北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

【G3X撮影速報】豊川駐屯地創設73周年記念行事【6】74式戦車-全廃前の最後の躍進(2023-11-03)

2024-04-18 20:00:23 | 陸海空自衛隊関連行事詳報
■第10戦車大隊廃止
 ねえ、本当にだいじょうぶなの?と聞かれてしまうのは本州の富士学校以外の戦車部隊全廃なのですが実際問題廃止改編はこの行事後に完了しています。

 74式戦車が轟々と土煙を立てて展開して参ります、第10戦車大隊の歴史は長いのですがこの展示が駐屯地記念行事ではいよいよ戦車大隊廃止改編直前の最後の展示となりますので、G3XもEOS7Dもシャッター、とレリーズか、押しこむ指にも自然と力が入る。

 金鯱の部隊マークももはやこれまでか、と残念に思いつつ、しかしふと考えますと、この金鯱のマークはそのまま第10師団のマークでもありますから、戦車大隊が廃止されたとしてもまあ、見ようと思ったならばなんとか見る事は出来るのか、とまあ、後後に気付く。

 第二世代戦車である74式戦車ですが、自衛隊の場合は徹底的に使い潰していますので車体部分はかなり老朽化も進んでいますし、第二世代戦車には近代化改修の限界がありますので、このまま延命する事は難しいにしても、退役した後で直ぐ分解し溶かしてしまうのは。

 軽装甲機動車の展開、第49普通科連隊の装備です。思えば即応予備自衛官の部隊なのですが、現役戦車を廃止するにしても方面混成団に戦車大隊を移管して、例えば戦車を相手とした、部隊訓練評価支援隊の第1機械化大隊のような仮設敵部隊を組んでいれば、とも。

 仮設敵の攻撃を受け軽装甲機動車が大破したという想定で重レッカーと救急車が救援に展開し、ほかの軽装甲機動車が機銃により支援しています。なお軽装甲機動車はMINIMI分隊機銃を装備していますが、車両の備品ではなく個人装備を固定しているという運用で。

 MINIMI分隊機銃、ベルギーのFNハースタル社が開発したもので優秀な装備ということなのですが、車載牡蠣として用いる場合、5.56mm弾で充分な制圧距離を稼げるのか、下車戦闘を考えずに7.62mm機銃を搭載した方が良かったのではないか、ともおもったりする。

 FH-70榴弾砲の空包射撃、さすがにG3Xでは発砲焔が映らないか、延々とSDカードのストレージを使いすぎないようにコンデジのほうは連写性能を落として撮影している、連写しての発砲焔はEOS-7Dのほうに任せているのですが、でも映ると嬉しいのだが。

 第10特科連隊のFH-70射撃とともに仮設敵を制圧したとの想定で第49普通科連隊は第10戦車大隊とともに反撃に転じ、まあ土煙で何がなんだかよく見えないというところではあるのですけれども、そのなかを軽装甲機動車のシルエットが続々とぜんしんしてゆく。

 軽装甲機動車の突撃と共に仮設敵は潰走した、という想定で状況は終了となりました。軽装甲機動車は2000年代の配備開始で2020年代の今日とは小型装甲車の運用思想が大きく転換、特にアメリカのJLTVのように軽装甲車でも30mm機関砲を積む事例が出てきた。

 74式戦車の退場、見送りながら、自衛隊としては5.56mm機銃の威力をどこまで期待しているのかは未知数ですが、例えば30mm機関砲を搭載するJLTVを東欧の小国であるバルト三国までもが必死に乏しい予算から調達している現状を見ると、考えさせられるものが。

 戦車を本州から廃止するものの、後継となる機動戦闘車の数は不充分で、すると軽装甲機動車の後継車両には可能な限り大口径機関砲を搭載するとか、RWS遠隔操作銃搭に01式軽対戦車誘導弾の発射能力を付与するとか、01式の射程を延伸する努力などが必要と思う。

