後期ゴシック彫刻・市民運動・演劇教育

小学校大学教師体験から演劇教育の実践と理論、憲法九条を活かす市民運動の現在、後期ゴシック彫刻の魅力について語る。

〔356〕私にとって久しぶりの「3.27 福島原発事故10年 さようなら原発 首都圏集会」でした。

2021年03月29日 | 市民運動
  3月27日(土)、白日展が開かれた国立新美術館からさようなら原発集会の日比谷野外音楽堂まで地下鉄一本です。ゆっくり昼食をとって会場に向かいました。
 私にとってさようなら原発集会は一昨年の秋以来でした。昨年の春はコロナで開催されませんでした。秋は自重して清瀬駅でのスタンディングで参加に換えました。

 久しぶりの野音は入り口のゲートが少しオシャレになっていました。一時過ぎ、すでに音楽が鳴り響いていました。福島出身の若いミュージシャンでした。美しい歌声です。
 暑いくらいの日差しで木の陰になるようにステージに向かって右側に場所を取りました。
 座布団を用意していったのですが座席はコンクリートから木に変わっていました。
 参加者の人数は以前に比べて半分くらいでしょうか。コロナで入場制限をしているようでした。1300人で閉門し、200人が入場できなかったようです。集会の参加者は1500人でした。

 さようなら原発集会の司会者はいつも木内みどりさんでした。私と同世代の彼女はいつも元気でした。亡くなったことが信じられません。
 司会の古今亭菊千代さん、「私が一番苦手なのが落語、二番目が司会。」と笑いを取ります。
 事前の予定になかったのは、澤地久枝さんのあいさつでした。昨年転んで背骨を折ったということで杖で登場しました。声は以前のままでした。菅直人さんも駆けつけてくれました。

 一日なんやかやと長時間だったので今回のデモは失礼しました。
 でも、駅頭のビラ配布、演説は復活させる予定です。清瀬駅で見かけたら声をかけてくださいね。


●3/27 福島原発事故10年 さようなら原発 首都圏集会

 2011年3月11日の東日本大震災による福島第一原発事故から10年目を迎えようとしています。いまだ多くの人々が故郷を奪われたまま、厳しい避難生活を余儀なくされています。事故の収束も見えないまま、いままた放射能汚染水を環境へ放出し、福島の海や大地を再び放射能で汚染しようとしています。これまでの復興へむけた努力が水泡に帰されようとしています。これ以上福島を放射能で汚染させてはなりません。
 安倍政権を引き継いだ菅自公政権は、原発・核燃料サイクル推進を強引に推し進めています、しかし、福島原発事故以降、原発を取り巻く環境は大きくかわり、すでに24基もの原発が廃炉となり、原発は「廃炉の時代」を迎えています。核燃料サイクルも破綻し、その存在意義が失われています。また、世論の多くは、脱原発を求めています。福島原発事故から10年。事故の風化に抗し、原子力政策の根本的転換を求て、「さようなら原発」を合言葉に声をあげていきます。

2021年3月27日(土)
日比谷公園大音楽堂(日比谷野音)

12:00 開場
13:00 オープニング・ライブ
13:30 開会
14:45 デモ出発

司会:古今亭菊千代さん(落語家)
音楽: 片平里菜さん(シンガーソングライター/福島市出身)

主催あいさつ:鎌田慧さん(呼びかけ人・ルポライター)


 澤地久枝さん(呼びかけ人・作家)

 3月31日(水)、朝日新聞朝刊に澤地さんの「冷静さと考える力 養って」という長めの談話が掲載されました。その一節、「現在、私は毎月3日の午後1時、国会正門の前に立っています。民主主義や平和の大切さを思えば、コロナが怖いからと、自宅に引きこもってはおられません。軍国少女であった自分自身の恥と責任は私の人生の影になりました。そして黙って立ち続ける私は、政治に憤る友人の声になりかわった姿でもあります。」とあります。私も及ばずながら、澤地さんに続こうと思います。

フクシマから:地脇美和さん(福島原発刑事告訴団事務局長)
ゲンパツゼロ自然エネルギー100国際会議~福島から10年~について
吉原毅さん(原自連会長、城南信用金庫名誉顧問)

菅直人さん(元総理大臣)


東海第二原発運転差止裁判について
       大石光伸さん(東海第二原発運転差止訴訟原告団共同代表)

閉会あいさつ:落合恵子さん(呼びかけ人・作家)

〔355〕宮城千春さんの「リーメンシュナイダー『マリア祭壇』のある部屋」は心安らぎます。

2021年03月29日 | 美術鑑賞
 2021年3月27日(土)、東京は桜が満開、暖かな一日でした。コロナを気にしながらも思い切って都心に出かけてみることにしました。目的は二つ、六本木の国立新美術館で開催されている第97回白日会展鑑賞と、日比谷野外音楽堂で久しぶりに行われた「さようなら原発」集会への参加です。
 このブログでは展覧会、次回は「さようなら原発」集会について書いていきます。
 そもそも主催団体の白日会とは大正13年創立の絵画と彫刻の研究団体・美術公募団体だそうです。ポスターには「見えるものを通して見えないものを描く、写実の王道」とあります。
 初めてこの展覧会を訪れることになったのは、ある作品を見るためでした。それが「リーメンシュナイダー『マリア祭壇』のある部屋」でした。宮城千春さんという方から福田緑に、緑の写したリーメンシュナイダーの『マリア祭壇』を絵の背景に使わせてくれないかという依頼があったのです。もちろん緑は二つ返事で快諾し写真を送ったそうです。
 その作品が白日展に出品されていたのです。招待券も送っていただいて、2人で足を運ぶことになりました。(絵画部 645点、彫刻部 62点)
 淡い色彩の心温まる作品でした。清楚で素敵な女性が手にしているのはリーメンシュナイダーの写真集でしょうか。もちろん背景はクリークリンゲンの「マリア祭壇」、私がリーメンシュナイダーの白眉と思っている作品です。
 
 緑と私の写真を見ていただきましょう。
 ちなみに展覧会は本日で終了、名古屋、関西を巡回するそうです。




緑撮影




三津夫撮影

〔354〕連続して、矢部顕さんからの「孤島で半世紀 武将の胸の内」と「八丈島赦免花伝説」をつなぐものは?

2021年03月24日 | メール・便り・ミニコミ
 矢部さんからの話題提供です。「八丈島赦免花伝説」については読んだことはあるのですが、ブログには紹介していませんでした。新聞記事と関連させて読んでください。

●別の話題です。
何十年と朝日新聞を購読していたのですが、こちらに転居してからは地元紙をとっていますので、遅れて知った記事のことです。

2月27日の朝日新聞の記事の部分をコピーして添付します。土曜日の特集頁「孤島で半世紀 武将の胸の内」という記事を友人から知らされてびっくりしました。
とても大きな紙面で、八丈島の海岸にある西(岡山の方角)を向いた石像の写真も異常に大きく掲載されていました。



その武将とは、戦国時代に我が家の裏山にあった亀山城で生まれた宇喜多秀家なのでした。後に岡山城に移って、備前の国を支配し岡山の町の基礎をつくりました。

秀吉に可愛がられて若くして五大老にまでなりました。
関が原の戦いに西軍の主力として参戦しましたが敗れ、徳川によって八丈島へ島流しになって、そこで50年生き延びたのです。
栄華の前半生、没落の後半生といわれる所以です。

八丈島の住居跡に、秀家が手植えした蘇鉄が今も残っていて、その蘇鉄の株分けしたものが一昨年の秋に亀山城跡に贈られてきました。
終焉の地・八丈島から生誕の地・亀山城に没後360年の時空を超えて由緒ある蘇鉄が送られてきたわけです。
その蘇鉄について書いた拙文「八丈島赦免花伝説」を添付します。
新聞記事は今年の2月27日のものですが、小生の文章は一昨年の12月に書いたものです。(この文章はお送りしたことはありましたっけ?)

