ヌルボ・イルボ    韓国文化の海へ

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歌手生活40年・楊姫銀(ヤン・ヒウン)さんの「朝露」をめぐる韓国現代史 (と、自分史) <その1>

2011-07-14 23:54:51 | 韓国の音楽
 「コンサート7080(콘서트 7080)」というのは、韓国KBSテレビで日曜の午後23:10~0:20に放映している懐メロ番組です。
 7080は1970~80年代ということで、特にこの頃よく目にする言葉(数字)です。司会のペ・チョルス氏も80年代の韓国のロック界をリードしたグループ・ソンゴルメのメンバーでした。
※「7080」は「チルシプパルシプ(칠십팔십)」ではなく「チルゴンパルゴン(칠공팔공)」と発音しています。

 7月10日(日)の夜、たまたまこの番組を見たら、ヤン・ヒウン(楊姫銀.양희은)さんが出演していました。妹の俳優ヤン・ヒギョン(楊喜経.양희경)さんも一緒です。

※ヤン・ヒウン姉妹の後、キム・ヘリム(김혜림)さんとキム・ジョンソ(김종서)氏も歌ってますが、今回はコメント省略。

 この番組は、うれしいことに、KBSのサイト(→コチラ)でアーカイブを見ることができるのです。
 最近2回分は上のリンク先から黒い[일반]ボタンを押せばそのまま見られます。それ以前は、画面最上部の言語選択の日本語の2つ右で「회원가입」(会員加入)を済ませた上で[저화질](低画質)ボタンを押せば見ることができます。

 さて、「この方の歌は、われわれの若い頃の「青春の主題」でした」というペ・チョルス氏の紹介で登場したヤン・ヒウンさんがこの日最初に歌った歌は「私が40歳の頃には(내 나이 마흔 살에는)」(→コチラ)。2曲目の「叶わぬ愛(이루어질 수 없는 사랑)」(→コチラではヒギョンさんも一緒に歌っています。
 生まれた年はヒウンさん1952年、ヒギョンさん54年、そしてペ・チョルス氏がその間の53年とか。皆さん、もうじき順々に還暦なんですね・・・。
 そのあと「美しいものたち(아름다운 것들)」、「明け方の道(새벽길)」、「ソウル夜曲(서울야곡)」、「私が去った後でも(나 떠난 후에라도)」と計6曲を歌いました。
 ※ヤン・ヒウンと少女時代が一緒に歌っている「美しいものたち」は、→コチラ!!(YouTube)
 ※「ソウル夜曲」はやっぱり周炫美(チュ・ヒョンミ)でしょ。→コチラ[ハングル字幕付き]

 この中で、私ヌルボが懐かしさを覚えた歌が「美しいものたち(아름다운 것들)」。姉妹でいい雰囲気で歌ってます。観客の皆さんも拍子を取りながら・・・。

 私ヌルボがこの歌を初めて聴いたのは、ジョーン・バエズが歌っているもので、「THE BEST OF JOAN BAEZ」というLPに収録されていた「Mary Hamilton」という曲。つまりそれが元歌。今確認すると1964年発売ですね。
 たまたま最近(2011/06/09)にジョーン・バエズの若かりし頃(1965)の素晴らしい声の動画がupされています。→コチラ
 ジョーン・バエズの歌はイギリスの伝説に基づく物語的民謡なんですが、上記のLPでヌルボが聴いたのが35年ほど前。(映画「マイ・バック・ページ」の1シーンにもあったように)私ヌルボも生ギターの伴奏をコピーして弾きながら歌ったものです。(あー恥ずかし・・・。)

 そしてその約20年後、カセットテープでヤン・ヒウンの「美しいものたち」を聴いて、歌詞の内容こそ違え「なんだ、同じ曲じゃないの」と気づいた歌なんですね。・・・ということで、二重に懐かしい曲というわけです。

 ジョーン・バエズのような伸びのある澄んだ声の歌手は初めて聴いたのですが、その後森山良子本田路津子、赤い鳥の山本潤子等と続きます。
 デビュー時に森山良子が“日本のジョーン・バエズ”といわれたように、“韓国のジョーン・バエズともいわれたフォーク歌手がヤン・ヒウン”でした。(どれだけ一般的にいわれているかはわかりませんが、多くの韓国ブログで2人が並べて語られているのは事実です。)

