いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

米国的生き方 [American Way of Life] としての児童公園、あるいは、パクリ元の判明

2020年07月26日 19時04分23秒 | 日本事情

 私の印象では、米国人は、占領時代に自分の手で移植したはずの戦後日本の「民主主義」を、肚の底では当の日本の「民主主義」擁護論者ほど信用していないように見えた。これは彼らのいわゆる"Democracy"が、普遍的理念であるよりさきに、「アメリカン・ウェイ・オヴ・ライフ」の別名として、ほとんど無意識のうちに、むしろ感覚的に理解されていることを思えば当然である。江藤淳、『アメリカと私』

敗戦後の日本人の少なからずが、アメリカ人のように暮らしたいと願い、実現させたのが高度成長を経た戦後日本なのだろう。日本人をして、「アメリカ人のように暮らしたいと願」わせしめたのはこういうイメージを見せつけられたからであるに違いない。

この画像は「american way of life」の画像をググって拾ったもの。

一方、敗戦後、占領軍として来てやってきた<奴ら>は、こういう部屋に住んでいた、ことは以前書いた(愚記事;「白物家電」は、なぜ白い?)。費用は敗戦国の<俺たち>が負担した(愚記事;「日本占領米軍に払ったわれわれのお金」)。

1948年頃の占領軍家族住宅の内部。そして、こういう家を持ちたいとがんばった(人が少なからずいた)のが戦後日本だ。「American way of life」を目指し、ありついたのだ。

■ そして、児童公園。ネット、YouTubeで「American way of life」を調べていたら、知った。

 
左;1950年代の米国。下のYouTubeより、すべり台とブランコが確認できる、右;現代日本のある児童公園(元画像


同じく、1950年代の米国。下のYouTubeより

米国人自身がAmerican way of lifeを賞賛するフィルムですべり台、ブランコ、ジャングルジムが揃う公園をAmerican way of lifeのひとこまとしている。

なんだ、どこでも目に付く日本の児童公園というのは米国のパクリなんだ。どうやら、国策として「ブランコ」「すべり台」「ジャングルジム」を備える児童公園が作られたらしい。

ネットに下記書いてあった;

遊具を取り巻く厳しい環境に、比較的左右されていないのが「ブランコ」「すべり台」「砂場」です。これらの遊具は、どの公園でもわりとよく見かけるのではないでしょうか。その理由は、昭和31年(1956年)に制定された「都市公園法」にあります。これは「都市公園の設置と管理に関する基準などを定めて、都市公園の健全な発達をはかり、公共の福祉の増進に資すことを目的とする」法律ですが、その中で児童公園(現在の街区公園)に「ブランコ」「砂場」「すべり台」の設置が義務付けられていました。(引用元:公園を形作ってきた遊具の歴史。ブランコの由来は?すべり台はいつから?

1950s U.S.A. Patriotism / Education American Way of Life


新しい街でもぶどう記録;第298週

2020年07月25日 18時11分03秒 | 草花野菜

▲ 今週の看猫;みけちゃん
▼ 新しい街でもぶどう記録;第298週

■ 今週の武相境斜面

■ 今週の自己批判;米国40年来の前提の見直し、ニクソン以来の対中関係を反省

「中国は発展すれば民主化に向かう」との考えに基づいたアメリカの歴代政権の対中政策について、「われわれの取り組みは、ニクソン元大統領が期待していたような中国の変化をもたらさなかった」と述べ、失敗だったと断じました。 https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200724/k10012530811000.html



リンク元 (→機械翻訳)

(訳)1979年に米国と中華人民共和国が外交を確立して以来、中国に対する米国の政策は次の希望を前提としてきた。すなわち、関与を深めることは、中国の基本的な経済的および政治的開放を促進する、そして、より建設的で責任あるグローバルであり開かれた社会を条件とする利害関係者としての出現を導く。
(しかしながら、現実には)40年以上経って、米国の中国への対応戦略が、中国共産党の政治、経済の改革を行う範囲を強く実施する意志を誤認していたということが明らかになった。

■ そして、実践;米国政府、ヒューストンの中国総領事館を閉鎖

米政府高官は24日、中国が米国内の在外公館を通じスパイ活動など悪意ある行動に従事しているとした上で、同日閉鎖されるテキサス州ヒューストンの中国総領事館は「最悪の違反ケースの一つ」で、関与していた活動は「容認できる線を超えていた」との認識を示した。ソース