来年は、秀家生誕450年の記念の年なのですが、終焉の地にある八丈島の大賀郷小学校と生誕の地の亀山城西の丸跡にある岡山市立浮田小学校との子どもたちの交流が始まる予定です。

亀山城跡保存会というのがありまして、じつは私は事務局長なのです。
以前にプレーパークを開催したことをお知らせしましたが、これは亀山城跡本丸跡の広場で行ったものです。

矢部 顕





                 八丈島赦免花伝説
                       ―亀山城跡に移植された蘇鉄に花が咲いた―


                         亀山城跡保存会事務局長
                             矢部  顕
●秀家ゆかりの蘇鉄が贈られてきた
  関ヶ原の戦いで、西軍の主力として戦い敗れた宇喜多秀家は、徳川によって八丈島へ流刑となった。八丈島で、秀家が手ずから植えたとされる蘇鉄の株分けされたものが、秀家顕彰会「八丈島久福会」から岡山市に贈られてきた。秀家没から360余年の時空を越えて生誕地である亀山城に移植された。
                     *
 我が家の裏の小山に亀山城があった。山陽道を見下ろす交通の要所。戦国武将・宇喜多直家の居城で、備前を支配したのち岡山城に移った。息子の秀家はここ亀山城で生まれたとされる。小山の裾に我が家はあるが、まわりは沼で天然の堀の役目をした。小山は沼に浮かぶ亀の形。(我家の今の住所は、岡山市東区沼)
 豊臣秀吉の備中高松城の水攻めのときは、ここで黒田官兵衛らと作戦を練ったともいわれる。水攻めのさなか、本能寺の変が起こり、秀吉は2万の大軍を引き連れて京に引き返す。世に言う「中国大返し」である。
 秀家は秀吉に可愛がられて、若くして五大老のひとりにまで登りつめた。秀吉の養女として育てられた豪姫を娶ることになる。直家の跡を継いで、岡山の町の基礎をつくった。
 豊臣政権の貴公子と呼ばれた秀家は、秀吉の朝鮮出兵では大将をつとめたりして、最後が関が原の戦いである。潜伏、亡命、流罪と、関が原後も生き抜いた執念の男で、八丈島での生活は50年にもおよぶ。戦国武将で83歳まで長生きした例は他にない。

●蘇鉄に花が咲いた
 この秀家ゆかりの蘇鉄に花が咲き、実をつけた。10月14日に植樹式をして亀山城跡に移植して1か月、11月のこと。
蘇鉄の花が咲いて思い起こすのは赦免花伝説である。
 八丈島は1606年の宇喜多秀家遠島以来260年間、流人の島の時代が続いた。その間、1898人が流罪でこの島に送られた。初期は、主に政治犯、国事犯などの人が多く、教養ある博識な人が多かったため島民はこの流人たちを歓迎したと言われる。

●赦免花伝説
 罪が許されると赦免状が届き、その罪人は本土に帰ることが出来る。当時は、秀家の菩提寺である宗福寺の蘇鉄の花が咲くと赦免状が届く前触れと言われた。花が咲くことは流人にとっては狂おしいほどに期待をもったことであったであろう。
 赦免は、たとえば文政年間には69人、天保年間には41人、弘化年間には64人、嘉永年間には34人など計10回におよんだとか。あわせて741人に赦免状が届いた。
 しかし、宇喜多秀家とその末裔にたいしては何の沙汰も無かった。長い流罪の生活に終わりをつげたのは、徳川の江戸時代が終わった、明治元年の恩赦によってであった。

●食料を送り続けた前田家
 秀家の妻・豪姫は島への同行は許されず、実家の加賀前田家にもどった。
 宇喜多家の家老・明石掃部全登は黒田官兵衛の影響からかキリシタンで、城下の民2000人(20人でもなく、200人でもなく!)に洗礼を受けさせたという。我が家のそばを流れる砂川の川底からはマリア像の破片などが出土する。家老・明石掃部全登からすすめられたかどうか知らぬが、豪姫はキリシタンだった。
 豪姫は、八丈島の秀家らに食料を送りたいと徳川に願い出たが許されず、自らの信仰を捨てる、すなわちキリスト教を棄教することを条件に許された。
 加賀の前田家は、秀家ならびに子孫一族のために食料と医薬品を、明治の恩赦があるまで八丈島へ送り続けた。徳川の怨みもここまでやるかと思うが、一度決めたら260年貫き通す前田家の代々の姿勢にも驚く。これらのことは日本の歴史上たぐい稀なできごとではないだろうか。
 移植されたばかりの蘇鉄に花が咲いたということは、令和元年の恩赦があるということなのか。それとも、八丈島で生涯を終えた秀家の御霊が、自らの生誕地に蘇鉄とともに帰って来たと喜んでいるからであろうか。       (2019.12.8)






〔353〕唐桑町のハンセン病病歴者の故・鈴木重雄さんと牡蠣漁師・畠山重篤さんの「牡蠣とマーク・トウェイン」のこと(矢部さんから)。

2021年03月23日 | メール・便り・ミニコミ
 読みでのある矢部顕さんからのメールとエッセイです。唐桑町の故・鈴木重雄さんと畠山重篤さん、ペンシルベニアのアーミッシュなどの点が線に繋がります。まずはじっくり読み込んでください。

●福田三津夫様

唐桑町(宮城県気仙沼市)を初めて訪れたのは1973年3月でした。当時は、宮城県本吉郡唐桑町といって、そこの町の町長選挙があって、交流(むすび)の家建設をともに進めた同志ともいうべきハンセン病病歴者の鈴木重雄さんが、故郷の地元の人たちに推されて町長選挙に立候補したその選挙応援にかけつけたのでした。

病気が快復しても根強い差別は消えない社会のなかで、この病気の病歴者だけは今でも故郷に帰ることなどできない。「もういいかい 骨になっても まあだだよ」骨になっても帰れない。療養所の中に納骨堂があるという現実。ハンセン病から快復した人が故郷の町長選挙に立候補するというその選挙が今あったとしても奇跡的なことですが、50年近く前の出来事なのでした。

選挙には僅差で敗れたのですが、その後、故郷の唐桑で知的障害者の施設づくりに奔走され、完成直前に亡くなられました。その遺志を継いだ人たちとの交流は今でも続いています。

「森は海の恋人」というスローガンで、四半世紀にわたって山に木を植え続けた海の男の牡蠣漁師・畠山重篤さんも唐桑に住んでいます。
彼のいくつかの著作や講演に魅了されてすっかりフアンになりました。牡蠣漁師なのに、といっては失礼ですが、文章は上手で、お話には引き込まれてしまいます。

東日本大震災前にもお訪ねしたことがあるのですが、わたくしが震災後に書いた文章「キイワードは『不便』」で、三つの場所・ペンシルバニア、奥会津、唐桑にふれたのですが、唐桑では畠山重篤さんのことを書いています。
添付します。お読みください。

マーク・トウェイン作「トム・ソ―ヤ」は、子どもの時だけでなく、大人になってラボ教育の仕事をしていたとき、谷川雁(らくだ.こぶに というペンネームでの)の再話による『わんぱく大将トム・ソーヤ』が発刊(1977年)されて、それを題材にした表現教育に集中した時期があったことを思い出します。
大地を裸足でかける子どもたちの感性が雄大なミシシッピの川面に反射してきらめいている作品でした。

日経新聞への畠山さんの寄稿が「牡蠣とマーク・トウェイン」というタイトルで、そのタイトルに惹かれて読むと、わんぱくなトム・ソーヤが憧れたミシシッピ川を行き交う蒸気船ミズーリ号の港のニューオリンズ、そこは汽水域で牡蠣の大産地ということをはじめて知りました。
「マーク・トウェインは牡蠣が好きだったのだろうか」で文章は終わります。
新聞コピーを添付します。

