いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

Camp Seidenberg Sapporo Japan, キャンプ シーデンバーグ 月寒 札幌

2020年03月29日 11時32分32秒 | 札幌


HQ., 307 R.C.T  = HeadQuarter 307 regimental combat team 、Camp Seidenberg、Sapporo、JAPAN
キャンプ・シーデンバーグの第307歩兵連隊司令部。札幌 月寒、元北部軍司令部及び歩兵連隊駐屯地

 307th Infantry Regimentの記章が確認できる。

この部隊はフィリピン、グアム、沖縄と転戦し、一旦フィリピンのセブ島で休暇をとり、1945年10月5日に小樽到着、札幌に進駐(愚記事)。

■1945年10月に札幌に進駐した米占領軍の駐屯地である「Camp Seidenberg」が、2020年3月29日の現時点で、Google検索で検出できない(Google [Camp Seidenberg])。Camp Seidenbergに関する情報をネットで得られなかった。

占領下、そしてその後の安保体制での日本の米軍基地に関する情報は米国側から発せられる情報が多い。とても多い。ネット時代になり、個人的回顧・昔の写真など驚くほど多い。しかし、Camp Seidenbergに関する情報をネットで得られなかった。

日本語での情報。Camp Seidenbergを札幌市のサイトでは「キャンプ・シーテンバーグ」[1]と記している;

明治29年(1896年)、月寒に独立歩兵大隊が置かれ、後に歩兵25連隊に改編されました。同連隊は、現在の月寒東1-3から東2-8にまたがる広大な敷地を持っていました。(中略)歩兵25連隊の兵舎群は、昭和20(1945)年10月から22年までアメリカの進駐軍が「キャンプ・シーテンバーグ」として使用しました。(豊平区月寒中央通5丁目) 札幌市平和バーチャル平和資料館 さっぽろの戦跡 歩兵25連隊正門前の松

Camp Seidenbergは敗戦後から1947年まで使用された(らしい)。のち、札幌の米軍基地はCamp Crawford、キャンプ・クロフォードへ移る。両キャンプの札幌における位置を下に示す;


C-S: Camp Seidenberg (キャンプ・シーデンバーグ)、C-C: Camp Crawford (キャンプ・クロフォード)、赤星印:拓銀本店、米軍司令部、N; 中島公園(米軍施設設置地域)

■Camp Seidenberg(キャンプ・シーデンバーグ)に関する文字・画像情報はネットですぐには見つけられなかった。しかし、むしろ、映像を見つけた(愚記事:敗戦直後の札幌市街の映像;市街地、拓銀本店・77師団司令部、月寒駅、米軍駐屯地)。 

The 77th in occupied Japan、University of South Carolina, University Libraries
https://mirc.sc.edu/islandora/object/usc%3A39152 の映像から切り取った。

北部軍司令部。この建物は戦後まもなく焼失したらしい。

北部軍司令部防空指揮所。この建物は最近まであったとのこと(札幌市のsite

兵舎群。もちろん日本軍のものである。月寒から西の方角の手稲山ー藻岩山の一連の山並みを撮影者は注目していた。詳細は映像で見ることができる。

■ 唯一のCamp Seidenbergについての文字情報

唯一のCamp Seidenbergについての文字情報は、Reports  of  General MacArthur     THE CAMPAIGNS OF MACARTHUR IN THE PACIFIC  VOLUME I のchapter II での図である。図に占領軍の部隊配置が時期を追って記載されていた。1946年1月の図にはCamp Seidenbergは認められない。1946年12月の図にCamp Seidenbergが見える。ただし、部隊は187 GLI

(わかるまでネット検索で相当苦労したのだが結論だけ書くと)

札幌に最初に進駐した第307歩兵連隊を含む第77歩兵師団は、進駐半年後本国帰還。替わりに第11空挺師団が仙台から進駐(関連愚記事;マッカーサーと一緒に「厚木」に来たこの子猿はどこへ行った?)。上の図の部隊を示す記号の 187 GLI とはThe 187th Glider Infantry Regiment(第187グライダー歩兵連隊)を示す。

GLIが何の略であるか調べてわかるまで半日かかったょ)

つまり、やはり、第11空挺師団が札幌に来たときはまだ Crawford (キャンプ・クロフォード)出来ておらず、少なくとも一部の米兵はCamp Seidenbergに駐屯したのだ。でも、第11空挺師団の記録周辺を検索してもCamp Seidenbergは出てこない。


[1] 札幌市のsiteのSeidenbergの表記が「シーテンバーグ」となっている。なぜtの音なのかわからない。dだと思う。ネットで発音を調べると、(ドイツ式の)サイデンバーグとシーデンバーグがあった。いずれも d 。


新しい街でもぶどう記録;第281週

2020年03月28日 17時23分30秒 | 草花野菜

今週のある日、みけちゃん脱走。しばらく遊んだ後、走って帰宅。

▲ 今週の看猫
▼ 新しい街でもぶどう記録;第281週

■ 今週の武相境斜面

■ 今週の花実

■ 今週の要請無視

東京都、神奈川・埼玉・千葉に県民の都内移動自粛を要請へ という状況にもかかわらず、東京都に入ってしまいました。ゆるしてください。

■ 今週の東京

■ 今週の商品棚

お米、売り切れ。

■ 今週のご飯


麦入りご飯

■ 今週の掘り出し物;映像・占領下日本における第77歩兵師団

  第77歩兵師団の記章(wiki)。自由の女神の「正式名称は世界を照らす自由」と今、知った(wiki)。
(少し関連する愚記事:自由の女神というのは全表面が緑青なのだという。