■ 今週の米国文革


https://twitter.com/WSJJapan/status/1286739897907372039

■ 今週の白寿;長い1年の始まり


中国共産党第一次全国代表大会、1921/7/23

中国共産党発足100周年まで、1年。最近の状況激変で、長い1年となるだろう。

■ 今週の判明

神奈川県横須賀市は22日、新型コロナウイルスの感染歴を調べる抗体検査を市民約1000人に実施し、1・04%に当たる10人が抗体を保有していたと発表した。上地克明市長は「人口約40万人に対し、4000人が抗体を保有していることになり、非常に高い数字だ。 (ソース

もう市中感染が進んでいて、国民の1%は感染済みなのだろう。もっとも、横須賀効果=在日米軍由来の基地外感染の効果がなければ、であるが。毎日、東京で200人だ300人だといっているが、氷山の一角なのだろう。


本牧平地散歩;JR石川駅→山手トンネル→本郷町→ワシン坂→十二天→旧Area-1→新本牧公園

2020年07月19日 14時44分53秒 | 東京・横浜

本牧は行ったことがある(本牧台地散歩;「帰って母に聞いて、日本がアメリカに負けたことを知りました」)。その時は、本牧台地より海側の低地を通って、本牧に向かった。最近、横山剣が「ワシン坂を下りると米軍のエリア1(ワン)」と云っているのを見た(YouTube)。米軍のエリア・ワンというのだから、これは何かオキュパイ・モノだろうと思った。ワシン坂も知らなかった。ネットで調べると、ワシン坂やエリア・ワン(AREA-1)がわかった。ワシン坂から本牧へ出るという経路で散歩することにした。

1;JR石川駅、2;麦田街、3;聖坂、4;ワシン坂、5;本牧十二天、6;イオン本牧店、7;新本牧公園

■ JR石川駅 ⇒ 麦田町

■ 本牧通の本郷、上野 ⇒ 見晴トンネル入口南側交叉点左折(台地方面へ) ⇒ 千代崎町 ⇒ 聖坂

台地の最高地の尾根を縦走する道に登り上がる。

■ ワシン坂公園

■ ワシン坂上 ⇒ 台地の海側の海食崖上縁の尾根 ⇒ ワシン坂病院 ⇒ ワシン坂入口

 

占領時代の地図、1949年。ワシン坂は East Bluff Road [東崖道路] と呼称されている。かつ、ワシン坂の道が主要道路となっている。海岸側の低地の道は主要道路ではない。


凡例

■ ワシン坂入口 ⇒ 小港

1982年まで続く接収時代の本牧についての記録で出てくるモーリス商会。この日、画像を撮り忘れたのでGoogleから。1982年のモーリス商会→https://hama80s.exblog.jp/17916140/ 。この自動車修理会社は米軍住宅居住のアメ車をもった顧客相手に商売していたのであろう。


左;1948年地図、右;現在、赤丸=山手警察署前T字路、八角形=イオン本牧

ワシン坂を下りて、旧接収地域、レコンキスタ地域に入る。

旧接収地域は返還後計画的に都市開発をしたらしく、非接収地域(ワシン坂入口付近の雰囲気)とは違う。

■ 本牧十二天


左;現在、右;敗戦後。埋め立てで埠頭ができる前。


占領期のAREA-1。敗戦時、本牧十二天は海岸にあった。右上に本牧十二天が見える。


敗戦時。図中やや左上に本牧十二天が確認できる。

■ 本牧十二天 ⇒ 本牧和田

 

AREA-1の名を今に残す唯一のもの。


イオン本牧付近

▼ 本牧和田


1970年代の航空写真。米軍住宅地区と日本の住宅地区の疎密状況がよくわかる。


返還後、宅地にして分譲したらしい。そして、密な住宅地へ。


高々樹齢40年のメタセコイア

<まとめ>

・ワシン坂付近(非接収地域)は昭和の雰囲気残存。ワシン坂病院の鉄格子はすごい。

・接収地域は再開発で緑が多く、整然。

・オキュパイもの(占領時代の残存物)は全くない。

 


新しい街でもぶどう記録;第297週

2020年07月18日 18時31分03秒 | 草花野菜

▲ 今週の看猫
▼ 新しい街でもぶどう記録;第297週

■ 今週のよその猫


横浜市中区山手町

■ 今週のメタセコイア


横浜市中区新本牧公園

■ 今週の草木花茸

■ 今週の海食崖

横浜市中区山手町

■ 今週の病院

Google [ワシン坂病院]

■ 今週のレコンキスタ史跡探訪 横浜市中区本牧

1948年の地図。本牧は接収時代に米軍が名付けた地区名、Area1だのArea2だのAreaなんとかだのに区切られていた。Area1の名が店名に残っていた。店:1991年、本牧ヨコハマにオープンしたのムーンアイズ エリア- 1

