後期ゴシック彫刻・市民運動・演劇教育

小学校大学教師体験から演劇教育の実践と理論、憲法九条を活かす市民運動の現在、後期ゴシック彫刻の魅力について語る。

〔569〕江古田映画祭(2023 第12回)のオープニング「原発をとめた裁判長」は掛け値なしに熱気あふれるものでした。

2023年02月27日 | 映画鑑賞


 福島原発事故の翌年から始まった江古田映画祭は今年で12回を数えました。主会場の武蔵大学とギャラリー古籐は至近距離にあります。東京練馬区の江古田駅(西武池袋線)から徒歩数分といったところです。私の実家からも近く、武蔵大学は子どもの頃の遊び場でした。
 ギャラリー古籐はけして大きな展示スペースとは言えませんが、第1回表現の不自由展を開催するなど、市民に寄り添った気骨あるギャラリーとして定評があります。お陰様で、第1回の福田緑写真展「リーメンシュナイダーを歩く」をここで開催させていただくことができました。





 さて、2月25日(土)、15日間の映画祭の初日として「原発をとめた裁判長 そして原発をとめる農家たち」の上映と当事者の元裁判長・樋口英明さんと映画監督・小原浩靖さんの講演がありました。
 午後1時からのオープニングイベントに間に合うように直前に会場に滑り込むと、武蔵大学の講義室(150名定員)がほぼ満席で、連れ合いとの2人分の座席を探すのも大変でした。横長の部屋で、スクリーンが3つ備え付けられていました。

 映画と樋口さん、小原さんの話は共になぜ原発を再稼働・新設してはいけないのか優しく話され、至極明快でした。地震大国日本で制御不能の原発は無用の長物どころか、自国に向けた原子爆弾とも言える危険な存在なのです。今回のイベントは原発の廃棄の論理を明確にしてくれ、頷いている人も多かったように思います。
 私も長年反原発運動に携わってきて、4年前に東海第2原発再稼働反対の請願を提出し、地元清瀬市議会で可決させましたが、さらに原発ゼロしかないと確信しました。

 会場には様々な署名や書籍などが所狭しと並んでいました。映画のパンフレットを購入し、お二人にサインをいただきました。
 多くの映画などのチラシに混ざって沖縄意見広告運動のそれがありました。なかなかチャンスがなく参加できなかったのですが、早速送金しました。



  江古田映画祭は始まったばかりです。

〔568〕コロナ禍の今だからこそ、誰でも参加できる紙上のデモ「市民意見広告運動」を応援しています。

2023年02月24日 | 市民運動
 5月3日(水)の憲法記念日に、新聞紙上で憲法九条改憲反対や平和を訴える意見広告を掲載する 「市民意見広告運動」を応援しています。事の発端は2015年の集団的自衛権強行採決に強い危機を感じてからでした。
 「市民意見広告運動」のチラシは請求すれば無料で何部でも送ってくれます。私は400部ぐらい送ってもらって、集会・駅頭行動の時など議会報告(ゆめ通信)と一緒に配布しています。残部は通信と一緒に地域で配ります。
  先日、「再度ご協力のお願い!」が送られてきましたので、同封されてきた「週刊金曜日」購読案内と共にご紹介します。






〔567〕清瀬市議会議員・ふせ由女(無所属、ひとり会派「共に生きる」)の議会報告「ゆめ通信」の最新号です。

2023年02月22日 | メール・便り・ミニコミ
 清瀬市議会議員2期目を終えようとしているふせ由女は年4回の議会ごとに議会報告「ゆめ通信」を発行してきました。8年間で本号は35号を数えます。このブログでは最新の2023年春号をお届けします。
 ブログでもお知らせした2月19日の白石孝さんの講演会はこのコロナ禍にもかかわらず40名近くの方に参集いただきました。マイナンバーカードや給食無償化の今日的課題に関心が高かった現れだと思います。
 それと共に、国民の声や国会の議論を聞く姿勢を持たない岸田内閣に対する危機感が会場に充満していたと司会をしながら感じました。コロナ禍やウクライナ危機を火事場泥棒的に「利用」しながらしれっと日本を戦争ができる国、原発再稼働新設に舵を切っています。
 子や孫の世代につけを残さない覚悟で、「叛逆老人」(鎌田慧さん造語)として駅頭活動や通信配布に勤しむ所存です。







◆撃ちてしやまん
  岸田内閣は、戦争にも原発にも痛みを感じていない

鎌田 慧(ルポライター)

 トルコ地震のテレビ中継で、瓦礫の下から引き出される子どもの姿を
みた。
 ウクライナからの映像も、ミサイルで破壊された集合住宅の残骸を映
しだしている。それに広島、長崎、東京など空襲後の映像が重なる。そ
の地獄を体験したひとたちはどんな気持ちでテレビをみているのだろうか。

