風薫る道

Who never feels lonely at all under this endless sky...?

『義経千本桜(木の実、すし屋、川連法眼館) @歌舞伎座(6月11日)

2023-07-14 01:22:07 | 歌舞伎




たまりにたまった感想もこれでラスト!がんばった自分!
って、自分用の覚書ですけれど。

【義経千本桜(木の実、小金吾討死、すし屋)】
仁左衛門さんのすし屋を観るのは4回目。
ですけれど過去3回は全て2013年の新開場の年の10月なので(ニザさまが肩の故障でお休みに入られる前の最後の月)、実は10年ぶりなのでした。ということに今気づきました。
あのときの千穐楽は亡くなった友人と同じ舞台を観たのだったな。友人は3階席を買ってあって、私は幕見で。翌日「凄かったね~!一階席で観たかったね~!」とお互いに興奮して感想を話したものでした。

さて、10年ぶりに観た仁左衛門さんのいがみの権太。
「至芸だなぁ」と心の底から感じました。いつも感じるけれど今回も、今回は特に感じた。
芸であることを感じさせない自然さ。でも極上の芸。
そしてこれもいつも書いている気がするけれど、こういうお芝居を今後私はどれくらい観ることができるのだろう、と。
吉右衛門さんが亡くなって、もう二度とあの至芸は観ることはできなくなってしまった。
この世代の役者さん達がいなくなったら、次の世代でいつかこんなお芝居を観ることが果たしてできるのだろうか。

とはいえ今回の舞台を観て、若手が成長したな~~~~とも心底感じました。
最近歌舞伎を観る頻度がすっかり減ってしまっているけれど、そのせいかその成長ぶりに本当に驚いた。
壱太郎のお里ちゃん、よかったなぁ。
壱太郎って都会的な雰囲気が出ちゃいそうと思っていたけど、ちゃんと田舎風で、無邪気で、健気で、面白くて笑、可愛らしくて、とても良いお里ちゃんでした。
今まで強く感じたことがなったのだけど、弥助(錦之助さん)が実は維盛で、奥さん(若葉の内侍:孝太郎さん)と子供(六代の君:種太郎)がいたとわかるところ。舞台に1対3で並ぶところ。もっっっのすごく切ないですね・・・・・・・
お里ちゃんが可哀そうで、観ているのが辛かった。
お里ちゃん、すごくショックを受けてるのに、でも3人を助けてあげようとして。いい子だなぁ・・・・・

錦之助さんの維盛は前回観ていたはず、と思ったら前回は時蔵さんで観ていたのだった。
今回配役表をチェックしていなかったので、維盛の出を観て一瞬「時蔵さん?」と思ったのですよ。すぐに錦之助さんだとわかったけれど、本当によく似ている。さすがご兄弟だなぁ。
弥左衛門の前で立ち姿だけで弥助→維盛に一瞬で変化するところ、時蔵さんも素晴らしかったけれど、錦之助さんも絶品でした。役としてのニンは錦之助さんの方が合ってるように思う。錦之助さんってこういうお役がピッタリ。もう維盛にしか見えない。

歌六さんの弥左衛門、今回は桶の重さの感じさせ方が前回よりもずっと自然になっていました。

千之助君の小金吾も、切なさがあってなかなかよかった。大人になったなぁ。

観にきて本当によかったなと感じると同時に、なんだか仁左衛門さんの一世一代のお芝居を観てしまったような気持ちにもなりました。
吉右衛門さんの最後の俊寛を観たときのことをちょっと思い出してしまった。
そういえば仁左衛門さん、7月は大阪で俊寛をされてるんですよね。
仁左衛門さんの俊寛、一度も観たことがないので観たいな。亡くなった友人も博多まで観に行こうとしていたのを覚えている(結局行っていなかったけれど)。東京で演じてこなかったのは、吉右衛門さんに遠慮されていたから、とかあるのだろうか。。