一昨日の記事にした件。 敗戦直後、1945年(昭和20年)に札幌は大通りに面した拓銀本店を接収して設置された米占領軍(第77歩兵師団)の司令部の映像を見つけた。

↓ 動画サイト:The 77th in occupied Japan、University of South Carolina, University Libraries

https://mirc.sc.edu/islandora/object/usc%3A39152

合計 7,354 2,748
日付 閲覧数(PV) 訪問者数(IP)
3月21日 1,025 424
3月22日 1,505 423
3月23日 768 312
3月24日 982 396
3月25日 1,056 384
3月26日 1,025 396
3月27日 993 413

 


敗戦直後の札幌市街の映像;市街地、拓銀本店・77師団司令部、月寒駅、米軍駐屯地

2020年03月26日 19時28分51秒 | 札幌

去年10月に、敗戦直後の札幌市街の画像;米占領軍接収事情、あるいは、この写真はどうやって撮ったのか?という記事を書いた。敗戦直後の札幌の画像を見つけて、驚いたからだ。

何と、今日、敗戦直後の札幌市街の映像をネットで見つけた。驚いた。

https://mirc.sc.edu/islandora/object/usc%3A39152

南カロライナ大学の図書館のサイトで見つけた。映像は1945年10月に札幌に進駐した米占領軍の部隊である第77歩兵師団(77th Sustainment Brigade; wikipedia[英語機械翻訳])が撮影したもの。

拓銀本店を接収して開設した司令部の映像もある。第77歩兵師団の部隊記章の自由の女神が確認できる。

あと、第77歩兵師団が駐屯した月寒の元日本軍連隊基地の様子が見える。駅は月寒・つきさっぷとわかる。


マッカーサーと一緒に「厚木」に来たこの子猿はどこへ行った?

2020年03月25日 18時46分42秒 | 日本事情


米兵のヘルメットに書かれている 11 A/B は、11th airbone, 第11空挺師師団の意味

Tokyo The End Of The Road (1945)

1945年8月、日本敗戦。占領軍の日本進駐。マッカーサーは現綾瀬市の厚木飛行場(以下、「厚木」)に8月30日に降り立った。

この進駐での主力部隊が第1騎兵師団と第11空挺師団。第1騎兵師団は海から横浜に上陸(9/2)、第11空挺師団は空から「厚木」に進駐(8/29~)。第11空挺師師団は、マッカーサーの露払いとして最初に「厚木」に舞い降りた。つまり、マッカーサーの日本進駐の同伴者。しかし、マッカーサーの東京進駐へ同伴者は第1騎兵師団であった(愚記事:1945年夏の敗戦、東京入城の米軍は八王子方面から)。

その第11空挺師団が厚木飛行場に降り立った時の映像が上のYouTubeにあり、猿を抱いた米兵が映っていた。

この猿がこの後、どこに行ったのか? 米陸軍第11空挺師団の行方を調べて、愚ブログに書く。というか、愚ブログでは米陸軍第11空挺師団が仙台と札幌にいたことは知っている(ダサいスカジャン着て【仙台参り2007番外】)。しかし、詳細は不明なので、調べた。

【どこから来たのか?】 第11空挺師団はフィリピン戦を闘い、フィリピンで戦争終結。その後、日本占領のため、沖縄経由で「厚木」に着いた。

【責任者は?】

第11空挺師団の責任者はスイング少将(wikipedia[英語]、[日本語がない] [日本語:機械翻訳])。上のマッカーサーと並んで一番左端のヘルメットの将軍。マッカーサーに先んじて「敵陣」に最初に乗り込んだ将軍。だから、戦闘服にメット。


スイング(11A/Bのヘルメット姿)とアイケルバーガー(第8軍総責任者)。

【厚木の後】 東京へ行ったのは、第1騎兵師団だった。第11空挺師団は横浜市街(港湾地区)に移駐。横浜の安定化(日本軍の武装解除など)を行った。つまり、マッカーサーは「厚木」から横浜のホテル・ニューグラントに移動した(8/30)ので、その護衛は第11空挺師団の任務だった。マッカーサーは横浜から東京に入る(9/8)。

https://americanhistory.si.edu/collections/search/object/nmah_1303389

「厚木」から横浜の道は数千の日本兵が進駐軍に背を向けて警備していたと本で読んだことがあった。その模様の画像だ。


マッカーサーが滞在したホテル・ニューグラントを護衛する第11空挺師団兵士(出典

【横浜の後】 マッカーサーがいなくなった横浜に取り残された第11空挺師団の次の任務は、仙台占領であった。第11空挺師団は9/14に横浜を立ち、自動車と列車で仙台に移駐した。9/15には仙台に進駐。9/17には松島をも管理(今の松島航空隊のある基地にいた日本軍の武装解除をしたのかな?)。10/1に指揮所開設とある。仙台の苦竹。

その仙台進駐のすぐあとの10/3に、アイケルバーガーが「お召列車」で苦竹への引き込み線で直接来訪。映像がある。仙台の苦竹は、キャンプ・シンメルフェニヒ:Camp Schimmelpfennig、略称:Camp Schimmと名付けられる米軍駐屯地となった。元は、東京第一陸軍造兵廠仙台製造所(wikipedia:仙台駐屯地

Lieutenant General Robert L. Eichelberger visits 11th Airborne Division installat...HD Stock Footage

Lieutenant General Robert L. Eichelberger inspects an installation,camp Schimmelp...HD Stock Footage