 ミサイル防衛のため、と岸田内閣はミサイルを大量に買いつけようと
している。広島、長崎が一瞬にして破壊されたばかりか、福島でも大量
の放射能被害を受けたのに、さらにまた東海原発など老朽原発を稼働さ
せようとしている岸田内閣は、戦争にも原発にも痛みを感じていない。

 このところ、気が重いのは内閣独走、戦争と原発に前のめり「撃ちて
しやまん」と突進しているからだ。「リベラル派首相は大転向し、諌言(
かんげん)する大臣がひとりも居ない。自民党の退廃だ。

 プーチンの戦争は反ナチスが大義名分。かつて「日本の生命線」とし
て満州を建国した侵略とおなじだ。
 今は「台湾有事は日本有事」と沖縄の南西諸島まで、米国にそそのか
されミサイルを並べ立て、軍備の大増強を図っている。「武力の行使は
放棄する」が平和憲法の約束であり、矜持だ。

 かつて「愛国心」を吹き込まれ若者たちはみな死を覚悟した。が、上
陸した米兵がジープからチューインガムを投げると、争って拾った苦い
記憶がある。 (2月14日「東京新聞」「本音のコラム」より)

◆安全性と多数決
  「原子力規制委員会」原発「60年超の運転」容認

鎌田 慧(ルポライター)

 広島、長崎と二度にわたる核爆弾の被爆とビキニ環礁実験による漁船
の被ばく。世界史的な被害を受けてなお、日本が世界有数の核発電・原
発の設置国になったのは、「クリーンエネルギー」とする政府の政策
と、福井県高浜町で暴露された、電力会社のカネに糸目をつけぬ買収
攻勢があった。

 いま岸田内閣がGX、「グリーン」への転換などと称して原発60年超
の運転、新増設など国の未来を危険に晒す政策を打ちだしたのは、福島
原発事故から12年、財界、電力会社から慫慂(しょうよう)されての
ことであろう。

 かつて原発を監督するのは「原子力安全・保安院」だった。が、原発
推進の経済産業省に包摂されていて機能せず「ピッチャーとアンパイア
がおなじ人格」だった。
 それで環境省外局の「原子力規制委員会」に変えられ、「原子力規制
庁」が事務方を担うことになった。ところが規制庁はいまや長官、次長
ともに元経産官僚が取って代わって、元の木阿弥(もくあみ)。

 規制委も「60年超の運転」の閣議決定をそのまま容認した。運転期間
を決めるのは推進側の判断で規制委は関わらない、との意見にたいし
て、石渡明委員は「60年もすると部品が調達できない」と発言、「科学
的、技術的な新知見に基づくものではない。安全側への改変とも言えな
い。反対だ」と批判した。それでも多数決で決定した。
(2月21日「東京新聞」朝刊「本音のコラム」より)

〔566〕ハンセン病をテーマにした児童文学『おじいさんの手』(菅龍一著、太郎次郎社)を36年ぶりに読み直しました。

2023年02月19日 | 図書案内
  前々ブログで矢部顕さんが「北條民雄と光岡良二」を書いてくださったことに刺激されて、久しぶりに本棚から『おじいさんの手』(菅龍一著、太郎次郎社)を取り出し再読しました。
 菅龍一さんは団塊の世代の我々にとっては村田栄一さんと並んで憧れの教師でした。村田さんは小学校、菅さんは定時制高校教師、奇しくも同じ川崎市内での活躍・活動が私にはまぶしく輝いていたのでした。
 菅さんの主著はなんといっても『教育の原型を求めて』(朝日新聞社)でしょう。親しく交流させていただくようになったのは奥地圭子さんを通じてだったでしょうか。我々夫婦の共同ミニコミ誌『啓』を送る度に、真っ先に感想のはがきを届けてくれるのでした。
 そんなある日、思いもかけず、『善財童子ものがたり』(菅龍一著、偕成社)の3部作が届いたのでした。雑誌『ひと』に連載されていたものでした。2人で恐縮することしきりでした。
 さらに送っていただいたのが『おじいさんの手』(菅龍一著、太郎次郎社)でした。私が知る唯一のハンセン病を主題にした児童文学でした。菅さんはハンセン病については徳永進さんの『死の中の笑み』や『隔離』(いずれも、ゆるみ出版社)によって目を開かせられたとしています。





