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萩原朔太郎の詩と韓国(1) 韓国語の特性と、韓国詩翻訳のむずかしさ

2011-10-22 23:56:36 | 韓国の小説・詩・エッセイ
 1960年代、全国の多くの高校には文芸部があって、たぶんその部員たちの大半は萩原朔太郎にかぶれていたのではないでしょうか? 少なくとも私ヌルボの出身校ではそうでしたね。なんでこんなに不健康な詩を彼らは好き好んで書くのか、健全な少年ヌルボは理解できなかったです。
 その後、朔太郎にも、「こころ」(こころをばなににたとへん こころはあぢさゐの花・・・)等のような不健康でもない作品があることを知り、とくに「陽春」(ああ、春は遠くからけぶつて来る・・・)はホントに好きな詩になりましたが、それでも朔太郎はヌルボの好きな詩人の中には入りません。

 さて、書店でたまたま見た「現代詩手帖」10月号の特集が<萩原朔太郎 2011>でした。内容とは関係ないけど、1400円とは高いです。かなりぜいたくな夕食が食べられる値段だなー、と思いつつも意を決して買ったのは、冒頭に菅野昭正先生と、詩人&作家の松浦寿輝さんの対談があったから。そして「金素雲『朝鮮詩集』の世界―祖国喪失者の詩心((中公新書)」の著者・林容澤(イム・ヨンテク)仁荷大教授韓国における萩原朔太郎という一文を寄せていたからです。

 その林容澤教授の記事がなかなか興味深い内容で、勉強になりました。その要点や考えたこと等を整理してみます。
 ポイントは、大きく分けて次の2点です。

A.日本の(or萩原朔太郎の)詩を韓国語に訳す際のむずかしさについて。 
B.『月に吠える』に代表される萩原朔太郎の詩が当時の朝鮮人詩人たちに及ぼした影響と、それについての韓国での研究の現況について。


 少し長くなりそうなので、今回はAに限定して書くことにします。

 林容澤教授は、民音社が1998年刊行した「世界詩人選」中に日本詩人4人を選定した際、その1人の萩原朔太郎の巻として彼の作品35篇を選んで翻訳したとのことです。
※萩原朔太郎以外の3人は松尾芭蕉、石川啄木、北原白秋です。芭蕉がどう訳されているか興味深いところですが、それはまたいずれ。

 日本の詩を外国語に訳したり、逆に外国の詩を日本語に訳す場合、ヌルボのような門外漢でも「ここらへんがむずかしそうだな」とふつうに察せられるのは、たとえば次のような点です。

②ある言葉の語感(ニュアンス)、イメージといったものがどれほど正確に伝えることができるのか? 
③原詩の韻律(リズムや母音の配列等)や音声の効果(軟らかさや、ざらざらした感じ等)をどれだけ他言語で表現できるのか?


 ここで②、③と番号をつけたのは、それ以外に林容澤教授の記述の中で、とくにあげられていた点に盲点をつかれたような感じがしたからです。それは、

日本語と韓国語それぞれの特性の違いによって、たとえば文法的・語法的に同じような表現をとり得ないことがある
・・・ということです。

 ここに掲げられていた具体例は「蛙の死」。『月に吠える』中の短い詩です。

 蛙が殺された、 
 子供がまるくなつて手をあげた、
 みんないつしよに、
 かわゆらしい、
 血だらけの手をあげた、
 月が出た、
 丘の上に人が立つてゐる。
 帽子の下に顔がある。


 これを韓国語に移す過程で露呈した問題点というのが次のようなこと。
 「蛙が殺された」について、「韓国語には受身の表現が発達しておらず、しかも動物には普通使わない」ので、「結局“死んだ”としか言いようがないわけだが、“死んだ”では蛙の死が他意による不可抗力のものという状況がうまく表現できない」と林教授は記しています。

 それから「かはゆらしい」にしても、「辞典的な意味の韓国語を探し当てるだけでは、・・・蛙の死に些かの罪意識も感じない子どもたちの無邪気な行動の不気味さと、その裏に身を隠した、人間の残虐さへの詩人の冷笑的な視線は伝えきれない」と指摘しています。こちらの問題は上記②に分類されるでしょう。

「韓国語は日本語に比べ、口語と文語の使い分けが曖昧」なので、「「氷島」のような漢語脈の文語詩と、他の口語詩との差別化に最新の配慮が要求される」という点も①の問題に属するでしょう。

 ・・・なるほど。では林先生、そこのところを実際どのように乗り越えて韓国語に訳したのかな、と韓国語学習者としては当然知りたくなりますね。この論考にはそれは載ってないので、韓国サイトを検索して見つけましたよ。次の通りです。原詩と並べてみます。
   
  蛙の死                  개구리의 죽음        
 蛙が殺された、            개구리가 살해되었다,
 子供がまるくなつて手をあげた、  아이들이 둘러서서 손을 들었다,
 みんないつしよに、          모두 함께,
 かわゆらしい、              앙증스러운,
 血だらけの手をあげた、        피범벅이 된 손을 들었다,
 月が出た、                달이 떴다,
 丘の上に人が立つてゐる。     언덕 위로 사람이 서 있다.
 帽子の下に顔がある。        모자 아래 얼굴이 있다.


 「개구리가 살해되었다, (蛙が殺害された)」ですか。ふーむ・・・。
 また林教授は、「猫」(『月に吠える』所収)でのオノマトペアの再現には、「詩の移植の難儀さを改めて実感させられた」と述懐しています。猫が、「ニャー」とか「にゃあ」ではなく、「おわあ」「おぎやあ」などと異様な鳴き方をしている詩で、ご存知の人も多いと思います。

 これも韓国サイトで探してみました。

     猫                      고양이 
 まつくろけの猫が二疋、           새까만 고양이가 두 마리,
 なやましいよるの家根のうへで、      나른한 밤 지붕 위에,
 ぴんとたてた尻尾のさきから、        쪽 세운 꼬리 끝으로,
 糸のやうなみかづきがかすんでゐる。   실 같은 초.승.달.이 희미하다.
 『おわあ、こんばんは』             [야옹, 안녕하시오]
 『おわあ、こんばんは』             [야옹, 안녕하시오]
 『おぎやあ、おぎやあ、おぎやあ』      [야아오, 야아오, 야오오]
 『おわああ、ここの家の主人は病気です』 [야아오옹, 이 집 주인은 병이 났어요] 


 ・・・야옹(ヤオン)だと、ふつうの猫の鳴き声ではないですか? 야아오(ヤアオ)とか야아오옹(ヤアオン)になると、ニュアンスがどう変わってくるのか、ヌルボにはよくわかりません。
 これは上記の分類だと②と③両方に関わる問題になりますかね。
 
 萩原朔太郎ではないですが、以前からこれは韓国語に訳しようがあるのかとかねがね思っている詩があります。
 それは谷川俊太郎の『ことばあそびうた』中の諸作品。

 たとえば「かっぱ」

 かっぱかっぱらった  
 かっぱらっぱかっぱらった
 とってちってた

  (以下略)

 あるいは「いるか」

 いるかいないか
 いないかいるか
 いないいないいるか
 いつならいるか
 よるならいるか
 またきてみるか


  (以下略)

 これらは上記の分類③。
 このおもしろさを韓国の人(や世界の人)にも知ってほしいんですけどねー。

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