そして猿之助の事件で6月は昼の部の方が注目されていたけれど(猿之助の代役としての中車と團子君が出ていたから)、この「木の実」「すし屋」は家族の繋がりを描いたお芝居なので、色々感じさせられました。演じている役者さん達もお辛かったのではないかな・・・。また私自身にも照らし合わせ、色々考えさせられました。

【川連法眼館】
松緑のキチュネ
なんとなくまだ慣れていない風だったけれど、初役ではないよね?歌舞伎座では初?
演技としては狐よりも佐藤忠信の方がよかったように感じられたけれど、でも、なんか最後の幕切れの爽快さ、華やかさ、温かさに、すごく感動しちゃったんですよね。。。
歌舞伎っていいなぁ、って心から感じました。
こちらも家族の繋がりの物語ですね(狐の家族だけど)。。。

静御前の魁春さん、久しぶりに拝見できて嬉しかったな。魁春さんの古風で品のある赤姫、いつ見ても良き

そして、改めて『義経千本桜』って仏教の輪廻転生の物語なのだなぁ、と。
「今生の別れ」という言葉、現代でも全く使わないわけではないけれど、今回このお芝居の中で聞いて、そうかこれは「今生」での別れという意味なのだな、と。
今の世では二度と会うことはない。でも次の世(後生)では、あるいはあの世では・・・という意味が裏にあるのだな、と。
当たり前といえば当たり前なのだけど、初めてわかった気がしたのでした。


仁左衛門が語る、歌舞伎座『義経千本桜』(2023年6月)

上演にあたり大事にしていることを問われると、「家族愛」と、迷うことなく答えます。「勘当されていても、やっぱり父親のことが好き。そして、子どもがかわいくて仕方がない。『木の実』では、子どもとお嫁さんの三人の家庭の温かみをお客様に伝えることで、後の『すし屋』での別れのつらさを、より感じていただけると思う」と、話します。
・・・ 
江戸と上方とで大きく型が分かれる「すし屋」。「上方でも、河内屋さんと成駒屋さんとで違います。父(十三世仁左衛門)もやっていますが、うちのやり方というのがあるわけではないので、私も私なりにつくっています。大事なのは、丸本物であることを基本にすること。丸本物の丸みを大事にしたいと思っています」。そう話す一方で、型を守っていくことについては、「気持ちを、心を守ることであって、幹がしっかりしていれば、枝はこれからも変わっていっていいと思う。同じ役であってもそれぞれの俳優のつくり方があるから、いろいろな楽しみがある」と、歌舞伎の魅力を語りました。

吉例顔見世興行 木の実・すし屋「仁左衛門さんのこと、教えます」(2018年12月)

 ――仁左衛門さんは、大和のごろつきとして演じられるわけですね。

 権太はよい家の出で、ごろつきとは違います。悪餓鬼だけれどもやんちゃで可愛い子を関西では権太といいますが、この役は、まさに大人になっても、そういうところから抜け出せない男として私は演じています。

 ――権太と弥左衛門の関係も微妙ですね。

 父親の悪態をつきますが、本当は好きで、父親の窮地を救って自分の勘当も許してもらいたさに、自分の嫁と息子を犠牲にしてしまうんです。でも、あんまり深く掘り下げていくと無茶な話になってしまいます(笑)

 ――若葉の内侍と六代君に化けた妻子を梶原が引き立てていくのを見送って、ほっとして真相を報告しようとしたところで、権太が弥左衛門に刺されてしまいます。

 梶原を見送って、「ああうまくいった、誉めてもらおう」というところでぶすっと刺されてしまう。もうちょっとずれていたら助かったのに、少しの歯車のズレで、人間の運命が大きく変わってしまう。ドラマ性が強調されると思うんです。あれも、初日が開いて何日目からか、自然とそれまでのやり方から変わりました。恐らくあのやり方は、今のところ私だけだと思います。ああ、もうちょっとで命助かったのに、可哀そうに、と感じていただけたらと思います。

