忘備録の泉

思いついたら吉日。O/PすることでI/Pできる。

大英帝国(4)

2017-03-29 14:44:34 | Library
17世紀イギリスは国内のイギリス革命の進展と平行して、前代から始まった海外進出と重商主義政策をさらに積極的に進めた。
クロムウェルはアイルランドとスコットランドを侵略し、特にアイルランドはイングランドの支配下に置かれて多くの新教徒が移住し、後のアイルランド問題の原因となった。
また、国内の毛織物産業はさらに発展し、海外に販路を求め、アメリカ新大陸、インド、東南アジア、東アジアでオランダ・フランスと競合しながら次第に優位を獲得していった。
最も激しく争ったのはオランダであり、東南アジアでは1623年にはアンボイナ事件で敗れて東南アジアから撤退した。
同年、イギリスは平戸での日本との貿易からも撤退した。
その後イギリスはインド進出に主力を向けることとなり、39年にマドラス、61年にボンベイ、90年にカルカッタを獲得して東インド会社の拠点を設けてインド産綿布の輸入にあたり、同じくインド進出をめざすフランスと競争した。

名誉革命以後、ウィーン会議でナポレオン戦争に決着がつく1815年まで、イギリスはフランスと慢性的な戦争状態にあった。
フランス、カトリックを「他者」として作られたプロテスタントという「イギリス人」の自己イメージが、スコットランド人、イングランド人、ウェールズ人といった内部の差異を隠ぺいし忘却させ、一体感を創出していく。

アメリカ新大陸には1607年のヴァージニア植民地の建設から本格化し、1620年にはジェームズ1世の弾圧を逃れたピューリタンたちが北米に移住して、ニューイングランドの建設が始まった。
オランダとはクロムウェルの時に議会が1651年に航海法を制定してから全面的な英蘭戦争に突入した。
英蘭戦争はクロムウェル死後も続けられ、その過程で新大陸にニューヨークなどを獲得し、新大陸東部に植民地を拡大し、後の13植民地の基礎を築いた。
またクロムウェルはスペインから西インド諸島のジャマイカを奪って領土とした。
こうして17世紀後半は、イギリスとフランスは激しい英仏植民地戦争(第2次英仏百年戦争)を展開、17世紀末までにイギリスの優位が確立し、18世紀にはイギリスは新大陸からアジアに至る植民地を所有する植民地帝国=第一帝国(第一次植民地帝国)と言われるようになる

(つづく)