■ 今週のキリ番;ブログ記事から5858日


今度読みたい親米派@敗戦で「奴隷状態から解放された」 常盤新平@武相境

2020年07月12日 10時47分37秒 | 武相境

愚ブログの「親米派」シリーズ;①黒塗りの家に住む親米派②赤レンガの家で中国整体を営む親米派、③蔦に覆われちまった親米派④犬を連れた親米派⑤絵にかいたような「親米派」⑥ネット広告でみた親米派@真打=米軍ハウスに住みたい!に続く第7弾。

直木賞作家、常盤新平。『遠いアメリカ』が、第96回直木賞、1986年。その『遠いアメリカ』の内容というのが、"アメリカにあこがれペーパーバックを読みあさり、翻訳の勉強にいそしむ大学院時代の自身を描いた自伝的小説" とwikipediaに書いてある。

おいらは、常盤新平を読んだことがない。でも、なんとなく知っていた。翻訳家だし、『遠いアメリカ』という対米憧憬意識のある人なんだろうと。今、たまたま手元にある雑誌『文藝春秋』2018.8月号の坪内祐三、人声人語 連載182にある;

(1980年に)書店に内容見本が差してあるラックで素晴らしい刊行物を見つけた。『ハッピーエンド通信』だ。同人をつとめていたのは常盤新平、川本三郎、青山南の三人で作家デビューしたばかりの村上春樹もよく登場した。

今度読んでみたい、常盤新平、『遠いアメリカ』。

さて、最近、その常盤新平にネット検索であたった(hitした)。仙台の進駐軍(当該ブログ記事)について調べるためネットで検索すると;

中学2年の時に終戦を迎え、焼け跡のバラックで雑誌『ライフ』を購入。アメリカへの憧れを抱くようになる。アーウィン・ショーの短編小説『夏服を着た女たち』に出会い、翻訳家への道を歩み出す。町田市民文学館 「常盤新平の業績」企画 

東京都町田市と仙台は関係ないはずのだか、なぜかしらhitした。調べるとわかった。常盤新平は仙台で育ったのだ。(仙台戦災地域

小学校時代に仙台市に落ち着き、高校卒業までを同地で過ごした。宮城県仙台第二高等学校を経て、早稲田大学第一文学部英文科卒。同大学院修了。(同上wiki)

常盤新平は敗戦時14歳。米陸軍第八軍の第11空挺師団が占領する仙台で18歳まで過ごし、東京に出たらしい。仙台の焼け跡のバラックで雑誌『ライフ』を購入。アメリカへの憧れを抱くことになる。

もっとも、常盤新平は仙台第二高等学校(この時代ならまだ旧制かもしれない;旧制仙台二中)に通学していたのだから、進駐軍の基地の横である(関連愚記事;仙台川内大工町段丘崖;あるいは、子供ながらに魅せられた陥落街)。ゆえに、『遠いアメリカ』、って...(???)

■ 常盤新平@2003

 Amazon

2003年のイラク戦争を受けて、識者の対米観を集めた本;

アメリカよ、どこへ行く? イラク戦争で浮き彫りにされたアメリカの姿をどう読むのか。マスコミにはない核心に迫る見解を提言、アメリカという国の本質がみえてくる。各界28人のアメリカ通による緊急提言。(上Amazon)

この本内容に関する情報は、 書評;『アメリカよ!』、澤喜司郎  にある。

のち大量破壊兵器が発見されなかったイラク戦争の正統性が問題となっていた。開戦前から米国はイラクの民主化をイラク戦争の目的に挙げ、あまつさえ、日本を占領モデルとして、戦争の正当化を図った。

つまりは、戦争の結果、イラクの被占領民は「自由」と「民主化」で喜ぶだろう、と米国(子ブッシュ政権&支持国民)は信じていたということだ。そういう米国人は、日本の常盤新平の2003年の1945年についての発言を見て、ほら、そうだろう!と、自分たちの信念を確実なものにするだろう。

常盤新平は、猿谷要 編『アメリカよ!』に寄稿した文章に書いている;

 対イラク戦争にもアメリカは正義を振りかざした。多くのアメリカ人はそれを支援している。私もサダム・フセインの追放に賛成した。民を飢えさせ、反対する者を平気で拷問にかけ殺害するという残虐な独裁者は早くいなくなってもらいたい。北朝鮮についてアメリカが妥協しないのも納得できる。
 ダグラス・マッカーサーはミズーリ艦上で日本国民を奴隷の状態から解放したと宣言した。私は燈火管制から解放された八月十五日の夜を忘れることができない。戦争が終わるまで私たちはまるで自由がなかった。イラクや北朝鮮と同じ状態にあったのだ。そのかわり戦争でたくさんの人が命をなくしていった。そのこともまた忘れることがでけいない。 (常盤新平、「謙虚な国」、猿谷要 編『アメリカよ!』)

