後期ゴシック彫刻・市民運動・演劇教育

小学校大学教師体験から演劇教育の実践と理論、憲法九条を活かす市民運動の現在、後期ゴシック彫刻の魅力について語る。

〔303〕まさに谷川雁の「村」。「伊勢太神楽」(国指定重要無形民俗文化財)は村の原風景です。

2020年09月23日 | メール・便り・ミニコミ
 矢部さんから「伊勢太神楽」(国指定重要無形民俗文化財)を教えてもらいました。映像付きです。子どもの時の記憶と繋がります。
今回は懐かしさのお裾分けです。


■福田三津夫様

「伊勢太神楽」という国指定重要無形民俗文化財があるのは
ご存知でしょうか?

毎年9月16日、朝、川向うの隣の村から笛の音が聞こえてくると
やがて獅子舞の一行が橋を渡ってわが村に入ってくるのが見えます。

100年もそれ以上の昔から、毎年毎年、獅子舞が来るのは9月16日
と決まっているのです。

この日は、沼村のすべての家庭を1軒1軒訪ねて、それぞれの家の
玄関で獅子が舞いお祓いをしてまわり、御神札を配布していきます。

午後には、村の鎮守のお宮で、総舞という芸能、舞や踊りや漫才や
曲芸などを見せてくれます。

わたしが子どもの頃には、村中の老若男女が1年に1回の楽しみで
大勢の人たちがお宮に集まりました。
(今は、わずかの参加者になってしまいました、が。)
昔も今も変わらない、まさに村の原風景ともいえるものでした。

我が家にくるこの獅子舞の講社の人たちは、滋賀、和歌山、三重、大阪、
岡山と、ほとんど1年中旅から旅へと歩き続け、獅子舞を各地に届けるのです。

https://www.youtube.com/channel/UCrwvf2XYVCEZdykEIFPiPJg

谷川雁がこだわった「村」がここにあるのです。

                          矢部 顕

〔302〕谷川雁の肉声(「詩人・谷川雁―坑夫と、安保と、革命と―」より)を矢部さんが「発見」してくれました。

2020年09月21日 | 語り・演劇・音楽
 矢部顕さんがメールをくれました。谷川雁の肉声を「発見」したというのです。
 矢部さんからは膨大なDVDが送られてきていますが(私は矢部コレクションと言っています)そのなかにもありました。NHK・ETV特集「詩人・谷川雁―坑夫と、安保と、革命と―」です。
 久しぶりに谷川雁の語りを聴きましたが実に素敵な声で説得力があります。あらためて原文を読みたいものです。
 『〈感動の体系〉をめぐって-谷川雁 ラボ草創期の言霊』(松本輝夫編、アーツアンドクラフツ)は以前紹介していますので本のコーナーを探してみて下さい。

■福田三津夫様
  『感動の体系をめぐって』の本は、ラボをはじめた谷川雁の文章や講演記録を集めたもので、谷川雁を知らない世代のテューターでも彼の考えにふれることができる貴重な本です。 今や、彼に会ったこともない、話を聞いたこともない、というテューターがほとんどです。 写真で見るのとは違って、声も聴くことのできる動画をYouTubeで見つけました。 谷川雁の盟友・井上光晴(作家)への弔辞の動画です。1995年6月15日NHK・ETV特集「詩人・谷川雁―坑夫と、安保と、革命と―」(45分)のなかの弔辞の場面です。
 下記をクリックして見てください。
https://www.youtube.com/watch?v=Co5eTpzLt8E&feature;=youtu.be&list;=TLPQMjcwODIwMjAPAGa2gbmCWA
                                                       矢部 顕

〔301〕コロナ禍でも「さようなら原発首都圏集会に1300人、サイレントデモ」。清瀬でも連帯の駅頭行動です。

2020年09月20日 | 市民運動
 さようなら原発首都圏集会はフクシマ原発事故以来、ほぼ年2回春秋に代々木公園などで開催されてきました。私たち清瀬の市民グループは極力この集会に参加してきたのでした。
 ところが今年の春、コロナ禍のためこの集会は不開催になってしまいました。
  9月18日(金)、日比谷野外音楽堂で1年ぶりの集会が復活しました。
 清瀬の仲間と相談して、今回は、集会と同時刻に清瀬駅北口のペデストリアンデッキで連帯の演説とチラシ配布行動を行うことにしました。
 