                              矢部 顕



キイワードは「不便」
ペンシルバニアの風景・東北の風景



                                矢 部   顕
1.ペンシルバニアの風景
●電気を拒否する人々の村
原発事故があってから、昨年の5月ごろは、「電気が足りない。計画停電。節電だ。夏をどう乗り越えるか。…」と毎日のようにニュースで電力不足をあおっていた。今年も夏を前にして5月ごろになると、おなじことが繰り返し言われていて、電力が無いと生きていけないかのような錯覚に陥らせる。
こんなニュースに接するたびに、電気が無くて生活していた、正確には商用の電力を拒否して暮らしているアメリカのプロテスタントの小会派アーミッシュの村の生活を思い出す。電気とともに自動車も使用しないので、一般的には近代文明を拒否している風変わりな人々と思われている。この人たちが近所にたくさん住んでいる村に滞在する機会をもったことがあるが、かれらは特段に変な人たちではなく、素朴で真面目な人たちだった。
彼らは宗派として電気や自動車の使用を認めていないけれど、近代文明を拒否しているのではない。家庭で洗濯機も使うし冷蔵庫も使う。その洗濯機は小型エンジンがついているし、冷蔵庫はプロパンガスで動く。家具工場では鋸やドリルを使うが、それらの工具は電気ではなく圧縮空気の力で作動する。電気を使わないで出来る方法で文明機器を使っている。
そんなことなら電気を使うことと同じではないか、と思ってしまうのだが、そうでもないらしい。コンセントに差し込めばすべてが動くのとはちがって不便なことも多い。この不便ということがじつは大切なことのように思われてくる。日本のわたしたちの家庭のなかにおいても、いまや、コンセントに電源を差し込むだけで、あらゆるものが電気で動く。「電気を使うと人間の欲望は際限なくなる」とその村の長老は語った。
彼らは自動車の代わりに馬車を使う。馬車は鉄の車輪にこだわる。ゴムタイヤではない。わたしたちは、たとえば新幹線に代表されるように、「より速く、より遠くへ、より快適に」が近代化の恩恵だと思ってきた。不便を解消していくのが技術であり、その成果が快適な近代的な生活をもたらしてきたと考えてきた。こういう考え方に彼らは抵抗しているのだ。
「より速く、より遠くへ、より快適に」をめざしてきた私たちの社会は、ほんとうに人をしあわせにしたのか。
彼らはこう考える。自動車は地域共同体を希薄なものにする。テレビは家庭の団欒を壊す。電話は人をつなぐのではなく分断する。
家庭に商用電力がひかれていないように、電話回線もひかれていない。電話を使うときはどうするのか。道端に小さな板つくりの小屋があって、数軒で共同電話が設置されている。小屋の鍵を持っていって電話を使用する。

●欲望のコントロール
このような生活を興味深く観察していると、「不便」というのがキイワードではないかと思えてくる。人間は動物とちがって欲望に際限がない。欲望があって資本主義経済がすすみ資本主義経済がさらなる欲望を刺激してきた。しかし、今日、大量生産、大量消費、大量廃棄で成り立ってきた右肩上がりの時代は終焉した。欲望をどこかでコントロールすることがなければ資源もエネルギーも無限に必要になってくる。
アーミッシュという宗派の彼らの生活を見ていると、宗教的な理由はともかくとして、電気や自動車を使用しない生活は、際限の無い人間の欲望をコントロールする賢い知恵がもたらしたように思えてくる。
電気を使わない人々の馬車が行きかう村の向こうにスリーマイル島の原発が見えるアメリカ・ペンシルバニア州の皮肉な風景。

●便利=しあわせ、か
昨年は、日本の電力の30%を原発が担っているといわれていたけれど、今年は少々ニュアンスが違う。今年は、関西電力が15%、それ以外の電力会社は5%くらい夏の電力が不足すると言っている(??)。原発すべて稼動を停止して、電力が不足するのであれば(不足しないと言う人もいる)、不足分は停電をして不便な生活をすれば、それでよいのではないか。子どもや孫たちの世代へ負の遺産を残さない道は、それしかない。
昨年、最も便利さにあふれる首都圏で、いっとき大量の人が不便を体験した。地下鉄や電車がとまったり、タクシーがこなかったり、灯りがきえたり、コンビニにモノがなかったり、……。異常事態と報道されたが、これはほんとに異常事態なのか。東京から田舎に転居して思う、それまでの東京が異常だったのではないか、と。不便であっても「震災地の人のことを思えば……」とみんながまんしていた。結構なことだ。
「便利=しあわせ」という価値観で突っ走ってきたのが日本の戦後だったが、3・11によって「便利でなくてもしあわせ」と変わることができるか、が問われている。
2.東北・奥会津の風景
●東北はまだ植民地だったのか
東北は、もともと過酷で不便な生活を、歴史的に強いられてきた地方だ。
以前から「東北学」を提唱していた民俗学者の赤坂憲雄氏は、震災直後、「東北はまだ植民地だったのか」と発言した。
「戦前、東北は『男は兵隊、女は女郎、百姓は米を貢物として差しだしてきた』と語られてきました。国内の植民地の構図があったが、今はさすがに違うだろうと思っていましたが震災で認識を改めました」「食料もそうですし、電力は典型的です。東京で使う電力を東北が提供している。巨大な迷惑施設と引き換えに巨額の補助金がおちる。いままで意識してこなかった構造が、震災を契機にはっきりと浮かび上がってきました。きわめて植民地的な状況です。中心と周縁、中央と地方という構図が依然として東北を覆い尽くしているのです」と。
青森の三内丸山遺跡にみられる豊かな縄文文明からはじまって、以降、東北は豊穣な文化をもつ地方だった。東日流(つがる)外三郡誌」や「アテルイ伝説」にも象徴されるように、古くから独自の文化をもった世界だった。一方、古代大和朝廷からはじまった中央集権権力からすれば、まつろわぬ民の住むところであり、何度も何度もの制圧の対象であった。意識下にある怨念が現代にまで続いていることなど、みんな忘れていた。あらためて考えれば、あらゆる時代に、中央である西から弾圧や迫害を受け続けてきた東の地方であった。

●「会津学」
福島県は、浜通り、中通り、会津の三つの地方に分かれていて、それぞれ風土や文化が大きく異なる。
会津のなかでも、新潟県や栃木県に近い西南山間部は奥会津と呼ばれる。県内でも、もっとも交通の不便な過疎地域である。
この奥会津に柳津町という町があり、柳津には1200年の歴史をもつ虚空蔵尊圓蔵寺という名刹がある。その門前町の小さな旅館で開催された、市民大学というか現代の寺子屋というか講演会に招かれたことがある。農業や林業にたずさわっている人、町役場に勤めている人、こんな山奥で不思議なのだがIT企業をやっている人、若い女性の町会議員もいた。さまざまな職種の人たちが夜の講演会に来てくれた。
講演のあとの懇親会では、奥深い山村の町を活性化しようとがんばっている姿がよく窺われた。不便な地であったがゆえに、伝統的な暮らしの営みが残っていて、その価値を再発見しようとしている人たちであった。この雪深い山里の暮らしの文化を、聞き書きしたり、記録したり、次の世代に伝えようとしている会津学研究会というのがあって、この研究会に参加している人が多く来てくれていた。『会津学』という名の、ぶあつくてりっぱな研究誌が年一回発行されていて、その内容の質の高さに驚いた。この研究会の指導者は赤坂憲雄氏だった。

●「東北学」の提唱者
誇るべき東北の、あるいは、忘れられた東北の、歴史、地理、風土、文化、生活などを掘り起こし、中央にはない価値を見出そうと「東北学」なるものを、赤坂氏は以前から提唱してきたことは知っていたが、民俗学なら当然のことなのだろうが、こんな山奥の地の人々のなかに入りこんで、心を通わせながら学問をつくりあげてきたことに、あらためて感心した。
彼は自分がかかわる民俗学的な調査研究の仕事をあえて「野良仕事」といい「フィールドワーク」とルビを打ちたいというような感覚がある、と誰だったかが言っていた。東日本大震災復興会議のメンバーに選ばれたことの意味は大きい。東北再生には彼のようなまなざしが必要だ。
この奥会津の山の民は、3.11大震災で被災した海側の浜通りの海の民の避難先としての受入れ活動を積極的に行っている。

3.東北・唐桑半島の風景
●海の民のDNA
東北三陸沿岸の人々の生きる力に圧倒される。今回の震災で、宮城県の最北端の漁業の町・気仙沼も壊滅的な被害を受けたが、まだその先の辺境の地・唐桑半島の津々浦々の漁師町も全滅していた。
奈良の大倭紫陽花邑のいちばんの巨木はヒマラヤ杉。交流(むすび)の家の竣工式のときに、記念植樹として鈴木重雄さんが植えたものだ。鈴木さんは、当時、長島愛生園にいたが交流の家建設運動にたいへんに大きな貢献をした。唐桑は、いまは亡きその鈴木さんの生まれ故郷。
鈴木さんから連なる旧知の人々がみんな奇跡的に生き延びていた。フレンズ国際労働キャンプ(FIWC)は、3月下旬から現地で復旧支援のワークキャンプに駆けつけた。若くない私も、瓦礫撤去や家財の整理などほんにわずかな手伝いしかできないけれど駆けつけた。無常というか、運命というか、言いようのない惨憺たる光景のなかにあっても、現地の人は「こんど来るときは、おいしいお魚を食べにいらっしゃい」とあかるく言う。絶望のはての希望なのか。自然と向きあって生きてきた海の民のDNAゆえなのか。