なお、常盤新平、「謙虚な国」は上記のことを書いて、”いま、私がアメリカに望むことが、謙虚であるということだ。”と締めくくる。正直、論旨がわからない。米国が謙虚などいうことが想像できない。特に、常盤新平の文章のわからなさは、戦時下に自分が奴隷状態であったのか明言、断言していないことにある。それは端的に下記部分にある。奴隷状態であったと認識しているのか?していないのか?;

ダグラス・マッカーサーはミズーリ艦上で日本国民を奴隷の状態から解放したと宣言した。私は燈火管制から解放された八月十五日の夜を忘れることができない。戦争が終わるまで私たちはまるで自由がなかった。

さて、史実として、ダグラス・マッカーサーはミズーリ艦上で日本国民を奴隷の状態から解放したと宣言したのか? おいらは、そのようなマッカーサーの発言は確認できていない。ミズーリ号上でのマッカーサーの演説とされるものの情報がネット上にある。

ミズーリ号上でのマッカーサーの演説 (引用元)

上記演説の日本語約(津島一夫訳)

    われわれ主要交戦国の代表は平和を回復する厳粛な協定を締結するため、ここに集った。色々な理想と思想にからむ問題は既に世界の戦場で決定されており、もはやわれわれが討議すべきものではない。また地球上の大多数の人々を代表するわれわれは、不信と悪意と憎悪の精神でここに集ったわけではない。
     勝者も敗者も含めてわれわれに課せられていることは、われわれがこれから追求しようとしている神聖な目的にふさわしい,より高い尊厳を目指して立上がりわれわれ全ての国の国民がここに正式に引き受けようとしている責務を忠実に課すことを誓うことである。
     この厳粛な式を転機として,流血と虐殺の過去からよりよい世界、信頼と理解の上に立つ世界、人間の尊厳と人間の最も渇望している自由、寛容、正義の完成をめざす世界が生れてくることを私は心から希望している。それはまさに全人類の希望でもある。日本帝国軍隊の降伏条件は諸君の前にある降伏文書の中におさめられている。
     私は連合国最高司令官として、私の代表する諸国の伝統にもとづき、降伏条項が速やかにかつ忠実に実行されるようあらゆる必要な措置をとる一方、私に課せられた責務を正義と寛容の心で果す決意であることをここに宣言する。

奴隷あるいは奴隷状態とはいっていない。

■ 常盤新平@武相境;谷戸を潰す親米派

常盤さんは、1994年から2013年に81歳で亡くなるまで町田市で過ごした(町田市民文学館 「常盤新平の業績」企画 )。 上記wikipediaには、東京都町田市つくし野在住、とある。


GoogleMap [つくし野]


印は、東急田園都市線つくし野駅。画像左:1960年代の航空写真、右:現在

別に、「親米派」であることが谷戸を潰す本質のわけではない。ただし、東京「郊外」(郊外と呼ぶには遠すぎる)の丘陵地帯を切り開いて振興住宅を建てたところに住む人たちの多くは、戦後の"日本人の「生活のアメリカ化」[1]"の流れで出現した人たちであろう。生活親米派だ。

[1] 駅は芦屋川の上にあった。川の両岸は閑静な、見知らぬ高級住宅街である。(中略)このままでは「中流の生活。」に落ち着いてしまうという恐怖ー。併し会社の同僚たちはみな「中流の生活。」を目指していた。あんな生活のどこがよくて。ピアノの上にシクラメンの花が飾ってあって、毛のふさふさした犬がいる贋物西洋生活。ゴルフ。テニス。洋食。音楽。自家用車。虫酸が走る。あんな最低の生活。私の中の「中流の生活。」への嫌悪感。
車谷長吉、『赤目四十八瀧心中未遂』

 


新しい街でもぶどう記録;第296週

2020年07月11日 19時31分31秒 | 草花野菜

▲ 今週の看猫
▼ 新しい街でもぶどう記録;第296週

■ 今週の武相境斜面

■ 今週の草木花

■ 今週の撥水

■ 今週のJR横浜線

ひとりおきで座っている。空いてる席にすわろうとする人がいなかった。

■ 今週も米国文革

Columbus statue toppled by protesters in Baltimore

ボルチモアでコロンブス像を引き倒し

1992年のアメリカ「発見」500年の時は、アメリカ「発見」に批判。でお、当時、コロンブス像引き倒し運動はなかったのではないか?