・・・

 ――これまでいろいろなことがおありだったかと存じます。

 大病をし、命が助かり、再び舞台に立てるようになったときは、おこがましい言い方ですが、神様が「歌舞伎のために頑張れ」とおっしゃってくださったような気がして。それからは、極力歌舞伎に絞り、父を含めた先輩、父から話を聞いていた先人の芸を、私自身も勉強をしながら、後輩に伝えなければと思っております。

 ――今、歌舞伎についてはどんな思いをお持ちでしょう。

 ただただ歌舞伎が好きという思いでまいりました。舞台に立つ前は嫌だと思った役でも、演じていると好きになってしまいます。その人物になりきらないとお芝居は面白くなりません。人物を演じるのではなく、人物になることが大事だと思います。

 商業演劇で、歌舞伎ほど同じ狂言を繰り返し上演する演劇は少ないでしょう。「またこの出し物をやるの」と思われるかもしれませんが、配役が変われば芝居も変わります。その違いも楽しみの要素だと思います。

 ――これからはどうしていらっしゃりたいですか。

 古典物の演技法をなぞるのではなく、掘り下げることで、新しい魅力を掘り起こして、歌舞伎をご存じないお客様に古典のよさを訴えたい。その努力が一番大事です。言い古された表現ですが、死ぬまで修業です。














Comment
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

NHK交響楽団 第1987回 定期公演Cプロ @NHKホール(6月16日)

2023-07-13 20:50:20 | クラシック音楽



ひと月前の感想になりますが・・・

【ショスタコーヴィチ/弦楽四重奏のための2つの小品(I エレジー/II ポルカ)※開演前の室内楽】
【ショスタコーヴィチ/交響曲 第8番 ハ短調 作品65】

ショスタコーヴィチの8番も、ジャナンドレア・ノセダの指揮も、聴くのは初めて。

はじめに。
8番、いい曲だなぁ。。。
なぜあの1楽章の後にあの2楽章?その後にあの3楽章?そしてあの4、5楽章・・・
突然のんきな音が聴こえて来たり、なのにあのシリアスなフィナーレだったり。
3楽章は聴いていてすごく楽しい&興奮する。でも戦争的な観点から聴くと、とても怖い…。この曲、ニールセンの5番にもちょっと似てますね。
終楽章のラストは、私には天に上った死者達の魂への追悼としか聴こえません。

とはいえムラヴィンスキーやゲルギエフの演奏で予習していた私にとって、今回のノセダの演奏はスッキリ系で、前日にCプロ1日目の演奏をラジオで聴いたときは正直なところその良さが全くわかりませんでした。
聴きながら眠気が襲ってきた。
でも初めからそういう系の演奏だという前知識をもって聴いたせいもあると思うけど、実際に会場で2日目の生演奏を聴いたら、ラジオとは全然印象が違い、感動しました。
スッキリ系はスッキリ系なのだけど、だから軽いというわけでは全くなく、その凄みのようなものを感じた。
一見客観的な演奏に聴こえるけれど、その奥に隠れた主観的な凄みを感じさせるというか。あるいは客観的でえあるがゆえの凄みを感じさせるというか。
ノセダがロシアと深い繋がりがあるがゆえの独特な空気を感じたというか。
もちろん今の世界情勢の中なので、こちら側にも先入観があったことは否定できないけれど。
いずれにしても、「ただのスッキリ系の演奏」ではなかったです。少なくとも私の耳には。

N響も緊張感たっぷりの演奏を聴かせてくれました。
知人は「真面目すぎる」と苦笑していて、その感想も確かにそのとおりでよく理解できるのだけれども、全体的な私の感想としては上記のとおりでした。