●森は海の恋人
「森は海の恋人」というスローガンで四半世紀の間、森からの養分が川を通じて海を豊かにすることを重視して、山に木を植え続けてきた牡蠣漁師の畠山重篤さんも唐桑に住んでいる。2012年2月、世界の森林保護に取り組む国連機関「国連森林フォーラム」は「国際森林ヒーロー」を世界で6人を選び、そのうちの一人が畠山さんだった。「漁師が森林ヒーローなんて・・・・」と語っていたとか。
彼も、唐桑のほかの人と同じく津波で壊滅的な被害を受けた。牡蠣養殖いかだ70基、船5隻、車両5台、牡蠣の作業場、加工場、冷蔵庫、製氷機など、金額でいえば2億円以上が波にのまれた。最愛の母も失った。
「震災前、フランスから来た牡蠣業者が気仙沼湾をみて『天国のような海だ』と賞賛していましたが、私たちからすれば、ここは『天国と地獄が共存している海』なんです。ここに住もうとする限り、津波という『地獄』を受け入れなければならない。三陸に暮らす者は、必ず壊滅する宿命を背負っているのです」
死んだと思った海は、予想を超えた短い期間で生き返った。イワシの大群が湾の奥まで押し寄せてきた。海の復元力に、海のことを知りつくした彼でさえ改めて驚いたという。
「これだけ海に痛めつけられても、海を憎んでいる人は一人もいない。三陸地方の人々は、津波で家族や仲間、家を失っても、ここに住み続けてきた。それはなにより、海が豊かだからです」(朝日新聞のインタビューに応えて2012.2.22)
少し高台にあったためにこの集落で唯一波にさらわれなかった畠山氏のご自宅に、昨年の4月お見舞いに訪れた。そのときには、被災から2ヶ月も経ってないのに、杉の木の丸太を切り出し、支援のボランティアとともに牡蠣イカダづくりをはじめていた。彼の行動が、この地の人々の気力を左右することを鋭く自覚したうえでの、イカダづくりの作業開始だったと思う。

●それでも海で生きていく
気仙沼は有数の漁業基地として有名だが、三陸地方には同じように海に生きるしかなかった町がいくつもあって、それがみんな壊滅的な被害をうけた。歴史的にも、好漁場としての三陸沖に面したこの地方は、中央にたいして大量の食料資源としての魚介類の供給地としての地方であった。
最初に私が唐桑を訪れたとき、バスの通ることのできる道はなかった。気仙沼から連絡船で行くしかない、まさに陸の孤島であった。三陸地方の津々浦々の町はみな同じようなものである。それは、過酷な自然や狭い土地、不便きわまりない生活、海に生きる糧を求めるしかない、辺境最深部の地としての地方であった。だが、昔も、壊滅的被害をうけた今も、ここから逃げ出すことなど考えもしないで住み続けてきた、海に生きる人たちがいる。
「それでも三陸の海で生きていこうとするのはなぜですか」という新聞記者の質問に畠山さんはこう答えている。「この海が好きだからです。確かに、普通の人には理解しづらいことかもしれません。単に魚がとれるからだけじゃなくて、空気とか、風景とか、潮の香りだとか、うまい魚介類をたべられるとかも大きいですね」
そして最後に、「津波にどう立ち向かうのか、ということよりも、海や山とどうやってうまくつきあっていくかを考える。そのことのほうが、私たちにとってはずっと重要な問題なのです」                              (2012.5.5.)          

〔352〕塚越敏雄さんの最新「腰越九条ニュース」と鎌田慧さんのコラムです。

2021年03月20日 | メール・便り・ミニコミ
 腰越にお住まいの塚越敏雄さんから最新の「腰越九条ニュース」が届きました。彼らの活動にいつも励まされています。

●こんにちは。
昨日は、「19日行動」でしたね。鎌倉駅前では14人が参加しました。
「腰越九条ニュース」176号できましたので、お送りします。
                       塚越敏雄





 ◆「東北の鬼」
  原発事故の責任と真実を明らかにして
  その教訓をしっかりと伝承する

                  鎌田 慧(ルポライター)

 「私たちはいま、静かに怒りを燃やす東北の鬼です」。
 福島第一原発事故から半年後、10年前の9月、東京・明治公園での
「さようなら原発六万人大集会」。
 福島から参加した武藤類子さんの言葉「鬼」に東北出身のわたしは
ハッとさせられた。蝦夷(エミシ)。
中央政府から「征伐」された民の後裔(こうえい)だが、普段は意識
していない。

 武藤さんは原発事故によって、阿武隈山系の森の中での、自然と
ともに暮らしてきた生活を一瞬にして奪われた。その怒りを岩手県北上
地方の激しい踊りと祈りの「鬼剣舞」に託して発言した。
 馬の尻尾でつくったたてがみを、頭に載せた鬼の踊りには、激しい
怒りばかりではない、悲しみと悔恨と絶望が入り交じっている。

 最近、武藤さんが上梓した『10年後の福島からあなたへ』にはこう
書かれている。
 「ますます困難を極める福島の中で冷静さと明晰(めいせき)さを
持ち、熟成した煥火(おきび)のような怒りを、私たちの生きる尊厳を
奪うもの、命を蔑ろにするものに対して、ぶつけていかなければ
なりません」
 東京電力の刑事責任を問う「福島原発告訴団」の団長などで、
武藤さんは多忙な日々を送っている。
 「原発事故の責任と真実を明らかにして、その教訓をしっかりと
伝承すること」。それが裁判の意味だが、原発はその存在自体に秘密と
不正が多すぎて、継承不能だ。
      (3月16日東京新聞朝刊27面「本音のコラム」より)

〔351〕北方近世美術叢書(全5刊+番外編、ありな書房)が出版されましたね!

2021年03月18日 | 図書案内
 ちょっと気になる『北方近世美術叢書』なるものが2015年からほぼ年に1冊ずつ出版されました。全5刊+番外編、ありな書房からです。未刊は番外編のみです。

・『北方近世美術叢書Ⅰ ネーデルラント美術の魅力―ヤン・ファン・エイクからフェルメールへ』ありな書房 2015
・『北方近世美術叢書II ネーデルラント美術の光輝―ロベール・カンパンから、レンブラント、そしてヘリット・ダウへ』ありな書房 2017
・『北方近世美術叢書III ネーデルラント美術の誘惑-ヤン・ファン・エイクからブリューゲルへ』ありな書房 2018
・『北方近世美術叢書IV ネーデルラント美術の精華―ロヒール・ファン・エイクからペーテル・パウル・ルーベンスへ』ありな書房 2019
・『北方近世美術叢書V ネーデルラント美術の宇宙―ネーデルラントから地中海世界、パリ、そして神聖ローマ帝国へ』ありな書房 2020
・『北方近世美術叢書 番外編 天国と地獄、あるいは至福と奈落-ネーデルラント美術の光と影(仮)』ありな書房 未定

  実際に手にしたのは『北方近世美術叢書V ネーデルラント美術の宇宙―ネーデルラントから地中海世界、パリ、そして神聖ローマ帝国へ』のみです。
 そのなかで一番興味をそそられたのがマティアス・グリューネヴァルトでした。間違いなく最高傑作はイーゼンハイム祭壇画です。2回にわたってコルマールを訪ね、長時間祭壇の前で佇んでいたことを思い出します。この本の両面の表紙とも同じ祭壇画です。珍しい造りでした。
 この稿の執筆者の今井澄子さんによると、絵画史上最も残酷に描かれたこの磔刑像はネーデルランド絵画の中で異質とは言えないと書いています。最近のヨーロッパの絵画研究を数多く踏まえた論述になっていてこれから丁寧に読んでいきたいと思います。
 本の造りとして良いなと思ったのは写真です。カラー写真の方が鮮明に写っているので見やすいのですが制作費が膨大に高くなってしまいます。必然的に白黒写真が多くなるのですが、小さなカットだとぼやけてしまい細部が判然としません。しかしこの本は写真頁をしっかり取っているので白黒にしては比較的クリアに印刷されています。したがって写真だけでも結構楽しめるのです。本づくりの参考にしたいと思います。

●『北方近世美術叢書V ネーデルラント美術の宇宙―ネーデルラントから地中海世界、パリ、そして神聖ローマ帝国へ』

著者:杉山美耶子、木川弘美, ティル=ホルガー・ボルヒェルト, 田中久美子, 今井澄子

折り込図1枚
内容説明・目次

内容説明
ヒューホ・ファン・デル・フースの“ポルティナーリ祭壇画”に、プラド美術館の基礎を築いた稀代の収集家マルグリット・ドートリッシュに、ルネサンス期ヨーロッパにおける遍歴芸術家の文化伝達に、北方出自のジャン・クルーエによるフランス王の肖像画に、マティアス・グリューネヴァルトの“イーゼンハイム祭壇画”に、ヨーロッパ全域を舞台に移動し伝播し影響を与えた、ネーデルラント美術の宇宙を視る!

