響けブログ

音楽コドモから「音楽コドナ」へちょっと進化。ドラムとバイオリンと小鼓を弾く、ヒビキの音楽遍歴。

清塚信也の即興曲、ネット時代のクラシック。

2008-06-08 | ピアノ
ピアノという楽器を何かに使ってやろう。レゴで作っているロケットにのせたり、お手玉やおままごとセットだって構わない。学校の宿題のノートのはしっこに使うんだっていいのだ。今、ちいさい自分にとっても身近だったり、自分の目がもっともよく見えるように思える物や遊びに、その楽器を使うこと。だって、僕といえばピアノなんだから。

クラシックのピアノは、とにかく練習をして上達をしなければ始まらないことになっている。だけどピアノが弾けるということは、自分だけのためにクラシック音楽がその豊饒な姿を現し、こっそりとその秘密を教えてくれるようでもある。なにしろピアノはクラシック音楽のために作られている楽器だし、その逆もしかり。

だが、ピアノが弾きたいという気持ちと、クラシック音楽を伝えたいという気持ちとの間には、案外落とし穴があるように、私には思われる。つまりピアノが目的のはずが、途中からクラシックという目的にすり替わったのだ。自分の音楽や遊びや何かのためにピアノを使うのではなくて、クラシックのためにピアノを使うことになったのである。

すると今度はまたしても次のような難問が現れる。ピアノを使って、クラシックという古い音楽を、現代のオーディエンスとどうコミットさせるのか。そう、そこにはもうレゴもお手玉も宿題のノートもない。あったところで、オーディエンスのなかで、それらの記憶はピアノとともにないし、要するに私たちには、クラシックを引きだすなんのマジックもないのだ。

すると私たちは一方的にピアニストに頼るしかない。私たちがともにある今という時間を、彼に託すのだ。そう、彼にはクラシックの引き出しがある。今の気分を音にして弾いてくれないかな。あなたの持っている“クラシックというツールで”。私たちが、ちょうどブログを書くように。デジカメで記念写真を撮るように。

清塚の即興曲はそのようにして、始まる。

[清塚信也さんの話]
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