なお、コロンブスの植民地主義者としての批判は、少なくとも、1981年から認められる。ただし、少数者。

今日の米国では、ほとんどの白人市民がいまだに「コロンブスがアメリカを発見した」といい、「コロンブスがアメリカを侵略した」とはいわないし、西部をめざす人口移動を、別の文明の征服とみるより「自然の征服」として概念化する。C. ダグラス・ラミス、『内なる外国』

■ 6/13に追記

6/13 今週の感染爆発:「白人世界で文革コロナ爆発」 に英国文革;港町ブリストルのエドワード・コルンストン像の引き倒しがあった。

Who was slave trader Edward Colston and why was his statue pulled down?

この「事件」をみて、あのブリストルのエドワード・コルンストンかと思った。『興亡の世界史16 大英帝国という経験』、井野瀬久美恵を読んだことがあるからだ。冒頭口絵にエドワード・コルンストンの写真があり、「奴隷貿易の帝国」という過去、と見出しがついている。6/13にはこの本がすぐに見つからなかった。でも、今週出て来た。

この像への疑義が出たのは、1998年1月に Slave Trader (奴隷商人) とスプレー缶による落書きがあったとのこと。街に衝撃が走ったと井野瀬久美恵は書いている。でも、逆にいうと、1998年まではブリストルの街が奴隷貿易で栄えたことを特に意識していなかったことにもなる。

そして、今年2020年にエドワード・コルンストン像の引き倒し。この時間の経緯は何なのだろう?

ひとつは、もう20年以上になるmulticulturalism(多文化主義)の影響、あるいは、ポストコロニアル理論の一般への普及というのもあるのだろうか?

それにしても、明治維新の頃も敗戦の時も米英は奴隷貿易で資本蓄積して社会を建設したという認識は日本人に広く・深く共有されていなかったのではないか? 奴隷貿易、奴隷制(ペリーが来航したとき米国はまだ奴隷制が残っていた)をもっていた英米を「文明」と認識していた日本人が悲しい。敗戦時も米国には黒人への人種差別があったのに、公民権さえなかったのに、米国の民主制をありがっっていた日本人が悲しい。 無知は悲しい。

 

 


大日本帝国を亡ぼした男・近衛文麿;文民主導の国家総動員の対チャイナ全面戦争、盧溝橋事件、コミンテルン、尾崎秀実、ゾルゲ、中共の親

2020年07月07日 19時42分06秒 | 日本事情

7月7日、七夕。盧溝橋事件の日。愚記事、七夕、あの日、盧溝橋で会えた織姫と彦星@1937 で書いた;

今、もっとも検証すべき仮説が盧溝橋事件は「コミンテルン」が「絵」を描いたものであったこと。一方、日本の帝都は東京の政府中枢・首相官邸には「コミンテルン」の工作員が事務室を持っていたことは「史実」である。しかしながら、首相官邸に事務室を持っていたコミンテルン工作員の尾崎秀実がどう具体的に「支那事変」を拡大させていったかの詳細は不明である(愚記事; 日本政府 内閣官邸にコミンテルンがいた日々  )。

「コミンテルン」の話は、今では、ネットで珍しくもない。主に、我らがウヨが流している情報だ。でも、うわさによると、アカデミズムの史学会では、「コミンテルン」の話は御法度らしく、「コミンテルン」を口にすると学者生命を失うらしい、と口さがない京童が云っていた。もっとも、ゾルゲが「コミンテルン」であったというと、やはり、学者生命を失うかもしれない。なぜなら、ゾルゲは「コミンテルン」ではなく、赤軍の組織の構成員であったからだ。

昭和末期。今思うと、昭和末期には石井花子が生きていた。テレビのドキュメンタリー番組で、十代だったおいらは見た。石井花子は、東京での、ゾルゲの愛人である。その頃、支那事変、ひいては日米開戦は「コミンテルン」の策謀であったという説(三田村武夫、「大東亜戦争とスターリンの謀略―戦争と共産主義」)はあったが、ほぼ認知されていなかった。一方、支那事変、ひいては日米開戦は軍部/天皇制ファシズムによるものであるという歴史観が、支配的であった。史実としての近衛内閣の対チャイナ戦争拡大や国家総動員法などはその軍部独走歴史観では事実上「無視」されていた。近衛文麿は軍部ではないからだ。あるいは、近衛は強硬な軍部に抵抗したが、軍部が独走したという話になっていた。さらには、尾崎秀実は『愛情はふる星のごとく』を著わし、軍国主義政府の犠牲になった平和主義者であったという扱いであった。

◆時は流れた◆

それでも、「大日本帝国を亡ぼした男・近衛文麿」という歴史観は、中川八洋の一連の著作に認められる。しかしながら、『近衛文麿とルーズヴェルト 大東戦争の真実』は1995年であり、『大東亜戦争と『開戦責任』』は2000年である。昭和ではない。

