北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

陸海空自衛隊関連行事 三月期実施詳報

2007-02-28 22:11:46 | 北大路機関 広報

■自衛隊関連行事

 駐屯地祭シーズン再来というべきか、年度末ではあるが三月には中部方面隊管区内において三つの行事が実施される。他方面隊行事は情報収集を行ったが、音楽祭などを除き実施されないようだ。

Img_8546_2  最も注目すべきは三月十一日に実施される春日井駐屯地祭である。写真は昨年度のものであるが、後方支援連隊や施設大隊、偵察隊などが駐屯する駐屯地とあって、観閲行進は全て車輌行進、装備も多種多様で中々の規模である。また、春日井では訓練展示も実施されるようで、昨年は近接戦闘の訓練展示に救急車による負傷者救出という一幕を加えたものであった。この他、高知駐屯地祭が三月二十五日に実施される。第14施設中隊が駐屯しているが、恐らく第14旅団隷下の部隊も行事の支援を行うものと思われる。

Img_4865  この他、三月十日には航空自衛隊の三月期における唯一の基地関連行事として饗庭野分屯基地祭が実施される。今津駐屯地と同じ滋賀県高島市の基地で、ペトリオットミサイルを運用する第12高射隊が駐屯している。

 他方、三月三日の舞鶴定期演奏会のように音楽関係の行事が実施されるが、事前応募制であり、詳細については北大路機関では掲載しない。

■駐屯地祭・基地祭・航空祭

■三月十日:航空自衛隊饗庭野分屯基地(滋賀県高島市):分屯基地開庁記念行事(0740-25-4343)

■三月十一日:陸上自衛隊春日井駐屯地(愛知県春日井市):春日井駐屯地祭(0568-81-7183)

■三月二十五日:陸上自衛隊高知駐屯地(高知県香南市):高知駐屯地祭(0887-55-3171)

注意:本情報は私的に情報収集したものであり、北大路機関が実施を保証するものではなく、同時に全行事を網羅したものではない、更に実施や雨天中止情報などについては付記した各基地・駐屯地広報の方に自己責任において確認願いたい。情報には正確を期するが、以上に掲載された情報は天候、及び災害等各種情勢変化により変更される可能性がある。北大路機関

■北大路機関アクセス解析07.2

 北大路機関へのアクセスは、OCNサービスのアクセス解析機能によれば、過去30日間で16695件、アクセス解析を開始して後より39547件のアクセスがありました。たくさんのアクセス心よりお礼申し上げます。

Statsimg070227  この期間中の最低アクセス数は二月一日の406件、最大のアクセスがあったのは二月十八日の882件でした、一日平均のアクセス数は556件に達しました。何分、至らないところもある北大路機関ですが、正確な情報と目新しい記事の掲載を目指し、邁進してゆく所存です。今後ともよろしくお願いいたします。

北大路機関

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T-3ラストフライト?とMCH-101撮影成功

2007-02-27 01:16:01 | 先端軍事テクノロジー

■T-3ラストフライト?

 先日彦根城を撮影した際にU-125救難機を偶然目撃した。望遠レンズの持ち合わせが無かった為、不鮮明な写真となったが、なるほど京都市を出れば何が飛んでいるか解らないということを身を以て知った。

Img_3606  2月22日に静浜基地においてT-3練習機のラストフライトが実施されたとのことだが、これで残るのは岐阜基地のT-3練習機だけとなった。その最後のT-3がこの写真の機体と思われる(この角度では非常に判別が困難であるがT-7では無いように思う)。

 滋賀県では饗庭野演習場で試験を実施しているのか、AH-64Dが琵琶湖畔で目撃されており、伊丹空港に突如米空軍のC-5輸送機が着陸したりする訳であり、関西国際空港には路面電車を輸送にAn-125が着陸する。京都市内でもCH-47JAの四機編隊や、凄いのでは米海兵隊のMH-53Dが飛んでいたこともある。写真は、一瞬初等練習機T-7かと思ったが、機体下部の特色からT-3のように思う。本機は1982年8月3日を以て運用を終了したT-34メンターの後継として富士重工で開発された国産練習機で、1978年より運用が為されている。

Img_3609  T-34に高空飛行能力と航続力を与えたのがT-3で、主にエンジンに過給機を搭載し、三枚翼のプロペラを採用している。1974年に富士重工が自主開発した機体が、1976年に航空自衛隊から発注を受け、1978年から1982年にかけて50機を航空自衛隊に納入している。航空学生への訓練は1979年5月より開始され、回転翼を含む全ての航空学生が第一初級操縦過程として、離着陸及び空中操作に41時間30分、編隊飛行に12時間、航法に11時間、計器飛行に5時間30分の70時間を飛行する。昨年のT-1,T-2のラストフライトというようには行かないが、おそらくラストフライト(予行の可能性もある)と思われる場面に立ち会えたのは幸いであった。

■MCH-101デリバリー?

