後期ゴシック彫刻・市民運動・演劇教育

小学校大学教師体験から演劇教育の実践と理論、憲法九条を活かす市民運動の現在、後期ゴシック彫刻の魅力について語る。

〔251〕「ヒバゴンって知っていますか?」矢部顕さんの興味深いメールが届きました。

2020年02月26日 | メール・便り・ミニコミ
 このブログにたびたび登場していただいている矢部顕さんはラボ言語教育総合研究所事務局長をされていました。私は彼とそこで出会い、彼が退職されてからもメールで親しくやりとりを続けさせてもらっています。興味深い情報がいっぱいいただき、私だけで読むのはもったいないので読者の皆さんにもお裾分けしている次第です。
 今回はヒバゴンの話です。
*矢部さんには拙著『地域演劇教育論-ラボ教育センターのテーマ活動』の巻頭言をいただきました。

●福田三津夫さんへの手紙
ヒバゴンって知っていますか?

 福田さんは「日本で、訪ねたいところが二つある。出雲と仏都会津です」とおっしゃっていましたね。先日、山陽新聞のコラムを読んで、何年かぶりに道後山キャンプのことを思い出しました。コラムを添付します。

 福田さんが訪ねたいという出雲ですが、考古学的には、358本の銅剣が一度に発見された荒神谷遺跡とか、39個の銅鐸が一度に発見された加茂岩倉遺跡とか、『葬られた出雲王朝』の痕跡があちこちにあって、驚くばかりです。
 それだけではありません。「ヤスキのハガネ=安来の鋼」で今でも有名ですが、奥出雲のほうでは「たたら」による鉄生産に関する史跡もたくさんあり、かつ「たたら」を復元して古来の方法での鉄づくりを再現しているところもあります。
 古代から明治時代に八幡製鉄ができる前まで、中国山地は鉄生産のきわめて重要な拠点で、それは岡山県側にも広がっていました。岡山県は吉備王国です。大和朝廷確立の前は、出雲と吉備が巨大な勢力をもった王国だったので、大和との勢力争いや後の協力関係など古代史の未解明な事柄が数多くあります。製鉄技術の争奪戦もあっただろうと想像できます。大和の中心の三輪山の神が出雲の神というのも不思議なことです。これらの、考古学的、歴史的遺産が、すべて「スサノオ」「オオクニヌシ」と深い関係にあることが「神の国・出雲」の奥深さです。

 岡山県に近い広島県と島根県との県境に位置する「道後山」の中腹で、ラボ・サマーキャンプを10年間くらい実施していました。(現在は、大山に場所を移しています)。まさに奥出雲です。
「イザナミを葬った」と古事記に書かれている比婆山は、道後山の隣の山です。 キャンプの野外活動のコースのひとつである「比婆連山縦走コース」に挑戦する子どもたちの引率を、わたくしは何回もやりました。比婆山の山頂にある「イザナミ御陵」や、「千人で引っ張っても動かない」というヨモツヒラサカをふさぐ「千引岩」もコースに入っていて、そこで子どもたちとともに手を合わせたものです。キャンプの夜は、地元の荒神神楽保存会の人たちによる神楽の鑑賞です。この神楽のクライマックスは、もちろんスサノオのヤマタノオロチ退治の場面です。
 今から考えると、ラボ物語ライブラリー『国生み』(「国生み」「スサノオ」「オオクニヌシ」「わだつみのいろこのみや」の4話構成、谷川雁による古事記の再話)の出雲神話の舞台の場所がキャンプ地であり、ヤマタノオロチが住んでいたという船通山を目の前に眺め、イザナミ御陵のある比婆山に登山し、神楽を鑑賞し、グループ活動で『国生み』のテーマ活動にキャンプ参加の子どもたちが取り組む、という信じがたいほどロケーションに恵まれたキャンプだったのです。

 このあたりは、今は行政的には広島県比婆郡西條町というところで、このあたりの山に、かつては「ヒバゴン」が出没していて、目撃者もたくさんいました。全国的に有名になって、問い合わせが多く、西條町役場には「類人猿課」ができたということを聞いたことがあります。道後山キャンプの始まる10年ほど前だったでしょうか。
 私たちがキャンプで訪れた時には、騒ぎはおさまっていましたが、役場には「ヒバゴン」のぬいぐるみがあって、キャンプで使ったらどうか、なんて話もありました。