◆非ウヨも◆

21世紀では、非ウヨ、(元?)左翼の人も「コミンテルン」策謀論を語る。特に簡潔によくまとまっているのは、鷲田小彌太、『昭和の思想家67人』(PHP新書)、2007年。11ページではあるがよくまとまっている。章立ては;

敗戦の思想ー尾崎秀実
1 日支戦争拡大の論理
2 コミンテルンの思想
3 国家走力戦体制ー国家社会主義
4 日米開戦ー敗戦の思想

 少し、コピペする;

 第一次近衛内閣が生まれたのは昭和十二年=一九三七年六月四日である。翌月七日、北京郊外の盧溝橋で日支の軍事衝突が起こったが、現地で十一日停戦協定がととのった。ところが近衛政府はこの機をとらえて、戦火の拡大を図ったのである。すなわち「北支派兵声明」を出し、巨額の軍事追加予算をつけ、「北支事変」を「支那事変」と呼称変更し、チャイナ全土に軍を進めようとしたのだ。しかも政府は、昭和十二年一月六日、「国民政府を相手とせず」という声明を発する。チャイナ政府とは停戦しない、チャイナ全土を制圧するまでは戦争をやめないという声明である。自ら泥沼戦争を買って出たわけだ。「北進」論から「南進」への国策転換である。
 この国策変更は、外的必然によって引き起こされたのではなかった。一部始終が近衛内閣の意志であった。近衛は「国民政府を相手とせず」の声明を、その五日前に開かれた御前会議で決まった早期講和方針を無視して、出したこともつけ加えておこう。
 この「南進」論を論壇で展開したのがジャーナリストであり、チャイナ問題の専門家として注目されていた尾崎秀実である。同時に尾崎は近衛のブレーン(顧問)であり、その政策に直接思想的影響力を行使できる立場にいた。(以下略)
鷲田小彌太、『昭和の思想家67人』(PHP新書)

一方、(今の人は全く知らない)菅孝行の『三島由紀夫と天皇』にある;

尾崎秀実[ほつみ]たちの諜報活動は、中国の日本軍が、「南方」に進むのか、ソ連領に向けて「北進」するのか、その動向を逐一ゾルゲを介してソ連に伝えるとともに、首相の近衛文麿に働きかけて「北進」をやめさせる一方、米英との緊張を高めることによって、中国侵略を抑止する方向に戦争の性格を誘導する戦略の一環だったと言うことができる。また、彼らは内政では、大政翼賛会に「一君万民」の統治実現の「希望」を託していた。 菅孝行、『三島由紀夫と天皇』


★ でも、なぜ?

昭和末期に共有されなかった認識;「尾崎秀実に入れ知恵された近衛文麿がチャイナとの戦争を全面化させた。戦争の責任は軍部や軍国主義者(ばかりでは)なく、戦争イデオロギーをもった文民政治家である。」がなぜ今広まっているのか?

冷戦終結、ソ連崩壊が原因ではないかと思いつく。例えば、今、ヴェノナ文書などで共産主義者の工作員であった人たちが明らかになっている。ノーマンとか。でも、ゾルゲ事件に関しては、上記の鷲田小彌太が根拠にする知見にソ連崩壊後の情報公開に基づくものはない。

なぜか? 思いつくのは、戦争責任を軍部だけに押し付ける学者勢力が衰退したからであろう。

「先の大戦で転向も含め共産主義者が、知的に、参画したこと」に言及することは、なぜかしら、はばかられていた。例えば、天皇制ファシズムという用語があるが、近衛新体制、国家総動員法や大政翼賛会、支那事変翼賛を知的に参画した知識人は「ファシスト」とは呼ばれないのであった。さらには、ねえ、この戦争の使命は、老いたる大陸に一つの新しいバイブレイションを捲きおこすのですよ。兵隊は実に元気です。 と扇動していた朝日新聞も「ファシスト」とは呼ばれない。軍国主義新聞ともよばれていない。

★ 中共の育ての親=大日本帝国

今思うに、一番の尾崎ー近衛の策謀の成果は、中国共産党の成長に違いない。日本軍と国民党軍を戦わせ、中共軍・八路軍は逃げ回っていた。

つまり、大日本帝国の最大の「負」の遺産は、支那大陸の中国共産党による支配を実現させたことである。

帝国と真に提携するに足る

新 興 支 那 政 権 の 成 立 発 展 を 期 待 し 、

両 国 国 交 を 調 整 し て 更 生 支 那 の 建 設 に 協 力 せ ん と す

愚記事

 

 