 ラストフライト、その響きは一つの時代の終わり(予行の可能性もあるが)というものであり、心打つものがある。

Img_3610  その余韻にひたりつつ、作業を続けていると、今度は、なんとMCH-101が飛来した!兎に角驚いたのは言うまでも無い。岐阜基地に撮影に展開したならばともかく、出先でこんなものに出くわすとは想像できない。一瞬、アエロスパシアルAS332あたりかと思ったが、MCH-101である。これも川崎重工岐阜工場から飛来したものなのであろうか、また、岩国基地に向かい飛行するものなのであろうか?、文字通り“?”尽くしであるが、機体の形状からMCH-101であることに疑いは無い。

Img_3612  イギリス・イタリアの共同開発である三発ヘリコプターEH-101の派生型で、通常型は5.4㌧の貨物、若しくは35名の完全武装の人員を輸送可能である。光ファイバーを用いたフライバイライト方式により一名でも計器飛行が可能であるのが特色で、1981年に基本構想がまとまり1987年に初飛行、イギリスなどへの部隊配備は1999年より開始され、掃海輸送ヘリコプターとして海上自衛隊が採用、2006年より岩国基地での運用試験が開始されたもので、2006年に岐阜基地で小生も撮影に成功している。

Img_3614  写真は機体下部を撮影しているが、後部にカーゴハッチを有し、ここから航空掃海機具を曳航し航空掃海を実施する。次期ヘリコプター護衛艦に搭載される計画で、砕氷艦用にCH-101の採用も決定している。惜しむべくは岐阜基地で撮影したものではなく、偶然の撮影であるため、年始の京都市消防局飛行初めと同じように、鮮明でないところが恐縮だが、珍しい二機種を撮影した為掲載した次第である。

HARUNA

(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり無断転載は厳に禁じる)

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天下統一へ 織田信長と岐阜城天守閣の展示品

2007-02-26 22:57:09 | 写真

■天下布武

 岐阜城天守閣の様子は既に既報の通りだが、天守閣が再建されたものであるということも既報である。その天守閣には様々な展示品があり、撮影も可能である。今回は、城郭内の写真を交え、岐阜城についての詳述を行いたい。

Img_5786  岐阜城の主として、最も知られているのはやはり織田信長であろう。あるテレビ番組では日本史上の人物のなかで、最も人気があるとの事で、これには様々な意見もあろうが、後に続く豊臣秀吉、徳川家康と群雄割拠の戦国時代を泰平の時代に導いたきっかけを創った人物ということは間違いない。

 織田信長は1534年~1582年に生きた人物で、織田信秀の子、幼名は吉法師といい1546年に元服し信長と名を改めた。

 織田信秀の死後、尾張を統一し1560年には桶狭間の戦いで駿河の今川義元を劣勢の中、巧みな奇襲により破り三河の徳川家康と同盟を結ぶ。その後、美濃に進出、1567年には斉藤龍輿を破り清洲城から岐阜城に移り、12代の岐阜城主(以前は稲葉山城、また金華山という名を冠したのも信長である)となる。その後天下統一を目指し、安土から京都に進出する。しかし、1582年に明智光秀の謀反に遭い、京都本能寺にて自決した。

Img_5765  さてさて、写真は当時の甲冑であるが、まず岐阜城の歴史について改めて記したい。岐阜城の初代城主は、二階堂行政という鎌倉幕府の吏僚で、父に藤原南家、母に熱田神宮の宮司の家筋を持つもので、行政自身は源頼朝に早くから仕えていたという。幕府より軍事目的での砦の造営命令が下されたのが1201年であるが、それ以前の1191年に頼朝より義経を鎮めるための永福寺建立を命じられており、その十年後に岐阜城のあるところに砦を築いたということになる。

Img_5769  岐阜城はこの後、関東と京都を結ぶ交通の要衝の一つとしての地位を得たが、ここが脚光を浴びるのは斉藤道三の時代からと先日記したが、京都の油売り商人であった斉藤道三は土岐頼芸の知遇により美濃を制した。道三は稲葉山城の要塞化を進め、西麓には居館を造営、1554年に隠居したものの、実子の義龍との対立が生じ、これにより1556年に道三は戦死したという。しかし、義龍は美濃繁栄に尽力するものの1562年に病死している。

Img_5764  こうして家督はまだ幼い斉藤龍輿に継がれることとなったが、齢まだ14の若者に一国の運営が上手く果たせるわけも無く、1564年には家臣の竹中半兵衛らの謀反により、一時的に稲葉山城一帯が占拠されるということもあり、これにより斉藤家の衰退は進み、1567年に織田信長により稲葉山城を追放されるに至った。斉藤龍輿はこの後、越前の朝倉家に身を寄せるものの、朝倉家の滅亡と運命を共にすることとなる。

Img_5772  織田信長に関しては既に前述したが、巧みな戦術と、合理主義に裏打ちされ、天下国家を見据えた信長は闘将であると同時に知将でもあった。織田信長が安土城に移った後は、子の織田信忠が城主となったが、本能寺の変に際して二条城に明智光秀の奇襲を受け戦死した。続く城主、信長の三男である神戸信孝は豊臣秀吉と対立し、1583年に開城した。その後、池田元助が城主となるも1585年に小牧長久手の戦いで戦死し、池田輝政(のちの姫路城主)が城主となった。

Img_5776_1  池田輝政に引き続き城主となったのは豊臣秀勝である、豊臣秀吉の養子であった秀勝だが1592年に朝鮮に出陣しその後朝鮮半島の巨済島において戦死する。それに引き続き、安土から来た織田秀信が城主となるも関ヶ原の戦いにおいて西軍についたため1600年に攻撃を受け開城、秀信は高野山に出家するも26歳にて病没した。その後岐阜城は廃城となり、天守閣、石垣、櫓は加納城に移され、1602年より天守閣の無い時代にはいる。

