響けブログ
音楽コドモから「音楽コドナ」へちょっと進化。ドラムとバイオリンと小鼓を弾く、ヒビキの音楽遍歴。






最近オトナ社会では、TOEICがすっかり定着してきたものの、中高生には英検やベネッセの学習レベル対応の英語テストなどが奨励されている。中でも英検は比較的古くからあり、学校単位で受験するところも多いのではないだろうか。

そういうわけでヒビキ英検なるものを受験する機会があったのだが(そうそうヒビキもついに高校生突入です)、サンプル問題などを見聞すると、特にリスニングテストやスピーキングテストは、よく高1ぐらいでこんなのに挑戦できるなあ、と思うほど、子どもたちの意識に隔世の感がある。

特に私はリスニングが苦手で、しかもオトナはわからなかったら聞き返すという社会性にあぐらをかいているので(!)、テストのように1回しか流れないとなると一大事……であることも忘れて、もうほんと「なかったこと」「自分とは関係ないこと」になってしまうから、歳は取りたくないものである。

そういうオトナにヒビキくんがさっと「あ、それはね」とアドバイスをしてくれたのだが、「リスニングは集中力」というのがまず第一点。そして「だけど、全体時間の三分の二ぐらいのところで、ふっととぎれることがある」んだそうだ。集中力がちょっとふわっと薄くなるわけね。

「そこで質問が来ると、あー、あそこで言ってたんだけど、となる」
とのこと。
「あるある」と、とりあえず、親は相づち。
「もうほんっとに申し訳ない、って思う」
「へ???」
「あ、聞いてなかった、申し訳ないって心から思うんだよねー」
「申し訳ないの?」
「うん」
「申し訳ないんだ」
「そう。あそこで言ってたのに、聞いてなかった」

もうね、親はどっかーーーああんと崩壊です。それさ「あるある」じゃないよね。つまり、ヒビキくんじゃないと思わないよねー、ってことをどう説明できるでしょう。ヒビキにとって、意味ある音が発せられているのにそれを聞き逃すということは、自分としてあり得ないんだな、要するに。一発を聴く、邦楽稽古のたまもの。

しかも、さらにそれがかえ先生(ヒビキが数学を習っている理論物理学者のせんせ)の「ユニバーサル」(物理学者はなんでもユニバーサルに当てはまらないと満足しないからねえ)という方針を見習ってか、英語にもフランス語にも適用されているという具合なのではないかしら。

しかし今日はいったいなんて古い日本語をばかり書くのだろう、私は。

聞いてないってことは申し訳ないってことなんだ。ということを教えてもらった英検Listening Test でした。






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寝起きのあまりよくないヒビキだが、今朝はおうた付きでリビングに登場(ということはよくある)。晴れた朝。日中の最高気温は30度との予報も出ている。そんな今日の曲目は「Chaka Khan - Through the fire」。

なるほどー。

というのは、朝といえばペールギュント、ペールギュントの朝といえば、朝の曲としか思えないよね、と以前ヒビキと話が合ったのだったが、朝といえばチャカカーンというのもあるのか、と私は思ったのだ。ヒビキがこんな朝らしい朝にうたっているわけだから、それは「朝らしい」に他ならない。

それで家を出てからふと、以前から、もうずっと以前にこの曲を聴いたときから気になっていたことがあったことに改めて気がついた。

Chaka Khan - Through the fire - YouTube

イントロが印象的な曲だが、どちらかというと平凡な譜面でありそうなのに、なんでこの曲だけが印象的なのか? どうしてあまりに記憶にのこるのか? という疑問である。さて、私の当座の答えは、高音部が高すぎ、低音部が低すぎ、つまり「ダイナミックレンジ(使用音域というほどの意味)のあり方がへんじゃないか?」というものだった。2つの部分が調和しているが「離れ過ぎている」。ブラックミュージックというと、リズムばかり語られがちだが、ひょっとしてダイナミックレンジの使い方にも特徴があるのではないか???……等々。

聴いてみると、イントロは確かに高すぎる伴奏と、低すぎる伴奏の、ちょうど空いた中間層に、チャカカーンの声が入って来る、というしくみになっている。そしてボーカルは、思ったよりも低い。これはまさに──たとえがとても特殊だけれども──小田原の中腹から、朝の酒匂川を見下ろしているような気分だ。ちなみにビデオクリップもイントロはかなり壮大な俯瞰だった(ビデオクリップはほぼまったく覚えていなかった。オレンジな髪、という以外は)。

というのも、朝といえば、日本語に親しんだ者には「春はあけぼの」という連想の束縛が強い。やうやう白くなりゆく山際というのは、コントラストであって、地上の重く黒い部分と、薄雲のたなびく高い部分の「二層構造」というのが言い当てられているところであろう。その二層構造が、チャカカーンのこの曲のイントロのふしぎなダイナミックレンジなのではあるまいか?