現代に残る仙台駐屯の第11空挺師団を表すスカジャン

https://www.nakatashoten.com/contents/sj-02.html

【仙台の後】 第11空挺師団は、1946年3月に札幌に移駐している。

1946年3月に仙台から札幌に移駐した。札幌を占領していた第77歩兵師団と交代した。第77歩兵師団は最初に札幌に入った米軍である(愚記事:敗戦直後の札幌市街の画像;米占領軍接収事情、あるいは、この写真はどうやって撮ったのか?)。

第11空挺師団を率いるジョセフ・スウィング少将はGHQ第九軍団司令部のある拓銀本店ビルで執務。ここでアイヌ人「代表」と会った話は上の愚記事にある。

ジョセフ・スウィング少将は、キャンプ・クロフォード(Camp Crawford)[関連愚記事] の設計・建設を推進した。つまり、第11空挺師団が札幌に来た頃、まだキャンプ・クロフォードはなかった。

▼ネットでみつけた。

 

https://www.worthpoint.com/worthopedia/187th-airborne-infantry-regiment-11th-237118964

【札幌の後】 1949年5月には第11空挺師団は任務終了で、交代。米国に帰国(ケンタッキー州の キャンプキャンベル )。ただし、第11空挺師団の一部は、後継駐屯部隊(米軍第31歩兵連隊、愛称the Polar Bear regiment)に編入された。

■ まとめ

第11空挺師団の足取りをネットで検索し、まとめてみた。ただし、子猿の手がかりはなかった。

 

 


1945年夏の敗戦、東京入城の米軍は八王子方面から

2020年03月22日 09時58分56秒 | 日本事情


画像1:  General William C. Chase and private Paul Davis ; チェイス少将 (右) とデイビス上等兵

Yanks Enter Tokyo: U.S. Soldiers in Japan (1945) | British Pathé

1945年(昭和20年)の敗戦時、東京に入城した米占領軍(第一騎兵師団)は八王子方面から来た。

米占領軍の東京入城は1945年9月8日(米陸軍第一騎兵師団;その模様は、上のYouTube; Yanks enter Tokyoで見れる)。米陸軍第1騎兵師団は、”マッカーサーのペット”と呼ばれた精鋭の機甲部隊 [1]。
 一方、マッカーサー元帥は、護衛軍(第11空挺団ら)と共に、その日(9/8)に東京に入り虎ノ門の米国大使館で星条旗掲揚式典を実施。


図2 赤星;厚木飛行場、 青星;多摩川・丸子橋

マッカーサーは8/30に厚木飛行場で日本に降りたった。この時、護衛のために空路で一緒に厚木に来たのが、第11空挺団。一方、第一騎兵師団は9/2に横浜港から上陸した。翌日、相模原に移動、駐屯した。日本陸軍の敷地を利用したのだ。そして、東京進軍。9/8に相模原から八王子を通り、府中、調布を進軍、都内に入った。第1騎兵師団のweb siteの歴史に書いてあった;

9月8日の08:00に、第1騎兵師団司令長官ウィリアム C.チェイス少将が率いる歴史をつくることになるマッカーサー元帥護衛軍は、東京を目的地として相模原を出発しました。 戦場での日本兵の不屈の行動を経験してきた騎兵師団は、「野蛮な外国人」が日本の神聖な土壌を歩くことを日本兵が許すことはほとんど考えられませんでした。 しかしながら実際には、日本人は最大限の能力を発揮するために協力する意欲を示しました。

東京への軍団は、第1騎兵団のすべての部隊から百選錬磨の兵士を募りました。これまでの転戦先の状況を知った者が各部隊の代表となるようにしたものです。 八王子、府中、調布を通り抜け、第1騎兵師団は東京の入り口で一時停止しました。 チェイス将軍はその線を越えて歩き、それによってアメリカ陸軍を正式に東京に置き、「一番乗りのチーム」の記録に新たな「一番乗り」を加えた。 オタワ郡、オクラホマ州フェアランドのポール・デイビス上等兵は、将軍に従った第12騎兵連隊「D」部隊のメンバーであり、東京に正式に入った最初の兵士であるという栄誉を受けました。 これにより、ポール・デイビス上等兵は故郷の対外戦争退役軍人から、最初に東京に足を踏み入れた兵士に提供される1,000ドルの賞金を獲得しました。googleの日本語訳を ikagenkiが改変)

■ このポール・デイビス上等兵の東京への第1歩はどこなのか?

 米軍は東京入城を儀式のように行い、記録している。東京の境界があるという前提で、その境を越えることを重要なこととしている。でも、そのポール・デイビス上等兵が第1歩を印したのはどこなのだろうか?図1で写っている場所らしい。 条件として八王子、府中、調布を通り抜け、たというのがある。調布から都心へ向かう途中の境界はどこななのか? 一方、第1騎兵師団のweb siteの歴史には下記画像が掲載されている;


図3 米陸軍第1騎兵師団のweb siteより。東京入城の説明にある画像

これは、丸子橋らしい。軍用トラックの先の架橋の形状と戦前の丸子橋の写真(下)と比べるとわかる。


東京都のweb siteより

 横浜から東京へ進駐するとすれば、多摩川を渡らなければならず、丸子橋というのがありうるだろう。しかし、八王子、府中、調布を通り抜け、たのだから、丸子橋は関係ないはずだ。相模原→八王子→調布→都内と進軍した第一騎兵師団がどこで多摩川を渡ったかは不明。