Img_5780_1  城郭の無い時代が長く続いたものの、明治時代に入り再び金華山に天守閣を、との機運が高まり、模擬天守閣が1910年に建築された。これが当時の写真であるが、現在の岐阜城とは似ても似つかない、文字通り模擬の天守閣であることがわかる。しかしながら、この天守閣も1943年2月に焼失してしまう。博物館ではない為、岐阜城天守閣には学芸員がいない、係員が入場券販売所に一人いるだけであったが、焼失は火の不始末であったのだろうか、興味が持たれる。ご存知の方はご教授いただけると幸いである。

Img_5793  破損した日本刀。

 第二次世界大戦において1945年に入りそれまでの空母艦載機による精密爆撃から、大型戦略爆撃機による無差別爆撃へと本土攻撃の戦略が変更され、この岐阜城の城下町である岐阜市も空襲の標的とされた。その際に焼夷弾により破壊された日本刀が展示されている。焼け爛れた刀身が当時の空襲の激しさを彷彿させるものである。

Img_5789  その後、1956年に安土桃山時代の天守閣を再現したという現行の天守閣が構築されたが、そもそもこの天守閣の情報とは、即ち加納城に移築された旧儀浮上天守閣はいつ頃まで現存したかということで、その天守閣の再現の度合いがどの程度実物に忠実であったかということには興味が持たれる。というのも、現在、安土城の天守閣について再建の構想が出ないのもやはり当時の造形を正確に伝えるものが無いということにあり、この部分を無視したものとしては大阪城などが有名である。

Img_5799  岐阜城資料館。天守閣の入場券は200円であるが、その入場券によりこの資料館も入城することができる。山頂にある城郭ということもあり、眺望は良好である。濃尾平野を一望しつつ考える歴史ロマン、歴史に興味がある者としては、この岐阜城、当時の姿はどうであったかなど、興味は尽きないものの一つといえよう。

HARUNA

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国宝彦根城 “ひこにゃん”と井伊直政

2007-02-25 21:46:25 | 写真

■キミは ひこにゃん を知っているか!

 先日、彦根城に展開した旨は既報の通りであるが、知人友人から“ひこにゃん”には会ったのか?との質問を多く得、実はちょっとした人気者であることが判明した。

Img_5997  馬上にて雄姿を轟かせる勇ましい銅像。写真は“ひこにゃん”ではない。

 “ひこにゃん”、とは?、小生は浅学にて、こうした有名なキャラクターがいるということを知らず彦根城に展開したのであるが、彦根城にてそのキャラクターの紹介を受け、なるほど、と思った次第である。ひこにゃんとは、彦根城展開前にその大まかなキャラクター像を友人より教えてもらい、今年は彦根駅を含め目立つところには必ず展示されているはずである、との情報を得た。

 彦根駅を出たらまず第一に井伊直政の銅像が目に入った。1561年に静岡県の井伊谷に生まれ幼少の頃より武道に励み、徳川四天王の一人として1600年の関ヶ原の戦いにて武功を挙げた人物である。その後、現在の位置に彦根城を移築しようとするも、病に倒れ志半ばにて1602年に41歳にて病没したが、今日の彦根市発展の礎を築いた人物として、尊敬を集めている。

Img_5873  “ひこにゃん”!、彦根城の入城口付近にて撮影したもので、本人(本猫?)は京都市内を含め様々なところに出向いて彦根城築城400年をアピールしているという。

 さて、此処からが驚くべきことなのだが、この“ひこにゃん”は実在の猫をモデルにしているとのことである。彦根藩第二代藩主井伊直孝が雷雲に囲まれ、危険に曝された際、一匹の猫が手招きし、安全なところに招いたというのが“ひこにゃん”の発祥とされている。井伊家の赤備えの兜を身に着けたこのキャラクター自体は彦根市企画振興部彦根城築城400年祭実行委員会のマスコットであるが、一応実在ということで、いつかは大河ドラマにも出るかもしれない(冗談)。なんとなれ、この可愛らしいマスコット、今後も彦根城や京都市内などで撮影の機会があれば、改めて掲載したいと思う次第である。

HARUNA

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京都近鉄百貨店いよいよ閉店の日迫る

2007-02-24 22:11:34 | 写真

■PLATZ

 京都駅前、京都タワーを越えて東本願寺に向かう途上、五日後の二月末に閉店となる近鉄百貨店がある。

Img_3847  近鉄百貨店。その向こうには東本願寺がみえる。一階から六階までの専門店と、七階のレストラン街が構成する百貨店であるが、小生は特に五階の旭屋書店と六階の電気店ソフマップ、更に七階のお好み焼き店“赤いしょうが”はよく通ったものである。書籍に関しては四条のジュンク堂書店の方が数としては多いのだが、何故か必要としている書籍は旭屋書店の方が揃っていることが多かった。

 昨年十月にも大学院でのプレゼンテーション割当で必要という事もあり、“ジャック・アダ著『経済のグローバル化とは何か』(ナカニシヤ出版)2006”、“ベリーアイケングリーン著『21世紀の国際通貨制度』(岩波書店)1997”も翌日まで至急必要、という状況にあって中々発見できなかったが、思い切って電話確認、在庫があったということも思い出深い。この他、軍事関係書籍も充実しており、これがなくなるのは少し寂しい。

Img_4901  ソフマップであるが、ここにも通った。外付ハードディスクやメディアなども調達したが、その中でも中古DVDコーナーが充実していた。

 電気店ということもあり新品DVDの割引の行われており、アニメーションなどの購入に活用した。中古DVDとしては、寺町電気街にも幾つかあるが、よく価格を比較したものである。近鉄百貨店会員特別販売の日は写真の入り口よりエレベータにてソフマップに展開した。