  まずは中央集会の様子をたんぽぽ舎メルマガの記事(柳田真さん執筆)で紹介しましょう。


┏┓ 
┗■1.さようなら原発首都圏集会に1300人、サイレントデモ
   とめよう!東海第二原発首都圏連絡会300人声出しコール
     キラキラ光る横断幕・のぼり旗-銀座デモで訴え
 └────柳田真(とめよう!東海第二原発首都圏連絡会・たんぽぽ舎)

○さようなら原発首都圏集会が9月18日(金)夕方、日比谷野外音楽堂で
開かれ1300人が参加しました。会場入り口ではコロナ対策の検温(自動
サーモメターで)をしました。
  落合恵子さん(作家・呼びかけ人)が主催者挨拶、佐高信さんが飛び
入り発言、フクシマの訴え、六ヶ所再処理工場問題の訴え、東海第二原発
再稼働の不当性と裁判での闘い、地元での活動を相良衡さん(茨城平和擁
護県民会議)が報告、などがあり最後に閉会挨拶が鎌田慧さんでした。
○今回の日比谷集会は春の集会がコロナで中止になったので、今年初めて
の大集会でした。恒例の労働組合の参加がほぼない中で、1300人集まりま
した。そのうちの東海原発NO!の隊列は300人(3列×90人=270人プラ
ス街頭でのチラシ配布など)で、「東海原発NO!」を訴えました。
 同時に道行く人に東海原発の危険を訴えるやさしいチラシ(改訂版)
“えっ!知らなかったの?あなたの近くのキケン原発!それが東海第二
げんぱつ”という女の子の絵のチラシを配りながらデモ行進をしました。
コロナを警戒し、配布者は薄い手袋をしてチラシ配布。
 宣伝カーがないため、ハンドマイク数台でアナウンスとコールをし、都
民に訴えましたが、距離を取って300人にもなると、ハンドマイクだけで
は限界がありましたが、みんなよく頑張りました。
 解散地では、次の行動の日程アピール(10月7日(水)原電本店・東電
本店抗議、11月27日(金)屋内集会)してすぐ解散しました。
○とめよう!東海第二原発首都圏連絡会はコロナ下でも活動を工夫して続
け、萎縮せず2020年の1月2月3月4月5月6月7月8月9月と、9ケ月の毎月行動
(第1水曜日に日本原電本店前行動)を実行してきました。 東電本店合同
抗議実行委員会がその後に行動。50人-80人でしたが、毎月大衆行動をし
てきた実績があります。その蓄積の上に9月18日(金)には300人列の大き
な隊列ができて、東電本店前や銀座で皆でコールし訴えました。

  ○9.18さようなら原発首都圏集会後のデモ行進
   https://www.youtube.com/watch?v=oF9NfnEp8r0 約5分

   ○2020.09.18 さようなら原発首都圏集会@日比谷野音・集会本編
     https://www.youtube.com/watch?v=1PLvI4Zt-24    約52分


  清瀬の行動では、さようなら原発集会のチラシ(裏に署名用紙)と布施由女市議会便り「ゆめ通信」を配布しました。私は、マイクを握って鎌田慧さんのコラム「沈思実行」(新社会、「新首相迎撃集会」2020年9月15日)、朝日新聞社説「原子力政策 課題を先送り繰り返すな」2020年9月18日)を紹介し、道行く人に訴えかけました。1時間でほぼ100枚のチラシがなくなりました。
 当日の写真です。(撮影は福田緑)


〔300〕ブログ300号記念は矢部顕さんの「綿の木に綿が実りました」です。

2020年09月16日 | メール・便り・ミニコミ
 久しぶりの矢部顕さんからの「綿の木に綿が実りました」というお便りです。
 そして、なんと本ブログも300号になりました。良く続いたと言った方が良いのでしょうか。これからも息長く書いていきますのでどうぞよろしくお願いいたします。

●福田三津夫様
 綿の木に綿が実りました。ご覧になったことはありますか?
 昔むかし、わたくしが住んでいた大倭紫陽花邑の機関紙「おおやまと」の表紙に、小生の栽培した綿の写真が採用されました。何らかの不具合で、予定されていた写真が使えないので、差し替え的に、季節外れではあるのですが 、綿の写真となったようです。
 5月に種を蒔いて、木に成長して、花が咲き、12月~1月ごろに実がはじけて綿ができます。、
 その写真説明が長いのです。紙面のスペースが余っていたので、それを埋めるために、長~い文章の写真説明です。添付します。
 