 さて『おじいさんの手』に話を戻しましょう。
 川崎で登校拒否児になった香織は、お母さんの郷里(おそらく鳥取)のおばあさんの元に預けられます。香織は戦争で死んだとされているおじいさんの消息を徐々に明らかにしていきます。おじいさんは現在の国立療養所多摩全生園(東京・東村山市)で教師として働いていたという設定になっているので、作者の菅さんは矢部顕さんの教えてくれた光岡良二をイメージしていたのでしょうか。おじいさんは全生園の子どもの数が少なくなり郷里に帰ることができず、国立ハンセン病療養所・長島愛生圓に入所したという話になっています。そこで香織たちはおじいさんと会い、おじいさんは郷里を訪ねることになるのでした。生きて再会を果たしたおじいさんとおばあさん、はたしておじいさんは郷里に留まるのでしょうか。
 当たり前のことですが、『おじいさんの手』には菅さんの実体験が色濃く反映されています。香織のお母さんが川崎の定時制高校で学んでいたり、鳥取の若者たちの劇団が登場したりします。菅さんは若いときに岸田戯曲賞を受賞しています。さらに、京都大学の物理学科出身ということで、科学の目が物語全体に行き届いています。

 菅さんのご自宅にNさんとお線香をあげに伺ったのは何時のことだったでしょうか。

〔565〕平野恵嗣さんの『水俣を伝えたジャーナリストたち』(岩波書店)『もの言う技術者たち』(太郎次郎社エディタス)を読み始めています。

2023年02月13日 | 図書案内
 先日実に楽しい時間を過ごすことができました。平野泉・平野恵嗣ご夫妻が我が家にみえたのです。
 お二人と出会うきっかけは私たち夫婦のミニコミ「啓」でした。
 丸山尚さんが膨大なミニコミを収集し設立した住民図書館が埼玉大学に移管され、さらに立教大学に移され現在に到っていますが、「啓」(100号で終刊)も一貫して送り続け、保管されています。
 「啓」に記載されていた緑のリーメンシュナイダーに興味を持って好意的に反応してくださったのが平野泉さんでした。泉さんは埼玉大学から現在立教大学社会共生センターでアーキビストとして活躍されています。多種多様で膨大な数のミニコミなどの保管、貸し出しといったお仕事になるのでしょうか。様々な講演会などの企画もされています。
 最新のニューズレターの1,4面を紹介します。



 泉さんにはリーメンシュナイダー写真集出版でもいろいろとお世話になっています。1000冊完売なった第Ⅰ巻ではアマチュアカメラマン、ヨハネス・ペッチの詩文章を翻訳してくれました。Ⅱ巻以降もドイツ語の解釈についてしばしば緑は教えを請うています。

 恵嗣さんは共同通信社の記者で、最新のご著書2冊をいただきました。ここではとりあえず本の紹介だけしておきます。感想は後日。

 様々な話題のなかで一番驚いたのは、かつてお二人はレンタカーでロマンチック街道をめぐり、なんとクレークリンゲンのマリア祭壇をご覧になっているのです。どうやら1990年代の早い時期のことのようなのです。私たちがリーメンシュナイダーに邂逅したのは1999年、ミュンヘンのバイエルン国立博物館でした。年齢では一回り下のお二人ですが、リーメンシュナイダーでは先輩格でした。



◆『水俣を伝えたジャーナリストたち』平野恵嗣、岩波書店、2017/06/07、214頁2,090円
(岩波書店HPより)
*公式発見から60年余,社会に尽きせぬ影響を与えている水俣病問題は,どのように伝えられてきたのか.桑原史成,ユージン・スミス,石川武志,大治浩之輔,高峰武,井上佳子ら,マスメディアの一員として,あるいはフリーランスの立場で取材・報道してきたひとびとの軌跡から,今につながる教訓と志を描き出す.

はじめに

Ⅰ 報道のはじまり
 1 「奇病」から「水俣病」に
 2 「傍観者」として半世紀――写真家・桑原史成

Ⅱ 報道と支援と
 1 松岡洋之助――「告発する会」行動隊長
 2 宮澤信雄――終わったと思っていた水俣へ
 3 大治浩之輔――調査報道の先駆者
 4 久野啓介――水俣が映し出す戦後

Ⅲ 写真と映像の力
 1 夫婦と助手の水俣取材班――アイリーン・美緒子・スミス、石川武志
 2 もう一人の写真家――岡村昭彦
 3 高木隆太郎――プロデューサーvs.監督でけんかも
 4 小池征人――有名監督の下で働く快楽

Ⅳ 現地で向き合う
 1 高峰武――「自分で考える」
 2 増子義久――炭鉱、水俣から戦後補償まで
 3 村上雅通――水俣病を避けた取材者
 4 井上佳子――アナウンサーから記者、ディレクターに

おわりに

「水俣病と報道」関連年表
参考文献

●平野恵嗣(ひらの けいじ)
1962年生まれ.86年に上智大学文学部英文学科を卒業,共同通信社に入社.水戸,釧路,札幌編集部を経て,96年より国際局海外部記者.水俣のほか,死刑制度,帝銀事件,冤罪,「慰安婦」,LGBTなどの問題について英文記事を発信してきた.94〜95年,米コロンビア大学ジャーナリズム・スクール研究員(モービル・フェロー).マイノリティ・グループの子どもの教育現場を取材した.