          矢部顕
 
  このブログが掲載されてから矢部さんから立て続けに下掲の文章が送られてきました。ある会報誌に掲載されてものです。これもさすがに読み応えのある文章なので皆さんにも「お裾分け」です。 
  

  八丈島赦免花伝説
―亀山城跡に移植された蘇鉄に花が咲いた―

                     亀山城跡保存会事務局長
                            矢部  顕
●秀家ゆかりの蘇鉄が贈られてきた
 関ヶ原の戦いで、西軍の主力として戦い敗れた宇喜多秀家は、徳川によって八丈島へ流刑となった。八丈島で、秀家が手ずから植えたとされる蘇鉄の株分けされたものが、秀家顕彰会「八丈島久福会」から岡山市に贈られてきた。秀家没から360余年の時空を越えて生誕地である亀山城に移植された。

 我が家の裏の小山に亀山城があった。山陽道を見下ろす交通の要所。戦国武将・宇喜多直家の居城で、備前を支配したのち岡山城に移った。息子の秀家はここ亀山城で生まれたとされる。小山の裾に我が家はあるが、まわりは沼で天然の堀の役目をした。小山は沼に浮かぶ亀の形。(我家の今の住所は、岡山市東区沼)
 豊臣秀吉の備中高松城の水攻めのときは、ここで黒田官兵衛らと作戦を練ったともいわれる。水攻めのさなか、本能寺の変が起こり、秀吉は2万の大軍を引き連れて京に引き返す。世に言う「中国大返し」である。
 秀家は秀吉に可愛がられて、若くして五大老のひとりにまで登りつめた。秀吉の養女として育てられた豪姫を娶ることになる。直家の跡を継いで、岡山の町の基礎をつくった。
 豊臣政権の貴公子と呼ばれた秀家は、秀吉の朝鮮出兵では大将をつとめたりして、最後が関が原の戦いである。潜伏、亡命、流罪と、関が原後も生き抜いた執念の男で、八丈島での生活は50年にもおよぶ。戦国武将で83歳まで長生きした例は他にない。

●蘇鉄に花が咲いた
 この秀家ゆかりの蘇鉄に花が咲き、実をつけた。10月14日に植樹式をして亀山城跡に移植して1か月、11月のこと。
 蘇鉄の花が咲いて思い起こすのは赦免花伝説である。
 八丈島は1606年の宇喜多秀家遠島以来260年間、流人の島の時代が続いた。その間、1898人が流罪でこの島に送られた。初期は、主に政治犯、国事犯などの人が多く、教養ある博識な人が多かったため島民はこの流人たちを歓迎したと言われる。

●赦免花伝説
 罪が許されると赦免状が届き、その罪人は本土に帰ることが出来る。当時は、秀家の菩提寺である宗福寺の蘇鉄の花が咲くと赦免状が届く前触れと言われた。花が咲くことは流人にとっては狂おしいほどに期待をもったことであったであろう。
 赦免は、たとえば文政年間には69人、天保年間には41人、弘化年間には64人、嘉永年間には34人など計10回におよんだとか。あわせて741人に赦免状が届いた。
 しかし、宇喜多秀家とその末裔にたいしては何の沙汰も無かった。長い流罪の生活に終わりをつげたのは、徳川の江戸時代が終わった、明治元年の恩赦によってであった。

●食料を送り続けた前田家
 秀家の妻・豪姫は島への同行は許されず、実家の加賀前田家にもどった。
 宇喜多家の家老・明石掃部全登は黒田官兵衛の影響からかキリシタンで、城下の民2000人(20人でもなく、200人でもなく!)に洗礼を受けさせたという。我が家のそばを流れる砂川の川底からはマリア像の破片などが出土する。家老・明石掃部全登からすすめられたかどうか知らぬが、豪姫はキリシタンだった。
 豪姫は、八丈島の秀家らに食料を送りたいと徳川に願い出たが許されず、自らの信仰を捨てる、すなわちキリスト教を棄教することを条件に許された。
 加賀の前田家は、秀家ならびに子孫一族のために食料と医薬品を、明治の恩赦があるまで八丈島へ送り続けた。徳川の怨みもここまでやるかと思うが、一度決めたら260年貫き通す前田家の代々の姿勢にも驚く。これらのことは日本の歴史上たぐい稀なできごとではないだろうか。
 移植されたばかりの蘇鉄に花が咲いたということは、令和元年の恩赦があるということなのか。それとも、八丈島で生涯を終えた秀家の御霊が、自らの生誕地に蘇鉄とともに帰って来たと喜んでいるからであろうか。