さらに聴いてみて、どうしてそのように伴奏が低すぎ、高すぎるのかと考えてみたのだが、要するにチャカカーンの歌う音域が広すぎるから、のようだ。十分広く道を空けているわけだが、それでも声はしばしば、伴奏の砦を突破する。自由に乗り越えるしなやかなボーカルは、高い側であれ、低い側であれ、突破するたびに人間の身体性・精神性を拡張する。特に高い側に息苦しさがないために、高いことに特権がなく、二層構造はいずれもチャカカーンを真ん中にして平等である。

もう一度、イントロを聴いてみる──「ボーン」という低音と「シードシード」というフレーズがパラレルに、しかし通常+1.5オクターブぐらいの間があるでしょ、というほど離れて流れていく。そう、この二層構造が、朝たるゆえん。

というわけで、今朝は「コグニティブ」というテーマでお届けしました。(笑)




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目標設定は利というよりも百害あり、という議論が近年アメリカで活発になっているようだ。ビジネスマンのみなさんは、ここ何十年来というもの、「数値目標」というお題目を聞かされ、それへ向かって歩んでこられたかもしれない。学生・生徒もみんなも「目標を持て」「何になりたい?」と事あるごとに言われてるんじゃないだろうか。

私自身、実は小さい時から「何になりたい?」という質問は、どこかおかしいんじゃないだろうか、と思って来た。気づいたのは小学生の卒業文集の時で、「何になりたい?」コラムのようなものに一言書くのだが、さんざん考えた挙げ句、仲の良い人々に囲まれて暮らしたい、といったことを書いたのをはっきり覚えている。その文面が「気が利いていない」ことには、ひどく憂鬱だったことも。

というのも、私には「野球選手」とか「宇宙飛行士」にあたるような答えがないでもなかったからだ。それは「評論家」というものだった。評論家といえば当時、政治評論家みたいなものを指すほうが一般的だったかもしれない。しかしむしろ私は、文芸評論家とか、劇や映画やバレエを批評するような人をイメージしていたのかもしれない。よく覚えていない。「評論家」というものがどういうものか、よくわかっていないことだけは、自分でもよくわかっていた。よくよく考えて、私がやりたいなあと思う職業は、ひょっとして社会で「評論家」と呼ばれているんじゃないか、と思っただけなのだった。

中学と高校が一体となった学校へ進学して、高校一年のときに担任の先生が私に、「ジャーナリスト」になってはどうかと言った。なるほど、と私は思った。だがジャーナリストには、何か決定的に欠けているものがある、と私は感じていた。ジャーナリズムでは、うそが歓迎されない。うそを支える想像力も珍重されない。私はレイ・ブラッドベリが好きだった。

そこから現在に至るまで100億年も経ったような気がするが、最近になって、正確に言うと2003年頃から、私は目標設定をするようになった。偶然にも、冒頭の議論はちょうどその頃からスタートしている。目標設定といってもだらだらしたものであって、組織がメンバーに要求する数値目標や、受験生の合格目標のようなものとはぜんぜん違うのだけれども、個人事業主になったので、毎年営業目標を立てることになった、というそれだけである。

一方卑近なところでは子どもが大きくなって、勉強の計画を立てたり、将来への夢(おっと、いつの間にか、こっちが「何になりたい?」と聞く番か?)だの志望校だのコース選択などをしなければならない時期になって、「目標」を持つことのやる気への効果は無視できないことを、改めて思い知らされる思いもする。「バイオリニスト」「医者」「サッカー選手」などを例に挙げては、将来を早くに決めることの優位を説いたりもしてみたり、それ自体、色川武大のウケウリであったり、親のほうもからきし右往左往だ。

