ヌルボ・イルボ    韓国文化の海へ

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[軍艦島ツアーで考えたこと] 「いつ、どんな立場で見たか」で大きく異なる思い出

2013-03-30 23:48:04 | 韓国・朝鮮と日本の間のいろいろ
 さあ、今日こそは韓国の作家キム・ヨンスのことを書くぞ、と心を決めて取りかかるも、関連で李光洙のこととか、さらにカミュのこととかあれこれ書いていくうちに、昨2012年10月に行った長崎の軍艦島ツアーについて、昨年11月16日の記事で導入のようなことだけ書いてそのままになっていることを思い出しました。
 そこでも書いたように、軍艦島(正式には端島)に行った動機としては「かつてそこの炭鉱で多くの朝鮮人が苛酷な労働に従事していた、という程度のわずかな知識だけ」でした。
 しかし実際に行ってみて、あるいは帰宅後いろいろ本を読んだりして知ったことは、「炭鉱を中心とした歴史、そこで暮らした人々の生活、近代化産業遺産関係等々いろんな切り口があるなあ」ということで、「知れば知るほど本ブログで何をどう書くかを考えると、収拾がつかなくなってしまいそう」というわけで書けずじまいになっていたものです。

 で、とりあえず、思い切っていろいろ集めたネタは省略して、私ヌルボが感じたこと、とくに今、軍艦島の歴史をどうふり返るべきか、ということについて書きます。

 結論から書くと、まず最初に「軍艦島にかつて暮らしていた人の感想は、その人がいつ頃、どういう立場だったかによって大きく異なる」ということです。

 たとえば、島内のどの住居で暮らしていたのか。端的に言えば、「住居の位置の高さと島での地位は比例している」のです。
 中央部の一番高いところにあるのは鉱長の社宅で、島内で唯一の一戸建てです。そして職員住宅、鉱員住宅はそれぞれ1~4級の序列によって日当たりと眺めの良い上の階から下の階に割り振られていました。
 戦時中、朝鮮人の徴用労働者や、中国人の捕虜労働者は、一日中陽の差さない建物の最下階に入れられました。

     
     【高い所の部屋はオーシャンビューでよさそうですが、高層建築群の「谷底」の部屋だと最悪です。】

 時代による違いで、私ヌルボが知らなかったことは、1960年代の高度成長期はこの島に住む人の暮らしは意外にレベルが高かったということです。給与水準が高く、新しい電化製品を早くから買い込んだり、島内には映画館やパチンコ屋等もあり、ずいぶん活気があったそうです。当時の写真を見ると、TVアンテナが無数に林立しています。
 人口は最盛期の1960年に5,267人で、人口密度は当時の東京都区部の9倍以上で世界一だったそうです。そんな超過密の狭い島で、キュークツさとか不便さとか感じなかったのか、と思うのは今のフツーの日本人だからかもしれません。
 とくにその頃島にたくさんいた子どもの感覚からすれば、そこがフツーの世界ですから、そこならではの楽しさがあったようです。
 当時の写真集を見ても、建物を結ぶ階段等で遊ぶ子どもたちの生き生きとした表情が写されています。
 軍艦島クルーズのガイドさんの紹介した「軍艦島グラフィティ」という絵本は、帰ってから調べたら1966年端島で生まれた神村小雪さんさんが描いたものでした。(今は売られていません。)

        
   【今の「廃墟」とはもちろん、昔のモノクロ写真とも全然違う、いいフンイキの絵です。】

 また、「軍艦島を世界遺産にする会」(→公式サイト)の理事長の坂本道徳さんは1954年福岡筑豊生まれで、小学6年生で端島に移住、ということはやはり60年代後半です。1999年に25年ぶりの同窓会で端島へ渡航したことをきっかけに、故郷への想いから2003年NPO法人「軍艦島を世界遺産にする会」を立ち上げました。以後TV出演、講演、執筆活動、軍艦島ガイド等を通じて世界遺産登録に向けて奔走しています。
※上記のサイト中にご自身の紹介ページがあります。(→コチラ。) これを見ると、実に精力的に活動されていることがうかがわれます。
 さて、上記の公式サイト中のネットショップでは関連書籍等が販売されているのですが、たとえばその1つに「軍艦島「住み方の記憶」」という、軍艦島出身者が写真とともに当時の生活を探る本があります。(→コチラ。)
 「軍艦島は人々の強い絆と暖かさで結ばれていた!」というキャッチコピーと、次のような説明文があります。
 廃墟として忘れられようとしていた端島にはこんな暮らしがあり、生き生きとしたコミュニティがあったのだという島の人にしか知りえなかったことを、この「住み方の記憶」を通して写真や当時のエピソード、建物などの解説で少しでもこの島のことを理解していただければ幸いです。
 なるほど。たしかに、60年代当時の島に暮らした人たちにとっては(若干の無意識の美化作用があるにしても)偽らざる気持ちでしょう。また、現在の軍艦島の「廃墟の異様な外貌」だけで興味を持った人たちに対して、過去のようすを知ってほしいというのもわかります。
 