                                            矢部 顕



■「倹約令の立て札」と糸紡ぎ
                                                         岡山市 矢部 顕

  江戸時代末期の「倹約令の立て札」が近所の旧家で発見(2013年)されたのですが、ほんとびっくりしました。その後、その「立て札」を見せながら小学校(6年生)の歴史の授業を行いました。
 この「倹約令の立て札」の最初の文はこうです。―当村(沼村)は昨年と今年の水害で百姓はたいへんに困窮している。(中略) そこで左記のように倹約を申し付ける。―(以下、条文)
 「立て札」に書かれている条文のひとつに「綿の商人以外は村に入ることを禁じる」というのがあって、沼村は商品作物の綿を栽培していたことがわかります。(沼村は、わたくしの住まいしているところで、今は岡山市東区沼という住所です)。
 江戸時代の綿栽培については、何十年かぶりに『カムイ伝』(白土三平著)を読み返し勉強しました。学生時代に読んでたいへん感激し、多くの友人に薦めた記憶があります。全巻を揃えていたのですが、あちこちに貸し出しているうちに、いつの間にか失くなってしまいました。いま読みかえしても凄い漫画、というか鋭い歴史書です。
 「倹約令」が江戸時代末期に何度も発令されたことは、ペリー来航と関係があることを初めて知りました。ペリー来航のようなことが、今後たびたび起こることを予想して幕府は各藩に対して三浦半島や房総半島の沿岸警備を命じたのです。各藩は兵隊を派兵するために出費を強いられますので、年貢の取り立てが滞ることを恐れたようです。それで 「倹約令」の頻繁な発令となったようです。
 「ペリー来航」は歴史で習いましたが、「なぜペリーは日本に来たのか?」を習った人はいるのでしょうか? そのころ日本近海には200隻以上のアメリカの捕鯨船が操業していたが、目の前に見える日本列島の港に入港すれば水や食料が手に入るのに鎖国政策でそれが出来ない。アメリカの捕鯨業の利益のために、つまり当時のビッグビジネスのためにアメリカ政府がおこなった脅かしだったのです。いまアメリカは日本が捕鯨をすることを非難していますが、当時は最大の捕鯨国だったのです。まぁ、そういうことをわたくしは小学校の日本史で語ったのでした。
 次の時間には、実際の糸紡ぎ体験です。綿から糸を紡ぎ、機織りで糸から布をつくり、布から衣服をつくる、という、江戸時代から昭和15年くらいまで行われていた村の暮らしの一部の「糸紡ぎ」を経験させました。
 各自にあらかじめ材料を渡しておいて自作した紡錘車(スピンドル)で糸紡ぎに挑戦しました。どのようにするのか実際にやって見せなければなりませんので、練習しましたが、コツをつかむまでけっこうたいへんでした。クラスで2,3人は初めての体験なのに上手にできる子がいて驚きました。江戸時代にこの辺りで綿を栽培したのは、綿から何を作るためなのか? 「綿飴をつくるためだと思う人?」と問うたら、ひとり手があがりました。冗談が通じる子だったのか、どうだか・・・・
 今年、はじめて畑に綿の種を蒔いてみました。いま1.5mくらいに成長し、花が咲き、実がなり、その実がはじけて、白い綿が出てきました。綿があらわれたときはなかなか感動的でした。綿の木を小学校の校舎横の花壇に移植して、綿が出来る様子を子どもたちが見ることが出来るようにしました。


 私の簡単な返信もどうぞ。

●矢部顕様
 お便りありがとうございます。お元気そうでなによりです。
 以前どこからもらったのか(妻の関係か)綿の種を播いて、2,3株花が咲いたのを覚えています。懐かしいですね。
 アメリカが捕鯨のために開国を迫ったこと、もう少しテレビでも報道されても良いのになと思ったことが最近ありました。
 矢部さんのメールと添付の文章、またブログに掲載させて下さい。よろしくお願いいたします。福田三津夫

〔299〕柳原敏夫さんの「6年間の子ども脱被ばく裁判のふり返りとチェルノブイリ法日本版の現時点の課題」です。

2020年09月12日 | メール・便り・ミニコミ
 直近ではブログ〔282〕にご登場いただいた柳原敏夫さんのメールを紹介します。コロナ禍のなかでこうして頑張っている人がいると励まされます。元気のお裾分けです。