目次

プロローグ ネーデルラント美術の宇宙の中に?ミクロコスモスとマクロコスモス
第1章 ヒューホ・ファン・デル・フース“ポルティナーリ祭壇画”?ネーデルラントとフィレンツェのはざまで
第2章 稀代の収集家マルグリット・ドートリッシュ?プラド美術館ネーデルラント絵画コレクションの知られざる功労者
第3章 芸術家の移動?ルネサンス期のヨーロッパにおける文化伝達の諸相
第4章 変容する肖像画?ジャン・クルーエの肖像画を中心に
第5章 マティアス・グリューネヴァルト“イーゼンハイム祭壇画”と初期ネーデルラント絵画
エピローグ ネーデルラント美術の宇宙を超えて

〔350〕蔵出し!「5歳、20歳、30歳、40歳、ラボっ子との再会」矢部顕さんのエッセイです。

2021年03月17日 | メール・便り・ミニコミ
 ブログでお馴染みの矢部顕さんから昨年の夏にいただいたメールがありました。ある思いがあって秘蔵していたのです。もちろん本人の了解の元、遅ればせながら今回初めて公開したいと思います。
 矢部さんがラボ教育センターの言語教育総合研究所事務局長の時に私は出会っていますが、かつては様々な支部の責任者を務められていました。そこで数多くのラボっ子に出会ったと言います。そのラボっ子にまつわる「ドラマ」がメールに添付されていました。
 まずはとにかくメールとエッセイを読んでみてください。

●福田三津夫様

残暑お見舞い申し上げます。
残暑というよりは真夏の酷暑がつづいています。

酷暑という異常気象も、長年にわたって地球(自然)を痛めつけてきた人間への
地球からの復讐のひとつなのでしょうか。
以前にコピーをお送りしましたが、毎日新聞(4月2日)への寄稿で、新型コロナ
ウイルスも復讐のひとつだとC.W.ニコルさんは書き残していましたよね。

ところで、福田さんのところにはラボ事務局から「ラボの世界」という季刊誌は送られて
きているのでしょうか?

その「ラボの世界」の先号の話です。
「ラボの世界」2020Spring Vol.288の「Go Ahead」(これはラボっ子OBOG
が現在活躍していることの紹介の欄です)に登場した鈴木(中山)妃奈さんと
小生のつながりについて、昨年書いた短い文章を添付で送ります。


わたくしは、ラボ岡山地区のテューターから再発見(?)されて、岡山県津山市での
父母講演会の講師に招いていただいたことで、津山市に住んでいる40歳の妃奈さん
にお会いすることが出来ました。
(2020年8月)

矢部 顕



                 5歳、20歳、30歳、40歳、ラボっ子との再会


                                矢部 顕
 岸本睦美Pの25周年発表会に行ったときのこと。10年前の2009年。
 プログラムがすすんで最後のほう。父母代表のテューターへのお礼の言葉、そのあと、OBOGのお礼の言葉。とてもすてきなOGの女の子(いや、レディ)が登場。その子がこんなことをしゃべった。

(前略)
「わたしが岸本Pに入ったのは5歳でした(だから今30歳のレディ)。じつは、ラボに入ったのは3歳でした。その時の先生がお辞めになって、ラボをやめないといけなくなりました。そのとき、本日、ここに来てくださっている事務局の矢部さんがテューターとして来てくださったので、ラボを止めなくてすんだんです。で、5歳のとき岸本Pができて、岸本Pになったのです。それから25年が経ちました。だから、今わたしがここに立っているのは矢部さんがいたからなんです」
(後略)

 びっくりした。5歳の子がそんなことを覚えているものなのか。わたしも、忘れていた。
 岸本Pの開設に立ち会ったことは忘れてはいない。でも、開設以前のことは言われてから思い出した。そんなことがあったなぁ。
 岸本睦美さんに、ラボの説明をして、テュータースクールを受講してもらい、開設に至るまでの担当者はわたしだったのです。テューター不在のために、わたくしが代行した事務局テューターを早く終わらせるためにも、岸本睦美さんに開設してもらわないと困るわけです。なにせ、交通不便な中国山脈のなかの小都市・津山市で、テューターのいないラボっ子たちを引き受けるラボ・パーティを生み出すために。

 岸本睦美さんが開設して、まもなく、わたくしは関西総局へ転勤となりました。ですから、5歳の女の子が、岸本睦美Pにひきとられてから後、どのように成長をしていったかを知りません。前の支部の思いを断ち切ることが、新たな支部でのテューターとの出会いの礼儀だと考えていたので、岸本睦美Pのことはあえて忘れようとしたのです。後任の担当者を信じるしかないわけです。

 15年後に一度だけ、5歳の女の子が20歳の大学生になっている姿を見たのです。神奈川支部のあるPの20周年か25周年の発表会だったと記憶します。その発表会に出かけると、大学生らしき美しい女性が受付にいて、「受付名簿にお名前を書いてください。事務局の方もおねがいします」と言うのです。私は名前を書きました。
「ええぇっ! 矢部さんですか!」「わたしは中山妃奈です。覚えていますか?」
神奈川のラボっ子は知らない。神奈川支部に赴任したばかりの頃だったから。5歳の子が20歳になっている、覚えているわけがない。しかし、すてきな「妃奈」という名前は記憶の底にあった。
「津山の岸本Pの中山妃奈です。いま、神奈川の大学に来ているので、ここのパーティなんです」
 首都圏総局の事務局改変という事情で3ヵ月後には、わたしは他の支部の責任者となったので、その日以降、うるわしの女の子には会っていなかったのです。たったいっときの運命的な再会でした。

 それから10年が経ち、岸本睦美P25周年の日のことは前述したとおりです。その後、岸本Pの父母会に招かれて津山市を訪れた際に、彼女と再会したのです。
 大学を卒業して、アウトドア用品の会社に就職したが、やはり夢だった農業がやりたくて、会社を辞めて津山にもどり、いま研修生として、ある農事組合法人で働いているとのこと。神奈川の大学は農学部だったとか。目がキラキラ輝いてとってもすてきな女の子でした。

 そのときから25年前、たぶんパーティの父母の中心的存在だったであろう妃奈ちゃんのおかあさんたちと、ラボを続けるための相談をして、岸本テューターが生まれるまで、矢部がパーティをやることの方針を決めたのだろうと思います。まったく覚えていませんが。
 おかあさんたちも、よく矢部を信頼してくれたことと、いまさらに思います。
 妃奈ちゃんのご家庭で、矢部という名前がなんども行き交ったのでしょうか。「5歳のときのわたしは、矢部さん、と言えず、なぜか、ナベさん、ナベさん、と言っていた記憶があります」とは30歳の妃奈さんの言葉。ほんと、すてきな女性に成長していたのでした。

 話はこれでおしまい、だったのですが、なんとそれから10年後の2019年2月のことでした。
 ラボ岡山地区研が企画した拡大父母会の講師として呼ばれたのです。事務局をリタイアして10年が経過しているのにもかかわらず、なぜか岡山のテューターに再発見(?)されたのです。4か所でのうちの一つが津山市でした。岸本テューターが「津山に矢部さんが来る」と妃奈さんに伝えてくれていたのでした。
 講演会の会場に妃奈さんは1歳過ぎの赤ちゃんを抱いて現れました。岸本パーティは今年35周年ということなので、あれから10年、妃奈さんは今年40歳。ナントいまはその農業組合法人の社長になっていたのでした。           (2019.2.23)

〔349〕「子どもたちの健康を守るために、小・中学校内での電磁波被ばくの削減を求める請願」不採択。おかしいのは誰?