 第二世代戦車はエンジン技術や装甲技術の当時の限界から戦車の三要素である打撃力機動力防御力の内一つを断念せざるを得ないという状況がありこれを近代化改修で補うのは費用面で非効率です。しかし代替装備無にそのまま退役させるのも、と考えさえられました。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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【京都幕間旅情】醍醐寺観桜,現代花見発祥は天下統一の先に日本を一つとした勲功の最後の栄華を飾った祭事

2024-04-18 07:00:05 | 写真
■空海所縁の寺院はいま
 今年の桜も四月半ばとなりますと八重桜が咲き誇るのみでありいよいよこのほかの桜花は青葉へと季節を進めているところですが。

 醍醐寺、歴史を見ますと空海所縁の寺院、とは言うもののその長い歴史の中には多くの紆余曲折がありました。例えば応仁の乱では五重塔が残り現存する、という事なのですがいいかえれば五重塔以外は全て破壊されたということもまた厳しいですが事実です。

 文明元年の農民蜂起、1469年には飢饉から醍醐寺の寺領でありました御境内の農民が年貢の半減を求める半済要求の暴動を行った際には僧兵が徹底した弾圧と首謀者呪殺を願う護摩祈祷を行うなど、次第に民衆の寺院とはなり得ず人心の離反を生んでゆきました。

 歴史、しかし寺院は、といいますか寺院以外の建物でも長い歴史を超えるには役割というものを与えられ、これを全うすることで新しい価値を見出さなければ生き永らえることは出来ず、これは平安朝の頃の壮大美麗な宮殿も中世の豪華な武家屋敷も消失した通り。

 観桜、不思議なものなのかもしれませんが醍醐寺が今日に永らえるのは、観桜という制度ではないにしても文化的な一つの出来事と共に新しい役割を担う事ができたからです、それは五重塔を残し荒廃していた室町時代もその末期、安土桃山時代のことでした。

 慶長3年3月15日、西暦では1598年4月20日となりますか。観桜といえば騒がしいものなのですが、宮中行事の延長での観梅のような季節行事としての花見ではなく、今日的な酒宴とともに大規模に行う花見の歴史上初めての事例が醍醐寺で執り行われた。

 醍醐の花見、天下人となりました豊臣秀吉は豊臣秀頼と北政所、そして淀殿を招くとともに諸大名から女房女中など実に1300名を集めまして準備を行い、徳川家康や伊達政宗など5000名を招待し、いや庶民さえ自由に参加を許しての一大花見を行いました。

 豊臣秀吉は応仁の乱により荒廃した醍醐寺の再建に助力していまして、この関係から醍醐寺第八〇代座主の義演は、秀吉の帰依を受けるとともに良好な関係を続ける中、その体力の衰えというものを見抜くようになり、天下人に相応しい観桜会を開いた、と。

 豊太閤花見行列、という祭事としまして醍醐寺では四月第二日曜日に歴史行列の祭事を執り行うのですが、これはその時の秀吉を再現したものといいまして、いよいよ末期も近い人生に花を添えるという醍醐寺の計らいとともに、実際その五か月後に最後を。

 花見が役割、というわけではないもののしかし、今風、というべきなのだろうか、騒がしいわいわいがやがやの擬音が混じる観桜の始発店は此処に見出すことも出来るものでして、いわば一人未だない天下統一の先に日本を一つとした勲功の最後の栄華の場で。

 花見、もちろん今は日本中津々浦々、観桜の名所は数多あるのですが始まりの地といいますか、今風の花見というものの始まりがここと考えるならば、醍醐寺の桜を眺めるのは文化的な意味で個々の観桜が壮大さを感じる所以、といえるのかもしれませんね。

 混雑は、一見して明白の通りそれほどではない、もちろん物凄い混雑していたという別の日に拝観された方のお話もありましたので全部が全部ここまで安穏としていたわけではないのですが、賑やかな観桜の原点の場所をこのように静かに見上げられた、という。

 しかし、観光過多が叫ばれる京都に在って、確かに端の方ではあるのだけれどもこのような桜花の季節に在って、それがそれほどでもない観光客という醍醐寺の情景、多くの京都観光の方々はいったいどこで時間を過ごしているのか、不思議にはなりましたね。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
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