●福田さま

柳原です。
依然、猛暑が続きますが、その後、いかがお過ごしでしょうか。
7月末に、子ども脱被ばく裁判の最終弁論が済んだあと、実はガクッとなりまして、しばらく呆然自失状態でした。

そろそろ猛暑も終りが見えて、また腰をあげなくては、と、今年1月以来、忙しくてアップできていなかったブログの再開と、6年間の子ども脱被ばく裁判のふり返りとチェルノブイリ法日本版の現時点の課題について、トライしました。
以下、その近況報告です。

1、以下は昨日書き上げた、子ども脱被ばく裁判の6年間の個人史です。ふり返って実感したことは裁判というのは格闘技です、一応、知的格闘技ですが。とりわけ今回の裁判はリングの上での血みどろの格闘技だったというのが率直な印象です。
また、この裁判はしょっちゅう、想定外の展開でした。その中には闇に突き落とされる場合と光に導かれる場合の2通りがあり、光に導かれる場合には、そこに「天使」がいたことに、昨日気がつきました。35年以上前、雨の中をチャリに乗っていて研修所に出勤途上、乗用車と出会い頭に衝突して、空にほおり投げられたのですが、路面に叩き付けられる瞬間、身体が宙に浮いた、そのおかげで落下の衝撃が和らぎ、事なきを得ましたが、その奇跡に遭遇して以来、「天使」の存在を信じるようになりました。
また、改めて、実にたくさんの人たちの支援、協力、応援に支えられて、やってきたのだということを実感しました。この場を通じて感謝申し上げます。

【第48話】6年間の脱被ばく子ども裁判の審理終結にあたって――「一寸先は闇(光?)」の連続、その都度が己の正体が裁かれる試練の時――(2020.9.10)
https://seoul-tokyoolympic.blogspot.com/

2、以下が、昨日書き上げた、チェルノブイリ法日本版の現時点の課題についてのコメントです。映画「ペパーミント・キャンディー」に触発されて、考えたことを書いたものです。

チェルノブイリ法日本版の会が現在直面している悩みや壁のことを考えながら、この映画を読み返したら、「こいつはオレの映画だ」と改めて、この映画の恐ろしさに震撼し、凄さに圧倒され、途中から映画マニアの解説文みたいになりました。

【第49話】非日常が日常を貫く様をリアルに描いた映画「ペパーミント・キャンディー」、それはまるで最後の審判を下す福島原発事故とチェルノブイリ法日本版だ(2020.9.11)
https://seoul-tokyoolympic.blogspot.com/2020/09/blog-post_11.html

3、子ども脱被ばく裁判の証人鈴木眞一、山下俊一関係の被告との攻防、書面のやり取り、証言の報告は以下です(9月のアーカイブの5つの投稿がそれです)。

https://darkagejapan.blogspot.com/

これから、富士吉田市に出かけてきます。久々の外出です。
どうぞお元気で。取り急ぎ失礼します。


  そして敬愛する鎌田慧さん!

◆一難去ってまた一難
  アベ泥沼政治が継承されるのか

                鎌田 慧(ルポライター)

 本日8日。自民党総裁選告示。とはいってもすでに決着はついている。
菅義偉官房長官勝利、と誰もが思っている。
 対立者の石破茂元幹事長が「詐欺まがいの総裁選」(「週刊朝日」
9月11日号)と言うのだから穏当でない。

 総裁当選者はすなわち日本国首相となるのだから、首相が詐欺に
よって選ばれた、ということになって、国辱ものなのだ。
 石破氏が「詐欺」というのは、党則に定められている党員選挙を、
政治的空白が起きるから今回はやらないということだ。国会議員票と
各県連票のみで決定するとなった。

 政治的空白というなら6月の通常国会閉会後、野党が国会延長を
もとめても拒否して、モリ、カケ、サクラ、クロカワ、河井アンリ、
さまざまな疑惑に答えず、2ヵ月半も記者会見を行わなかった空白が
大きかった。
 30%台に落ちた支持率は、病気辞任によって急増した。「怪我の
功名」というべきか。
 政治家はとにかく病気を隠すのが通弊だが、車列を連ねて
慶応病院へ。俄(にわか)に起こった判官びいき。