Img_5065  音楽店の新星堂も利用した。もともと京都市役所前の地下街にあったのだが、閉店して統合してしまった為に、ポイントカードを利用するべく行ったのが始まりだが、最初に買ったDVDはジョンウェインの“太平洋航空作戦”だったか、ラルフトーマスの“潜水戦隊帰投せず”か、いやいやアレックギネスの“マルタ島攻防戦”だったかもしれない、クラシック映画の品揃えがよく、今度はジョンフォード監督の“リバティーバランスを撃った男”を買いたいと思ったのだが、どうやら無理のようだ。

Img_6009  “赤いしょうが”であるが、ここは二人以上で入店すると一人1200円で呑み放題というサービスがあり、焼酎や日本酒などが通常の学生向けの呑み放題とは異なり、やや質が良かったように記憶する。御恥ずかしながら、友人が京都に遊びに来るたびにここで一杯やり旧交を温め、最後に京都駅で新幹線や新快速に見送った後に小生はバスで帰宅した。しかし、良い感じで酔っているというか、お恥ずかしながら幾度か終点まで寝過ごし、酔い覚ましに歩いて戻る、という事もあった。

Img_6012  近鉄百貨店の閉店セールは、ほぼ完熟の粋に達しており、小生が展開した時点では既に宝石などの半額セールが行われ、盛況であった。

 トレンチコートが裂けてしまったので、参考までにと思い展開したが残念ながら此処ではもう調達することは出来ないようである。既にソフマップは昨年末に閉店し京都駅の反対側に新店舗を構え、旭屋書店が往時の姿を留めているにとどまる。

Img_6015  京都近鉄百貨店はいよいよ87年の歴史に幕を閉じる。ただ、幸いなことに解体されるのではなく、某家電量販店が入る予定という。PLATZとは、“広場”という意味であるが、少なくとも今後も広場の名前が変わるだけで、残されるようである。

HARUNA

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彦根城 琵琶湖八景に輝く国宝の天守閣

2007-02-23 21:45:02 | 写真

■城郭見聞記

 岐阜城に引き続き展開した彦根城は、今年が建築400周年記念ということもあり、マスコットの“ひこにゃん”が至る所に飾られ、さまざまなイベントが計画されているとの事だ。今回はイベント前夜というべき彦根城の写真を特集したい。

Img_5938  彦根城は1600年の関ヶ原の戦いに際して抜群の戦功をあげた井伊直政に対して、徳川家康が石田光成の居城であった佐和山城を与え、1601年に入城した。

 井伊直政はその後、この彦根山に城を移築しようとしたが志半ばにして病死し、その子である井伊直継が彦根山への城郭移築を継いだ。この一大工事に初代将軍徳川家康は七カ国十二大名に彦根城の建築を支援させ、築城開始から20年という長い年月をかけ、1622年に彦根城を完成させた。彦根城は1952年に天守閣が国宝指定を受け、1951年に天秤櫓、太鼓門櫓、佐和口多聞櫓が重要文化財指定を、1956年には彦根城一帯が特別史跡に指定された。

 そこで、何を以て400年祭か、という素朴な疑問が残らないでもないが、彦根城に展開したのだ。

Img_5839  彦根城は彦根駅から徒歩ですぐである。岐阜城も駅からすぐと聞いたのだが、結構あった。しかし、写真は彦根駅から撮影したものであるがこのように比較的近い。彦根山は標高50㍍と小高い丘で、安土城跡も比較的近い。彦根駅は新快速停車駅であるが、琵琶湖線新快速は一時間四本の内、二本は野洲止まりであるので注意が必要である。

 なお、写真の道の向こう側に見えているのは護国神社である。

Img_5855  幕府の許可を得て彦根城の造営を開始した彦根城であるが、内堀、中堀、外堀の内、既に1950年までにマラリア撲滅という衛生的な目的から外堀が埋められてしまい、今は中堀、内堀だけを残すのみとなっている。実は1906年から中堀の一部を用いて滋賀県水産試験場の鯉稚魚放流が行われ、今に至る。写真には中堀の中に立て札が立てられているが、釣り禁止を示すもので、その周りには主というべきかかなり大きな鯉が泳いでいた。

Img_5864  二の丸佐和口多聞櫓、重要文化財指定を受けているものである。

 井伊直孝の第二期築城工事に際して建築されたものであるが1767年に火災により焼失し1769年から1771年にかけて再建されたものである。

 まさに彦根城の入り口という風格を漂わせているが、この向こうに自動車駐車場がある為、あまりうっとりとみていると轢かれるので要注意である。

Img_5866  向かって右側の建築物は明治初期に陸軍省により取り壊されたものの、明治維新に至るまでの開国の決断を下した江戸幕府大老井伊直弼の再評価の機運が高まり、桜田門外の変から百周年にあたる1960年に再建されたものである。

 なお、石垣自体は建築当時のものが維持されている。やはり実戦を想定した城ということもあり、銃眼が設けられている。

Img_5870  いよいよ彦根城に入る。

 新日本観光地百選の一つとして琵琶湖八景「月明彦根の古城」として知られる彦根城であるが、内堀までの道路は無料公開されており、この先が有料である。500円であるが、博物館の入場料を合わせ900円のコースもある。イベントの関係もあり修理されているところや使うことの出来ない駐車場もあるので、注意が必要である。

