散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

「効率から悪へ」の陳腐さ(3)~stap細胞事件における「演出とホラ」

2014年04月09日 | 現代社会
今日の小保方さんの記者会見の記事を読んで驚くと共に成る程とも感じた。それと共に、またまた、ハンナ・アーレントによるアイヒマン評を想い起こした。

先ず、「STAP細胞は200回以上作製に成功している。」と、これまでの研究成果を強調したこと。200万回実験して200回なのか、200回やって200回なのか、それを明らかにしなければ、話は完結しない。しかし、その発想がない処に「ホラ」らしさが窺われる。

しかし、問題はそこではない。一回でも作成に成功したか否かが問われているのだ。一方で、200回成功したデータは、単にネイチャーへ論文投稿されただけなのか?知見が残らないはずはない。だが、エビデンスは記者会見で開示されなかった。ここにも「ホラ」の影が付きまとう。

また、小保方氏は会見で、理研の調査委員会が「実験ノートが3年間で2冊しかない」としたことに対しても「実際はそんなことはない。もっと存在する。調査委から求められてその場で提出したのが2冊だったということ」と述べた。

それなら、少なくとも理研に提出すべきだ。これも口頭のことで、現実のノートは幻のままだ。また、提出された3冊のノートも記載が十分ではないとの見解が理研の調査委員会から報告されている。

しかし、これらの発言は弁護士によって計算され、計画された一連の演出の一コマのように思える。すなわち、成功回数も、実験ノートの一部提出も、理研の調査が不十分であることを示しているからだ。

Stap細胞の存在を実証することはできない。であれば、理研側の処置を問題視して、その内容の不完全性を徹底的に暴き、再審査に持ち込んで時間を稼ぐことがその作戦の中核にある。

それは,最初の「謝罪」から最後の「お涙頂戴」に至るまで一貫している。手続問題に視点を逸らせば、本質問題を回避することができる。その意味では、昨日の理研への不服申立から容易に想定されていた内容の記者会見では、あった。

また、筆者が驚いたことは、冒頭に書いたように、アーレントによるアイヒマン評とぴったり合う処が出てきたことだ。アーレントは「エルサレムのアイヒマン」(みすず書房1968年)において、次のように言う。

「ホラをふくのが、アイヒマンが身を滅ぼした悪徳であり…遂には彼が捕られる原因になったのも、ホラをふかずにいられない彼の性癖であった。」

何か今日の記者会見を予見するような言葉だ。結局、無思想性が悪と結びつくときに起こり得る現象がホラのように思われる。