 断腸と痛恨、病状悪化の本人は退任劇で同情を引きつつ、憲法違反の
「敵基地攻撃能力保持」に挑戦、改憲挫折のリベンジを謀る。
 菅総裁候補は多数派閥の支持を取り付けアベ政治を継承する、と
明言している。
 泥沼政治が継承され、追い詰められた辞任で逆転、継続される。
(9月8日東京新聞朝刊21面「本音のコラム」より)

〔298〕追悼・久米明さん。1回だけの思い出深い貴重な朗読講習体験でした。

2020年09月09日 | 追悼文
  俳優・声優の久米明さんが96歳で長寿を全うされました。
 こんな新聞記事が出ていました。

●俳優・声優の久米明さん、心不全で死去 96歳(朝日新聞)2020年4月23日

 俳優や声優として活躍した久米明(くめ・あきら)さんが23日、心不全のため東京都内の病院で死去した。96歳だった。通夜・葬儀は近親者のみで行う。
 1924年、東京生まれ。東京商科大(現一橋大)を卒業した後、演劇集団ぶどうの会、劇団昴(すばる)などを経てフリーに転身。テレビやラジオ、映画などで幅広く活躍した。
 日本大学芸術学部で教授として後進の育成にあたり、92年に紫綬褒章、97年に旭日小綬章を受章した。
 声優やナレーターとしても知られ、昨年までNHKのバラエティー番組「鶴瓶の家族に乾杯」のナレーションをつとめていたが、体調不良のため降板していた。


 私が久米さんに出会ったのは「日本大学芸術学部で教授として後進の育成にあたり」という時期でした。
 1972年に小学校教師としてスタートした私は、生活教育から演劇教育へシフトさせて大学講師の現在に到っています。
 1970年代後半から、まずは演出家や役者などの演劇関係の講師から集中的に学んだ時期が十数年ほどありました。80年代のあるとき、日本大学芸術学部(江古田)で日本演劇教育連盟の研究集会が開かれ、私は久米さんの朗読講座の世話人として立候補しました。
 朗読には関心が高く、それまでにも竹内敏晴、酒井誠、岸田今日子、冨田浩太郎、巌金四郎、小森美巳、太宰久夫さんらから朗読に関する考え方や技術などを学んできたのでした。
 日本大学芸術学部の校門前の喫茶店の二階で、久米さんと事前の打ち合わせを世話人2人で緊張しながらしたことを覚えています。若輩者の私たちに偉ぶらず紳士的に対応してくださったのが印象的でした。温かい人柄が感じられました。

 朝日新聞の「惜別」欄に、「控えめで渋く ボギーのように」という素敵な記事が載りました。三ツ木勝巳さんという記者の名前を記憶しておこうと思います。

■(惜別)俳優 久米明さん 2020年8月29日 4月23日死去(心不全) 96歳
「戦争で生き残り虚脱していたら、そこへ芝居が舞い込んだ」と話していた久米明さん=2012年 (写真の解説)

 ■控えめで渋く、ボギーのように
 新劇に一目ぼれし、ラジオ、テレビのドラマでも活躍した。洋画の声優、NHK「鶴瓶の家族に乾杯」の語り……。いずれも達人の域にあった。(以下略)


 久しぶりのおまけ、鎌田慧さんのコラムをどうぞ。

 ●壮大なゼロの記録
  安倍政治は自民党議員を支配、護送船団的官邸官僚と官僚支配の
  内閣人事局を駆使、憲法無視で突っ走ってきた

     鎌田 慧(ルポライター)

 安倍首相はジコチュウの代表である。
 退任記者会見で森友、加計、サクラ問題などへの批判が強かった
のは、政権の私物化批判だったのではないか、との質問に対して
「政権の私物化はあってはならないことであり、私は政権を私物化した
というつもりは全くないし私物化もしていない。まさに国家、国民の
ために全力を尽くしてきたつもりだ」。
 まず能書きをいい、それはないと否定し、美辞麗句を並べたてて
反撃する。安倍話法である。

 今回も「全身全霊を傾けて」「痛恨の極み」「断腸の思い」。
 政治は言葉だが、彼の言葉は自己防衛か、「地球儀を俯瞰(ふかん)
する」など、空疎な自己美化である。相手の心に届く言葉ではない。
 記憶に残るのは東京オリンピック招致のための欺瞞(ぎまん)語。
「アンダーコントロール」。福島第一原発事故から9年半、まだコント
ロールできていない。
 「憲法改正の世論が十分に盛り上がらなかった」。7年8ヵ月かけて
も、最大の目標だった憲法改定を達成できなかった。