Img_5877  彦根城天守閣に登る道は四箇所あるとされるが、そもそも城郭の石段は攻城戦に際して突撃破砕線の構築を目的とするものが多く、必然的に段差などが不規則であったり、角度や斜面が急変するものもあるという。小生の感覚では天守閣内部の方が急であったこともあり、この石段はPC持参の小生にとっても厳しいものではなかったが、名古屋城と異なりエレベータはない。ご老体には堪えている、という感じの方々も散見した。

Img_5884  天秤櫓、これも重要文化財指定を受けている。

 豊臣秀吉が建築した長浜城大手門を移築したものであると伝えられ、丁度天秤のような形状をしている為この名前がつけられたとされる。1854年に石垣の大修理が行われており、これにより東西の石垣の形状がやや異なっているという。なお、写真の橋梁は木造で、有事の際には焼却し敵の侵入を阻止するという。

Img_5888  天秤櫓を越えて更に天守閣への石段を進む。石段の間隔が最初に挙げた写真と異なるのがお解かりいただけるだろうか。

 なお、写真撮影のたびにこの時期の日照不足から生じる淡い写りと枯れた木々には閉口してしまうが、この彦根城は桜の名所であり梅の名所である。もう間もなく、この城は花々により美しく彩られることになる。まあ、暑い夏季は撮影への労力に閉口するのだが。

Img_5889  太鼓櫓、天守閣に至るまでの最後の櫓であり、これもやはり重要文化財指定を受けている。

 この太鼓櫓という呼称は、かつてここに太鼓が置かれ、入城者などを場内に知らせたことに端を発するとされる。ここからは彦根市内を望見出来る。そしてこの櫓を越えるといよいよ天守閣が目に入る。この櫓の内部は現在一般公開されており、全国の城郭についての写真展示などが行われている。

Img_5936  彦根城天守閣。

 国宝指定を受けている。

 天守閣は1606年に完成したもので、大津城の天守閣を移築したものといわれている。一般に公開されており、天守閣からは琵琶湖から長浜や大津、琵琶湖の島々などを望見する事ができる、筈なのだが当日はやや靄がかかっていたのが残念であった。

Img_5951  天守閣を別方向から見たもの。

 彦根城の石垣は“ごぼう積み”と呼ばれる彦根城独自のもので、一見粗雑に見えるものの頑丈なつくりであるとされている。

 また、天守閣は規模こそ他の城郭と比べ、やや小さいものの屋根の組み合わせが巧みであり、この独特な配置の部分が彦根城の特色といわれている。

Img_5944  天守閣と石垣を入れつつ、広大な琵琶湖の眺望、彦根城は広大であり、その一周は現行の中掘だけでも4kmに達する。

 この他に天守閣内部や庭園である玄宮園などの撮影も行ったが、これを掲載すると更に長くなってしまう為、掲載は次回以降にお伝えしたい、お楽しみに。

HARUNA

(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)

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岐阜城 織田信長、天下布武への夢

2007-02-22 22:00:16 | 写真

■山頂の天守閣 岐阜城

 岐阜城は、鎌倉時代の1201年、鎌倉幕府の執事、二階堂山城守行政が東海地方の交通の要衝を押さえるべく、ここに砦を築いたとされるのが始まりとされる。

Img_5725  しかし、岐阜城が日本史において大きく取り上げられるのは、蝮の頃からである。斉藤道三が稲葉山城(現在の岐阜城)に入城したのが1539年であるが、その孫にあたる斉藤龍輿が織田信長との戦いに敗れると、1567年、織田信長は稲葉山城を岐阜城と改め、入城。その後、安土においても行う楽市楽座を拓き、西洋文化を保護したが、ポルトガルの宣教師であるルイスフロイスにより岐阜城は遠く西洋にも伝えられるようになったという。

 岐阜城は金華山の山頂にあり、その姿は遠く名古屋からも望見出来る(名古屋城から見えた)。山城ということからも解るように、その山道は限られていることから文字通り難攻不落とされ、実戦性の高さからも“天下布武”という織田信長の野望を最も端的に示した城郭ともいえる。

Img_5703  岐阜城へは、岐阜駅から徒歩で30分ほどの岐阜公園を基点とし、徒歩でも金華山までは一時間ほどとのことであるが、近傍の山道が整備中とのことで、この他荷物もあった為、最も手軽なロープウェイを用いて登った。岐阜公園から運行しているロープウェイは往復1050円とのことであるが、下りは30~40分とのことで、片道だけ購入することも出来るという。ちなみに片道の場合は600円である(阪急で河原町~三宮間が600円ですな)。

Img_5720  山頂まで五分とかからず到着する。金華山は300㍍強の山であるが、途中見える岩肌はその地質を思わせ、斜面も急である。ロープウェイ終点から岐阜城天守閣までは七分と書かれていたが、幾つかの門を経て岐阜城天守閣の見えるところにたどり着く。写真では銃眼を穿つ白壁が門を囲んでいるが、実際の岐阜城はどうであったのだろうか。実際は、というのも、歴史では1600年の関ヶ原の戦いにおいて城主織田秀信が西軍についたことで攻撃され、福島正則、池田輝政の攻撃により落城している。

Img_5819  1601年、岐阜城は廃城ということになり、天守閣や櫓は取り壊されて加納城に移築されたという。加納とは、名鉄岐阜駅の次に加納駅というのがあり、その近さを感じさせるが、茶所駅勾配を曲がる列車や名鉄岐阜を出ての勾配を曲がるパノラマカーの撮影スポットとして有名、城下町として栄えた街並との事である(ちなみに、加納城跡は戦後一時期、自衛隊の分屯地となり、第十混成団隷下の無反動砲小隊などが駐屯していたらしい)。