■ マッカーサー元帥の東京入城

 九月八日朝、マッカーサーと幕僚らはホテル・ニューグラントを出発し、一時間後に東京・虎ノ門のアメリカ大使館に入った。そしてその庭で米軍の進駐式を行い、大使館の屋上には星条旗が翻った。

上のホテル・ニューグラントとは、今でもある、横浜の港に面したホテル。厚木飛行場に降り立ったマッカーサーはここに滞在していた。歴史はこの横浜のホテルから1時間後には東京、虎ノ門のアメリカ大使館に到着していると云っている。1時間ということは八王子経由とは考えらない。直線経路の川崎を通る道でいったのだろう。その時の映像が下YouTubeにあるが、軍用自動車ではなく、黒塗りの車だ。

GENERAL MACARTHUR FIRST DAY IN TOKYO SEPTEMBER 1945 JAPAN 1945 Flag Ceremony 42874

第1騎兵師団の歴史を見ても、確かに、朝に東京に入ったとある。しかし、星条旗掲揚の儀式は夕方とある。

同じ朝、マッカーサー将軍は、第2飛行隊、第7騎兵隊、第302偵察部隊、連隊機を運ぶ軍楽隊に護衛されて、正式に東京に入りました。 公式の「解放の旗挙式」は17:00に行われました。 旗は、真珠湾の日にワシントンで国会議事堂に掲げられていたもので、降伏文書に署名されている間に戦艦ミズーリにも掲げられていたものでした。 解放の旗はまた、イタリアとローマとの敵対関係の終結時に、イタリアのローマに掲げられた最初のアメリカの旗でもありました。googleの日本語訳を ikagenkiが改変、強調、おいら)

なお、掲揚された星条旗は翩翻としなかったと史実は示す。

 
公式の「解放の旗挙式」は17:00に行われました

マッカーサーの東京入りを護衛した第七騎兵隊は、インディアン戦争の頃からの部隊。インディアン戦争は、断続的に継続し、やっと終わったのが、1924年。そして、1945年の東京入城。インディアン戦争終結からまだ20年しかたっていないのだ。

■ なぜ、八王子経由だったのか?

さらに不明なのが、8:00に相模原を出発したチェイス少将率いる第1騎兵師団との連携だ。9:00に横浜を出発したマッカーサーとどちらが先に都内に入ったのか? わからない。

推測した。もし、川崎経由の海岸側で東京に入ると、東京の後背地である八王子方面の日本軍が都心に攻め入ってくる可能性があるという事例を米軍は想定したのだろう。後背地からの攻撃の危惧がないように、まずは大部隊を八王子経由で都内に進軍させたのではないか?

そして、マッカーサー軍は川崎経由で都内に入った。

■ 実は9/4に立川、9/5には偵察隊が都内に入っていた

 第12騎兵隊は、立川付近の5つの飛行場を占領する任務を割り当てられ、9月4日の夕方までに完成しました。

9月5日、兵士と装備を運ぶ車両の長い列が、陸軍通信学校のある相模原地区にある割り当てられた露営場所に移動しました。 正午、第1騎兵師団の参謀長チャールズA.シェルドン大佐が率いる偵察隊が東京に到着した。 この軍団は、強大な日本帝国の首都へのアメリカ人職員の最初の公式移動でした。 偵察は無事でした。 その使命は、都市自体の中に師団の露営地を見つけることでした。 (googleの日本語訳を ikagenkiが改変)

つまり、9/8の前に都内へ米軍が入っている。立川の陸軍飛行場は9/4には占領された。9/8の八王子経由のチェイス少将が率いる東京入城軍団は事前に露払いがなされていたのだ。

9/8以降、チェイス少将が率いた東京入城軍団は、代々木練兵場に入り、駐屯する。


新しい街でもぶどう記録;第280週

2020年03月21日 18時13分43秒 | 草花野菜

▲ 今週の看猫
▼ 新しい街でもぶどう記録;第280週

■ 今週の武相境斜面

■ 今週の花

■ 今週の訂正

愚記事; 1945年9月2日横浜(⇒東京)に進駐する米軍を米英旗で迎えるがきんちょたち

が間違っていた。9月8日だった。 明日のブログで修正記事を出す。

■ 今週知った上等兵; ポール・デイビス上等兵

上の1945年9月8日に東京に入城した米軍で、東京入りの第一歩を印したのが、ポール・デイビス上等兵という米兵なのだという。賞金をもらったそうだ。(上の写真も含めて、web site

■ 今週知ったこと;

1945年9月8日に東京に入城した米軍の総帥は、もちろん、マッカーサー。そのマッカーサーについて、あるアメリカ人が「マッカーサーは、インディアン掃討将軍のようなので、好きだ」と江藤淳に云ったということが江藤の本のどこかに書いてあるはず [0]。すなわち、マッカーサーの東京入城はひとつのインディアン狩りの終着と云える。

その文章を探すため、江藤の『アメリカと私』(1963-4年の滞米記録文学)をみていたら、先月死んだジョージ・シュタイナー [wiki] に言及していたと気づく。『アメリカと私』は何度も読んでいるが、特に気にも留めなかった。ジョージ・シュタイナーは江藤がプリンストンに行く2年前にプリンストンにいたのだ。そして、『アメリカと私』での、ジョージ・シュタイナーへの言及[1]は、江藤はあまり摂取した学術内容(=自分に影響を与えた"外国"批評家)を書かないので、やや唐突な感じがする。ジョージ・シュタイナーは当時34歳くらいで、まだそんなに著名でもないと思われる。江藤にはジョージ・シュタイナーを知る慧眼があったということを示す。その後、1974年にジョージ・シュタイナーが来日した時、江藤は会ったとwikiに書いてあった。