あと、キッチリスッキリ系の演奏だったためか、オーケストレーションの色彩感がすごく鮮やかに感じられました。
ショスタコーヴィチの曲ってこんなに美しい色が見えるのか、と初めて感じた。
イタリア人指揮者のノセダだったからかもしれません。
ただこれについては「ショスタコーヴィチなのに色彩感が鮮やかすぎる」という感想もSNSで見かけて、なるほどそういう感じ方もあるか、とも。個人的にはこの色彩感、とても興味深かったですし、感動しました。

LSO CONDUCTOR GIANANDREA NOSEDA ON HIS PASSION FOR RUSSIAN CULTURE(26/03/2019)

How did you develop this sensibility and knowledge of the music in your student years? I know that you have studied in Italy – so was there a special approach to musical education there?

The main lesson I learned when I was a student in Sienna, studying with Valery Gergiev when he came to visit our Academy was to pay attention to the details and understand how even minor details change the perception of the musical phrase. Although not always serious in private lifes, in music we, musicians, take things seriously, we want to know and to study.

Both for Italians and for Russians it is important to be connected with our musical tradition as well as literature and poetry. In Italy there are such giants as Dante, Michelangelo, Raphael, Titian, Boccaccio, Petrarch, Manzoni – there are so many. One could draw parallels with Russia – Pushkin, Dostoevsky, Tolstoy in the 19thcentury, Bulgakov, Akhmatova in the 20thcentury, then also all the composers – Mussorgsky, Stravinsky, Shostakovich, Stravinsky, Scriabin – what a heritage. This knowledge established the foundation, makes you understand your roots, allows you to flourish and to blossom. It is like a tree – if you are connected to the earth, you can shoot into the sky standing on the shoulders of giants.

Could you speak about your lessons with Valery Gergiev?

He taught us in Accademia Chigiana in summer 1993. He taught me the sensitivity to the sound. I remember he said that I had very eloquent and rhythmic hands. He said that I should concentrate on imagining the sound, understand what kind of sound you want, what kind of colour, what kind of articulation, which is the most important note in the first fifty bars of this piece and who is playing it. He always pushed students to the limit for us to understand these things. For example, you do Beethoven’s Fifth Symphony, and it is already difficult, but then you work on Shostakovich’s symphonies, and it becomes even more challenging to understand: what is the most important note in this section? what is the most important phrase? what is the key moment that enlightens the fragment? Gergiev pushed me to look for answers to these questions.

・・・

It is interesting that Shostakovich, along with Verdi and Beethoven, was the composer who could change the society he was living in. Other composers were fantastic, but they could not do it. Verdi was born in Italy in 1813, and he died in 1901 in a completely different Italy, and he actually contributed to the change of the country. It was the same for Beethoven – Napoleon, the Vienna Congress, the Restoration – through his art he changed the state of contemporary world. And it is true for Shostakovich – I think without him glasnost’ and perestroika would have happened in a different way. Shostakovich suffered during Stalin’s era – he was marked as a modernist composer, he was trying to comply to the rules of the Soviet state to survive during Stalin’s era and after his death you would think he could live as he wanted. But in fact, it was also a difficult time for him, and he was already old – and he was looking back at the society he lived in before and compared it to the society he was living in then. His music is about the relationship between the artist and the society, the rules of the society, big philosophical questions – why death, why life, why one has to compose music, what is it to be an artist in his time. And little by little he changed the society – from the dictatorship to a new era. Whatever you do to change the status quo is good for the future. Things developed – probably not the way he wanted, but he contributed to the change. Even nowadays we are going through a difficult time as a society, and it might be compared (figuratively) to the time between 1936 to 1953 (Stalin’s death) that Shostakovich lived in. That time imposed the same kind of questions we ask today – where do I go? Where I should go? I don’t know, but I try here and there. I try to be the Russian composer who celebrates great victories, but I also try to develop there revolutionary ideas of freedom and self-expression.

But why Shostakovich specifically? Why not Prokofiev, for instance?