Img_5806  廃城となってから、江戸時代には金華山の山頂には城郭は無かったが、明治時代に入ってより再び金華山に天守閣をとの機運が高まり、1910年に木造の模擬天守閣が建築された。しかし、1943年に火災で焼失してしまった。1956年に市民の熱意に動かされる形で浄財が集まり、安土桃山時代の天守閣を模した現在の三層四階の天守閣が再建され、1997年には大改修を行い今に至る。したがって、城郭以外の様々な建造物は織田信長の時代とは大きく異なっていることもあり、興味は尽きない。

Img_5731  岐阜城天守閣より名古屋方面を見る、逆光である。

 名古屋城から岐阜城が見えた以上、ここからも名古屋駅周辺や名古屋城、テレビ塔などが見えるはずである。恐らく逆光の時間帯を除いた早朝や夕刻には見えるはずである。ロープウェイの運行時間外においても登山は自由であり、名古屋の夜景なども天候次第では望見出来るであろう。

Img_5751  方向を変えて岐阜基地。案外近いのが解る。55㍉広角レンズであってもこの通りであり、トリミングすれば滑走路脇に待機する消防車なども確認できた。300㍉望遠の持ち合わせが無かったので空中給油機などの大型機は此処から見えるであろう、C-Xの格納庫もしっかりと確認できた。500㍉望遠があれば、かなり写るのではなかろうか。航空祭予行などでは、スモークなどが映えるブルーインパルスの飛行展示をここから撮影するというのも一興かもしれない。

Img_5746  方向を変えて長良川を見る。そのふもとでは県警航空隊のベル212が訓練を展開していた。

 長良川には様々な橋梁が掛けられているが、手前から三つ目が鉄道ファンの聖地の一つ、名古屋鉄道岐阜市内線が走っていた橋である。大正時代の510形が2000年まで運行されていたということで、それ以前には同じく大正時代の2320形が運行されていた黒野線などがあった。

Img_5833  山頂には展望レストランやリス園がある。岐阜城天守閣の入場券は200円であったが、中には様々な展示品があり興味は尽きないが時間は尽きる、再びロープウェイにて下山、聳える天守閣の威容を望む。岐阜といえば、航空の街(かつては繊維の街)との印象もあるが、こうした名所もあると認識を新たにした。

HARUNA

(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)

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ロングボウレーダー非搭載型による対戦車ヘリ隊充足案

2007-02-21 17:43:53 | 防衛・安全保障

■第四世代戦闘ヘリ

 明野駐屯地において現在試験中のAH-64D戦闘ヘリコプターであるが、初年度の二機144億円という調達価格の高さからその導入数は伸び悩むのではないかとの危惧が当初から識者の間ではささやかれていた。

Img_0201  AH-64Dは、武装を施した戦闘ヘリコプターでは第四世代に含まれる機体であり、第三世代に求められた対戦車攻撃を有しつつ高度な自衛能力を有するものに加え、情報収集の拠点として情報RMA型の地上戦闘を担保する航空機であり、単なる火力拠点として以上のものを有することに狙いがある。その為には、ローター部分上部のロングボウレーダーを駆使し、目標の把握と協同部隊が有する特科火力への目標誘導、通信中継、脅威排除という任務を受け持つものである。時には指揮官の目として、索敵、偵察任務にあたり、時には火力を発揮して脅威の排除にあたり、場合によっては早期警戒機のような用途にも用いうる場合も想定される。

Img_3280  当初、AH-64Aが米陸軍において運用を開始した時点では、敵味方の識別限界が2000㍍程度であり、最大射程が8000㍍に達するヘルファイア対戦車ミサイルを運用する上では、観測ヘリコプターの支援が不可欠であり、米陸軍ではOH-58が索敵やレーザー照射などの支援を行った。陸上自衛隊でも現行のOH-1観測ヘリコプターをAH-64Dの支援に充当する計画であったが、ロングボウレーダーの方が索敵能力が高いということもあり、また、デジタルデータの常時送受信機能が限られているOH-1では、発見した目標情報を即座にデータリンクする能力が限られているとの問題があった。

Img_3294  その為、現在、川崎重工を中心としてOH-1に対するレーダー運用能力の付与に関する試験が展開中であるという。これにより、少なくとも観測ヘリよりも戦闘ヘリの砲が索敵能力に優れているという状況をある程度脱却できるのではないかといわれている。現在、スタブウイングに搭載されているレーダーであるが、将来的には別の場所に移される可能性もあり、例えばローター上部に搭載することで、ローター基部に既に標準装備されている光学機器と併せ、より高度な索敵能力をOH-1が獲得する可能性も期待できる。特に、ミリ波レーダーで得た目標情報を介して、更に光学情報などにより精度を高めることは、近年の陸上戦闘においてその発生度合いが高まる誤爆の防止にも寄与するものであろう。

Img_0381  さて、二機144億円であったが、他の年度では1機で103億円など、価格の計算が合わないものがあり、初度装備品や整備器具の価格を含めても相当な開きがあることから、ロングボウレーダー搭載型、非搭載型では少なからず価格に開きがあることを意味しているように考える。この場合、無論、ロングボウレーダーを搭載した型の方が生存性は高く、任務遂行能力も高く維持できるといえるのだが、後日装備も可能なロングボウレーダーの担う能力を応急的にOH-1に充当させ、まず第一に充分な数を揃えることで5.5個対戦車ヘリ隊の5.5個戦闘ヘリ隊への移行に重点を置く必要性を挙げたい。その事由としては、各方面隊に同様に航空攻撃能力が無ければ陸上防衛能力に地域的差異生じる為である。