[0] 本記事投稿後、記す;見つかった;

私がプリンストン大学にいたとき、同僚の温厚な中国史の学者が、なぜかマッカーサーが好きでたまらないというのです。ちょっと意外だったので理由を聞くと、「いや、結局インディアン退治の将軍の伝統を受け継いでいるところがなんともいえないのだ」といいかけて、比喩がよくないと思ったのか、そのまま口をつぐんでしまったことがありました。(江藤淳、『日米戦争は終わっていない』)

[1] 私は、二年前に、新進批評家ジョージ・スタイナーが、このセミナーで『悲劇の死』という野心的な連続講演を行い、その結果が翌年本になって出版されたことを知っていた。もし、スタイナーのような俊才が現れて、壮大な議論をくりひろげてくれたら、それは自分にとって刺激的なことであるに違いなかった。(江藤淳、『アメリカと私』)

合計 8,089 3,583
日付 閲覧数(PV) 訪問者数(IP)
3月14日 1,604 874
3月15日 1,364 647
3月16日 1,195 462
3月17日 911 417
3月18日 913 354
3月19日 837 375
3月20日 1,265 454

 


札幌郊外の「アメリカン・スクール」(1946-1958);道庁から9km;敷地は牧場をつぶしたのだ。

2020年03月18日 19時07分27秒 | 札幌


愚記事・札幌郊外の"ワシントンハイツ";幻と現(うつつ)の五輪を挟む敗戦・占領・DH(ディペンデント・ハウス)より再掲。 この図の大きな建屋(Z)が学校なのだという[1]。この学校は小中高に対応する学校であったとある[2]。「アメリカン・スクール」だ!

小島信夫の小説、『アメリカン・スクール』は、「占領時代、アメリカ人の学校を参観した日本の中学校教員の、貧しく、滑稽な姿を描き、深味のあるユーモアと重厚な風刺で混乱した日本を象徴的に描いた芥川賞受賞作」と裏表紙に説明書きがある。そして、本文の象徴的な文章は;

 彼らがこうして辿りついたアメリカン・スクールは広大な敷地を持つ住宅地の中央に、南にガラス窓を大きくはって立っていた。敷地は畠をつぶしたのだ。アメリカ人にとっては贅沢なものとはいえないが、疎[まば]らに立ちならんだ住宅には、スタンドのついた寝室のありかまで手にとるようで、日本人のメイドが幼児の世話をしていた。参観者たちにはその日本人の小娘まで、まるで天国の住人のように思われる。(小島信夫、『アメリカン・スクール』、)

天国のように思えたということだ。 (関連愚記事;小島信夫の『アメリカン・スクール』を初めて読んだ。

 今、この札幌郊外の米軍基地、キャンプ・クロフォードの米軍住宅区域を見ると、①アメリカン・スクールは広大な敷地を持つ住宅地の中央に立っていたこと;②疎[まば]らに立ちならんだ住宅という条件が合致する。もちろん、小島信夫、『アメリカン・スクール』のモデルは札幌ではない。なぜなら、『アメリカン・スクール』の舞台は田舎の県庁から6kmの場所とされているからだ。日本のどこかの県なのだ。ただし、『アメリカン・スクール』の舞台を特定することはそんなに意味があるとも思えない。注目すべきは、見学に行く英語教師たち県庁に集合し、米軍基地まで6km歩くという小説上の設定である。師の行軍 ! 。この英語教師たちの行軍(本文中にこの語が使われている)が悲喜劇の一端の契機となる。

■ 札幌郊外の「アメリカン・スクール」(1946-1958)は、道庁から9km

ところで、札幌郊外の米軍基地、キャンプ・クロフォードのアメリカン・スクールと道庁の歩行距離をGoogleで調べてみた;

9km、徒歩2時間だった。

■ 成増、グラント・ハイツ

この自作について小島信夫は云っている;「「アメリカン,スクール」は、先年成増のアメリカンスクールを見学に行ったことがあり、その時に、箸を女教員に貸したことがあった。誰かハイヒールで転んだ人のあったことは、教育庁の人に聞いた。もちろん、この道路上の出来事も、その他、事件らしい事件は、その時には一つも起らなかった。山田は架空の人物だ。僕はこの見学を終戦後二年間ぐらいの所に置いてみて、貧しさ、惨めさをえがきたいと思った。」(『アメリカン・スクール』あとがき)

ここで「成増のアメリカンスクール」とある。成増とは東京都板橋区。終戦後グラント・ハイツという米軍住宅地区があった。そこでの「アメリカン,スクール」見学体験を元に小説を書いた。しかし、舞台は東京ではなく「田舎」とした。舞台の条件は「田舎」であることの他に「敷地は畠をつぶしたのだ」がある。この畠をつぶしてアメリカン・スクールを建てたという小説上の設定に注目したのが江藤淳。江藤淳は『成熟と喪失』で上の彼らがこうして辿りついたアメリカン・スクールはで始まる『アメリカン,スクール』の一章を引用し、次のように書いている;

 ここでは敗戦の屈辱感が農耕社会の「貧し」さを恥じる気持ちと重ね合わされていることは注目にあたいする。近代産業社会の産物であるアメリカン・スクールは「畠をつぶした」ところに建てられているのである。(江藤淳、『成熟と喪失』)

小説上は畠をつぶしてアメリカン・スクールを建てたと読める。ところで、成増=グラント・ハイツの場合、敷地は軍の飛行場であったところを接収したのだ。ただし、日本軍は畠を接収して飛行場をつくったのだ。つまり、「畠をつぶし」て飛行場をつくり、そこに、敗戦後、アメリカン・スクールを含む米軍人用住宅が建てられたのだ。