I would do Prokofiev, too. But Shostakovich, after Beethoven and Mahler, is the biggest symphonist. Beethoven wrote 9 symphonies, Mahler – 9 symphonies, Shostakovich – 15. It is a massive output. If you want to trace what he wanted to say, you need to start from when he was young to his late symphonies and explore his huge world encompassing 20thcentury which was very dramatic and had two World Wars and several dictatorships.

・・・

Shostakovich pushes my imagination to the limit. The Eighth is written like no other, it is not in the sonata form, it is more like a suite with seven moments. It is not perfect in terms of structure, but in terms of imagination it is one of the most innovative and advanced works of Shostakovich. Architecturally some other symphonies are more secure, but sometimes in things that are not perfect there is more power. This symphony goes from the massive sound to nothing, from the most extreme phrase and articulations to some visionary elements and to complete dissolution.

Interview: A Conversation with Gianandrea Noseda, Music Director of the National Symphony Orchestra(March 30, 2018)
アンドリュー・ロイド・ウェバーってショスタコーヴィチとプロコフィエフの大ファンだったんですね
彼の音楽って「クラシックぽいポップ」のイメージだったけれど、実は「ポップぽいクラシック」と捉えてもいいのかも。そもそもクラシックとは何ぞや?という話でもありますけど。

I spent roughly 10 years as the principal guest conductor at the Mariinsky Theatre. [Legendary Russian conductor] Valery Gergiev at first asked me to be responsible for the Italian repertoire there. But being there in St. Petersburg, you cannot avoid conducting another repertoire. And for me, I was very curious to touch, and to conduct with my own hands, Boris Godunov [by Modest Mussorgsky], Eugene Onegin, Queen of Spades [both by Tchaikovsky], and a little bit less-known repertoire like Prokofiev’s Betrothal in a Monastery and War and Peace. So while I was doing Italian opera, I was asked to do Queen of Spades, I was asked to do Boris, and I did it in the right place, where everybody was “breathing the Boris language.” I mean the Mussorgsky language, the Tchaikovsky language.

I’ve always been passionate about Russian literature, so I’ve always been reading Pushkin, Dostoevsky, and Tolstoy. And Chekhov, Bulgakov, and many others. It was sort of my personal love of that culture. And so my debut at the Met was War and Peace by Prokofiev, without rehearsals …

・・・

I’ll tell you a small story. When I arrived in Russia in 1997, I thought Prokofiev was a genius and Shostakovich was [just] a great composer. As I started to live there, I perceived the opposite – the Russians consider Shostakovich a genius and Prokofiev a great composer. I thought, what’s wrong with me, or with that? But from the Russian perspective, Prokofiev was seen as someone who left Russia and came back. While Shostakovich always lived there, even after living through some tough, tough years. That’s why they probably felt Shostakovich closer to their souls.

For myself, after 10 years of going there regularly, I think both are geniuses!

Interview with Gianandrea Noseda


Valery Gergiev introduces Shostakovich Symphony No 8





Comment
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

エリアス弦楽四重奏団 ベートーヴェン・サイクル Ⅳ,Ⅴ,Ⅵ(6月10,12,14日) @サントリーホール・ブルーローズ

2023-07-09 21:41:47 | クラシック音楽



 ヴァイオリン:サラ・ビトロック
 ヴァイオリン:ドナルド・グラント
 ヴィオラ:シモーネ・ファン・デア・ギーセン
 チェロ:マリー・ビトロック

【6月10日】
弦楽四重奏曲第12番 変ホ長調 作品127
弦楽四重奏曲第7番 ヘ長調 作品59-1「ラズモフスキー第1番」
【6月12日】
弦楽四重奏曲第6番 変ロ長調 作品18-6
弦楽四重奏曲第16番 ヘ長調 作品135
弦楽四重奏曲第8番 ホ短調 作品59-2「ラズモフスキー第2番」
【6月14日】
弦楽四重奏曲第4番 ハ短調 作品18-4
弦楽四重奏曲第10番 変ホ長調 作品74「ハープ」
弦楽四重奏曲第13番 変ロ長調 作品130「大フーガ付」