実際、進路なり、進学なりについて、自分なりにこれほど考えた年はなかった。これを考えることこそが、もっとも重要なのだということが、今更ながら思われるが、それだけわかっていても手も足も出ないところがおもしろい。いま、子どもに言えることは、何になりたいかはわからなくてもいい。自分がどっちの"方角"へ行くのかは知れ、ということだ。将来のことを考えたり、長期的な考え方をしたりすることが、人間は、というかサルは苦手である。そして人間は大きな(great)サルだ。だから子どもたちは、無理ならば、何かになりたいなどとはったりを言わなくてよい。

それともう一つは、憶するならばやめればよい。言い換えれば、勇気を持って進めということだ。冒頭の議論では、目標設定によって(特に恐れの感情といった)負担が増え、100%成功しなければ失敗と見なされがちで、設定後は環境の変化を採り入れることができず、(企業内などで)対立を招くことなどが指摘されているが、「どっちの方角」という目標を持っても、勇気があれば、負担になることもないし、失敗もない。もっとも戦争の世の中であれば、勇気とは死を賭すことだと受け取られるから、私も勇気を持てとは言わない。私が勇気と呼んだのは、自分はその方角へ進むのだという確信が、自分で怖くないということに過ぎない。そう思って怖くないならば、多少思い通りの結果が付いてこなくても構わない。それはさまざまに変化しながら、いつか付いてくる。思い通りでないのは、自分のせいではなく、たとえば前の世代のせいだということもあるだろう。そして方角というのは、たいがい90度角といったイメージで構わない。その中にどんなパスが隠れているかは、分け入ってみなければ青い山だ。

Psychology Today | Why Setting Goals Can Do More Harm Than Good
In organizations, “stretch goals" can harm productivity
Posted Sep 08, 2014 by Ray Williams



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毎日目にふれる……、スパムメールについて。 goo.gl/475ZOf




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スパムって読むものなのか!?
とつっこまれそうだが、日本語だと一瞬でスパムと判別できるのに、英語だとにわかには判別できない。そこで、スパムだとは思うけれども、いちおう少し読んでみる(笑)。

スパムが来るかどうかは、ほとんどフィルターの性能に左右されるといってたぶんよいと思いますが、フィルターの更新頻度がいまいち遅かったり、あるいはスパムが網の目をかいくぐったりして、やっぱりスパムは来る。今日も来る。明日も来るだろう。

だけどさほど大量に来るわけではない、という状況になってやっと、どれどれどんなスパムが生き残ったのかな、という興味も湧くというものだ。

で、最近、日本語のスパムと英語のスパムはぜんぜん違う。

日本語のスパムはほとんどオレオレ詐欺(もうそう呼ばないらしいですが)に似ている。英語のスパムは、むしろSNS的な環境に近い、と言えるかもしれない。

日本語のスパムは「マスコミ」型で、誰にでもある欲求、典型的なのが儲け話と風俗といった内容を総当たり的に配信している感じがする。英語のスパムは「ビッグデータ」型で、つまり私個人をかなり絞り込んで、マーケティングされたメールが送られてくる。

英語のスパムにももちろんバイアグラやロシアの美女を紹介しますといったものが残存しているが、以前に比べるとずっと減っている。ビッグデータというのはこの場合、私のアクティビティである商品の購入履歴であるとか、何かへの登録とか、閲覧などの記録を解析しているだろうということだ。これらを取得していなければ、こういう絞り込んだスパムは打てないだろうと当然に考えられるわけである。



簡単に言えば、商売しようという相手は、私が「これこれに興味を持っているな」ということを察知している。この観点でいうと、日本語ではgoogle関連のサービスにいくつか、私の嗜好性を知っていると思われるものがある。特にAdSenseでナゾなのがあって「ピアノが弾けるようになりますよ」という宣伝をせっせとやるのだが……私はピアノを弾きますので、いま別に今急にレッスンが必要じゃないのですよ。だけれども、私とピアノというところは結びついていると評価でき、しかしながら一向に効果のない宣伝をし続けている。(上達するよと何度も言われるうちにその気になる、というジャンルでもないし。)もうひとつは、youtubeに出る広告ですね。以前はダイエット食品猛攻撃で、最近はヘアカラーの一点張り。これはアマゾンの履歴を盗られているかなあと感じます。

