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伊藤博文と韓国併合:/下 抵抗の根に多様なナショナリズム

2010-07-21 01:15:38 | 韓国・朝鮮と日本の間のいろいろ
 7月13・14日の「毎日新聞」夕刊で「伊藤博文と韓国併合」というタイトルの囲み記事が掲載されました。
 「併合に至る過程で伊藤が果たした役割をめぐってはさまざまな見方があり、歴史学界でも論争が交わされている。伊藤と韓国併合のかかわりをどう見るか、2人の研究者に論考を寄せてもらった」との前書きが付されていて、13日の<上>では伊藤之雄京大教授による「近代化による韓国独立保持を意図」、14日の<下>は月脚達彦東大准教授による「抵抗の根に多様なナショナリズム」と題された論稿が載せられました。

 私ヌルボは、なるほどな~とうなずきつつ読んだのですが、<上>については<毎日jp>のサイトにまもなく記事がupされたのに(→コチラです)、<下>の方は何日たっても現れません。何か事情でもあるのかなとずっと(今も)アタマの中に「?」は残ったまま、シビレがきたので、自分であえて公表することにしちゃいました! コメントは後で別記事にします。


   伊藤博文と韓国併合:/下 抵抗の根に多様なナショナリズム=月脚達彦  
◇帝国主義者の側面、否定できず
 100年前の1910年8月、日本は大韓帝国と「韓国併合に関する条約」を結び、朝鮮を植民地とした。この韓国併合に先立つ05年11月。日露戦争で勝利した日本は、特派大使伊藤博文をソウルに派遣して第二次日韓協約を締結し、大韓帝国を保護国として支配することになった。この協約に基づいてソウルに日本政府の代表として統監が置かれることとなったが、その統監に伊藤が就任したことはよく知られている。
 1909年6月に統監を辞任した伊藤は、同年10月にロシア財務相との会談のため訪れた中国東北地区のハルビンで、大韓帝国の独立運動家安重根に撃たれて死亡する。今日の韓国では安重根元凶とみなされていることも、よく知られていよう。しかし、近年、日本近代史研究者の間では統監伊藤は韓国併合推進者ではなかったとする評価が優勢になりつつあり、朝鮮近代史を専門とする筆者も、伊藤の保護国支配に対する大韓帝国側のさまざまな対応を見る中で、そうした評価を基本的には受け入れている。
 保護国化から韓国併合に至る時期に大韓帝国出繰り広げられた日本に対する抵抗運動には、都市の知識人を中心に言論や結社を通じた実力養成によって独立回復しようとする愛国啓蒙運動と、主に攘夷思想を持つ地方の儒者が指導して武器を持って戦う義兵運動があった。
 愛国啓蒙運動に携わった人々の多くは、時刻が保護国となった理由を自主的な近代化の失敗に求め、独立の回復に先立ち教育や産業の振興などによる国力の充実が必要だと考えた。一方で伊藤の対韓政策は、コストやリスクが大きい併合よりも、保護国支配の枠の下で大韓帝国を近代化させ、そのコストもなるべく大韓帝国側に負担させるというものである。そのため愛国啓蒙運動の一角には、日本の政府や軍、民間にある併合推進論を抑えるために、伊藤の政策に積極的に呼応して近代化に努めるという「協力」の論理が存在した(伊藤統監の下で大韓帝国の総理大臣となり、現在の韓国で売国奴とされる李完用の「協力」の論理も、そのようなものだったと考えられる)。
 ただし、これは単なる親日とは見ることができず、近代化に立ち遅れた現状では日本の保護を受けざるを得ないが、日本から学ぶべきことは学び、いずれは日本に追いつき追い越すという「克日型」のナショナリズムといえる。このほかにも、日本は日露戦争開戦まて゜、大韓帝国の独立を約束していたにもかかわらず、大韓帝国を保護国にした不義を批判する道義的な反日ナショナリズムや、伊藤の保護国支配が近代化の論理を伴って行われる以上、近代化に価値を見出さず、ひたすら「民族精神」の高揚を訴えることによって抗日の論理を徹底させようとするナショナリズムも現れるようになった。
 一方の義兵運動は、国や君主が日本によって辱められたことに対する義憤に基づく運動で、日本は侵略をやめて共に連帯して欧米の侵略に対抗せよという主張を伴うものだった(安重根の伊藤暗殺も、このような論理を背景にした行動である)。伊藤は義兵運動に対し、日本を誤解しているもので、自分が大韓民国を近代化すれば自ずと日本に心腹するになり、その運動は止むという楽観的な見通しを持っていた。しかし、伊藤の予想に反し、義兵運動は多くの民衆を引き込みながら熾烈さを増すことになり、やがて伊藤は悲観的になった。これが、伊藤が統監の職に意欲を失って辞任する理由の一つとなる。
 伊藤が統監を務めた時期は、今日の韓国に見られる日本認識の諸バリエーションの形成期に当たり、朝鮮のナショナリズムの形成史に占める意義は極めて大きい。もっとも、伊藤の保護国支配に対する大韓帝国側からの抵抗は、一部に屈折を見せながらも続けられたのであり、伊藤はまがいのない帝国主義者であったこともまた事実である。(つきあし・たつひこ=東京大准教授・朝鮮近代史)

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