2021年03月15日 | 市民運動
  連れ合いの提起した請願はやはり不採択でした。彼女が書くように、「『政府は』『総務省では』『WHOでは』『厚労省では』『国の基準では』いずれも電磁波過敏症を電磁波と結びつけた科学的な根拠はないと言っている」一点張りの市の役人と一部の市議でした。都や国に先駆けて先進的な行動を起こすというような気概も持ち合わせていないのです。国や都、他市が動いたらのっそり動きましょうという残念な市でした。嗚呼!
 以下は請願の顛末記です。


● 2021年3月15日(月)
 福田 緑です。
 本日午前10時半頃から清瀬市議会総務文教常任委員会において私が提出しておいた請願の説明をし、採択の様子を傍聴してきました。思っていた以上に長いやりとりの結果、委員長を除く6名のうち賛成者は2名で不採択。半分予想していたとはいえ、やはり深い失望を感じて帰ってきました。今の思いをここに書き留めておこうと思います。

 請願のタイトルは、「子どもたちの健康を守るために、小・中学校内での電磁波被ばくの削減を求める請願」です。

 内容は、
 1)保護者には事前に無線LANを使用する旨を説明し、申し出があったアレルギーや化学物質過敏症などのある子どもたちには適切な配慮をしてください。
 2)子どもたちの目を守るため、使用するタブレットにはブルーライトカットシートを貼るなどして、ブルーライトの削減を図ってください。

 私への質問も大変多く、必死で答えたときにしっかり聞いていただけたという感謝の気持ちを持ちました。その後に交わされた委員会での議論を聞いている限り、真摯に色々と調べて考えてくれた議員も多かったことがわかりましたし、9月以降、教室内でバンバン飛び交う無線LANの中で毎日を過ごしていく子どもたちの中に、心身の不具合が出てくる子どもさんは絶対にいないと言いきった議員は一人もいませんでした。「心配な気持ちもよくわかる」と何人かの議員も発言し、教育長からは「子どもたちには様々な個人差がある。それに対応していくことは必須であり、十分に行っていきます」と力強い答弁がありました。でも、最後に付くフレーズは、「しかし、『政府は』『総務省では』『WHOでは』『厚労省では』『国の基準では』いずれも電磁波過敏症を電磁波と結びつけた科学的な根拠はないと言っている」「近隣の市でもブルーライトへの対応策を取っているところはどこにもない」、従ってこの請願には反対するというものでした。

 これを不採択としたということは、清瀬市議会総務文教常任委員会は、「予め注意を促すことは余計な不安を招くことになるからせず、電磁波被曝を削減する必要はない」と決定したということです。もちろん3月議会最終日に全体討論の後、採決を取りますが、そこでこの結果が変わる可能性はほぼゼロといって良いでしょう。
 こうして何の対策も取らず、多くの子どもたちが電磁波にさらされ、様々な症状を発してからやっと重い腰を上げるんだろうなぁとため息が出ます。化学物質被ばくは少しでも被曝量を減らした方が良いとわかっているにもかかわらず…。まさか本市に限っては「一人ひとりに個別の対応なんかしていられません」とは言わないはずですが、多くの学校ですでにそう言われて苦しんでいる親子が現在もたくさんいるのです。こうした方々からデータを集め、しっかり研究していただいて、「厚労省では電磁波過敏症は認めていないので清瀬市でも電磁波過敏症の発症者は『いません』(いるかどうかについてそもそも答えられない)」という状況を変えていければと願います。

 清瀬市は都市計画マスタープランに以下の文言を書き込んでいます。

  基本理念 手をつなぎ 心をつむぐ みどりの清瀬
  都市づくりの目標
    安心・安全な都市づくり
    みどりを守り生かす都市づくり
    誰もが移動しやすく豊かに暮らせる都市づくり
    都市の活力創出につながる都市づくり
    市民との協働による都市づくり

 今日の総務文教常任委員会の採択結果は、上記の目標1番目および5番目に明らかに反していると思います。今までの請願でも感じたように、市民との協働なんてする気も無い「国や都が言ったらやっと進める都市づくり」、つまり「国や都がやれと言わない限り動かない都市づくり」でしかない清瀬市の現状をしっかり見きわめて今後もあきらめずに行動していくしかありません。一部の議員ががんばっていることに心から感謝しつつ、市民がそれこそ手をつなぎ、心をつむいでいく必要がありますね。これから長く清瀬市で生きていく子どもたちの命と健康をこそ第一に考えて行動していく市となるために。その気になればできることを提案しているのですから、大事だと思ったら一歩自分の足で立って進めていける市議会であって欲しい。そう気持ちを新たにした請願でした。 
  

清瀬市のマスタープラン https://www.city.kiyose.lg.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/004/446/matidukurinews0203.pdf


〔348〕創作詩や文化的イベントについて掲載させていただいている市橋久生さんからの映画情報です。

2021年03月14日 | 映画鑑賞
 市橋久生さんからメールをいただきました。

●福田三津夫様

こんばんは
ご無沙汰しておりますが、お元気でいらっしゃることと思います。
緑さん共々、ドイツとの交流が盛んになっているのですね。
素晴らしい人生白秋期ですね!

ちょっと映画の話題です
▼けさの新聞に載っている小森はるかさんの活躍です。
新作映画『空に聞く』、小森はるか+瀬尾夏美『二重のまち/交代地のうたを編む』
 「小森はるか作品集」として東中野ポレポレで上映中です。
 また、水戸芸術館「3.11とアーティスト」で5月9日まで。
 (先週のEテレ「日曜美術館」がこの展覧会を採り上げていた。今夜は再放送)
小森さんは、静岡の中村明弘さんの教え子、
 最初の映画『息の跡』が話題になり、鷲田清一に論及されるなどして、
いま多方面から注目されていますね。*鷲田清一著『素手のふるまい』(2016・朝日新聞出版)
 吉田哲夫さんが2017年7月号「PLAY ON!」(『演劇と教育』晩成書房)で紹介しています。
朝日新聞でもこのところ何度か名前を見ています。

▼『モルエラニの霧の中』
 劇団えるむをふじたあさやさんと創り、代表を務めていた佐藤嘉一さんが出演した
故郷の北海道・室蘭を舞台にした映画。7話からなる長編の一部が完成した時点での
試写会(2016年12月6日江戸東京博物館)に誘ってもらい、観た映画が完成して
昨日まで岩波ホールで上映されていました。大杉漣や香川京子らが出演しています。
佐藤さんは、副島功さんを偲ぶ会でスピーチしてもらいましたが、
それが最後の姿になってしまいました。

以上、近況報告に代えて、です
では、どうぞお元気で

市橋


●市橋久生様
メールありがとうございました。
ブログも覗いていただけているようで恐縮です。
映画の情報知らないことばかりで緑と共有するだけでは勿体ないので、またブログに載せさせてください。
私の方は、ようやく4月から大学での対面授業(教育実習指導)が始まる予定です。バドミントンはしばらくお休みですかね。
今年中に中世ドイツの彫刻についての本を緑と出版したいなと思っています。来年1月には2回目の福田緑・写真展(国分寺)が開ければ良いなと思っています。
コロナ禍の今、ご自愛ください。福田三津夫


〔347〕ようやく『ドイツ・ルネンサンスの挑戦-デューラーとクラーナハ』を手に入れました。

2021年03月14日 | 図書案内
 『ドイツ・ルネンサンスの挑戦-デューラーとクラーナハ』という本を手に取ったのはもう数年前のことです。表紙にデューラーとクラーナハの絵があるのは題名からして予想されたことですが、裏表紙がグリューネヴァルトとショーンガウアーというのにびっくりしました。
 グリューネヴァルトについてはかつて日本で大々的に取り上げられた時期がありましたが、ショーンガウアーはほぼ皆無だったのではないでしょうか。私の知る限り、ショーンガウアーに関する本は、国立西洋美術館で「マルティン・ショーンガウアーと15世紀ドイツ銅版画」展(1991年)の時の図録があるだけです。
 ショーンガウアーが好きで彼の活躍したコルマールには2回足を運びました。版画家として著名ですが、わずかにドイツ国内の大きな美術館やフランス・コルマールなどに肉筆画も残しています。ドイツのブライザッハの大聖堂には状態はそれほど良くはないのですが巨大な壁画が現存しています。イギリスのコンプトン・ヴァーニーやアメリカ・カリフォルニアのポール・ゲッティ美術館に彼の小品の絵画を発見したときは小躍りしたものです。
グリューネヴァルトも私のお気に入りで、ショーンガウアー同様、作品「全踏破」を達成しています。なんとカールスルーエの美術館では修復中の磔刑図を拝観することもできました。

