コドモの頃に楽器を習っていると、自分のことを「○○を習っている私」というように認識するようになる。たぶん大人がそのように言うからだし、本人としてもやはりみんなのいる学校とは別のところで、独りなにかに取り組んでいるという自覚があるからだろう。
そういう意味ではクラシックイタチたる私は、自分とピアノという楽器はつかず離れずそれなりに似合いだと思うし、そのように自嘲しもする。
似合いだと思うのは、ピアノが楽器の中では比較的マニュアルな部分が少なく、機械のようにかなり均質に、鍵盤というかたちで音が並んでいて、しかもその並びが視覚的にも整然としているところだ。
自嘲するのは、ピアノはよっぽどのことがないかぎり、クラシックの音楽で誰かと共演するという機会がない。私はバイオリンを習っていた妹がうらやましいと思った記憶はほとんどないのだが、彼女が大学でオーケストラに入ろうかな、と言ったときに、はたと、そうかバイオリンにはそういう「使いで」があったのか、と大発見して、ちょっとうらやましいと思った。どんなにヘタであっても誰かと共演するという時に必要とされる音楽的な資質というものがあって、なるほど私はそこにまったく試練なく過ごしてきてしまったのだなあと自嘲するのである。
だが、ピアノというのは案外、その「機械」性のようなものがワナで、より正確に機械たろうとして技術偏向──速く弾けるのがえらい、といったように──に陥る結果、音楽性が二の次になる傾向がなきにしもあらず……なんじゃないだろうか。
しかしヒビキの場合はぜんぜん大丈夫、話がまったくあべこべである。
ヒビキにはやりたい音楽のイメージがそもそもあって──それはたまに先生に「ヒビキくん、そこまちがって覚えているよ」と言われて直されることもあるのだが──それを今もっとも手近にあるバイオリンという楽器でやっているだけ、という風情だからである。
したがって、最前からエプタザールの発表会に向けて、一緒に弾いたりする私は、実は内心、びくびくものなのである。先日、ついに曲目も決まり、そのピアノ伴奏譜は……と思ってみてみると、ギャー、譜面がいやに細かいではないか。
そこへ追い打ちをかけるように
「プロなら弾けるよ。プロならね」
とヒビキは言うのである。
「プロになろうと思っているのかな、ヒビキは」
と夫は、のんきにも言うのである。
そういう意味ではクラシックイタチたる私は、自分とピアノという楽器はつかず離れずそれなりに似合いだと思うし、そのように自嘲しもする。
似合いだと思うのは、ピアノが楽器の中では比較的マニュアルな部分が少なく、機械のようにかなり均質に、鍵盤というかたちで音が並んでいて、しかもその並びが視覚的にも整然としているところだ。
自嘲するのは、ピアノはよっぽどのことがないかぎり、クラシックの音楽で誰かと共演するという機会がない。私はバイオリンを習っていた妹がうらやましいと思った記憶はほとんどないのだが、彼女が大学でオーケストラに入ろうかな、と言ったときに、はたと、そうかバイオリンにはそういう「使いで」があったのか、と大発見して、ちょっとうらやましいと思った。どんなにヘタであっても誰かと共演するという時に必要とされる音楽的な資質というものがあって、なるほど私はそこにまったく試練なく過ごしてきてしまったのだなあと自嘲するのである。
だが、ピアノというのは案外、その「機械」性のようなものがワナで、より正確に機械たろうとして技術偏向──速く弾けるのがえらい、といったように──に陥る結果、音楽性が二の次になる傾向がなきにしもあらず……なんじゃないだろうか。
しかしヒビキの場合はぜんぜん大丈夫、話がまったくあべこべである。
ヒビキにはやりたい音楽のイメージがそもそもあって──それはたまに先生に「ヒビキくん、そこまちがって覚えているよ」と言われて直されることもあるのだが──それを今もっとも手近にあるバイオリンという楽器でやっているだけ、という風情だからである。
したがって、最前からエプタザールの発表会に向けて、一緒に弾いたりする私は、実は内心、びくびくものなのである。先日、ついに曲目も決まり、そのピアノ伴奏譜は……と思ってみてみると、ギャー、譜面がいやに細かいではないか。
そこへ追い打ちをかけるように
「プロなら弾けるよ。プロならね」
とヒビキは言うのである。
「プロになろうと思っているのかな、ヒビキは」
と夫は、のんきにも言うのである。
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