真夜中のドロップアウトカウボーイズ@別館
ピンク映画は観ただけ全部感想を書く、ひたすらに虚空を撃ち続ける無為。
 



 「リンダ リンダ リンダ」 (2005/監督:山下敦弘/脚本:向井康介・宮下和雅子・山下敦弘/『バーランマウム』プロデュース:白井良明《ムーンライダーズ》/出演:香椎由宇、関根史織《Base Ball Bear》、ペ・ドゥナ、前田亜季、他)。
 高校生活最後の文化祭を目前に、ギターが指を怪我してしまふ。代はりのGを入れる入れないで、キーボード(香椎)とボーカルが対立。演奏が出来なくなつてしまつたGに続いて、Voまでもが抜けてしまつた女子高生バンドが、急遽KeyがGに回り、Voは誰か新メンバーを急拵へることでどうにか文化祭のステージに望まうとする、さういふ物語である。

 のつけからしくじつてしまつたのが、うつかり忘れてゐた。ドロップアウトには青春映画は御法度である。キラキラと輝きながらフラフラしてゐる女子高生の姿についついうつとりしながらも、うつかり忘れてゐた大事なことに、開始五分で私はフと気が付いた。私には何故に青春映画が御法度であるのかといふと、最短距離の更にこちら側でいふ。私は、人並みの明るくて楽しい青春なんぞ、終ぞ通つて来たことのない人間である。改めて断るほどのことでもないかも知れないが。
 全うな人並みで明るくて楽しい青春に、真正面から火の点いたダイナマイトを全力投球でど真ん中に投げ込む、全盛期のウィノナ・ライダーの映画、のやうな映画であつたならば心から安心して、エモーションのアクセル全開でボロ泣きしながら観てゐられるのだが、多少フラついてみたりモタついてみる程度で、最終的にはポジティブな、凡そ肯定的な青春映画なんてうつかり観てゐると、もう何と言つたら良いのか、絶望的に寂しくなつてしまふのである。何故か(笑)、一種追ひ詰められるやうな気持ちにすら追ひ込まれてしまふ。ハッキリ言ふが、否、いいのか悪いのかはよく判らないが、これも又ひとつの機会であらう。全速力でハッキリ言ふ。あるやなしやの(どちらかといはなくても無し)私の全てを賭してハッキリ言ふ。「独りで映画館に行くのは寂しい」。さういふ戯言をヌカす者が居る。冗談ではない。独りで映画館に行くのが寂しい、などと、そんなものは、寂しがり屋にしては甘ちやんもいいところである。素人以下のさみしがり屋である。そのやうな脆弱で怠惰な精神の持ち主に、どの面を下げてか「寂しい」、などといふ言葉を使はれるとそれだけでもう、ストレートにキルつてやらうかとすら思ふ。
 「独りで映画館に行くのは寂しい」。そのやうなことを言つてゐられるのは、一緒に映画館に映画を観に行く連れを、手近に手頃にいくらでも調達することが現実的に可能な者である。真の寂しさは、いふまでもなくその更に向かう側にある。孤独の本物なんて、考へてみれば無いなら無いに越したこともないやうな気もするが。独りで映画館に行く寂しさ、その更に向かう側に、そんな悠長なことをいつてゐられないくらゐの、一層切迫した絶望的なさみしさがある。独りでも寂し気でもしみつたれてゐても、映画でも観てゐないととても保ち堪へられなくて、やつてられないくらゐのさみしさがある。飯と水を摂つて出して、寝て起きたら次は映画でも観に行つてゐないと死んでしまふのである。そのくらゐさみしいのである。もしも生まれ変はりがあるとするならば、次の人生は、「独りで映画館に行くのは寂しい」、そんな呑気なことを言つてゐられる人生がいい。

 すつかり訳の判らない方向に話が反れてしまつたので、ゲーリー・オブライトが無理からジャーマン・スープレックスを引つこ抜くかのやうに話を元に戻す。人並みの青春も知らず、さみしくてさみしくて仕方が無いから映画を観に行つてゐる私は(段々リアルにデスりたくなつて来た)、うつかり銀幕から明るい青春なんぞを見せつけられてしまふと、ストレートに心が負けてしまふのである。さみしくてさみしくて映画を観に行つてゐるのに、更に一層絶望的に寂しくなつてしまふのである。映画に裏切られた、そんなお門違ひで、八つ当たりもいいところの気持ちにさへなつてしまふ。

