Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

パーヴォ・ヤルヴィ/N響

2016年02月08日 | 音楽
 パーヴォ・ヤルヴィが2015年9月にN響の首席指揮者に就任してからまだ1年にも満たないが、もうすでにフル稼働の状態に入っている。明確なヴィジョンを持った能力のある指揮者とはそういうものかと感心する。

 今回1曲目はマーラーの「亡き子をしのぶ歌」。バリトン独唱はマティアス・ゲルネ。いかにもドイツ人らしい逞しい体つきだ。第1曲の「いま太陽は輝き昇る」の第2節の途中の「太陽は、太陽は」のところで、グッと力を入れると、太い声が身体の底から湧き起った。存在感のある声。子供を亡くした父親の嘆きが伝わってくる。

 オーケストラは12型。音に透明感がある。曲の隅々まで見通せるような透明感。一点の曇りもない演奏だ。しかもテンポの急激な変化にも敏感だ。

 第5曲(終曲)の「こんな嵐に」の後半の、音楽が穏やかに収まる部分で、チェレスタが明瞭に聴こえた。まるで「大地の歌」の終曲の「告別」の終わり方のようだった。「告別」のあのチェレスタの原形がここにあるのかと思った。それとも、わたしが今まで気付かなかっただけで、これは皆さん周知のことなのだろうか。

 2曲目はブルックナーの交響曲第5番。弦は16型に増えたが、木管はマーラーが3管編成だったのに対して、ブルックナーでは2管編成へと縮小する。両者の色彩感の違いが見えるようで面白い。打楽器もマーラーでは多数使われていたが、ブルックナーではティンパニだけ。

 第1楽章の冒頭、抑えた弦の音、そして突如鳴り響く金管のコラール。緊張感のある透明な音はマーラーのときと変わらない。序奏が終わって主部に入ってからも、オーケストラの音は膨張しない。音もリズムも、強靭ではあるが、重くない。この楽章は、演奏によっては(全休止をはさみながら)巨大なブロックを積み上げるような音楽になるが、パーヴォ/N響だと音楽の流れが明瞭で、それを見失うことがない。

 第2楽章と第3楽章は続けて演奏された。すると、大きな流れの前半(第2楽章)と後半(第3楽章)のような捉え方ができ、‘静’と‘動’あるいは‘聖’と‘俗’という明快な対比が感じられた。両楽章の性格付けの一つの問題提起かもしれない。

 第4楽章の最後まで音が混濁しなかった。コ―ダの部分では危うさを感じたが、持ちこたえた。N響の‘一流の証明’だと思う。演奏能力の極限まで振り切れた演奏。その意味でスリルがあった。
(2016.2.7.NHKホール)

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