Img_3268  米軍に倣えば一個飛行隊12機で編成される戦闘ヘリ隊は、5.5個の所要機数が60機である、しかし、中央即応集団所要分や場合によってはこの他にも所要分があるかもしれない。これには、その用途の特殊性からロングボウレーダーの搭載が望ましいものの集中配備という方式があり、他方で従来の対戦車戦闘に重点を置く方面隊隷下の戦闘ヘリ隊には、仮にOH-1が高度なレーダー索敵能力を有することが出来るならば、AH-64Dは質よりも第一に数的充実を図るという選択肢もありうるのではなかろうか。

HARUNA

(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり無断転載は厳に禁じる)

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現代陸上戦闘におけるオートバイの位置づけ

2007-02-20 18:31:45 | 先端軍事テクノロジー

■オートバイ斥候

陸上自衛隊では、その発足の頃よりオートバイの運用を行っており、各国陸軍からは既に連絡用途以外には軽輸送など限られた部門でしか運用されていないオートバイも、斥候用途として陸上自衛隊が展開する各種作戦などに従事している。

Img_2112  小型で文字通り小回りが利き、軽快な運動性を誇るオートバイ斥候は、極めて突破困難な地形も迅速に踏破し、部隊の情報収集に従事するもので、大型車輌ではエンジンから発する赤外線や走行時の騒音などにより位置が特定されやすい為、オートバイの利点を最大限に活かす事が出来る。ちなみに米軍のM-3騎兵戦闘車や英軍のスコーピオン、若しくは陸上自衛隊の第七偵察隊が運用する74式戦車のような戦闘車両を用いて、戦闘を展開することでその反応を観測することが偵察、敵の有無を隠密裏に探るのが斥候である。

Img_0550_1  オートバイは機甲科の偵察隊斥候小隊のみならず、戦車大隊や普通科連隊本部管理中隊の情報小隊などにも配備され運用されている。情報小隊とは、小規模な斥候などを通じて自隊の行動に際しての情報収集を行うものであるが、装備などは基本的に同じものが用いられているようである。他方で、自衛用の装備は携帯する小銃のみであり、基本的に機動力を最大の武器とし、やむをえない場合を除いては戦闘を極力回避するという運用を行うようで、その為にオフロードバイクの性能を最大限に活かした訓練を行っている。

Img_2445  偵察隊の訓練は、屈曲狭小路通過時のバランスコントロールを培う八の字、逆ハンドル時の対応を期したステップドリフト、重心移動を克服するシーソー、連続段差昇降を可能とする丸太越、一本橋による低速走行時のバランスコントロール、階段でのスピードコントロール、斜面での方向転換能力を培うキャンバー走行、丸太橋、アクセルターンを会得し、最後には林内走行を習得し、これを如何に短時間でこなせるかを訓練する。こうして、最悪の地形においても最善の判断を反射的に下せる能力を体で覚えるという。

Img_8542  こうした任務に対応するべく、1950年代にホンダドリームより始まったオートバイは、幾多の装備近代化を経て現在、旧型のホンダXLR-250と新型のカワサキKLX-250Rが運用されている。旧型新型といっても、民生品のオフロードバイクに対して無線機設置用の部分を追加し、バーなどを追加した自衛隊仕様であることから、74式戦車と90式戦車のような抜本的な性能変化があるわけではなく、構造寿命に伴う装備変更というかたちであるという。

Img_3725  しかし、軍用のオートバイとは斥候用途というのは稀有であり、連絡用途、軽輸送などに用いられることが多いという。米軍も冷戦時代にM-60A3戦車の後部にオートバイを搭載し、指揮官連絡用途に用いようと検討したことがあり、また、スウェーデンでは弾薬輸送や負傷者搬送など、広範に用いられている。こうした用途には、操作性が容易で、特殊な機材が無くとも整備が行える車輌が選定されている。無論、陸上自衛隊の偵察隊のような訓練も広範に行われているわけではない為、能力に限りはあるが。

Img_2021_1_1  訓練展示や総合火力演習の度に、その高い技量には驚かされるものがあるが、斥候という任務自体、競合地域(彼我の勢力が混在している地域)に対して、小規模の部隊が浸透することであるから、多分に特殊作戦部隊としての性格を有するものであり、そうした任務に対応する為に、前述したような訓練が必要であり、部隊としても厳しい訓練により洗練された人員の確保が必要である。いわばオートバイは熟達した能力を発揮する装備であるのだが、斥候用途以外のオートバイ用途は必ずしもこの限りではないように思えるのである。

Img_2520  地皺の多い日本列島においてはオートバイ斥候の有する能力は高く評価されるといえる。これは、閉所戦闘における弾薬や医薬品などの緊急輸送にも用いられるものであるが、他方で、操作性の高いオートバイを更に広範に配備し、少数精鋭の偵察部隊や情報小隊のみならず、部隊の柔軟な運用を期するオートバイ運用も考えられるのではないだろうか。