◆『もの言う技術者たち』「現代技術史研究会」の七十年 平野恵嗣 2023年01月発行 四六判 248ページ、本体2200円+税(太郎次郎社エディタスHPより)
●内容
大量生産と大量消費につきすすんだ戦後。産業や国家からの要求にこたえ、効率化と「進歩」を追求する技術者は、その負の側面も日々目撃することになる。続発する公害、人間の疎外と管理、経済格差の拡大⋯⋯。経済発展に沸く時代のなか、みずから手がける技術の功罪を問い、「人間のための技術」を論じあう場があった。
専門性や組織の壁を越え、思想の地下茎をつないだ「現代技術史研究会」の実像を、メンバーの歩みとともに語る。

●目次
プロローグ 技術者として声をあげる

第1章 公害と対峙する
 現代技術史研究会の誕生──星野芳郎
 現技史研が本格始動
 水俣病を追う技術者──宇井純
 水俣病の真相に迫る
 「公害原論」から沖縄へ

第2章 真の技術のあり方を求めて
 九州で現技史研と出会う──佐伯康治
 花形となったプラスチック産業
 「公害は技術のゆがみの最大のもの」
 ネガティブ・フローシート
 大量生産・大量消費を批判
 「地味な勉強を」と入会──井上駿
 玄人と素人の距離を縮める議論
 農業試験場の実態を告発
 『日本の技術者』刊行
 金属材料の研究者として──井野博満
 「合理化の担い手」となる技術者
 「技術者の権利宣言」をめぐって
 鑑定書の欠陥を統計で暴く

第3章 技術を生かし、社会を支える
 「ラジオ少年」から技術者に──松原弘
 分業化が進む電算システム開発
 ドライバーたちの訴訟を技術で支援
 技術者をとりまく環境の変化
 技術者の仕事の変容
 「インドネシア仕様」のNGO活動家──田中直
 講義よりもラグビー
 石油会社で直面したコンピューター問題
 連続ゼミナールを市民と開く
 アジアで出会った資源再生産業
 会社員と同時にNGO活動家
 ヤシ繊維でつくった排水処理装置

第4章 「人間のための科学技術」をめざす
 思想性を大事に──猪平進
 IC研究で企業の実力を痛感
 現技史研の世代交代
 忠誠心で評価される技術者たち
 転職した大学にも淘汰の波が
 理工学部からジャーナリストに──天笠啓祐
 「超低空飛行」の雑誌とともに
 問いつづけた『技術と人間』
 携帯、スマホを拒絶
 技術の全体像と将来図をもちよって

第5章 原子力と向きあう
 震災、原発事故への思い
 母の足跡をなぞる──坂田雅子
 ベトナム帰還兵との暮らし
 枯葉剤を追って
 ふたたびベトナムへ
 核を追い、マーシャルからドイツへ
 憧れのエンジニアに──廣瀬峰夫
 現技史研に鍛えられる
 「ものづくり」の現場で考えつづける
 模型少年が技術者に──後藤政志
 事故をとおして技術を見る
 技術者としての転換期
 原発の技術者として
 原発銀座を歩く
 脱原発を求める僧侶と
 「小さな私たち」の「小さな一歩」

あとがき
「現代技術史研究会」関連資料
『技術史研究』創刊の辞/会則/年表

 *こんなビッグニュースが飛び込んできました! 平野さん、おめでとうございます。(2023年6月6日記)

◆『もの言う技術者たち』 著者の平野恵嗣さんが「日隅一雄・情報流通促進賞」の奨励賞を受賞(たろじろ通信 31号より)

『もの言う技術者たち』の著者・平野恵嗣さんが、「日隅一雄・情報流通促進賞」の奨励賞を受賞されました。本書の執筆活動を評価されての受賞です。
情報流通促進賞はジャーナリスト・弁護士として報道被害の救済、情報公開の推進と内部告発者の保護などの活動に力を尽くされ、2012年に没した日隅一雄さんの遺志を継承して創設された賞です。

〔564〕「100分de名著」『いのちの初夜』の北條民雄と友人の光岡良二にまつわる貴重な逸話を矢部顕さんに書き留めてもらいました。

2023年02月12日 | メール・便り・ミニコミ
●福田三津夫様
ハンセン病資料館の催し物案内を掲載していただきありがとうございます。
福田さんがブログで北條民雄の『すみれ』について書いていらっしゃるのを
みて、北條民雄の友人の光岡良二さんのことを思い出しました。
そのことを書きましたので添付します。
                         矢部 顕