ところで、今書いたような私にはこういうスパムが来ますという話をすると、すなわち、私はウェブでいつもこういうコトしてます、と告白とほとんど同じ、ということに、もうみなさんお気づきですね。そう考えると、私に来る日本語のスパムの性能が悪いのは、もしかしたら私が日本語で行うウェブ上のアクティビティが少なく、やや情報不足なのかもしれない。購入履歴そのものは言語は関係ないかもしれないので、SNSへの投稿が少ないか、機械に理解できないのかも(笑)。

一方、英語のスパムというのは、これはもう狙い打ったように、最近多いのが「あなたはwritingに興味がありますね」というものだ。これはピアノと似たようなもので、さほどあるニーズではないし、スパムもかなり長文だったりする。同様に少し前まで多かったのが「日本で、managementのとてもいいpostがあるから紹介したい」というもの。managementのポストが総当たり的メールで送られてくるのはへんだという点では相当間が抜けているし、だからこそそんなわけがないだろう、という「読み」もコミなのかなんだか知らないが、でもまあ、最近は減ってきている。

私がwritingに興味があるってことを、いかに機械が知るのか? もちろん思い当たるところは重々あるのだが、今私が面白いと思っているのは、それがとてもSNS的だということだ。私たちは──たとえば中学〜大学生の頃──自分はこういうことに興味があるんだということを、一生懸命「表示」していたように思う。映画が好きなら映画に友達を誘ったり、本を貸したり、いかにもそれとわかるスポーツを暗示する服を着こなしたり……。そういった努力がいま、もしかしたらあまり機能しなくて、要するに「個性」というものが発揮しにくいとしたら、そういう「あなた」を商業的なしくみが拾い上げて、「あなたはこういう人でしょう」と「話しにきてくれる」。スパムは、そのような(友達にさえ近いような)環境の一部を構成しつつあるのではないか。

SNSにおいてみんながリアクションしてくれるように、機械がリアクションしてくれる。だけどおまえは機械だから、人がわざわざ機械にレスポンスしなくてもいい。これがスパムだから読まないが、SNSに投稿されてきたら、そうでもないかもしれない。実際SNSにはプロモーション投稿的なものが存在するが、このような広告ももしかしたらもっとヒト"然"とした、広告らしからぬもののほうが効くのかも知れぬ。



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日本刀に恋してという番組をみて、そのあと京都の裏千家、表千家の番組をみた。日本刀のほうは、「研ぎ」の分野にフォーカスした、非常に最先端的なコミュニティの紹介だった。むしろ科学者に通じるようなほがらかな、このみち一本なひとたちであった。つづいてお手前は、京都はこういうしきたりがあるということを、何百年続けていますという話で、実際、こういう場所へカメラが入ったのは初めてだっただろう。

いずれも古い番組で、有料で公開されているのだった。

バカ親1は、これはもう京都の戦略であると。千利休の提案した価値が生きているのは3代ぐらいであって、あとは何百年続いているということ自体が明かに価値だよね、と。

するとヒビキさん、「それが伝統芸能というものだよね」との発言。
はい、その通りです。

番組終わって「日本刀はいいけどお茶のほうはあんまり好きじゃないな」
だそうです。

うーん、奥が深いねえ。(なにが)

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ビッグデータの話。ともいうけど、記号と再帰を巡っている、昨今の響けブログ。 blog.goo.ne.jp/hibikeblog/e/d…




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こないだ記憶について書いてしまったのだが、記憶というのは、記録と違って(これって再帰と再現にすごく関連すると思うのだけれど。ちなみに再帰とは、ヒトの言語において重要な概念、または言語学の主要概念であります)要するにまちがってるんだよね。ヒトが記録すると、たちまち忘れちまったというのと記憶違いというのが混入します。

これを一歩すすめると、ひとは記憶ってのを持ってて、記録なんかと違うんだと。忘れたいことは忘れたっていいんだ、そいつは……(ええい)権利だ。なんてふうにも考えることができるわけですね。

先日、ビヨンセのくちパク釈明記者会見という動画を見ていて、そういえばロシアの五輪でなんだったか(「忘れちまった」が)一個点灯しなくて、その晩担当者が「ホテルで偶然に10箇所(だったと思う)のナイフに刺さって事故死」したという事件があったことを思い出しました。アメリカではそういうことが起こらずにビヨンセのくちパク釈明記者会見といった事件が起こるんだなあと思いながら、要するに世の中「はれの舞台」とかそういうリアルタイムなフォーマルな場所での「アクシデント」というものを許容しなくなっている。あるいは、そんなもの技術でなんとでもカバーできるんだから、保険かけときゃいいじゃん、という発想になっている。それ自体、なんかちっとも愉快じゃないなあと思いつつも、思おうが思うまいがそうなってるよ、という印象はぬぐえないのであります。