新しい街でもぶどう記録;第295週

2020年07月04日 18時53分44秒 | 草花野菜

▲ 今週の看猫
▼ 新しい街でもぶどう記録;第295週

■ 今週のよその猫

 ヒロシマ 消えたかぞく(Amazon)2019/7/5発売

■ 今週の武相境斜面

■ 今週の月

■ 今週の草木花実茸

■ 今週の米国文革;1619プロジェクト

1619プロジェクトはニューヨーク・タイムズを媒介に始められた歴史認識運動。アメリカの「起源」を1620のメイフラワー号のピルグリム・ファーザーズでもなく、1776の建国の祖(ワシントン以降のち12第続く米国大統領は奴隷主)でもなく、1619年にバージニアに到着したアフリカからの奴隷を今に至る米国の「起源」とする歴史観:wikipedia[1619 project]

これに対し、保守派は激怒で、歴史認識論争となっている。

■ 今週の驚き;最初の「アメリカ人」は伊達政宗が日本で作った船でアメリカへ

上の歴史観で「最初のアメリカ人」とされるアフリカからの奴隷は、伊達政宗が日本で作った船(サンファン・バウティスタ号)でアメリカへ来たのだという説が2018年に出された;

植民地アメリカでは1619年に最初のアフリカ人奴隷の記録がある。オランダ船「ホワイトライオン」がメキシコへ向かうイスパニア船と交戦し50~60人の奴隷化されたアフリカ人を奪取した[8]。このイスパニア船はマニラで慶長遣欧使節から買い取ったサン・ファン・バウティスタ号であり、在英大使に譲渡された後に大使の親戚のマヌエル・メンデス・デ・アキューナに渡り、ルアンダから350人の奴隷を調達し輸送する途上だったという説が2018年に提唱されている。wikipedia[アメリカ合衆国の奴隷制度の歴史]

 


占領軍・アメリカル師団の進駐した Hara-Machida (原町田)とはどこなのか? 竹前栄治の間違い

2020年07月03日 20時56分56秒 | 武相境

【要旨】竹前栄治(1930-2015)という占領史研究者がいた(wiki)。占領史研究の第一人者であったとのこと。その竹前栄治の著作に些細な間違いがあったので書く。1)何が間違いなのか、2)なぜその間違いが生じたのか、3)なぜおいらが間違いに気づいたのか、4)この間違いの影響(2021.5.4追記)を書く。

【1)何が間違いなのか?】

竹前栄治も編者となっている『昭和史』有斐閣選書、1982年(昭和57年)における竹前栄治自身が執筆している章・第3部、第1章、占領と「開国」の図;連合国軍進駐状況・終戦連絡事務局ならびに委員会所在地(1945年10月15日現在)でのアメリカル師団の進駐場所が間違っている。

 図A
連合国軍進駐状況・終戦連絡事務局ならびに委員会所在地(1945年10月15日現在)(部分) 図中ではアメリカル師団司令部が原町田にあったことになっている。
都県境の東京都側に〇印が示されている。

「アメリカル師団司令部が、東京都町田市に進駐、駐屯していた」と竹前栄治が示していることが間違い。

<アメリカ師団とは?>

アメリカル師団は1945年の日本敗戦の時、進駐してきた米陸軍のひとつの師団。進駐してきた米軍は第1騎兵師団、第11空挺師団など師団名が番号を持つ。それに対し、アメリカル師団には番号がない。アメリカル(Americal)とは何か?アメリカン(american)とは違う。Americaに何か接尾辞(physical、とかradical)が付いたものなのか?違った。アメリカル(Americal)のcalはニューカレドニア(NewCaledonia)のcal とのこと。オーストラリアの東にあるフランス領のニューカレドニアを防衛するための米軍師団。ガダルカナルで日本軍と戦闘。 アメリカル師団の wikipedia あり。ただし、日本進駐時代の情報はない。


連合国軍進駐状況・終戦連絡事務局ならびに委員会所在地(1945年10月15日現在)(部分、凡例) アメリカル師団は番号を持たないので凡例が別途 ☆A となっている

<原町田とは?>

出典 最後の文章に書いてある;「Hara-Machida(原町田)で、アメリカル師団の182旅団は第11空挺師団(仙台に移動)と交代した」。(なお、第11空挺師団(仙台に移動)のことは以前、愚記事に書いた。)

確かに、アメリカル師団はHara-Machidaに来た。

原町田とはどこか? をGoogleマップで見てみよう

Google Map [原町田]  横浜線町田駅と小田急線町田駅を含む町田の中心繁華街。こんなところに進駐軍の基地があったのか?原町田は町田の一区画であり、東京都である。