【続報】
 こんな情報が矢部さんから送られてきましたので追加しておきます。



〔250〕第3回Kさんを囲む読書会は、野間宏『真空地帯』で盛り上がりました。

2020年02月23日 | 図書案内
 40年ほど前に清瀬市に引っ越してきてから、地域の市民運動で共に活動してきた先輩のKさんを囲む読者会が開かれるようになったのはここ数年のことです。この会は、普段一人ではなかなか手が出ないような、気になる本をみんなで読み合うという会です。課題図書はKさんが発案して私が承認し、仲間に呼びかけるというものです。皆さん忙しい日々を送っているということもあって、Kさんと私だけでも続けようと話し合っています。
  かつてのブログにも報告しましたが、第1回は石牟礼道子『苦海浄土』(2018.11.28)、第2回は大岡昇平『野火』(2019.9.14)でした。そして今回、第3回は野間宏『真空地帯』(2020.2.22)ということになりました。参加者は6人でした。

  そもそも私にとって野間宏といえば『狭山裁判』(岩波新書 1976)です。たしか雑誌『世界』に連載されていた「狭山裁判」が新書に収められたはずです。あの『真空地帯』の野間宏がなぜ「狭山事件」なのか、多少の驚きをもって歓迎したものです。というのはこの本が発刊された頃、丁度狭山市に引っ越したばかりだったのです。狭山事件関係の本を読みあさり、狭山事件の現地調査にも参加しました。
 今回初めて『真空地帯』を手にしました。その感想は後に回すとして、まずはウィキペディアで『真空地帯』の概略をおさらいしておきましょう。

■ウィキペディアより
〔概要〕
 1952年2月、河出書房から書き下し長篇小説として刊行され、毎日出版文化賞を受賞した。さらに、評価をめぐって、宮本顕治と大西巨人の論争のきっかけともなり、様々な文芸誌で批評の対象となった。

 作者は、1941年、大阪歩兵第37聯隊歩兵砲中隊に入営後、フィリピンに送られるも、マラリアに罹って内地の陸軍病院に入院。その後、1943年、左翼運動の前歴を憲兵に詮索され、治安維持法違反容疑で軍法会議にかけられて、大阪陸軍刑務所に半年入所した。本作には、このような作者の体験が色濃く反映され、軍隊の苛烈な状況の頂点を敵と生死を分つ闘いを繰り広げる戦場ではなく、教育・訓練の場である「内務班」に求めた。
〔あらすじ〕
 陸軍刑務所での2年間の服役を終え仮釈放となった木谷一等兵(上等兵から降等)は、敗色濃厚になりつつあった1944年の冬に古巣の大阪歩兵聯隊歩兵砲中隊に復帰する。木谷は聯隊経理室勤務の事務要員であったが、経理委員間の主導権争いに巻き込まれ、上官の財布を窃盗した疑いで軍法会議にかけられた。馴染みの娼妓から押収された木谷の手紙の一節は反軍的と看做され取調の法務官に咎められるのだった。刑務所での苦しい生活から解放されて戻ってきた中隊では、木谷を知る者は古い下士官しかおらず、内務班の兵隊は年次が下の現役古参兵と初年兵の学徒兵、それに応召してきた中年の補充兵ばかりであった。古参兵は野戦行の噂におびえ、学徒兵は慣れない兵隊生活に戸惑い、班内は荒れていた。
 古参兵どもは木谷がどこから帰ってきたのか詮索しようとするが、本人が明かさないので、陸軍病院下番(退院)で少し頭がおかしいのだと思っている風であった。そのうち、どこからともなく陸軍刑務所に入っていたと分かり、しかも自分たちより軍隊生活の長い最古参の4年兵であったので、班内は奇妙な空気に包まれる。ある夜、班内でおおっぴらに監獄帰りと揶揄した初年兵掛上等兵を散々に打ちのめした木谷は、4年兵の権威をもって班内の全員を整列させ、「監獄帰りがそんなにおかしいのかよ」と喚きながら一人一人に次々とビンタを見舞うのだった。孤立状態のなか、木谷はもとの経理室の要員を訪ねるのだが、敬遠されてしまう。中隊事務室で人事掛の事務補助をしている曽田一等兵は、激しいリンチや制裁がまかり通る軍隊のことを一般社会から隔絶された「真空地帯」だと表現していた。
 木谷を厄介者と見ていた中隊人事掛の立沢准尉は野戦要員の補充兵の父親から賄賂をもらって、木谷をその代わりとして野戦要員にしてしまう。その密談を立聞きしていた曽田一等兵から真相を聴いた木谷は荒れ狂い、中隊事務室で立沢准尉を詰問し、自分を刑務所に送った経理委員の中尉の居室を襲って殴り倒し、夜間脱柵をはかるのだった。連れ戻された木谷は中隊から追い出されるようにすし詰めの輸送船で戦地に向かった。


