幸せに生きる(笑顔のレシピ) & ロゴセラピー 

幸せに生きるには幸せな考え方をすること 笑顔のレシピは自分が創ることだと思います。笑顔が周りを幸せにし自分も幸せに!

「アウシュヴィツ生還者からあなたへ 14歳、私は生きる道を選んだ」リリアナ・セグレ著 ”一歩前へ、一歩前へ”

2024-05-20 00:25:00 | 本の紹介
・「今年はもう、リリアナは学校にいけない」
 私は小学校三年生になろうとしていました。・・・
「どうして、もう学校に行けないの?」
「お前は学校を退学させられたんだよ」・・・
「なぜ? なぜ? どうして退学なの?」・・・
「私たちがユダヤ人だからなんだ。そして新しくできた法律がユダヤ人はこれや、あれや、こんなこととかもうやってはいけないと決めたのだよ」
 それはファシスト政権がつくった「人種法」と呼ばれる法律のこと
でした。

・ファシストの人種法はつらく、屈辱的なものでしたが、私たちを収容所に送ることまでは考えていませんでした。しかし、9月8日以降は、ナチスが彼らの人種政策をイタリアにも押し付け、ユダヤ人への弾圧を強めたのです。国外へ逃亡しようと考えるユダヤ人が増えました。しかし、誰もができたわけではありません。

・私が終身上院議員として初めて議会に足を運んだ日のことを思い出します。私が背負い続けた重荷によって終身上院議員の道が開けたというのは、まさに人の一生の不思議さを物語っています。議場で私はこう言いました。
 「私は山を越えて不法に国境を越えようとした人間でした。そうしなければ死が待っているから、亡命を試みたのです」
 しかし、結局、亡命はかないませんでした。案内してくれた男性がファシストの体制に忠実だったからです。

・ミラノの北のバレーゼにある収容施設で男女別々にされ、13歳だった私も父も引き離されました。そこで犯罪者のように写真を撮られ、指紋を採られました。「どうして?」学校から追い出された時と同じように、その疑問に誰も答えてくれませんでした。なぜなら、筋の通った答えなどなかったからです。それからコモの施設へ、ミラノのサン・ヴィットーレ刑務所へ移されました。そこの五番目の棟の202号室で、私と父は40日間収容されました。そこが、私たちが一緒に暮らした最後の家となったのです。

・冬のアウシュヴィツ
 1944年2月6日、雪に覆われた平原が広がっていました。・・・
私はその選別で、どんな運命の巡りあわせなのか、30人くらいの若いイタリア人女性たちと一緒にされました。・・・そこはアウシュヴィツ・ビルケナウ強制収容所の入り口でした。

・腕に数字の入れ墨を彫られました。簡単に消えるものではなく、何十年もたった今も私の「75190」ははっきりと読めます。
 入れ墨の後は、服を脱がされ、髪の毛をそられ、裸にされました。あざけりの笑いをあげながら、さげすんだ目でながめるドイツ兵が目の前を通り過ぎました。

・医師メンゲレの無言の選別
 私が若い人たちを前に話をするたびに、そして今日もぜひ言いたいことがあります。
「どんな時でも生きることを選びなさい」
 私が生きのびたのは偶然でしょう。あんな信じられない日々を生きのびたのは偶然でしかないのですが、私が選んできたのは生きることでした。

・裸になることを強制されたのです。あちこちにうみやかさぶたができた、みじめな姿でした。そんな体をさらして通路を進みました。その先には「裁きの場」があり、男が3人いました。一人は軍人、一人は医師でした。その時は医師の名前は知りませんし、知りたくもありませんが、彼こそがヨーゼフ・メンゲレでした。・・・
 メンゲレがあごをちょっよ動かすだけです。その仕草が、ガス室に送るのか、まだ働かせるのかの合図でした。
 まだ働けるとわかった時は、なんともうれしい素晴らしい瞬間でした。

・私がこうした場で必ずお話しする「死の行進」と呼ばれるものです。栄養失調で骨と皮だけのやせ細った体にもかかわらず、数百キロの距離を何か月もかけて歩かされ続けました。

・私はあなたたち若い人に言っておきたいことがあります。自らの弱さやうまくいかないことを誰かのせいにしてはいけません。あなたたちは強いのです。とても強くなれるのです。それは自らの人生において、まさにあなたたちの年ごろに、身をもって知ったことです。

・飢えるとは、どういうものか? 飢えは人から正気を奪います。・・・
 しかし、その馬は死んでいました。植えていた私たちにとって、その肉はかけがえのないものでした。・・・でも、それは本当におぞましい感覚でした。道端で死んだ馬よりも、私たちは哀れな存在だったのです。なぜだか、わかりますか? 私たちの体は生きていても、その人間性は死んでいたのです。そうしてでも、生きのびたかったのです。

・考えもつかない、思いがけないことが、その時起こったのです。見張り役の兵士たちが軍服を脱ぎ、一般の市民が着るような服に着替え始め、連れていた犬たちを放して自由にしました。・・・
 それだけではありません。近所のドイツ人の住民たちも、それぞれの家から逃げ出そうとしていました。

・18歳でした。彼に会ってすぐ、私はそれまでの私ではなくなったのです。もう太りたいなんて考えませんし、きれいな服を着たいと思いました。ええ、恋に落ちたんですね。
 愛を語る言葉が、暗闇の日々だった私の人生を一変させました。そして、私自身も変えました。なぜなら彼に気に入ってもらいたかったし、みんなと違う存在でいたくもありませんでしたから。
彼は私を受け入れ、そして励まし、導いてくれました。私は、彼の言葉に耳を傾けました。この出会いによって、私の長く続いた重苦しい歳月は過去のものになったのです。

・アウシュヴィツ収容所からドイツへ向かって、他の囚人とともに何か月も歩かされた「死の行進」について語る時、私は自らに言い聞かせ続けた言葉をいつも口にしています。
「前に進むのよ。自分の足で、一歩、また一歩」
これが私からのみなさんへのメッセージです。あの「死の行進」は、生きていくための歩みとして今も私を支えているのです。

感想
 イタリアでもユダヤ人を強制収容所に移していたことを知りませんでした。
生き残ったのは偶然、いろいろな幸運と体力などがその偶然を掴んだのでしょう。
 生き残った人の発言、人が行った残酷なことの証拠になるのでしょう。
そして多くの人がその残酷なことに協力したのです。協力しなければ逆に捕まる社会になっていたのでしょう。
 そして立場が変わると逃げようとするのです。
 まずは知ること。そして自分がどうするかを考えていくことなのだと思いました。

 今絶望の状況にいると思っていても、生き続けているとそれは変わるのです。
生きていてほしいと願います。
「前に進むのよ。自分の足で、一歩、また一歩」
「一寸先は闇でも、その一寸先には光がある 」
それを信じて、一歩、また一歩と歩む。
歩めないなら生きているだけでも十分。
息を吸って吐く
食べて出す
寝て起きる
その今の苦しみにもきっと意味があり、その体験が必ず後で生かせる時が来ると信じる。


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「アウシュヴィッツの音楽隊」シモン・ラックス&ルネ・クーディー共著 ”歴史を知り、同じ間違いを繰り返さない”

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「4歳の僕はこうしてアウシュヴィッツから生還した」 "人の中にある差別や利己的な考えがヒトラーを生み出した” 

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