<何が間違いなのか?>

アメリカル師団は淵野辺(神奈川県相模原市)に進駐したらしい。Google [182nd infantry americal division "Fuchinobe" camp]。少なくとも、町田市ではなく、相模原の大日本帝国陸軍のたくさんあった施設のひとつに進駐した。

アメリカル師団の182歩兵隊の歴史を示すweb site に兵士が淵野辺で撮ったポートレートがある。


Photo #3

Ken Vander Molen poses here in Photo #3 for a studio portrait that he recalled was taken in Fuchinobe. By early November, the mission of the Americal in Japan was complete, and transports began to depart for home.  (ソース:上記歴史を示すweb site

以上のことから、アメリカル師団は、町田市の原町田ではなく、現・神奈川県相模原市淵野辺、当時、大野村に進駐、駐屯した。

したがって、『昭和史』有斐閣選書、1982年(昭和57年)の240-241ページにある「原町田(アメリカル師団司令部)」という情報は、間違いである。

<淵野辺とは?> 横浜線の淵野辺駅付近

図B
栗田尚弥 編『米軍基地と神奈川県』より ⑧が淵野辺の陸軍兵器学校、現在麻布大学

図C
相模原市立公文書館第11回企画展  「軍都計画」と相模原 展示資料目録 より

⑤が淵野辺の陸軍兵器学校

【2)なぜその間違いが生じたのか?】

当時陸軍はこの地域を原町田地域(東京府南多摩郡町田町、現在の東京都町田市)の一部としてまとめて扱うことが多く、同じく大野村に所在した原町田陸軍病院(後に相模原陸軍病院に改称)や原町田兵器学校(正式名称は陸軍兵器学校)などと共に原町田通信学校と呼ばれる事もあった。 wikipedia[陸軍通信学校]

つまり相模原の陸軍施設一帯を、旧軍は原町田ではないのに原町田と呼称していたのだ。占領米軍はそれを踏襲してHara-Machidaと呼称したに違いない。でも、実際は相模原、あるいは当時の町村である。原町田ではないことは確実である。したがって、学術的には、旧軍が慣習で原町田と呼称していたことを踏まえて、真実の地名と位置を示さなければならない。この間違いをした竹前栄治(占領史研究の第一人者)は、米側の資料でHara-Machidaをみて、このHara-Machidaとは、現在(執筆時当時=1980年頃)の原町田と称する位置だと判断したのだ。

【3)なぜおいらが間違いに気づいたのか?】

アメリカル師団がHara-Machidaに進駐したと、英文で知った。町田に進駐軍がいたのかぁ。原町田のどこだろう?と思った。調べたが、わからなかった(たかだが、ネット程度だが)。そして、ある日わかった。第1騎兵師団の歴史を見ていた。

On 05 September, long lines of vehicles, carrying solders and equipment of the off-loading units, moved west to the designated bivouac area in Hara-Machida District, where Japanese Signal and Ordnance schools were located web site

1945年9月5日、兵士と荷下ろし装置を運ぶ車列が西へ原町田にある指定された野営地に移動した。その原町田には通信学校と兵器学校があった。

つまり、通信学校と兵器学校があったところが原町田とわかった。そこで、ググって、相模原だとわかった。

そもそも、おいらは、町田駅の南裏が、すぐ相模原市と知らなかった。

<竹前栄治と進駐軍キャンプ>

竹前栄治に自伝がある; 占領研究40年 。そこに書いてある;

その後アルバイトとして軽井沢で進駐軍のゴルフのキャディをしたり大学に入ってからは東上線の先の成増にあるキャンプ・ドレイクでビアホールのウェイターをやったり御殿場にあった米軍の第43工兵大隊のキャンプで通訳をやったりしましたが占領についてはほとんど関心がありませんでした。

米軍キャンプでバイトしていたのに、「占領についてはほとんど関心がありませんでした」というのが、すごい。何なんだ!? 竹前栄治。 

キャンプ・ドレイクは知っていたが、相模原方面は知らなかったのだ。

■ 4)この間違いの影響(2021.5.4追記)

竹原が一般向け歴史書『昭和史』で示した図Aでは、神奈川県・相模原地域の米軍基地が厚木だけとなっている。「厚木」はマッカーサーが飛来し、日本に最初の一歩を印したので有名。でも、図B、Cに示された、現在のキャンプ座間などの帝国陸軍の基地だった膨大な面性の進駐軍基地の記載がない。竹原の図(図A)の説明文の「連合国軍進駐状況」にもとる図の内容となっている。

これでは、朝鮮戦争で重要な機能をし、そして、現在は米陸軍の第1軍団(前方)司令部となっている座間地区は敗戦以来米軍に占拠されているという認識がないことを示す。図Aでは、相模原において、厚木以外占領されていないようではないか!