 私が手に入れた『真空地帯』は岩波文庫版でした。奥付には1956年1月9日 第1刷発行、2017年12月15日 改版第1刷発行となっています。解説を含めれば600ページを超す長編小説です。本のトビラと解説の1部を抜き書きします。

■野間宏『真空地帯』(岩波文庫)
(トビラ)
 空気のない兵隊のところには、季節がどうしてめぐってくることがあろう――条文と柵とに縛られた兵営での日常生活は人を人でなくし、一人一人を兵隊へと変えてゆく…。人間の暴力性を徹底して引き出そうとする軍隊の本質を突き、軍国主義に一石を投じた野間宏(1915‐91)の意欲作。改版。(解説=杉浦明平・紅野謙介)

〔あとがき〕野間宏
・「私は軍隊にいたとき、この軍隊とここに生きる日本人を書かなければならないと考えていた。」
・「再軍備をすすめようとする力とたたかい、それを打破らなければならないと思った。」
〔解説①〕杉浦明平
・「初めてストーリーに貫かれた小説に達しえたのである。」
・(未解決な問題)木谷も曽田も孤立してたたかっている…。組織的抵抗をもちえなかった戦時下日本の現実…
〔解説②〕紅野謙介
「たしかに兵営には空気がないのだ。それは強力な力によってとりさられている、いやそれは真空管というよりも、真空管をこさえあげるところだ。真空地帯だ。ひとはそのなかで、ある一定の自然と社会をうばいとられて、ついには兵隊になる。」284頁

  軍隊組織の内務班や役職についての知識が乏しく、さらに多くの人物が登場するという煩雑さもあり、読み始めはなかなか物語に集中できませんでしたが、主人公の木谷が本当に金銭をくすねたのか、なぜそうであったのかという謎解きの要素もあり、ぐいぐい引きつけられていきました。とりわけ最終7章が圧巻でした。監獄送りにされた真相、その事実が発覚したときに木谷が取った逆リンチ対応、最後には戦地送りの悲劇が待っているのでした。
 本を読んでの私の問題関心はつぎの2点でしたが、いずれも否定的な感想を披露しました。

*ここで描かれる内務班は果たして「真空地帯」なのかどうか。
*ここでの内務班組織で起こる陰湿な事件は日本独特のものなのか。

  映画「ハンナ・アーレント」で「悪の凡庸」ということばが提起されました。ホロコーストを主導したアイヒマンを、イスラエルで取材したアーレントは極悪非道の人間という捉え方をせずに、世間から大いなるバッシングを浴びたのです。極限の戦争状況に於ける人間の行動とはどういうものなのかを考えさせてくれたのでした。
  この問題の周辺を考える上でとても参考になったのが「立命館言語文化研究27巻1号」の内藤由直論文「野間宏『真空地帯』と国民国家論」でした。大西巨人や佐々木基一と野間の論争、その政治的背景、野間の文体など興味深い考察が続きます。大西の、軍隊は社会の縮図であって、軍隊・兵営は特権的な場では無いという「俗情の結託」論に共感させられます。
  ここで紹介されている西川長夫『国民国家論の射程』(柏書房2012)という本を是非読んでみようと思っています。

 もう1つ考えたいのが、杉浦明平の「木谷も曽田も孤立してたたかっている…。」という指摘です。しかし小説にここまで求めるのが妥当なのかという疑問もわきます。それよりは遙かに興味深いのは木谷という生き方ではないでしょうか。内藤由直氏は「矯正され得ない木谷の肉体」と書いていますが、まさに魅力的な木谷の存在(竹内敏晴流にいえば「からだ」)がこの小説の主題なのではないでしょうか。

  いずれにしても今回の読書会も興味深い話し合いになりました。Kさんから野間の処女作『暗い絵・顔の中の赤い月』を早速借りてきました。次回をどうするか、早速話しているのです。