たまった感想のアップ、サクサクすすめます。サクサク。
エリアス弦楽四重奏団のベートヴェンサイクル、後半3公演に行ってきました。
なぜ行こうと思ったかというと、ハイティンクが引退後にビシュコフに宛てて'My own empty days since I stopped conducting seem to fill up surprisingly easily, there is always something to read or hear. I am indulging my passion for Beethoven quartets at the moment, the scores of late ones seem as complicated as Mahler 7 to me sometimes. The more I look at these things, the more I realise that I don't know anything.' (slipped discと言っていて、またバレンボイムも「作曲家には生涯を通じて手がける、日記とも呼ぶべきジャンルがあります。モーツァルトならピアノ協奏曲、シューベルトなら歌曲…。ベートーヴェンはピアノ・ソナタと弦楽四重奏曲でしょう」と言っていたので、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲を機会があればちゃんと聴いてみたいとずっと思っていたからでした。
今回はそのうちの半分を聴くことができました

今回のサイクルでは、各日1曲ずつ、第一ヴァイオリンのサラから曲についての説明が英語でありました。
ベートーヴェンの弦楽四重奏は私は全く聴き慣れていないので、とても参考になりました
たとえば第12番については、「ベートーヴェンの弦楽四重奏曲は普遍的な曲も多くあるが、この曲はとても親密(intimate)で、私的(private)な曲」だと。
また第8番(ラズモフスキー2番)については、以下のように言っていました。
・とてもダークな曲
・スロウムーブメントは、暗闇の中の希望を表している
・私にとって特別なのは最終楽章。本来はホ短調で開始されるべきなのにハ長調で開始される。ベートーベンはこの頃自殺を考えていた。でも自殺しないと決めた。そんな彼の心境がこの曲の全ての音符に書かれている。最終楽章は単純な喜びではなく、より複雑な、逆境の中での喜びを表していると思う。

さて、サイクル後半の全8曲を聴いた感想としては、とても勢いよく瑞々しい演奏をするカルテットのように感じました。
4人の雰囲気もとても親密な感じで、見ていて気持ちがいい。
もちろん演奏の息もピッタリ。
8曲の演奏を短期間で聴くとその緊張感の連続のようなエネルギッシュな勢いが少々ワンパターン気味に感じられてきてしまったのも正直なところではあったけれど(ふっと息抜きしたくなったりもした)、一方で、その情熱的な勢いにベートーヴェンの曲がもつ今まで知らなかった面を気づかせてもらえたようにも感じたのでした。
たとえば13番ラストの大フーガ。ストラヴィンスキーが「絶対的に現代的な楽曲。永久に現代的な楽曲」と言った意味が、彼らの演奏を聴いているとよくわかった。本当にまるでストラヴィンスキーを聴いているようだった。ハイティンクがThe more I look at these things, the more I realise that I don't know anything.」と言っていた意味が、おこがましいけれど、ハイティンクの1000分の1くらいはわかったような気がしたり。

13番は今年の秋にハーゲン弦楽四重奏団でも聴ける予定なので、楽しみです








どう見ても紫に見える「青いバラ」。
当時この花が開発されたとき、「青いバラを作るのって本当に不可能なのだな」と実感したものでした笑。
この花の名前は「アプローズ(喝采)」、花言葉は「夢 かなう」だそうです。サントリーらしい素敵な名前ですね
小ホール(ブルーローズ)で公演があるときは、いつもこの花瓶が飾られているのかな。今まで気づかなかったけれど。

というか、サントリーホールの小ホール(ブルーローズ)があの場所にあること、実は今回初めて知りました。。。
ずっと「ブルーローズってどこにあるんだろ~?」と不思議に思っていたんです。
あんな目の前にあったとは。
あそこって、スポンサー関係者や招待客のためのドリンクサービスの部屋かと思ってた

