真夜中のドロップアウトカウボーイズ@別館
ピンク映画は観ただけ全部感想を書く、ひたすらに虚空を撃ち続ける無為。
 



 「痴漢電車 潮吹きびんかん娘」(1996/製作:旦々舎/配給:大蔵映画/脚本・監督:山邦紀/撮影:河中金美・田中誠二・根津信哉/照明:上妻敏厚・新井豊/編集:酒井正次/音楽:中空龍/助監督:タチバナヨシアキ・松岡誠/制作:鈴木静夫/効果:時田滋/スチール:岡崎一隆/録音:ニューメグロスタジオ/現像:東映化学/出演:小泉志穂・桃井桜子・泉由紀子・久須美欽一・山本さむ《友情出演》・荒木太郎)。
 傾(かぶ)いたサングラス、ではなく水泳用のゴーグルを帽子に合はせた小泉志穂が、バスケットを左手にフラフラ歩く姿に、何故かブクブクブクと水中を思はせるSEが被さる。覚束ない足下は、恐らく意図したものか。広い河原の真ん中にポカーンと生えた木々を背負つた、エクストリームに幻想的なロング・ショット噛ませて、今度は背中から抜いた主演女優の、画面奥を電車が右から左に通過して何故かノイジーな劇伴とともにタイトル・イン。混雑する車中、ハンチングの荒木太郎に続き、キャップを前後ろに被つた痴漢師が、大絶賛ヒムセルフの山本さむではないか!因みに、友情出演といふのが本当に友情に基いてゐるのが麗しい山本さむとは、ex.御馴染み小多魔若史先生。「痴漢電車 おさはり多発恥帯」(1998/主演:篠原さゆり)以来離れてゐる、山痴漢電車を見るのは初めてであることもあり、昭和末期平成初期だけでなく、九十年代後半に―感動的に変らない―小多魔若史先生の御尊顔と雄指もとい雄姿を拝めるとは全く予想外ゆゑ素面で驚いた。山痴漢電車はもう二作DMMのピンク映画chに見当たるので、見られるだけ見てみよう。山本さむの巧みな指戯に悶える泉由紀子を注視する荒木太郎の脇に、隣の車輌から小泉志穂が割り込んで来る。荒木太郎はコンドームを着けた怒張を小泉志穂の下半身に擦りつけ、射精に至る。駅を出た専門学校講師・花山三伍(荒木)に、三伍の授業の生徒・瀬戸林檎(泉)が声をかける。誰に限らず人の顔を覚えない三伍に、何故か林檎が積極的なアプローチを展開するのを、歩道橋から水子(小泉)が見守る。その頃花山家、長い病を患ひ保健所勤めを休職中の三伍の父・市六(久須美)が、ドス黒い顔で床に伏せる。そこに和服姿で見舞ひに来る桃井桜子は、三伍からは多分従姉妹に当たる池之端かすみ(桃井)。かすみの色香に触発されたのか、その夜市六は出し抜けに女のいはゆる潮吹きを飲むと病気が快方に向かふかも知れないだとか言ひ出し、医学を齧つた身ではないのかと三伍を呆れさせる。
 エクストリームな感動作「変態願望実現クラブ」(主演:岩下あきら)二作後(薔薇族含めると三作後)の今作は、乱雑に片付ければ近作を髣髴とさせる過積載の消化不良作。再び電車の車中で再会を果たし、潮吹き―びんかん―娘かもと三伍に招かれ花山家に逗留する水子の、それは確かに突破力を有した秘密。三伍が独善的に振り回す、“摩擦によつて快感を得る、極めて正統的かつ洗練された行為”とするフロッターリズムと、その癖一方では誰にも干渉されぬ静かな生活を望む、調子のいい隠遁主義。フロッターリズムの実践に際しては、他者の存在を自堕落に要求するのは何処のどいつだ。単なる下心スレスレの市六の潮吹き渇望に、挙句正しく薮から棒にかすみが振り回す文字通りの飛び道具。畳むことを考へない風呂敷が徒に拡げられ続ける中、唯一地に足を着けた林檎の視点も今ひとつ心許なく、小多魔先生は自分の持ち場の電車痴漢の枠内から半歩たりとも外に出ではしない。