■ 札幌 キャンプ・クロフォード


https://makomanailandss.tumblr.com/page/2 様より。米軍基地となる以前の風景。

札幌のキャンプ・クロフォードは、官営の牧場をつぶして、建設された。

この官営牧場は明治時代のお雇い外人エドウイン・ダンにより建設される。江藤淳が好きな明治国家の一端だ。上の絵は、都内の農業試験場で、明治天皇に農耕具の運用を実演するエドウイン・ダン。(絵は自衛隊web siteより)。なお、この絵の部分ではあるが直撮りは愚記事にある。

つまりは、札幌のキャンプ・クロフォードは、江藤の成熟と喪失モデルの近代産業社会の産物が「畠(=農耕社会の象徴)をつぶした」ということにはならない。米国人に教わった近代農耕という産物が、戦勝国米軍に潰され、基地&米軍人・家族のコロニーとなったのだ。

[1] この大きな建屋が学校であることは、谷代久恵、『真駒内物語』の情報に基づく。

[2] 朝鮮戦争の後だがキャンプ・クロフォードにあの第一騎兵師団が移駐してきた。現在、第一騎兵師団のweb siteにキャンプ・クロフォードに関する情報がある。アメリカン・スクールについての情報

In early 1946, when the 77th Division was demobilized, the 511th Parachute Infantry Regiment, 11th Airborne Division assumed responsibility for the entire island, establishing its headquarters on the site of a Japanese experimental dairy farm at Sapporo. The garrison, named Camp Crawford for a major who had won the Distinguished Service Cross, gradually grew to become a permanent installation with brick barracks and stucco administration buildings, family housing, an all-grade school, clubs, and support facilities. In 1948 the 31st Infantry Regiment, 7th Infantry Division moved from Korea to Camp Crawford, absorbing most of the personnel of the 511th Parachute Infantry Regiment. (出典

1946年初頭、第77師団が動員解除されたとき、第511パラシュート歩兵連隊、第11空挺師団が北海道全体の責任を引き受け、札幌の日本の実験酪農場の敷地に本部を設置しました。 殊勲十字章を受けた少佐を顕彰してキャンプクロフォードと名付けられた駐屯地は、レンガ造りの兵舎とスタッコの管理棟、家族の住居、すべてのグレードの学校、クラブ、支援施設を備えた恒久的な施設に徐々に成長しました。 1948年、第7歩兵師団第31歩兵連隊が韓国からキャンプクロフォードに移動し、第511歩兵連隊の要員の大部分を吸収した。(和訳;おいら少し修正)

一方、キャンプ・クロフォードのアメリカン・スクールは1958年に閉校。その後継学校がHokkaido International Schoolであり、学校史がweb siteにある。

このweb siteの情報からキャンプ・クロフォードのアメリカン・スクールは、Camp Crawford U. S. Army Dependents Schoolというのだとわかった。

 


札幌郊外の"ワシントンハイツ";幻と現(うつつ)の五輪を挟む敗戦・占領・DH(ディペンデント・ハウス)

2020年03月15日 12時53分53秒 | 札幌


左:秋尾沙戸子『ワシントンハイツ:GHQが東京に刻んだ戦後 (新潮文庫)』表紙(Amazon
右:札幌郊外(現在、南区真駒内)のCamp Crawford [キャンプ・クロフォード] Dependents housing area (米軍官舎地区) [ 出典:『定山渓鉄道』(Amazon)]

■1940年に東京と札幌でオリンピックが開催されるはずであったことは有名だ。幻の夏冬オリンピックは戦後、それぞれ、現実のものとして開催された。東京(1964年)、札幌(1972年)。両オリンピックの選手村は代々木と真駒内であった。両者ともに米占領軍の住宅地であった。東京では選手村として占領軍用住宅(dependents house: DH)をそのまま使い、札幌では、旧占領軍建屋を解体、撤去し、その地に新たに選手村を建設した。東京のワシントンハイツについては画像など資料・史料がネットにたくさんある [1]。一方、札幌の占領軍用住宅(dependents house: DH)の画像はあまり見ないので、集めてみて、些かのの註を付けてみた。

[1] 例えば、flickr、Washington Heights, Tokyo, Japan

■ 曲線道路で特徴づけられる占領軍住宅地


航空写真:東京・代々木・ワシントンハイツ(左)、札幌・真駒内・キャンプ・クロフォード(右)[A:交叉点、B:三叉路、X:現在の真駒内団地交番、Y:現在の地下鉄真駒内駅、Z:大きな建屋、a-a':用水路]

両住宅地とも曲線道路で特徴づけられる。道をつくって、住宅を配置。

■ 札幌、Camp Crawford [キャンプ・クロフォード] Dependents housing area (米軍官舎地区) 


Camp Crawford [キャンプ・クロフォード] Dependents housing area (米軍官舎地区) の1958年(昭和33年)の画像 (ブリューゲルの絵画のようだ) (画像:『真駒内物語』より [Amazon])

この画像は、1958年(昭和33年)撮影。占領時代(1945-1952年)ではない。この画像が撮られた当時、旧米軍官舎は北海道警察の警察学校として使用されていた。


1961年(昭和36年)の画像。 団地建設が始まっている。X:現在の真駒内団地交番、黄色矢印は、用水路(a-a')通り沿いのポプラ並木。 (画像:『真駒内物語』より [Amazon])