記録のでっかい親玉みたいのが、データベース、でありますね。(このデータベースってのが私は大好きで、特にあんまりでかくないデータベースが好き、中くらいのデータベースが好みなんですが、まあそういう話はおいておいて)記録を徹底させて、なんでも参照できるようにする、テキストだけじゃなくて画像とかでもささっと画像解析して、他のデータとマッチングする。まさにビッグデータですね。そういう活用がリアル社会に持ち込まれていくとすると、たとえば空港でニセのビザで出国しようとしても難しい、車のスピード違反なんかも全車検挙!といったいろいろな管理が徹底されるはずです。

しかし、そういった近未来を描くSF映画で、『ガタカ(GATTACA, 1997, アメリカ)』というのを以前教わりました。(出典こちら)これは人々が完全にヒトゲノムで管理される社会を描いている。人々はよりよいゲノムを獲得するために婚姻し、出産する。尿、髪などで個体が同定され、ゆきずりの人というのはあり得ない社会(笑)。しかし最後に、主人公は夢だった宇宙へ行くというその直前に、そのことにいやけがさし、ずっとなりすましてきた(にせの尿や頭髪を用意して検査をかいくぐってきた)細工を捨てて、自分のDNAの尿を検査係に提出します。(映画見たい方へアテンション:この先オチ書きます)

果たして検査機械は「本人にマッチしない」というアラートを出し続けるのですが、係の人が、「何かの間違いだ」といって通してしまう。しかし実際、現実の世界でもよく、機械が間違ったわけではないんだけど、いまちょっと操作の手順を間違えたからエラーが出ただけなんで、エラー解除するという場面がありますよね。バス料金とか、レジとか。システムのほうも、そういう現場のニーズに対応できるように、たいがい回避措置込みで作られています。言い方を変えれば人間は、機械が属するシステムのかなり上位にいる。だからシステム全体を使わないこともできるし、部分的に当該の操作をキャンセルすることもできる。

ただほんとうは、機械は間違わないのだから、どこまでも機械のほうが正しいはず。だけどそれじゃ物語が進まないから、人は間違いを選択するんだよね、「エラー解除」によって。「エラー解除」を選択するというエラー。これはまさに再帰的です。







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なぜ急に投稿しているのか、自分でもよくわからない(!)なんか書きたいことがあるらしいので、よかったらブログへお越し下さい。 blog.goo.ne.jp/hibikeblog/e/3…




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ユニクロのINESのコレクションが気に入って、毎回オトナ買いにいそしんでいるのだが、ま、デザインが気に入ったとかいうことは半分で、半分はこのユニクロのプロジェクトというビジネスの"つくり"につられたい、だまされたいという一心もあって、のことだ。

パンフレットなんかもとてもよくできていて、ユニクロが販促的に言いたいことを、INESさんにまったくINESさんふうに言ってもらっていて、これじゃああまりにもコピーすぎるじゃないか、と私は思うのだけれども、その中にキラリとファッションというもののエッセンスもある。

そのようなセールストークコピーの中で、エッセンスは「違和」を起こしている。だからすぐ見つかる。

それはINESの第二弾のカタログの最終見開きのユニクロのデザインディレクターとの会話ふうの短い文章なのだが、おふたりのワードローブについての理解の片鱗が露出しているのだ。キーワードのひとつは「古着」。古着は、現在のこのユニクロの販促にまったく関係ない(将来的にはあるかもしれないけど)。古着がなぜ出てこなければならなかったかというと、このコレクションをワードローブとしてとらえ、たくさん買えば「素敵な」着こなしが「楽に」決まる、ということが言いたいからだ。

この「古着」は微妙に記号じゃない。古着が例に出されることによって、ワードローブの大切さが「説明できる」という考えがものすごく高度だからだ。これがファッションのエッセンスであり、極めて貴重な情報だ。ただ一方で、大半の消費者には、「古着」のくだりはほとんど意味を持たないだろう。それを残したのは企業文化というべきである。

さて、ワードローブというコンセプトを、私ははるか昔、アンヌモネというアパレルから教わった。そのときに抱いた強い印象を今でも覚えている。理由は簡単だ、それはボキャブラリーのアナロジーだからだ。