 といふ訳で、ドロップアウトには青春映画は御法度であることは、単なる個人的な特殊事情と私のミスでしかないのだが、もうひとつ引つ掛かつた点がある。主人公達のバンドは急遽GとVoが抜け、KeyがGに回つてVoは新メンバーを急拵へることになる。そこで、当初の予定であつた元々のバンドのオリジナル曲は演奏出来ない。さて、それならばカバーとなると何を演つたものか、といふことでブルーハーツ、「リンダリンダ」、といふことになるのであるが、そこでそもそもが何故に「リンダリンダ」なのか、といつたことが全く欠如してゐる点が更に問題(?)である。
 ああでもないかうでもない、より正確にいふとあれも出来ない、これも出来ないと(軽音楽)部室にあるバンドスコアを取つ替へ引つ繰り返してゐると、古いカセットテープが出て来る。その中のジッタリンジンのテープを戯れに聴かうとしたところ、ケースの中に入つてゐたのはジッタリンジンですらなくブルーハーツであつた。要はそれだけである。
 リアルタイムの女子高生が、ブルーハーツを「これならコピー出来る」、と「リンダリンダ」を選んだ。確かにそれだけのシークエンスであるならば、それもそれだけでリアルであるのかも知れない。ただ、オッサン臭い物言ひになつてしまひ大変恐縮であるが、といふかリアルに既にオッサンであるので仕方も無いと居直つてもよいのだが。とまれ、リアルタイムで「リンダリンダ」を通つて来た世代としては、それはそれだけでは済まない問題なのである。「リンダリンダ」、といふ曲は特別な曲なのである。おいそれと拝借されては敵はない曲なのである。
 バカでも知つてゐる名フレーズ、「ドブネズミみたいに美しくなりたい」。当時殆ど正確には理解されなかつた歌詞である。恥づかしながら、私も真にその意味に辿り着いた(つもりになれた)のは遅ればせながらブルーハーツの既に解散後である。遅れて馳せ参じるにも程があるやうな気もするが、「リンダリンダ」がカラオケ定番のはつちやけソング(劇中でも女子高生にそのやうなものとして取り扱はられる)、としての扱ひに甘んじる昨今、結局今でもその歌詞は、殆ど全く正確には理解されてゐないのかも知れない。
 「ドブネズミみたいに誰よりもやさしい」
 「ドブネズミみたいに何よりもあたたかく」
 日本映画史上最も美しい映画「淫行タクシー ひわいな女たち」(2000/監督:関根和美/脚本:金泥駒/主演:佐々木基子・町田政則)、の感想の中で過去に述べた。折に触れ形を変へ、何時も何時も相変はらず同んなじことを独り言ちてゐるだけでもあるのだが。要は、ダメなものにはダメなものなりの意味が有つた。ダメなものにはダメなものなりの美しさが有つた。ダメなものにも、ダメなものにしか辿り着けない真実といふものがあつたのである。私は私なりの、ひとつの歪んだ歴史観の下に議論をしてゐるので、ここでは敢へて過去形で述べてゐるが、ダメなものもただダメなだけでは決してない。ダメなものにも、ダメなものなりの意味が、真実が、美しさがあるのである。断じてあるのである。「リンダリンダ」といふ曲は、さういふ曲であると私は捉へてゐる。さういつた意味も含めて、特別な曲なのである、おいそれと拝借されては敵はないのである。
 何故に「リンダリンダ」なのか、といつた点が全く欠如してゐる。といつて、矢張りそれはいはゆる繰言に過ぎないのかも知れない、と我ながら思はぬでもないこともない。勿論、我々にとつて「リンダリンダ」、とは特別な曲である。そのことに関して自ら疑ひを差し挟むつもりは毛頭無い。但し、真実は真実として差し措いて、現実問題としてのリアルさ、としてはそれで、即ちリアルタイムの女子高生にとつては、「リンダリンダ」も単なる演奏の簡単なはつちやけソングに過ぎない、といつてしまへばさういふ議論も成り立つてしまふやうな気もする。
 但し、これも「淫行タクシー ひわいな女たち」の感想の中で述べたことではあるが、リアルな現実と、嘘でも真実ならば、どちらを取るのかと問はれたならば私は一欠片の躊躇も無く、後者の方を選び取る。

 と、ここでこの期に我に返つてみると、これは最早、映画の感想でも何でもない。


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