 最後に姜尚中のこんな文章も見つけました。昨日丁度、神戸教諭いじめ事件の報告が市教委の外部調査委員会からなされたのでした。

■姜尚中、神戸教諭いじめ事件で「思い出される戦後文学『真空地帯』」
 教諭4人が同僚に暴力や嫌がらせを繰り返す──。神戸市須磨区の東須磨小学校で、教員間暴力という一見すると信じがたい事件が起きました。事件の異常性、幼稚さ。一方でそれが教育現場で起きているということに、多くの人が驚きを隠せませんでした。
 現在も調査中でこの事件の全容はまだわかりませんが、報道されている情報を見ていると、思い出されるのは野間宏の戦後文学の金字塔的作品『真空地帯』です。『真空地帯』は、軍曹以下一兵卒たちが一緒に生活を共にする「内務班」を舞台にした小説です。この内務班のなかで、古参兵が一兵士をいたぶり、しごき、リンチまがいなことをする、いわゆる「かわいがり」のシーンがあります。『真空地帯』は半世紀以上前の文学ですが、どうも今回の小学校での事件を見ていると、一連の暴力や被害者の教師のプライバシーを全部奪い取るような所業が、この古参兵と一兵士に重なります。
 統制管理型の文部行政の最先端に位置している現在の学校は、人事採用、人脈、派閥、上下関係、こういう様々な問題が凝縮されています。学校の職員会議で一体みんな何を話していたのか。そこは自由な言論空間でなかったのか。学校の中で抑圧移譲が行われていたとしたら、まさに『真空地帯』の内務班そのものです。
 今後、閉鎖的な学校をオープンにするために民間出身の管理職を入れようという議論が起こるかもしれません。しかし、学校は株式会社とは違い、ガバナンスでは仕切れない場所です。今の民営自由化の流れでCEO型の管理職を増やしていくと、皮肉なことに学校はもっと管理強化に向かう可能性があります。
 加害者を叩くことやCEO型の管理職を増やすことだけでは問題は解決しないでしょう。求められているのは、いかにしてきめ細かく、チェック&バランスと見える化を図るか。たとえば人事採用ならどういう理由でこの人を採用したのか。その理由について可能な限り第三者に可視化できるようにしていく。今後は生徒の保護者も含め、こういうようなチェック&バランスで可視化を進めていくしかないと思っています。
                        ※AERA 2019年10月28日号


〔249〕『ハンセン病療養所と自治の歴史』(みすず書房)は矢部顕さんの推薦図書です。

2020年02月22日 | 図書案内
 矢部顕さんから下掲のようなメールが入りました。『ハンセン病療養所と自治の歴史』という新刊書のご紹介でした。高価な本なのでなかなか個人での購入は難しいでしょうが、図書館などに購入希望を出そうかと考えています。 読者の皆様にはとりあえず本の目次と表紙をご覧ください。
 
●福田三津夫様

 わたくしが学生時代からかかわっているサークルであるフレンズ国際
労働キャンプ(FIWC)の友人に、最近こんなメールを送っています。

 友人で、若い研究者の松岡弘之さんが、このたび『ハンセン病療養所と
自治の歴史』(みすず書房、5400円+税)という大著を上梓されました。
 たいへんな労作で、これほどまでに療養所の自治の歴史を研究した人は
いないのではないか、と思います。
 わたくしは学生時代に、FIWCが取り組んだ「交流(むすび)の家」建設
運動で、当時はハンセン病療養所の入所者であった鈴木重雄さんと活動を
共にすることが多くありました。
 鈴木さんは、戦前戦後、療養所の患者自治会会長を歴任されていましたが、
そのことはこの本の本論に描かれています。
 社会復帰するあたりのことから以降は、本論とは別に、補論2として
「鈴木重雄の社会復帰」が収められています。

 松岡弘之さんとは、鈴木重雄さんの調査研究のために一緒に気仙沼唐桑を
訪れ、鈴木さんを故郷に迎えた方々の聞き取りをしたことがあります。東日本大
震災の後のことです。唐桑の漁村は壊滅的な被害だったのですが、みなさんは
御無事でした。

 元ハンセン病の人たちは、今でも故郷に帰ることが出来る人は稀です。
50年前に、元ハンセン病の鈴木さんを故郷に迎え、町長になってほしいと
懇願した漁業の町唐桑の船主たちがいたのです。
 その方々も、今はお亡くなりになっていて、思えば、聞き取り調査の最後の
チャンスだったのでした。
 その後も、松岡さんは何度か気仙沼唐桑を訪れ、鈴木重雄さんが設立した
社会福祉法人「洗心会」に保存されている膨大な鈴木さんの貴重な史料(震災
の被害から免れた!)の分類整理をして、研究をされました。