ワードローブを持っている、その全体像を持っているということが、いかに毎日着る服というものに影響を与えるのかということが、このユニクロの対談のおかげか、ほんの少しわかりはじめているようだ。それは記憶に似ている(そりゃそうだ、ボキャブラリなんだから)。記憶を持っているからこそ、選んで、組み合わせることができるのだ(そのようにして文章をつくるのだ)。

ウェブの時代になって、記憶は変わった。しかしワードローブは頑強にデジタル化しない。ユニクロはオンラインで簡単に買えるが、いったん自分のワードローブに加わったものは、へたしたら仕舞い込んだが最後、さっぱり忘れてしまうかもしれない。しかもそいつは「検索」できない。あったはずなんだけど、買ったはずなんだけどといってもどうにもならない。

こうなると、ワードローブを「持っている」からといって、着たいと思ったときにすぐ着られるというわけではないことは、明白だ。速攻でアマゾンで注文してお急ぎ便で送ってもらったほうが速いかもしれないくらいだ。しかし、依然としてワードローブは、私たちにとって「重要」だ。私たちはワードローブという「記憶」から、着こなしを「引きだす」のだ。まずはワードローブがなければ選び、組み合わせるアイデアは浮かばない。

やれやれ。私がファッションについて「語る」なんて。いや、これ、ボキャブラリーの話なんですってば。


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ヒビキさんは、うっかりすると忘れてしまうが世代が違うので「戦メリ」とは言わないのであります。戦場のメリークリスマスは傑作で、いい曲なんだそうです。

「戦場のメリークリスマスは邦楽だよねー」
「えっ? なにがどこが?」

ちなみにヒビキのいう「邦楽」というのはど邦楽、つまり長唄とか歌舞伎やお能の後ろでやってる音楽のことであります。

「だってあれ(レミレラレ)のところを三味線、ポンポンと鼓だと思って聴いてみー」とヒビキさん。
うーん。むずい。
「ところで、あれどういう映画なの?」とヒビキさん。

きたきた、映画のほとんどが映画音楽とすり替わっているヒビキさん。映画はたぶん断片的にしか見たことがないのであります。だけどそう言われてみると、大島渚には失礼ながら、音楽のほうが不朽のような。

「映画音楽が名作で、長く聴かれていて、映画のほうはそうでもないということは、やっぱりあるよね」
と母親はごちゃごちゃ。で、ついでに「Calling you」をひとふし。

「知らない。ま少し知ってるかも。で?」
「たとえば『バクダッドカフェ』なんか、ヒビキでなくとも音楽しか覚えてないし。けど、それでも音楽が記憶に残ってると、映画が再映されたりするんだよね」
ごく周辺的な情報だ。



という話をしたのが日曜日のことで、明けて今朝、ふと湿った初秋のグレーの空を眺めながら、その空気を切り裂いて私にもその「ポン」が聴こえてきた。いや、想像力のなかで。……なるほど、確かに邦楽かもしれないのであります。レミレラレのところをさほど持続音でなく、弾(はじ)いていると考えれば、まさしく三味線、そのうたいはじめの息の合いかたも、まさしく邦楽。そこへポンと、湿った空気を切り裂けるのは、邦楽か仙場師匠のパーカッションをおいてはあるまい。








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何年前なんですか「あまちゃん」が、ヒビキ'sマイブームというわけで、「マーメイドって何だか知ってる?」ときいたら、「海の要塞」とか言ってましたけど、そうなるとこっちも速攻で「アンデルセン」とか言ってしまいそうな。まあ、夏休みとあって一緒にみてしまったりしたあとには、会話がたいへんなテンポになったり、東北弁(にせもの)になったりしております。

いくらなんでもいまごろなんで、3つだけ感想。

1 東北弁(と十把一絡げですいません)興味深かったです。
2 最終回で、べんさんに松田龍平が「(手柄横取りしちゃ)だめですよ」というシーンで笑ってしまっているのをOKにしたのが、お二人の「役者冥利」を刻印しておりました。
3 脚本作者は、空洞としての「アイドル」を描いていて、作品のセンターにあるキーワードに、ここまで思い入れがないというのはすごい。(言い換えると作者は相当のアイドル嫌い?というか)

ぜんっぜんわかんないかもしれないっす。すいません。




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