◆福田三津夫さんへの手紙
「北條民雄と光岡良二」 

 福田三津夫さんは彼のブログ(2023.2.8.)で、北條民雄の『すみれ』について取り上げていらっしゃいました。
 つい最近のNHKのテレビ番組「100分de名著」で、北條民雄の『いのちの初夜』の関する放映がきっかけで、福田さんが書かれた文章が掲載されています。

 これを読んで思い出したことを記しておきたいと思い、北條民雄と友人の光岡良二について書きます。

●『いのちの初夜』(北條民雄著)
 ハンセン病をテーマにした小説や随筆を数多く残した北條民雄は、20歳のとき1934年(昭和9年)に全生病院(現・国立療養所多磨全生園)に入院しました。ハンセン病の症状が表れる中、何度も自殺を図ろうとしました。入院後の体験は、のちの彼の作品からうかがえます。
 ある時、作品を見てほしいと川端康成に手紙を書き、「拝見いたします」と返事をもらった。それから90通の手紙のやりとりが続いたといいます。いくつかの作品が文芸誌「文学界」に載るようになりました。芥川賞候補にもなった「いのちの初夜」は、「最初の一夜」と題したものを川端が「いのちの初夜」と改題したそうです。

●『寒風』(川端康成著) 
 川端康成が北條民雄の死について書いた『寒風』という短編があります。この作品は1937年の北條民雄の死から約10年経った終戦後に発表されました。主に、北條民雄という作家について、全生病院について、北條民雄の父親(作品上は母親)の来訪について書かれています。この作品には、川端康成から見た北條民雄(作品上は谷沢)と光岡良二(作品上は倉木)の友情に触れています。
 川端康成と光岡良二さんはずっと交流を保っていたようなので、北條民雄とその死を通してお互いに影響があったのでしょう。

●『すみれ』(北條民雄著)
 北條民雄が『すみれ』を書いたのは20歳の時です。1934年(昭和9年)の5月に全生病院に入院した彼は12月に書いているそうです。この童話は、全生病院の中にあった全生学舎の子どもたちのために、教師であった光岡良二の依頼によって書かれたと言われています。
 全生病院は国立療養所多磨全生園となり、全生学舎は東村山市立青葉小学校全生園分教室となりましたが、本校からの教師一人以外は光岡さんたちが教師を務めていらっしゃいました。(東京帝大文学部中退の小学校教師もめずらしい?)。私が学生時代、1960年代後半も、子どものハンセン病患者が療養所にいる時代で、私が訪問した時はソフトボールなどをして一緒に遊んだ記憶があります。(全生園分教室は1975年3月、子どもが卒業して閉鎖)
 また、私たちが建設した交流(むすび)の家が完成したことによって、その小学校の子どもたちが奈良への修学旅行が可能になり、奈良の寺院を案内したり、夜は寝る前に修学旅行の定番(?)枕投げ遊びをした記憶があります。

●『古代微笑 光岡良二歌集』(光岡良二著)(風林文庫 1968年)
私たちフレンズ国際労働キャンプ(FIWC)が取り組んでいたライ(当時の呼称)快復者社会復帰セミナーセンター・交流(むすび)家の建設では、建設初期に地元住民の反対運動があり、そして奈良市長の建設反対声明があったりしたなかで、光岡さんは当時の全患協(全国ハンセン病患者協議会)事務局長として東京から奈良まで駆けつけていただいて、たいへんなご協力をいただいた同志であります。
光岡さんは、もともとは歌人として何冊かの歌集を出版されています。歌集『古代微笑』の出版記念会は、完成したばかりの奈良の交流(むすび)の家で行われました。

●『いのちの火影―北條民雄覚書』(光岡良二著)(新潮社1970年)
 同じ病で入院した時期が1年違いで、同じように文学青年だった光岡さんが、北條民雄が亡くなってから30数年後に上梓された本です。小説を読むだけではわからない北條民雄という稀有な作家の人物像が詳細に描かれています。

●文学講演会「虚妄のライ」(講師・光岡良二、高橋和巳 於・同志社記念会館)
 交流(むすび)の家開所記念文学講演会として、1968年6月に私たちフレンズ国際労働キャンプ(FIWC)関西委員会は、光岡さんと高橋和巳を講師として招いて京都で開催しました。
 演題の「虚妄のライ」に込められた想いは、ライという言葉が差別用語となってハンセン病と言い換えられた現在では、想像力を掻き立てられない言葉となってしまいました。
 高橋和巳は、当時もっとも人気のあった小説家で代表作『悲の器』『邪宗門』など。中国文学者でもあり、大学闘争の最中1969年京大文学部助教授辞任、1971年39歳で夭折しました。
                       2023.2.11.
                       矢部 顕