Google map

札幌オリンピックの選手村を経て、Camp Crawford [キャンプ・クロフォード] Dependents housing は何もないといっていいと思う。占領時代と現在の間で残るのは、戦前の牧場時代の用水路くらいか?というか、この用水路を手がかりに占領時代と現在の位置関係を明らかにした。占領時代を特徴づける曲線道路はコンクリート舗装の道であったが、オリンピック選手村造成時に消えた。

■ dependent house、ディペンデント・ハウス、2階建ては残っていない


1964年、東京オリンピックの時、選手村となったワシントンハイツ。五輪後、撤去され現在の代々木公園となる。

注目すべきは、住宅が2階建てであること。現在の日本で知られていて、一部で憧憬され継承されている平屋のいわゆる「米軍ハウス」とよばれる様式ではない。 ただし、現在まで残っている1戸は平屋タイプだが;


代々木公園に一戸だけ残る旧米軍住宅(愚記事;東京散歩;表参道 → 代々木公園 → 新宿

さて、札幌のディペンデント・ハウス


札幌郊外(現在、南区真駒内)のCamp Crawford [キャンプ・クロフォード] Dependents housing area (米軍官舎地区) [ 出典:『定山渓鉄道』(Amazon)]

札幌も米軍住宅は2階建てであった。これらの住宅は、太平洋陸軍總司令部技術本部設計課により設計されたものに違いない(関連愚記事;「白物家電」(家事関連電気製品)は、なぜ白い?)。

ディペンデント・ハウス、米軍ハウスについての建築学的研究がある[3]。でも、平屋のものしか見つからない。2階建ての占領下米軍住宅の研究成果を探してゆく。

[3] 例えば、立川米軍ハ ウスの居 住者 の構築に見る現代居住の要望

■ 貴重なキャンプ・クロフォード画像 (これは、すごい!)

カラー画像:Americans Who Loved Japan: 日本を愛したアメリカ人

カラーで生なましい。Camp Crowford 1, 2, 5が住宅画像。 Camp Crowford 3が、「札幌郊外の米軍ペンタゴン」のカラー画像。初めて見た。


関連愚記事

札幌郊外の米軍ペンタゴン

真駒内 占領軍の痕跡

「日本占領米軍に払ったわれわれのお金」

昭和の成仏のために; 幻の五輪、東條演説、占領、実現したオリンピック、そして、建築

 

 


新しい街でもぶどう記録;第279週

2020年03月14日 19時08分27秒 | 草花野菜

▲ 今週の看猫
▼ 新しい街でもぶどう記録;第279週

■ 今週の武相境斜面

■ 今週の花

■ 今週の「何があったのか?」

全共闘Cさんに何かあったらしい。 アクセス急増。

テレビらしい。

■ 今週の朝日記者

小滝ちひろ[コタキチヒロ]
1962年、福島県いわき市生まれ。朝日新聞編集委員(大阪本社在勤、古社寺、文化財担当)。上智大学新聞学科卒業後、朝日新聞社に入り、AERA編集部員、大阪本社地域報道部員、松山・高松両総局デスク、奈良総局員兼編集委員(古社寺、文化財担当)を経て現職(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)(ソース

痛快とは、胸がすくほど気持がいいこと。小気味よく愉快なこと。超大国の大統領といえば、米国のトランプ大統領しかいないだろう。それが恐れ慄くが小気味よいのだから、アメリカ大好きなのだろう。

朝日新聞記者「超大国の大統領が恐れ慄く。新型コロナウイルスは痛快な存在」

責任をもった信念であるなら何を言ってもいいとは思うのだが、この小滝ちひろさんはtwitterを丸ごと消した。小滝ちひろさんは、ただの記者ではなく、朝日の編集員でもあるらしい。

PS;朝日って、ちひろさんが多いのか?アメリカ大好きといえば、昔、伊藤千尋という朝日の記者がいた。今ネットでググってみたら、元気そうだった

■ 今週の誕生日;


https://twitter.com/ikagenki/status/1237807179647741953

合計 7,859 3,346
日付 閲覧数(PV) 訪問者数(IP)
3月7日 966 343
3月8日 1,491 367
3月9日 849 363
3月10日 873 356
3月11日 833 308
3月12日 858 318
3月13日 1,989 1,291

 

 


「白物家電」(家事関連電気製品)は、なぜ白い?

2020年03月08日 16時34分14秒 | 日本事情


占領米軍用の扶養者家族官舎の内部のカタログ的風景
(おそらく)『デペンデントハウス(DEPENDENTS HOUSING)』(1948)よりの画像

「白物家電」は、なぜ白い?、って白いから白物家電に違いない。疑問は、冷蔵庫、洗濯機など家事関連電気製品は、なぜ白いのか?ということ。

全く知らなかったが、昨日、ネットで知った。1945年(昭和20年)の敗戦後の占領米軍による指示だというのである。伊藤潤(東京工科大学デザイン学部,東京大学大学院工学系研究科)という研究者の論文 [2017年]、「白物家電」の誕生20世紀の日本における主要工業製品色の変遷(1) [リンク先]、に書いてある。

シカゴに本拠地があるシアーズ・ローバックのチーフデザイナーでから陸軍に出向した太平洋陸軍總司令部技術本部設計課、ヒーレン・S・クルーゼ少佐 (Heeren S. Kruse)が鍵人物だ(昨日の愚記事)。