 安倍政治は小選挙区制を利用した公認権と資金で議員を支配、護送
船団的官邸官僚と官僚支配の内閣人事局を駆使、憲法無視で突っ走ってきた。
 最後っ屁は「敵基地攻撃能力の保有」。専守防衛を破る発言をした
直後、史上最長在位の記録を達成するや、あっさり敵前逃亡。
 言葉への責任感はない。
   (9月1日東京新聞朝刊23面「本音のコラム」より)

〔297〕あまんきみこさんの新刊絵本『あるひあるとき』は「戦争の日常、幼い私の喜び悲しみ」が凝縮されたものです。

2020年09月04日 | 図書案内
  あまんきみこさんの新刊絵本『あるひあるとき』(のら書房)を手にしたのは朝日新聞の次の記事を読んだからでした。

■戦争の日常 幼い私の喜び悲しみ/大連にいたこと 重たかったが人生の芯/あまんきみこさん 体験を絵本に(朝日新聞)2020年8月15日

 「ちいちゃんのかげおくり」などの作品で知られる児童文学者あまんきみこさん(89)は今夏、初めて旧満州・大連での自らの戦争体験をテーマにした絵本「あるひあるとき」を出版しました。「ずっと重たかった体験」に正面から向き合った今、思うことは――。

 「子どもだった私の日常には戦争がありました。私は旧満州(中国東北部)生まれです。9歳の時に大連に引っ越し、南満州鉄道の関連会社で働いていた父、母と祖父母と暮らしていました。」と本文は続いていきます。
  あまんさんの代表作『ちいちゃんのかげおくり』はもちろん読んでいたのですが、大連での戦争体験については知りませんでした。それもそのはず、彼女自身が今まで一度も語らなかったからです。
 『あるひあるとき』は近隣の本屋さんにはおいてなく、アマゾンで取り寄せることにしました。ブックオフ通いが通常で年金暮らしの私が新刊本を購入するのは珍しいことでした。
  本は昨日届きました。2020年7月初版発行で、手にした本は9月あっという間の第2刷でした。評判は上々のようです。朝日の記事が効いているのでしょうか。きっと他紙でも紹介されているのではないでしょうか。

  本は一人っ子のあまんさんが戦前大連で暮らした生活を描いています。戦争が終わり日本に引き揚げるとき大切にしていたこけしを手放さざるをえなくなります。その理由とは…、ネタバレになるのでここは秘密です。戦争反対! などと声高に語るのではなく、戦争の非人間的な側面を穏やかに描いているのはあまん流と言えます。
 インタビューをまとめた記事に次のようにあります。

「…旧満州はずっと心にあり、調べるために国会図書館に通いました。そして、ようやくそこで満州事変は日本軍の工作で起こったのだと知りました。/それまで教わったことはうそだった。私よりもつらい思いをした人がたくさんいた。私はそのことを何も知らなかった。涙があふれました。自ら学び、考えないといけないのだと痛感しました。それからずっと、大連にいたことが、重かったのです。」

  最後にこう語っています。
「戦争の根本は『相手に殺される前に殺す』ということ。戦争だけはやめてね。若い方、どうか頑張って。私の遺言です。」

 蛇足を1つ。あまんさんとの出会いについてです。

 雑誌『演劇と教育』(日本演劇教育連盟編、晩成書房)を編集しているとき、「○○を遊ぶシリーズ」を毎年1回、私が企画特集しました。2008年7月号は「谷川俊太郎を遊ぶ」、2009年からは工藤直子、まどみちお、阪田寛夫、佐野洋子、と続き、2013年は「あまんきみこを遊ぶ」でした。
  特集の巻頭言をあまんさんに、大胆にも、ダメ元で私が手紙でお願いすることにしました。「白いぼうし」(あまんさん作)を国語で何回か授業したときの子どもたちの反応などを書き連ねました。なんと、あまんさんは快く、執筆を引き受けてくださり、エッセイ「思い出すままに-秘密の一人芝居」を書いてくださいました。これはまさに大連での一人遊びの思い出でした。
 その後あまんさんには夫婦のミニコミ「啓」が100号で終刊するまで読んでいただいたのでした。