 気を惹かれた『ドイツ・ルネンサンスの挑戦-デューラーとクラーナハ』でしたが買おうとは思いませんでした。題名が示すようにあまりにデューラーとクラーナハに偏っていたからです。出版当時「クラーナハ展」が開催され、これに合わせた出版であったことは間違いありません。
*クラーナハ展-500年後の誘惑 東京会場(国立西洋美術館)2016年10月15日〜2017年1月15日、大阪会場(国立国際美術館)2017年1月28日〜4月16日

 このたび比較的安価な古本が目にとまりました。資料として持っていても良いかなと思い購入を決めました。
 じっくり本を読み込んで気づいたことがあります。「ドイツ・ルネサンスの芸術家たち10人」にハンス・ブルクマイアとハンス・バルドゥング・グリーンという人物が入っていましたが、恥ずかしながら未知の画家でした。彼らはショーンガウアーの弟子でした。
不満なのは彫刻家としてリーメンシュナイダーとシュトースしか取り上げてないことです。ゲルハールトやパッハー、ラインベルガーなども入れてほしいところですがスペースがなかったのでしょうね。このあたりの作家については、福田緑の写真集『祈りの彫刻』(全4冊)に譲りましょう。
 リーメンシュナイダーの最高傑作と思っているクレークリンゲンの「聖母祭壇」の写真が今ひとつです。ライトを当てた撮影のため陰ができています。自然光での福田緑の写真と比べてみてください。
 最後に発見を1つ。監修者の田辺幹之助氏はショーンガウアー展に中心的に関わられた人ですが、「ケーファーマルクト祭壇-後期ゴシック木彫祭壇の彫刻様式と彩色について」を書かれているのですね。ケーファーマルクト祭壇は緑と訪れたところで、緑の写真集の3巻に収録されています。『ルクス・アルティウム』という本を探し出して読んでみたいと思います。
 

■『ドイツ・ルネンサンスの挑戦 デューラーとクラーナハ』(東京美術HPより)
田辺幹之助 監修・著/新藤淳 , 岩谷秋美 著 2016年10月 136頁

 イタリア・ルネサンスの洗礼を受けながら、独自のスタイルを確立しようと苦闘したデューラーと、宮廷画家として絶大な評価を得て官能的な美女像を数多く残したクラーナハ。一見正反対のように見える彼らが、ドイツ・ルネサンスの新たな表現を見つけるために辿った軌跡を、周辺の芸術家の作品とともに紹介します。日本ではあまり紹介されない貴重な図版を堪能できる、西洋美術ファン待望の一冊です。

第1部 ドイツ・ルネサンスの芸術家たち
第2部 ドイツ・ルネサンスを読み解く視点
 1 ゴシックとルネサンス
 2 教会と宗教改革
 3 宮廷と人文主義
 4 記憶と記録
 5 自然とファンタジー

【とりあげる作家】
アルブレヒト・デューラー、ル-カス・クラーナハ(父)、マルティン・ショーンガウアー、ティルマン・リーメンシュナイダー、ハンス・ブルクマイア、マティアス・グリューネヴァルト、アルブレヒト・アルトドルファー、ハンス・バルドゥング=グリーン、ファイト・シュト-ス、ハンス・ホルバイン

〔346〕続・福田緑の「小・中学校内での電磁波被ばくの削減を求める請願」資料です!

2021年03月13日 | 市民運動
◆資料1
 <電磁波過敏症の有病率について>
 ・ドイツ、イギリス、スウェーデンにおける電磁波過敏症(以下同)の有病率 人口の約9%
 ・オーストリア、台湾の有病率 13.3%
 ・カナダ国内 電磁波による深刻な影響 3% (約100万人)
        中程度の影響 35% (約1200万人)
※トレント大学 マグダ・ファヴァス博士の推計
 ・日本の有病率 3.0~5.7% (約380~734万人)
この内80%はシックハウス症候群や化学物質過敏症を併発
※2016年 早稲田応用脳科学研究所招聘研究員 北條祥子博士

 ※日本の厚生労働省の病名リストに「電磁過敏症」はまだ認められていないが、同省発行「科学的根拠に基づくシックハウス症候群に関する相談マニュアル(改訂新版)」には「第11章 本態性環境不退症」の中で2頁にわたって「電磁過敏症について」書かれている。その結論は以下の通りである。
 「現在までのところ、電磁界ばく露と電磁過敏症を結びつける科学的根拠はないが、政府は本態性環境不耐症を呈する人たちの症状が実在することに留意すべきであり、新しい技術で問題を未然に防止し、適切なリスクコミュニケーションを実施し、バランスのとれた情報を提供し、関連する課題に関する対話を促進すべき」と報告。

◆資料2 <ブルーライトの危険性について>

ブルーライトに関しては以下のサイトをご参照ください。
◇ブルーライト研究会 http://blue-light.biz/

〔345〕福田緑の「小・中学校内での電磁波被ばくの削減を求める請願」です!

2021年03月12日 | 市民運動
  連れ合いが清瀬市議会に請願を出すことになりました。
  2021年3月15日(月)、清瀬市役所4階、総務文教常任委員会です。朝10時からの予定です。傍聴歓迎です。応援してください。
  なお資料については次回のブログに掲載予定です。

■小・中学校内での電磁波被ばくの削減を求める請願■

                 紹介議員 布施ゆめ        

◇趣旨
 清瀬市でもGIGAスクール構想の実施に向けて工事が進んでいます。市内小・中学校の敷地内におけるWi-Fi環境について、化学物質過敏症への予防原則の観点から以下の項目についてご検討いただき、ご配慮ある対応をいただきますようお願いします。
 1)保護者には事前に無線LANを使用する旨を説明し、申し出があったアレルギーや過敏症などのあるお子さんには適切な配慮をしてください。
 2)子どもたちの目を守るため、使用するタブレットにはブルーライトカットシートを貼るなどして、ブルーライトを少なくしてください。

◇理由
 1)化学物質過敏症との関係
 一昨年12月の清瀬市議会で「柔軟仕上げ剤などに含まれる香料の成分表示などを求める意見書」が採択されました。時代の先端を行く内容の意見書採択に感銘を受けました。
 こうした子どもたち、大人たちが少しずつ増えてきているのはご承知の通りですが、一旦何かしらの物質に過敏反応が出始めると、体を元の状態に戻すのは大変困難です。唯一の対応策は過敏な症状を引き起こす原因物質から離れることですが、その分、集団生活は厳しくなります。
 『シックスクール 問題と対策』(加藤やすこ著、緑風出版)によると、化学物質過敏症の 方には電磁波過敏症を併発する人が多いそうです。(同書18頁~19頁 資料1参照)。日本では電磁波過敏症の有病者が約380~734万人と計算されるとのことです。
 こうした状況下、現在何らかのアレルギー症状のあるお子さんには注意が必要です。また、今まで何ともなかった子どもたちの中でも、毎日校内を飛び交う電磁波を浴び続けることで体調を崩す子どもが出てくる可能性があります。

 2)ブルーライトが目に与える影響
 神戸大学の健康保健センターニュースNo.1(2016年05月16日)には、
「ブルーライトは自然界にある光の一部で380~500nmの波長を持った青色光のことです。ヒトの目で見ることのできる光(可視光線)の中でも、もっとも波長が短く強いエネルギーを持っており、角膜や水晶体で吸収されずに網膜まで到達します。パソコンやスマートフォンなどのLEDディスプレイやLED照明には、このブルーライトが多く含まれています。一般に私たちが「光」と呼んでいるものは電磁波のうち、ヒトの目で見ることのできる可視光線のことです。」(資料2参照)
 と書かれており、ブルーライトが目への刺激のつよい電磁波であることがわかります。

 ブルーライトは波長が短いため散乱しやすい性質を持っています。これが眩しさやチラつきなどの原因になり、その分、脳はピント合わせに苦労します。また、ブルーライトは他の光よりもエネルギーが強いため、瞳孔を縮めようとして目の筋肉も酷使され、眼の疲れや肩・首の凝りなどに影響します。LEDは460nm(ナノメートル註参照)の波長を持つブルーライトを主な光源としています。そのため、LEDディスプレイの普及により、VDT作業による眼精疲労のリスクは高まってきました。長時間の使用を控える、ディスプレイの輝度・コントラスト設定を調節する、ブルーライトをカットするフィルターやメガネを使用するといった工夫をすることが望ましいでしょう。(後略 資料2に全文掲載)

 このニュースは大人の私たちにも大変参考になるものですが、これからタブレットの使用頻度が高くなる子どもたちへの影響はもっと大きいのではないかと懸念されます。またブルーライトは夜遅くに見ると脳が覚醒し、生活のリズムを崩す影響も大きいとのことです。使用開始時から是非ブルーライトの軽減を図っていただきたいのです。

 以上の観点から、5Gを用いたGIGAスクール時代をこれから生きていく子どもたちへの電磁波被ばくを少しでも減らすために、上記2点について市のご配慮ある対応を求めます。

                               2021年2月24日

清瀬市議会議長
渋谷けいし様

                                        福田 緑
                                           (清瀬・憲法九条を守る会)
                                           (放射能から子どもを守る会・清瀬)
                             
                        

〔344〕おそらく本邦初『ロヒール・ヴァン・デル・ウェイデン-情動と優美のフランドル画家』が出版されました!