【要旨】

日本では第二次世界大戦前より家電製品の国産化が始まっていたが,その色彩は必ずしも白くはなかった.第二次世界大戦後「DH住宅(Dependents  Housing)」と呼ばれる連合軍住宅向けの什器として,「白い」製品が大量にGHQから要求されたが,その中には冷蔵庫や洗濯機等の家電製品も含まれていた。GHQのデザインブランチの責任者である陸軍少佐クルーゼ(Heeren S. Krusé)は,自身の嗜好よりも入居者となる一般的なアメリカ人の嗜好を優先してデザインを監修していたため,「白い」空間や製品の要求は当時の一般的なアメリカ人の嗜好を反映した結果だと考えられた。GHQからの要求が終了した後,各企業が納入品を民生用に転用した結果,白い家電製品が日本に普及することとなった。

(本文より抜粋)

 1946(昭和21)年3月6日,GHQは日本政府に対しSCAPIN 第799号「占領軍およびその家族住宅建設計画に関する件(Housing Program for Occupation Forces and Their Dependents)」を発し,日本の各地に2万戸の占領軍家族用住宅Dependents Housing,所 謂「DH住宅」の建設を命じた。このSCAPIN第799号では,住宅そのものだけでなく,家具,什器,家電製品まで要求された。例えば冷蔵庫は,6立方フィート20,000台,12立方フィート280台,110立方フィート 80 台というように,サイズと数量も指定されていた。 実際に納入された製品の仕様については,事業を担当した日本人スタッフによってまとめられた『デペンデントハウス(DEPENDENTS HOUSING)』(1948)という資料がある。同書には,太平洋陸軍總司令部技術本部設計課(Chief Design Branch OCE GHQ AFPAC)の陸軍少佐ヒーレン・エス・クルーゼ(Heeren S. Krusé)が序文を寄せているが,その中で 「本書に示された住宅は,連合軍家族の大部分に適合するものと考へられるのであるが,又同時に日本人にとつては新住居・新生活様式の先驅と見做され得るものである。」と述べている。これが「DH住宅」のデザインコンセプトだったのであろう。クルーゼはデザインの統括をする立場にあったようだが,その人物について,日本側の家具設計主任であった商工省工藝指導所の豊口克平が以下の様に記している。クルーゼ少佐は建築家ださうだが日本の建築家の様ではなく,建築そのものの技術に關聯する室内調度としての家具に對して豊かな常識を持って居るため,實に懇切微細な指示を即座に與へられたし,又吾々の技術を日本の現状といふ特殊な意味で採り擧げて生産の現實化を確實にさせた事は實に感謝すべきことである。

 納入された什器に関して,戦災復興院特別建設局業務部設備資材課總理廳技官の濤川馨一が「一言にして云へば設計,仕様については殆ど大部分米側から示された米國の製品と同じものを要求され,さうでないものについても米側の詳細な指示を受けて作つた見本品について承認を得たといふ事である。」と述べている*28。「電気器具の内電気スタンド,アイロン,トースター,コーヒー沸器等は入つてゐるが,電氣冷藏庫,電氣ヒーター,電氣レンヂ等は「エンジニーヤ」扱の建設資材品目に含まれ「クオーターマスター」品目からは除かれてゐる。」*29とあるので,什器とは扱いが異なったようだが,GHQ側の基本的な姿勢はアメリカの製品デザインをそのまま日本で再現する,ということだったと考えてよいだろう。家電製品については,トースター,ドリポレーター(電氣濾過器),ホットプレート(電氣小型レンヂ),電氣冷蔵庫,電氣洗濯機,電氣レンヂ,電氣湯沸器,電氣ストーブの設計図が『デペンデントハウス』に示されており,また,電気掃除機も明るい色(「白」かは不明)の仕様であることが同書の写真から見てとれる。1946(昭和 21)年の『工藝ニュース』第14巻3号には「進駐軍家族用厨房用品」の紹介があり, 「全溶接高級仕上鋼板製外部を白色對熱塗料で仕上げ明るい美しい清潔感を與へる高級品」(電氣厨房用竈(筆者註:「電氣レンヂ」のこと))や「外部は白色ラッカーエナメル仕上げの優美なもの」(電氣冷蔵器)といった記述が見られ* 30,実際に納入された製品が白かったことが確認できる。 また,『デペンデントハウス』に「白」仕様が明記された什器は家電製品以外にも少なくない。それらを以下に記す。・冷 蔵庫(3種類):鉄板白エナメル吹付/檜ブリキ白エナメル/檜・ブリキ。外部透明ラッカー又は白エナメル内部銀色エナメル・ソース鍋セット:鉄板・白色琺瑯仕上・二重鍋:鉄板・白色琺瑯仕上・パン入れ箱:ブリキ 白ラッカー吹付・芥入:アルミニューム・鉄板白ラッカー・ちり取:ブリキ 白ラッカー仕上ここでの「冷蔵庫」とは氷冷蔵庫(ICE BOX)のことである。 「芥入」の「アルミニューム・鉄板白ラッカー」は,写真から判断するに,内筒が「アルミニューム」製,外筒が「鉄板白ラッカー」だと思われる。氷冷蔵庫も「白」,という仕様にも注目すべきだが,それ以上に「芥入」も「ちり取」も「白」,というのは結構な「白」への執着といえよう。

 ヒーレン・S・クルーゼ少佐 (Heeren S. Kruse)が率いる太平洋陸軍總司令部技術本部設計課は、住宅から家具、調度、電気製品まで設計し、日本の業者に作成させた。

バウハウス的なものが占領下日本で米占領軍により発生したのだ。

Google [Bauhouse furniture]

Google [Bauhouse housing]


占領米軍用の扶養者家族官舎の内部のカタログ的風景