〔563〕日本の安全を危惧する塚越敏雄さんの「腰越九条ニュース198号」と鎌田慧さんのコラムです。

2023年02月10日 | メール・便り・ミニコミ
 今日(2023年2月10日)は朝から東京でも珍しく雪が降っています。大きな事故が起きなければ良いのですが。
 トルコやシリアでは大地震、心が痛みます。そしてロシアがウクライナ侵略を開始してから2月24日で1年が経とうとしています。
 日本では岸田内閣が安保3文書を決定し、軍事費2%、原発再稼働・新設を宣言しました。日本国憲法に違反する暴挙といわざるを得ません。
 こんな情況のなかで、塚越敏雄さんから腰越九条ニュース198号が届きました。鎌田慧さんのコラムと合わせてお読みください。いずれも掲載許可済みです。

●おはようございます。
 腰越九条ニュース198号ができましたので添付します。
本号では、安保3文書の危険性をなるべくわかりやすく書くよう
努力してみました。読んでいただけますと、ありがたいです。
                    t417mabui@nifty.com 塚越敏雄





◆巨大な環境破壊装置=原発
     鎌田 慧(ルポライター)

 車窓の向こうに、遠く墓石が立ち並ぶのが見えた。急に忘れていた歌
が蘇った。「故郷の街焼かれ身寄りの骨埋めし焼土に今は白い花咲く」
(原爆を許すまじ)。爆発した福島原発構内を視察するツアーバスの中
だった。
 避難先で亡くなった人たちは、故郷の墓地に帰れたのか。放射線に
侵されていないだろうか。

 「原子力明るい未来のエネルギー」。小学生の時に、この標語を作ら
された大沼勇治さんと防護服姿で、被災後の双葉町を歩いたことがあった。
 が、そのときは、地震で倒壊、崩れ落ちたまま無念の表情の町並みに
圧倒され、避難者のその後を考える余裕はなかった。

 大事故から12年。「復興」。それが故郷を喪失した人びとにとっての
希望だが、バスで通過するだけでも、耕作が放棄され、荒れ果てた
田んぼや畑の延々とした広がりに気落ちさせられる。

 かつて地表から剥がされた放射性汚染土は、フレコンバッグに詰め
込まれ、真っ黒な山を築いていた。今、それらは「中間貯蔵施設」と
いう1600ヘクタールの元農地などに運ばれ分別され、15メートルの
茶色い台地を形成しでいる。22年後に県外最終処分場へ運ばれる、とか。

 一方の原発構内、タンク1000基以上に溜まった汚染水は除去できない
トリチウムを含んだまま30年間海洋投棄する。
 この巨大な環境破壊装置を岸田内閣はさらに増強するという。
(1月17日「東京新聞」朝刊「本音のコラム」)

◆ 沈思実行(131)
  絶望の再処理工場−青森・六カ所
  いま、2兆円を投じてなお、立ち腐れの状態
                          鎌田慧
                    
 「閣議決定」といえば、なにか政府の重大な決めごとにように思える。
が、ドミノ式に解任、辞任がつづき、継ぎはぎだらけ。ひょろひょろ、
へっぴり腰の、岸田浮遊内閣の決定など、実現性はすくない。
 たとえば、「原発の新・増設」。これから、どこへ、なん基建設する
のか。地域独占会社で、湯水のようにカネをバラまいてきた電力会社
とはいえ、将来性のない原発を、首相に言われた通り、いまから採算無視
でやるのだろうか。最終処分地をどうするのか、をまじめに考えるほうが
先決のはずだ。
 本命は巨費を投じてたち腐れの老朽原発を、危険をも省みず、すこし
でもはやく、すこしでも永く、稼働させて元を取りたいだけだ。

 原発の最大のネックは、青森県六ケ所村の使用済み核燃料再処理工場が、
にっちもさっちも行かないことだ。着工してからこの4月で30年記念に
なる。が、いまだに未完成の巨大施設。歴史的な建造物といえる。民間
企業だが、経費は各電力会社の電気代に上乗せして、回収されている。
 だから、プルトニウムを抽出し、廃棄物をガラス固化体にして搬出する、
とする工程が完成しなくとも、倒産もせず、会社は存続している。六ヶ
所村は、1969年に閣議決定された「新全国開発計画」(新全総)の目玉
だった。