2021年03月08日 | 図書案内
 ヤン・ファン・エイクと並んで初期フランドル画家の双璧をなすロヒール・ファン・デル・ウェイデンの生涯と作品を詳述した大著が昨年の秋に出版されました。私の知る限り日本初の快挙です。
 本の題名は『ロヒール・ヴァン・デル・ウェイデン-情動と優美のフランドル画家』(岡部紘三、勁草書房)ですが、多くの関連本はロヒール・ファン・デル・ウェイデンと表記しているのでここでは慣れ親しんだ「ファン」を使うことにします。
 前述したようにヤン・ファン・エイク(著者はヴァン・エイクと表記)については日本でも多くの出版物を確認できますが、ロヒール・ファン・デル・ウェイデンについては「週刊グレート・アーティスト」の40巻目『ファン・デル・ウェイデン』(1995年3月、同胞舎出版、35頁)に私は発見できるのみです。これはミニ写真集といった趣で私がロヒールを知る手がかりにした本です。





 もう1冊、私が大事にしているロヒールの「写真集」といってもあながち間違いではない本があります。確かミュンヘンのアルテ・ピナコテークという大きな美術館で購入した記憶があります。それは『Rogier van der Weyden』(Stephan Kemperdick、140頁)というドイツ語表記の本です。5.99ユーロですから800円もしないので手にしたときは飛び上がって喜んだものです。これは当然のことながら岡部さんの本には参考文献として巻末に紹介されています。





  さてこのロヒールの本ですが、間違いなくロヒールに関しての基本的文献になる本だと思います。ロヒールの生涯や仕事について、とりわけ1つひとつの作品について克明に解説されています。岡部氏はまさに博覧強記、おそらく複数の外国語を駆使できる方でしょう。
  注文を付けるとすればやはり写真でしょうか。ロヒール関連についてネット検索すると良質の写真が目に飛び込んできます。この本は写真集ではないのでどうしても写真が小ぶりになります。それでも口絵のカラー写真は鮮やかですが、本文中のモノクロ写真はデテールが目の悪い私にとっては今ひとつです。
  ロヒールの真作、工房作、ロヒール系の作品などがそれぞれいくつあるのか、およその数を大胆に書いてくれると読みやすかったと思います。

 いずれにしても、この本はおそらく生涯をかけて書き上げた労作であり、フランドル絵画史の基本的文献として後世に長く残るものだと素人の私なりに合点しました。

■『ロヒール・ヴァン・デル・ウェイデン-情動と優美のフランドル画家』岡部紘三、勁草書房
(勁草書房HPより)
*文豪ゲーテが「この絵画一点でも私の全詩作に優る」と讃えたウェイデンの絵。その生涯と真作および工房作品について解説する。
出版年月 2020年9月
判型・ページ数 A5判・448ページ
定価 本体6,000円+税

*内容説明
個人がアイデンティティを求めるようになり宗教画の他に肖像画も発達した15世紀。細密な写実描写と油彩による輝かしい色彩表現が特徴のフランドル絵画の中でも、内なる感情に訴えるウェイデンの絵画は特に人気があった。緻密な作品解説と周辺の画家との影響関係によって、日本では未だ知られざる初期フランドル派巨匠の魅力に迫る。

目次
はじめに

第1章 謎の前半生
 一 画家の素顔
 二 トゥルネのカンパン工房
 三 「二人のロヒール」をめぐって

第2章 トゥルネ時代(一四二七~三五年頃)
 一 対幅画ないし両面画
 二 受胎告知の三連画
 三 十字架降下

第3章 初期ブリュッセル時代(一四三五~四〇年頃)
 一 都市の画家
 二 聖母画の諸相
 三 聖フベルトゥスの二連画
 四 市庁舎の正義図

第4章 中期ブリュッセル時代(一四四〇年代)
 一 アーチ枠の活用
 二 中期の磔刑画
 三 聖会話画の断片
 四 ボーヌの祭壇画

第5章 聖年のローマ巡礼
 一 ローマ巡礼
 二 その成果

第6章 後期ブリュッセル時代(一四五〇~六四年)
 一 優美様式の確立
 二 聖ヨハネ祭壇画
 三 晩年の磔刑画

第7章 肖像画と半身聖母画
 一 単身肖像画
 二 半身聖母画
 三 対幅祈祷肖像画

第8章 工房作品と後継者たち
 一 真筆か工房作品か
 二 後継者たち


参考文献
ロヒール・ヴァン・デル・ウェイデン年譜
あとがき
掲載図版一覧
索  引

〔343〕今度は、マティアス・ヴェニガーさんからのドイツの花便りです。

2021年03月08日 | メール・便り・ミニコミ
 このブログに度々ご登場いただいているマティアス・ヴェニガーさん(ミュンヘンのバイエルン国立博物館、学術員、博士)がご自身で撮影した植物の写真を送ってくれました。お住まいはミュンヘン近郊の古い街、フライジングです。ドイツで最も古いビールの醸造所があるところです。
 彼は写真家でもあります。彫刻だけでなく様々な写真を撮って自分だけのカレンダーも作っています。
 今回ご紹介するのは可憐な草花の写真です。おそらくフライジングの植物でしょう。そういえば2019年にフライジングを訪れたときに植物園も案内してくれました。












〔342〕フランクフルト・リービークハウスのステファン・ロラーさんから『完・祈りの彫刻』絶賛のメールでした。

2021年03月07日 | メール・便り・ミニコミ
 十数度の渡独の起点はフランクフルト・アム・マインです。フランクフルトはマイン川(ライン川支流)沿いの美しい街です。この川縁に沿っていくつかの美術館・博物館が並んでいます。代表的なのがシュテーデル美術館です。
 この岸壁の博物館群の中にフランクフルトにおける中世彫刻のメッカ、リービークハウスがあります。『地球の歩き方 南ドイツ』にも掲載されていないというのは信じられないことですが。
  このリービークハウスのステファン・ロラーさん(博士)は研究員で中世彫刻の責任者です。ゲルハールト・フォン・ライデンの大冊の図録の著者で、以前にサイン本をいただきました。
 その彼から連れ合いに『完・祈りの彫刻 リーメンシュナイダーと同時代の作家たち』贈本のお礼のことばが届いたのです。この本の表紙はゲルハールトの自刻像です。所蔵するストラスブールのルーブル博物館に掲載を仲介していただいたのは彼でした。





 実は、彼の文末にある「次の本」の発行を予定しています。今度は緑だけでなく私も共著として加えてもらおうと思っています。今年中に発刊できれば素晴らしいですね。そして来年の1月には第2回の福田緑写真展を多摩地区(国分寺)で開催予定です。詳細はこのブログで順次お知らせします。

●ロラーさんからのメールです。

「あなたからメールをいただいてからずいぶん経ってしまいました。メールの返信だけでなく、クリスマスの細々した素敵な贈り物や何よりもあなたの本にお礼を言います。
 あなたの新しい本、本当におめでとうございます。いつものように美しく、素晴らしい本です。文章は残念ながら読めませんが、あなたが選んだ彫刻や美しい写真を見れば、これは素晴らしい本に違いないとわかります。私たちの中世彫刻に対するあなたの情熱に感嘆しています。すばらしい仕事です。

 願わくばお連れ合いもあなたも健康にお過ごしでありますように。そして次の本を楽しみにしています。」