悪し様にいつてのけるが、ここで盟友を連れ出したのは、更に一層尺を削る寧ろチェック・メイトではなかつたらうか。随所で画的な煌きは轟かせつつ、物語的には大いに覚束ない一作。中盤以降随所で繰り返される、水子が水の中に没する青基調のヴィジュアルは「レディ・イン・ザ・ウォーター」から触発されたイメージかと一瞬勘違ひしかけたものの、よくよく思ひ返してみると「レディ・イン・ザ・ウォーター」は今作十年後の2006年。そもそも、シャマランが「シックス・センス」でブレイクするのですらが1999年である。


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 「ハレンチ牝 ひわい変態覗き」(2009/製作:旦々舎/提供:オーピー映画/脚本・監督:山﨑邦紀/撮影:大江泰介・鷲田進/照明:ガッツ/助監督:金沢勇大・関力男/応援:田中康文/編集:有馬潜/音楽:中空龍/録音:シネキャビン/タイトル:道川昭/現像:東映ラボ・テック/協力:かわさきひろゆき・セメントマッチ/参考図書:『女性を捏造した男たち―ヴィクトリア時代の性差の科学』シンシア・イーグル・ラセット著・工作舎刊/出演:朝倉麗・倖田李梨・佐々木共輔・荒木太郎・平川直大・丘尚輝・ささきふう香)。かわさきひろゆきと、池島ゆたかの制作プロダクションであるセメントマッチの協力が、劇中どの部分に表れてゐるのかには辿り着けなかつた。
 縁側で眠る浴衣姿の女のイメージ・ショットに、荒木太郎のモノローグが被さる、「物いはぬ、昼寝する女ほど美しいものはない」。
 ケーブルTVの討論番組「ガチンコ闘論」にて、ラディカルなフェミニズム学者・露草しずく(倖田)と、「女権撲滅道場」などといふ、看板のノー・ガードな潔さが寧ろ清々しささへ感じさせかねない女性蔑視団体の主催者・荒畑寛司(荒木)とが、最早当然の成り行きで激突する。何処そこの研究結果によれば男よりも一般的に小さな女の脳はゴリラにより近いだの、女の参政権は二人で一票で十分だなどと、無茶苦茶な放言を垂れ流す荒畑の姿に露草だけではなく、放送を見てゐたSMのキカ女王様(ささき)と、エロすぎる市会議員候補、から実際に市議となつた麻美多鶴(朝倉)は激昂する。ここで丘尚輝は、終始従順に責められるのみのキカ客。薄いグラサンで武装しバイオレントな秋田弁を駆使する平川直大は、裏で糸を引き最終的には妻を国政の場へ送り込まんと画策する、多鶴の夫・友一。今回序盤から好調に飛ばす山﨑邦紀の映画に、情報量は軽やかに多い。キカ女王様は、恐らくペドロ・アルモドバルの「キカ」(1993/西)とは特に関係ないやうに思へる。多鶴の事務所に貼られた二種類の選挙ポスターに躍るキャッチフレーズが、「女の欲望を市議会へ!」に、「エロスと政治の結婚」。市政レベルとはいへ、こんな底の抜けた候補を通したのは何処のお調子者の有権者だ。そしてヴィクトリア時代の偏向した疑似科学を告発した参考図書の反映は、歪曲した荒畑の立ち居地にダイレクトに認められる。ところで「ガチンコ闘論」は、露草の挑発に無闇に乗る形で荒畑が“腐れマ○コ!”を連呼し始めたため、強制終了される。2009年は薔薇族映画―勿論大絶賛未見―とピンクを各一本きりしか発表してゐない山﨑邦紀は、余程力を余してゐるやうだ。喜べばいいものやら如何なものやら、複雑なところでもある。