 表紙ならびに目次を添付します。

 400頁を超える大著で定価もそうとうします。版元のみすず書房の出版の
英断にも驚きます。
 ぜひとも、お近くの図書館にリクエストして、配備していただくように
運動することをお願いします。

                            矢部 顕



●みすず書房のサイトより
『ハンセン病療養所と自治の歴史』
著者松岡弘之

 病者の隔離と排除を目的とした施設は、連帯と解放の拠点たりうるか。瀬戸内の島で当事者が行動し、社会や人間を問うた百年の精神史。

 発病によって隔離され、それまでの生活を失った人びとが人間や社会のあり方を問いつづけながら、身近な場所をよりよい世界に変えようとした百年の軌跡である。
 岡山県瀬戸内市の長島には、二つのハンセン病療養所がある。1909年に大阪府西成郡に開設された外島(そとじま)保養院が1934年の室戸台風によって壊滅し移転した邑久(おく)光明園、もう一つは、隔離を牽引した光田健輔を園長とする初の国立療養所として1930年に開設された長島愛生園である。
 入所者が主体的に療養生活上の課題を解決していく「自治」の起点と、その広がりや葛藤を、手紙や日誌、会議記録、行政文書などから読み解いていく。大正デモクラシーの時代と呼応しながら外島で産声をあげた自治会は、プロレタリア運動・エスペラント運動に関わった人びとが追放された「外島事件」(1933年)、入所者が作業ゼネストやハンストで処遇改善を求めた「長島事件」(1936年)をへて、アジア・太平洋戦争のなかで解体を迫られた。
 だが、こうした経験は、戦後の治療薬の登場と社会の民主化のなかで、当事者自らが闘い、社会復帰していく土台となり、ついにはらい予防法の廃止、国家賠償請求訴訟に至る。
 彼らの歩みは鏡のように、近代日本を映し出す。苦難と希望が刻まれた記憶は、現在もさまざまな場所で自由や自治の実現に取り組む人びとへの励ましであり、未来への伝言であろう。

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目次


はじめに

序章
1 近代日本のハンセン病問題のあらまし
2 「検証」と記録
3 「自治」の射程
4 本書の対象

第I部 第三区連合府県立外島保養院

第一章 自治の模索
1 療養所における治療と生活
2 「自治」の誕生
3 「相愛互助」──自治の実践

第二章 作業制度と自治──1932年外島保養院作業改革を手がかりに
1 1930年代の外島保養院
2 1932年の作業改革
3 労働と分配をめぐる対決
4 追放される者の旅立ちに

第三章 壊滅と移転
1 大阪から瀬戸内へ
2 復興を求めて
3 長島事件と外島関係者
4 委託患者の希望

第II部 国立療養所長島愛生園

第四章 国立療養所の設置と地域社会
1 隔離の推進
2 療養所建設と「村の利益」
3 交差する住民と患者
4 漁民の生活圏の中で
 
第五章 創設期の入園者統制──『舎長会議事録』から
1 光田健輔園長の下で
2 入園者総代の設置
3 「家族主義」の動揺
4 不信の臨界

第六章 長島事件
1 事件への道程
2 事件の勃発
3 自助会の発足
4 長島事件をくぐり抜けて

第III部 戦争と「自治」

第七章 総力戦下の長島愛生園
1 自治会の苦闘
2 常務委員長・田中文雄
3 自治会の解体
4 生きのびるための共同体

第八章 手放された自治──光明園から邑久光明園へ
1 光明園の開設
2 「評議員会議録」のなかの戦時
3 国への移管
4 「外島精神」の終焉

終章 戦後への展望
1 療養所における自治とは
2 プロミン獲得運動とらい予防法反対闘争
3 国家賠償請求訴訟
4 課題

補論
補論1 小川正子の晩景
1 臨床の現場へ
2 病床の小川正子
3 最後の手紙と短歌
4 潰えた「初志」

補論2 鈴木重雄の社会復帰
1 「田中文雄」から鈴木重雄へ
2 唐桑町長選挙への出馬と敗北
3 知的障害者のための施設建設──「社会復帰」拠点として
4 鈴木重雄の遺したもの

あとがき

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著訳者略歴
松岡弘之まつおか・ひろゆき
1976年、広島県福山市生まれ。2005年、大阪市立大学大学院文学研究科後期博士課程哲学歴史学専攻単位修得退学。博士(文学、大阪市立大学)。専門は日本近現代史。