HARUNA

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改正銃刀法準空気銃猶予期間 間もなく終了

2007-02-19 14:50:04 | コラム

■2月21日より実施

 改造エアソフトガンによる傷害事件や、特に2005年に頻発した自動車に対する違法改造エアソフトガンを用いた狙撃事件への対応として施行された改正銃刀法の猶予期間が間もなく終了する。

Img_5647  改正銃刀法では1㌢平方に対して3.5ジュール以上、6㍉BB弾に換算した場合で0.989ジュール以上のものが準空気銃扱いとなり、2月21日以降にこの準空気銃を所持することは銃刀法違反となるもので、法制定時に販売されていた一部のエアソフトガンもこの規定値を超えていることから、メーカーによる無償整備や減圧器具給付などが行われている。しかし、電動ガン普及以前に広範に使用されていたJACやアサヒ社製のガスガンはガス供給方式によっては規定値を超えており、この点が問題であった。

Img_5653  この問題に対する確たる回答を得るべく、小生は本日、アタッシュケースに当該物を収納し、所轄警察署生活安全課に赴いた。上記の二社製品などは、一部に外部からのタンクから高圧空気を補充して発射する方式のものがあり、これが準空気銃相当の威力を発揮するものだが、この点は警察官の方もご存知で、緊張する小生(なにしろ玩具とはいえ、UZIをアタッシュケースに収納し警察署に行くのだから)に対して、様々なことをお教えいただいた。

Img_5654  JACやアサヒ社製のものについては、高圧空気を補充する部分のパッキンが老朽化し、使用できないようになっている可能性を挙げた上で、どうしても気になる場合は廃棄していただくか、もしくは発射機能を喪失する程度に内部を破壊するという事を提示された。ここで、発射機能の喪失というものの定義を聞いたところ、具体的には銃口部分に鉛を詰めてしまうか、若しくは外部からの高圧空気供給部分を変形させ無力化することを例示していただいた。

Img_5655  鉛は釣用錘を溶かすのも面倒であるし、銃身が樹脂製なので高温の鉛を流し込むのは逆に危険であるから、高圧空気補充部分を写真のように完全に変形させることで対応した。これならば金槌があれば完了である。写真のUZIは2000年にEという模型店で2000円で販売されていたものであるが、JACやアサヒからはFNCやAR-18、スターリングSMGなど貴重な価値をもつ製品も出されており、廃棄するに忍びないという方も見えようが、実際にはこの程度の変形により通気が不能となり、今後もコレクションに並べることが出来る。

Img_5663  マルシン社製MAXIシリーズは、固定スライド方式ガスガンとして、ガスが液化してしまいがちな冬季においても快調な作動性を発揮するエアソフトガンとして1998年ごろからシリーズの販売が始まり、価格も比較的安く、モデルガンメーカーであるマルシンならではの精巧なつくりから多くのファンを獲得している。しかし、一部で威力に1ジュールを超えるものがあるということから、メーカーは全力を挙げて対応を展開している。

Img_5657  MAXIが規定値以上の威力を発揮する可能性を知らされたのは先日、P220を購入した際に店員さんからお教え頂き、急ぎメーカーのホームページを検索したところ、なるほど、全てを改修対象としており、製品をメーカーに送るか(送料は会社側が負担)、自己取り付けと自己検速を行える方にはメーカーから減圧器具を送る旨が記載されていた。そこで早速メールを送ったところすぐに返事があり、数日後には減圧器具が到着した。

Img_5658  減圧器具は、写真の右下に写る三つの金属で、マガジン部分のガス噴射口に差し込む形で装着する。差し込むというものの、黒い金属棒に乗せる形で押し込むが中々入らない。全体重を掛けて押し込むが入らない。

 ここにいたり金槌を用意し小突いてみるが、やはり歯が立たず、思い切って振り上げ叩き込むと漸くマガジンに装着できた。ここまで強く押し込めば分解しても外れてしまう心配はない訳である。

Img_5660  右側が改修済のマガジン、左側が未改修のマガジンで、左側のマガジンを改修せず放置すれば銃刀法に触れてしまうのだが、写真のガス放出口の相違がわかるだろうか。

 器具を装着すればMAXIであっても、気温セ氏35度において銃口から0.75㍍点~1.25㍍間移動速度が毎秒99㍍以内で、0.989ジュール以内という規制値に合致するように計算されている。

Img_5661  物凄い音と共にBB弾を発射するMAXIを前のように撃てなくなるのは少々寂しい気持ちがするものの、三つ全ての改修を終了した。ダイハードのマクレーン刑事に憧れ、3ウェイホルスターとホルスターに標準装備のパウチ用の予備マガジンを含め三つ、CQB想定などではかなり重宝した、規定外値と聞いた際には廃棄も一瞬考えたMAXIであるが、メーカーの即応というべき対応に支えられ、再び小生のコレクションとして書架の一部分を飾ることとなった。

Img_5675  エアソフトガンと聞くだけで危険な印象をもたれている方も多いようだが、それはエアガン(空気銃)と混同されている為ではないだろうか、様々なメーカーから出されているエアソフトガンの大半は規定値内品であり、規定外品は例外を除いて減圧措置が採られている。規定の0.989ジュールであるが、某メーカーHPに掲載されていた内容を引用すると、軍用小銃は2000~3000ジュール、野球の投球は100~120ジュール、プロゴルファーのゴルフボールは80~110ジュール、プロテニスプレーヤーのサーブが50~80ジュール程度とのことで、使い方さえ誤らなければ0.989ジュールとは過剰な危険を感じる必要もないようにも感じるのは小生だけであろうか。

HARUNA

(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)

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