

ところで、2件の未解決の女子大生殺人事件がある;

筑波大女子大生殺害事件 [google] 1999年

茨城大女子大生殺害事件 [google] 2004年

■ なお、筑波大では学内で起きたあの五十嵐助教授(『悪魔の詩』の翻訳者)の殺人事件(悪魔の詩訳者殺人事件[wiki] 1991年)も未解決。

筑波大医師母子殺人事件=つくば母子殺人事件[wiki] (1994年)は、解決。
このお医者さま、人を3人も殺したのに、死刑にはならなかった。

と、どうでもいい公知情報を書いてみた。

 

 


今日もつくばで; さらば! 筑波山麓 ④ ひたち野うしく駅の八兵衛さん

2014年10月22日 19時53分56秒 | 筑波山麓

ちくしょう、転勤だ!ということになった今週、東京へ外勤だ。おそらく、筑波山麓からこのJRひたち野うしく駅を使って外勤のために東京へ行くのは最後となるだろう。 なお、見送りは、なかった。

JRひたち野うしく駅。 1998年開設。 元々は、万博中央駅である。 もちろん、あの1985年の筑波万博のための臨時駅。

おいらが、筑波山麓に来た1997年12月にはまだこのJRひたち野うしく駅は開設されていなかったのだ。

ポスドク時代は滅多に東京に行かなかった。その後、東京に行ったとしても高速バスを使っていたので、JRには乗らず、しかもJRひたち野うしく駅に縁がなかった。ちなみに、当時、今のTXつくば駅であるつくばバスセンターからの高速バスで東京へ行くことのリスクは高速道路での渋滞による遅延であった。おいらが実際に聞いた最大の遅れは8時間である。8時間も首都高でスタック(stack)されるのだ、拘束バス!

 なお、筑波山麓に投げ込まれたおいらの主観的認識はJR駅といえばJRひたち野うしく駅であった。実はそのJRひたち野うしく駅は(その当時からみて)つい最近できた駅なのだ!という認識はなかった。「おいらが、筑波山麓に来た1997年12月にはまだこのJRひたち野うしく駅は開設されていなかったのだ」というは後知恵=反省的獲得知識である。

さて、その元々万博中央駅であるはずのJRひたち野うしく駅で出会うものはコスモ星丸[google画像](関連愚記事;谷田部細川一万六千石)ではなく、八兵衛さんである。

はじめてこの anonymous peasant (google画像) が目に入ったときから10年くらいたっているのであろうが、特に探索したことはなかった。

そして、今日、さらば! さらば! 筑波山麓という今に至って知ったさ。この像は、エピソード1(第一場面;下記画像)だって。ほかに3像あるらしい。エピソードは続くらしい。

▼ なお、この行幸行啓駅である。

 そもそも、JRひたち野うしく駅はつくば市ではない。牛久市である。住井すゑが住んでいた牛久市である。住井すゑに用はない、われらが皇帝夫妻は、いわゆる「筑波学園都市」に行幸行啓されたのであった。

関連愚記事;再リンク:; おらほの街にKing&Emperor 

      :; いとやむごとなき 団体 様 

● JRひたち野うしく駅の思い出;

なによりおいらにとってのJRひたち野うしく駅の思い出は、成り空港に行くバスの発着駅としてである。

はずめて、インドに行った時、すなわちその時あのタージマハルに行くのであるが、やはり、このJRひたち野うしく駅からバスで成田空港に行った。このJRひたち野うしく駅までは、西大通りの稲荷前交差点付近のバス停から在来バス路線で、JRひたち野うしく駅まで、巨大なトランクを抱えて行った(関連愚記事; 憧れのタージマハル )。このとき、この八兵衛さんをどう見ていたのか?見なかったのか?覚えていない。