 ところが、歴史をもっとさかのぼると、たとえば明治時代の高島炭坑事件という当時社会問題となり、今も日本史の史料集にも載っている事件もありますが、およそ炭鉱というものを歴史的にみると事故や労働問題がつき物であることは論を待たず、また戦前・戦中は朝鮮人・中国人労働者が過酷な労働に従事したという事実があります。

 軍艦島の場合も「軍艦島は生きている!」(長崎文献社)には、その人数は「朝鮮人500人弱、中国人80人余といわれている」とあります。また、「死亡外国人の数も確定できる資料に乏しいが、1925~45年までの20年間に、窒息、圧死などの事故死63人、島から逃亡した際の溺死など4人が明らかになっている」(長崎在日朝鮮人の人権を守る会)調査資料)とのことです。
 さらに、林えいだい「筑豊・軍艦島―朝鮮人強制連行、その後」「強制連行・強制労働 筑豊朝鮮人坑夫の記録」などの著作や、長崎在日朝鮮人の人権を守る会「軍艦島に耳を澄ませば」(社会評論社.2011年)でかつての朝鮮人労働者の証言を読むと、まったく違う過去の記憶が目にとびこんできます。
 徴用の経緯もさまざまで、中には徴用ではなく自らの意思で端島の炭鉱労働者になった人もいるので、私ヌルボは「強制連行」という誤解を生む用語は使いませんが、14歳で連れて来られた人もいたり、また異口同音に過酷な労働状況、粗末な食事、病気になっても治療が施されないばかりか労働を強要されたこと等が語られています。
 1944年に「村の労務係」の命令で端島炭鉱に連れて行かれて1日12時間石炭掘りをやらされた90歳(2011年)になる韓国人のお年寄りは、「あそこは逃げ出したくても諦めるしかない、監獄のようなところだ」と語っています。そして「世界遺産だなんて、日本人はあの島の歴史を誇れるのか」と問い返しています。
 これもまた、「あの時期」に、「そういう立場」で端島で暮らした人にとっては、当然の記憶のありようです。
※高島炭鉱、端島炭鉱の朝鮮人労働者問題については→コチラの記事参照。
※朝鮮人の徴用労働者もさることながら、中国人の捕虜労働者とはひどいことをしたものだ。ソ連による日本人のシベリア抑留も念頭におきつつ・・・。

 私ヌルボがこれまでにみた軍艦島の世界遺産をめざす地元の人々を中心とした運動では、上述のような「負の歴史」はあまり(ほとんど?)触れられていないように思われました。

 この点について思い起こしたのは、昨年11月ポレポレ東中野で観たドキュメンタリー映画「三池 終わらない炭鉱(やま)の物語」のことです。「闘う主体」の側に立った闘争記録的な映画かなと思ったらそうではなくて、第二組合や会社側の人の証言も映されていました。また1963年の大事故の後遺症に苦しんでいる人が今なお約130人もいることを初めて知りました。多角的な視点から描くことが観る人の理解をより深める好例というべき映画でした。驚いたのは、エンドクレジットに「企画 大牟田市・大牟田市石炭産業科学館」とあったことです。行政が関わる映画は「無難な内容」のものと相場は決まっているのに・・・。上映後の茶話会の場で、熊谷博子監督にその点をお伺いしました。すると、担当の市の職員の方が関係方面への説得・折衝等にすごく奮闘してくださったとのことでした。第二組合の人の証言も入っているのはその人の意向だったとも。三井との関係等で困難なことも多多ある中、お役人の中にも気骨のある方がいらっしゃった、ということです。

 長崎の場合はもちろん三菱です。市や県が炭鉱をはじめとする近代の歴史をなんらかの形でまとめようとすると、当然いろいろとヤバい過去のもろもろも出てきます。そのほとんどは三菱がらみ。
 市や県が、三菱に「気がね」をしてしまうことはないでしょうかねー・・・。あるいは三菱の側はどう考えるのでしょうか?
 歴史のある企業は脛に傷をいくつも持っているもので、要はそれらをなかったこととせず、同じことを繰り返さないためにもきちんと記録に残し、今後に資することです。・・・ということは、別に私ヌルボが言わずとも知れたことですよね。

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