 朝日を浴びて、太平洋に添ったひょろ長い県道を農民たちのデモ行進
が行く。人びとは眩しそうに目を細めて歩いていた。はじめてのデモが
恥ずかしかったからだ。「巨大開発反対」のデモだった。
 1971年10月、県知事が村の中学校にやってきた。会場に入れないひと
たちは講堂を取り巻いて声をあげていた。「だまされねーぞッ」「この
山師ものッ」。
 説明会が終わって、知事が外に出てきた。ベンツの乗用車が走りだす
と、後ろからこぶし2個分の石が、わたしの頭上を飛んでいった。リア
ウィンドウに命中した。が、頑丈な窓ガラスがそれをはね除けた。
防弾ガラスだった。
 再処理工場の前史。いま、工場は2兆円を投じてなお、立ち腐れの
状態だ。
     (週刊「新社会」2023年1月18日)

◆民意を踏みつぶす国政
                 鎌田 慧(ルポライター)

 本人の同意をえていないのに、力ずくで手術する、としたなら、それは
重大な犯罪行為である。10年前の1月27日、沖縄県すべての市町村の長と
議会議長が銀座をデモ行進した。住宅地に近接、騒音被害、危険いっぱい
の普天間飛行場を移設する、という名目による「辺野古新基地建最設」。
この米軍基地の新増設、大工事計画にたいする反対の行進だった。

 これらの首長たちは翌日、署名捺印の「建白書」を当時の安倍晋三首相
に提出した。1月27日は、この晴れやかな、歴弁史的な決起の記念日である。
 が、そのあと、反対を公約にして当選していた仲井真弘多知事は安倍首
相と会見して突然、辺野古埋め立て促進に転向した。
 この裏切りは重く、次回選挙は決然と反対表明、立候補した翁長雄志那
覇市長に、10万票もの大差をつけられて敗退。

 それからの2回の県知事選挙でも辺野古建設反対候補が圧勝、2019年
2月の県民投票でも72%が建設反対である。
 辺野古での座り込みに参加して、挨拶を要請されても辞退してきたの
は、沖縄を犠牲にして、その解決に努力していない、と想いがあったからだ。
 27日(金)日比谷野外音楽堂午後6時半。「建白書10年。沖縄の民意を
日本の民意へ集会」デモがあります。発言者。金平茂紀、西谷修、
元山仁士郎、鎌田など。
      (1月24日「東京新聞」「本音のコラム」)

◆二つの滑走路(馬毛島に滑走路建設、下地島の3000m滑走路)

鎌田 慧(ルポライター)

 藩主・津軽為信の銅像が横に寝かされ、道を曳かれて行くのを眺めて
いえ兜をかぶって武装、威厳を保った表情の銅像が、溶解され、弾丸を
生産するために「供出」されることになったのだ。
 敗戦の少し前、幼稚園児だった私は、道端で大人たちの前に立って、
その行列を見送っていた。城跡本丸の中央に立っていた銅像は帰ること
はなかった。台座だけが未練がましく、何十年も残されてあった。
 それぞれの家庭でもなけなしの金物を供出した。「総力戦」だった。
 欲しがりません勝つまでは。が、敗戦となった。
 軍需工場は兵器をナベカマに造り直して糊口を凌ぎ、朝鮮戦争が勃発
してにわかに米軍用の「特需」となって、また軍需生産。

 と、急に昔を思いだしたのは、鹿児島県種子島そばの馬毛島に、いき
なり自衛隊が滑走路建設開始のニュース。20年ほど前、平和な無人島
だった。戦時中のコンクリート製トーチカが残っていた。銃眼が不気味
だった。
 さらに、沖縄・宮古島から長い橋を渡って辿り着く、下地島での米海
兵隊の軍事訓練要求。民間航空会社のパイロツト養成訓練に使われた、
 3000m滑走路を見学したことがある。軍用に転換させられないか不安
に思った。ついに「台湾有事=日本有事」。沖縄軍事化の大宣伝。
おまえの物は俺の物、俺の物は俺の物。
その人権無視、強欲が戦争だ。
     (1月31日「東京新聞」「本音のコラム」)

〔562〕北條民雄『いのちの初夜』と『すみれ』、そして国立ハンセン病資料館の催し物のお知らせです。

2023年02月08日 | 図書案内
  NHKの「100分de名著」は予約視聴している番組です。確かに「名著」を4回100分でコンパクトに紹介していてリーズナブルな番組と言えます。司会進行の二人もコメンテーターもリベラルな人が多く気に入っています。
 前回のジーン・シャープの『独裁体制から民主主義』(ちくま学芸文庫)は気になって新本を購入してしまいました。