 学者とSEXワーカーと政治家といふ、互ひの職種の相違も超え露草とキカ、多鶴は女性主義の錦旗の下に共闘してゐた。露草を援護すると同時に自らの鬱憤も爆発させるべく、「女権撲滅道場」に押しかけたキカと多鶴を、平素は相談者にすら会はないといふ荒畑に代り、師範代の笹沼泥沼(佐々木)が出迎へる、どんな名前なのだ。といふツッコミは思ふ壷であらうところなので兎も角、仕方のないことをいふやうだが、新作で久し振りに見た―「デリヘル嬢 絹肌のうるほひ」(2002/監督:池島ゆたか)以来か―佐々木共輔は、些か加齢も感じさせる。「ガチンコ闘論」出演時のエキセントリックな荒畑の様子とは対照的に、普段は隆盛する女の勢ひに押され気味の、弱い男達に対する一種のカウンセリングに当たつてゐるといふ笹沼は穏やかな、どちらかといはずとも姿勢の低いやうな人物だつた。通した部屋で文字通り重量級の女傑二人を相手に苦戦を強ひられる弟子の様子を、覗き穴を通して荒畑は隣室から窺視する。弾みで掴んだ多鶴の手を通して、笹沼は「レディ・イン・ザ・ウォーター」よろしく青く澄んだ水の中に沈む、多鶴の心象風景に触れる。笹沼はさういふ一種のテレパスであり、現に多鶴は、自分が友一のいはば操り人形でしかないことに、疑問を感じぬでもない隙間を心に抱へてゐた。その場は繕ひながらも本心を見透かされ動揺も隠せない多鶴は、キカとも対立し飛び出して行く。
 一匹の奴隷はさて措くとして、女性恐怖にも似た特殊な性癖を喧伝の底にひた隠す活動家。何れも沸点の低い攻撃的な女達に物静かな能力者と、ギラギラし放しの野心家。奇人怪人が激しく撃ち合ふ苛烈な応酬の中を、実は実直なドラマが粛々と進行して行く。前面の奇矯な飛び道具を、最終的には冷徹な論理が統べる様が、性的な倒錯の濃度は低くもあるが実に山﨑邦紀らしい一作。メイン話者の傍らで他者が視線や身体を僅かに動かせる、画面の端々の充実に窺へる全体的な演出の頑強さに加へ、個々のシークエンスも高打率で秀逸。心に開いた穴を看破され退場した多鶴に続き、キカは自らその逞しい腕を笹沼に委ねる。一旦はまるで夢を見ないルパン三世のやうに、笹沼が感応し得る内実を持たぬキカではあつたが、反面表面的には一方的に虐げてゐるやうでゐて、詰まるところは客であるM男の欲望に奉仕してゐるに過ぎない自身の状態に乾く。露草が単身笹沼は去つた「女権撲滅道場」に乗り込んだ際には、頼らざるを得ない荒畑には効かない睡眠薬が、しずくには効果を発する。荒木太郎はポツリと零す、「俺には効かないのにな」。狂ひ咲くファンタと、重層的に唸るロジック。そして旦々舎作には初期装備された、実用性満点の滾るエロティシズム。これが、これこそが山﨑邦紀のピンク映画だ。揺らぎを経て新しい均衡点にひとまづ落ち着いた多鶴と、相変らず狂騒的な残りの者共の対照が光るラストは、多鶴と笹沼が到達したエモーションの打点が少々低いことは着地点の強度不足も感じさせ、女優三本柱の内二名がオーバー・ウェイトに相当するといふ、極々私的な琴線の張り具合は勿論響かない訳がない。とはいへ溜めに溜めた一撃必殺の決定力は、勝者の存在しない全方位的な逆境の中にあつても、状況に対し有効に働くや否かは一旦兎も角、矢張り燦然と煌く。理屈臭さに臍を曲げる偏屈でなければガッツ・ポーズで面白からう、らしさが轟く快作である。

 以下は再見に際しての付記< 青い水に沈む女のイメージは、シャマランの「レディ・イン・ザ・ウォーター」(2006)の影響を受けるどころか遥か十年以前に、既に「痴漢電車 潮吹きびんかん娘」(1996/主演:小泉志穂)に於いて見られる。


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