Comment
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

トマシュ・リッテル ピアノリサイタル @浜離宮朝日ホール(6月10日)

2023-07-09 16:36:02 | クラシック音楽




たまりにたまった感想を、サクサクすすめたいと思います。サクサク。
今回は第1回ショパン国際ピリオド楽器コンクール優勝者トマシュ・リッテルのリサイタル「ピリオド楽器のショパン」。

【第1部 レクチャー(14:00~14:30)】
「ショパン全書簡」が提示する新しいショパン像
講師:関口時正(東京外国語大学 名誉教授)

【第2部 プレゼンテーション(14:30~15:00)】
「モダン楽器とピリオド楽器によるショパン演奏について」
話・ピアノ:川口 成彦

前半は、レクチャー&プレゼンテーション。
特に川口さんによるスタインウェイと1843年製プレイエルの実演を交えてのお話が、とても面白かったです。
以下、覚書(間違えていたらすみません)。

・エラールは現代のモダンピアノの元といえるピアノ。ショパンは「具合の悪いときにはエラールを弾く。調子のいいときはプレイエルを弾く。自分の音を出せるから」と言っている。エラールはどんなときも出来合いの音が出る。一方プレイエルは扱いが難しいけれど繊細なニュアンスが出て、自分の望んだ音が出せる、という意味。

・ワルシャワで過ごした青年期までのショパンの身近にあったのはウィーン式アクションのフォルテピアノだった。ウィーン式アクションは、ベートーヴェンやシューベルトが弾いていた楽器。エラールもプレイエルもイギリス式アクションだが、ショパンはパリに移住後もプレイエルを「ウィーンのピアノ」と呼び、プレイエルにより親しみを感じていたようだ。

・アクションは古典派の時代まではシングル・エスケープメントだったが、ショパンの時代からダブル・エスケープメントになった。エラールはダブル~という、キーを元の位置まで戻さなくても再度打弦できる発明をした。一方シングル~のプレイエルは、打鍵した鍵盤を元の位置まで上げなければ次の音を鳴らすことができない。プレイエルではラフマニノフなどは弾けない。

・プレイエルを弾くと、指とハンマーの距離が近く感じられ、ショパンの心もすごく近くに感じられる。

・当時はピッチの高さは決まっていなかった。今日のプレイエルは、ショパンが慣れ親しんでいたと思われる434にしてある。同じ曲でもモダンピアノよりも低い434で弾くと華やかな音楽ではなく、陰り、孤独な感じの曲に聴こえる。

・モダンピアノは「母音」の表現が得意で、プレイエルは「子音」の表現が得意だと思う。モダンピアノはダイナミックな音が広い会場の遠くまで届き、プレイエルは音は小さいが繊細なニュアンスが出せる。
※ここでモダンピアノとプレイエルで同じ曲を弾いてくださって、川口さんが仰っていることの意味が実感できました。そして川口さんの音が優しい。もっと聴きたい。

・現代のピアノがつるつるの綺麗な紙なら、プレイエルは雑味もある和紙。汚い音も出る。ショパンは「そういう(汚い)音はここぞという時のためにとっておくように」と弟子に言っている。つまり汚い音を否定していないということ。

・ペダルも、プレイエルはモダンピアノに比べて減衰が早い。音楽教育では響きの濁りは悪いものとされているが、濁りも時には重要。楽譜にはペダルを踏みっぱなしの指示があることがあり、(減衰の遅い)モダンピアノでは濁りすぎてしまうのでペダルを踏み直して弾くのが普通だが、プレイエルでは踏みっぱなしでもその良さのようなものがある。アンドラーシュ・シフはベートーヴェンのソナタで(モダンピアノで?)それをやっている。

・人間というのは複雑で、泣きながら笑ったり、大勢の人に囲まれていても孤独を感じたりする。演劇が好きだったショパンは、言葉を伝えるようにピアノを弾きたいと思っていたと思う。そういう複雑さをプレイエルは表現できる。