 さて今回は北條民雄の『いのちの初夜』が取り上げられています。
 北條民雄はハンセン病と診断され東京都東村山市の全生病院(現在の国立療養所多摩全生園)に送られます。ここは我が家からは車で10分もかからないところにあります。
 入院して様々な読み物を書き始めた北條は23歳の時に発表した『いのちの初夜』で有名になります。そして翌年、4年間の闘病生活の後に亡くなるのでした。



 北條は『すみれ』(文・北條民雄、絵・山﨑克己、国立ハンセン病資料館、2015年)という絵本も残しています。町に移り住もうとしたじいさんは一輪咲いているすみれを見つけ、その凜とした佇まいに心打たれ、そこにとどまることを決意するのでした。
 この『すみれ』は「100分de名著」でも他の関連書籍と並んで陳列されています。我が家の本棚にある実物はKさんから以前いただいたものでした。

 矢部顕さんから国立ハンセン病資料館の催し物のお知らせをいただいていました。『すみれ』と合わせて紹介します。



 そして鎌田慧さんのコラムがタイムリーです。

 ◆舌読
  差別された在日の炭坑夫だったカメラマン・趙根在氏の
  写真展「地底の闇、地上の光」
                  鎌田 慧(ルポライター)

 元ハンセン病患者さんの生活を撮りつづけた趙根在(チョウ・グンジェ)
の写真展「地底の闇、地上の光」を見にいった。原爆の図丸木美術館(
埼玉県東松山市)ではじまったばかりだ。
 生涯にわたるテーマは、在日朝鮮人、炭坑労働者、ハンセン病患者。
排除されてきたひとたちの貴重な記録である。
 病によって失明した中年の男性が、点字本を舌先で読み取っている。
点字を追う指先も失われている。障子のむこうから差し込む淡い逆光を
受けたクローズアップは、人間の希望と読書の世界のひろがりを
示している。

 たとえば、ユージン・スミスの、よく知られている、水俣病の少女を
母親が湯浴みさせている写真のように、敬虔な感情をもたらしている。
 差別された在日の炭坑夫だったカメラマンが、地底の闇にいるように、
社会の壁に囲まれて生きている人びととともに寝起きしてシャッターを
切った。
 人間としての尊厳を確立するために、素顔をだし、名乗りを上げて
生きざまを晒(さら)す。
 在日同胞だからこそできたのであろうが、気迫に満ちた作品である。
 趙カメラマンは1997年に他界しているが、記録作家・上野英信ととも
に『写真万葉録・筑豊』全十巻を監修している。
 写真展のカタログに収録された文章は、日本語をまったく書けなかった
と言いながらも、イメージ溢るる文章だ。
    (2月7日「東京新聞」朝刊「本音のコラム」)
 

〔561〕『石器時代への旅』(ハインリヒ・ハラー著、近藤等・植田重雄訳、河出書房新社)が復刊されました!

2023年02月07日 | 図書案内
 日本で初めて、ドイツ後期ゴシック彫刻の作家、ティルマン・リーメンシュナイダーの名を冠した『神秘の芸術-リーメンシュナイダーへの世界』と『リーメンシュナイダーへの世界』を出版したのは植田重雄さんです。私たち夫婦にとってもこれらがリーメンシュナイダーへの導きの書になりました。
 先日、ご子息の植田重彦さんから植田重雄さんが共訳した『石器時代への旅』(316頁)を緑がいただきました。
 まだ手にしたばかりなのですが、とりあえず紹介だけさせていただきます。いずれ感想もこの稿に付け加えようかと思っていますので、いつか覗いてくだされば嬉しいです。



  ハインリヒ・ハラー(Heinrich Harrer)はオーストリアの登山家・冒険家でアイガーの北壁を初登頂した人として有名だそうです。植田さんと同じく2006年に94歳で亡くなっています。
 『石器時代への旅』は世界探検全集(全16巻)の1冊として1978年に出版され、昨2022年10月に復刊されたものです。全集は『東方見聞録』(マルコ・ポーロ)などすべて翻訳物です。監修者は井上靖や梅棹忠夫など著名人が名を連ねます。

 興味を引かれるのはなぜ植田さんがこのような探検譚を翻訳したかということです。
 もう一人の翻訳者の近藤等氏は同じ早稲田大学を卒業して登山家としても活躍していて、文章家でもあったようです。そのことはなるほどと合点がいくのですが、植田さんの専攻は比較宗教哲学ということになっているので不思議なのです。
 勝手な想像ですが、原題は『Ich Komme aus Steinzeit』は当然ながらドイツ語で、ドイツ語の堪能な植田さんに白羽の矢が立ったのではないでしょうか。そして、近藤氏も植田さんも早稲田大学商学部教授でした。近しい関係であったことは間違いないことでしょう。

 それにしても植田さんの略歴紹介のなかに『リーメンシュナイダーへの世界』を入れておいて欲しかったなと思うのです。