 彼女の代表曲「朝露(아침이슬.アチミスル)」はご存知の方も多いでしょう。70~80年代韓国の民主化運動を象徴する歌ともなった歌。長く政府から禁止されていた歌。ヤン・ヒウン自身は政治的な発言は避けていたそうですが、それでも2008年のローソク集会の時に彼女も前に立って多くの人々とともにこの歌を歌いました。

 YouTubeには、ステージ等で歌った動画もいくつかありますが、1971年の最初のアルバムのものを貼っておきます。冒頭が「朝露」ですが、他の曲も入っているので全部だと30分を少し超えます。3曲目の「セノヤ」を知らなかった方は聴いてみて下さい。「パフ」、「七つの水仙」等々、団塊の世代には懐かしい洋楽ポップスのヒット曲も数曲あります。ジョーン・バエズが歌っていた「All My Trials」も個人的には懐かしい歌です。

 この「朝露」の作詞・作曲はキム・ミンギ(金敏基.김민기)。1971年ヤン・ヒウンが「朝露」を発表するに至る経緯について、ヌルボはこれまでよく知らなかったのですが、「ヤン・ヒウンの若い頃の事典」と題したさる韓国のブログ記事にいろいろ書かれていました。(→日本語自動翻訳)
 ヒウンさんは1952年8月13日生まれ。10歳の頃両親が離婚したヒウンさん姉妹はお母さんと共に暮らしますが、苦しい家計を助けるため、歌でお金を稼ごうということだったとか・・・。京畿女子高校在学中から歌が上手いと知られていた彼女は、サークルの先輩だったフォーク歌手尹亨柱(ユン・ヒョンジュ.윤형주)の前で歌い、さらに彼が2人組フォークのトウィン・ポリオを結成して人気を得ると、その相方の宋昌植(ソン・チャンシク.송창식)や、尹亨柱の出身校・京畿高校の3年後輩の金敏基とも出会った、ということのようです。それが1970年頃。

 ※宋昌植は「鯨取り(コレサニャン)」等の歌で有名。
[2015年6月24日の追記]※金敏基はソウル斎洞(チェドン)初等学校の1年先輩なのだそうですが、1969年に初めて会うまでたがいのことを知らなかったそうです。
 ※京畿高校については2010年11月4日の記事で記しましたが、韓国の各界に錚々たる人材を輩出してきた、名門中の名門だった高校です。(まあ、今も「名門」公立高校ですけど・・・。) 京畿女子高校もそれとペアになる(?)女子の名門高。
 ・・・で、彼女は一浪して1971年西江大学校史学科に入学します。ミッション系の名門校で、日本だと上智大といったところ。西江大といえばあの朴槿恵も同窓で、ヒウンさんと同年の2月ですが、彼女は現役で電子工学科に入っている(※首席卒業)ので大学では1年先輩になります。在学中朴槿恵が朴正熙大刀利用の娘ということは知ってはいたが、遠くで弁当を食べているのを見かけたことがあるという程度の接触(?)に止まるとのことです。

 ヒウンさんが大学に入学した年の1971年に発表された歌が「朝露」でした。→韓国ウィキペディアのヤン・ヒウンの項をみると「金敏基は詞について「民主化に対する熱望のような直接的な内容は盛り込まなかった」というが、当時の大衆は時代状況と民主化に対する熱望によって民主化にふさわしいと解釈してこの曲をよく歌って7、80年代民主化運動の象徴的な歌となった」と記しています。

 ところが、民衆の間に広まっていったこの歌も、そして金敏基が作りヤン・ヒウンが歌った他の多くの歌も、その後20年近く続いた軍事政権下で禁止歌に指定され(計30曲以上)、またヤン・ヒウンの人生も苦境に陥ってしまいます。

 私ヌルボが「朝露」を初めて聴いたのは、韓国の民主化運動が再び高揚しはじめた1986年だと思います。それは在日2世の歌手・李政美(イ・ジョンミ)さんのカセット・テープでした。

<その2>
<その3>

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