(休憩)

【第3部 リサイタル(15:15~17:00)】
*トマシュ・リッテルがピリオド楽器(1843年製プレイエル)で弾くリサイタル

ショパン:ノクターン へ長調 op.15-1
ショパン:ノクターン 変ロ短調 op.9-1
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第30番 ホ長調 op.109
モーツァルト:幻想曲 ハ短調 K.475
ショパン:24の前奏曲 op.28
シューベルト=リスト:影法師(「白鳥の歌」D957から)(アンコール)

ショパン:マズルカ ホ短調 op.41-1(アンコール)


どの曲も悪くなかったけれど、プレイエルというピアノの良さを強く感じたのは、やはりショパンの曲でした。
音の親密さがモダンピアノのそれとは大違いで、サロンの部屋で目の前でショパンが弾いているようだった。
ああショパンの曲ってこんな親密な曲なのだな、と。こんな風にショパンを聴いたのは初めてでした。でも親密なだけではなくて、情熱もちゃんと感じられて。
川口さんが仰っていた「子音の繊細さ」もよくわかった。
ピリオド楽器のショパン、また機会があったら是非聴きたいです。
と思ったら、来年3月に「The Real Chopin × 18世紀オーケストラ」なんていう素敵演奏会が…!これは聴きたい。


川口成彦の「古楽というタイムマシンに乗って」(ontomo)
※フォルテピアノ奏者 川口成彦 特別インタビュー
小倉貴久子と巡るクラシックの旅 vol.2「ショパンの愛したピアノたち」







Recital fortepianowy | Tomasz Ritter
このうち今日のリサイタルで弾かれたのは、次の2曲。
15:11 Fryderyk Chopin - Nokturn F-dur op. 15 nr 1
22:20 Fryderyk Chopin - Nokturn b-moll op. 9 nr 1

Comment
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ラ・ボエーム @新国立劇場(7月2日)

2023-07-09 11:36:08 | クラシック音楽




たまっている演奏会&観劇感想をサクサクあげていこうと思っていたのに、なかなか進まず。
また直近から、新国ボエームの感想を。

プッチーニのオペラは、『トスカ』に続いて2回目。
『ラ・ボエーム』というと、私にとってはミュージカル『RENT』のもとのオペラ、という認識で、一度観てみたかったのです。
今回の公演、歌手、オケ、演出、全体としてとてもよかったです。

ミミ役のアレッサンドラ・マリアネッリとロドルフォ役のスティーヴン・コステロは、若い恋人達の瑞々しい感じがよく出ていて、一幕は彼らと一緒にときめいてしまいました。
ムゼッタ役のヴァレンティーナ・マストランジェロは、華やかでムゼッタそのもの!奔放で一途で男前で優しくて、惚れました。
マロチェッロ役の須藤慎吾さんは歌唱はとてもよかったのだけど、演技が少々オーバー気味に感じられてしまった けど2幕でムゼッタに陥落するところ、よかった〜!帽子を勢いよく放り投げる解放感、音楽とともに最高でした!

舞台美術(パスクアーレ・グロッシ)も、美しかったな~。
二幕のカルチェラタンの動く背景は歌舞伎の書割みたいで楽しかったし、三幕の雪の関所前も素敵だった(ワタシは雪の舞台美術が大好き)。各幕冒頭のセピア色の紗幕の使い方も印象的でした。

また個人的には、照明(笠原俊幸)に感銘を受けました。
単に時系列に沿うだけでなく、登場人物たちの心情や物語の状況に沿って繊細に変化していて、それがさりげないのに効果的で、思いのほか沁みました。三幕の夜明けの雪の場面の照明も美しかった。

でもやはり一番の主役はプッチーニの音楽!!
鳥の詞のところでは鳥が見えて、恋の高まりは登場人物達の心に強くシンクロしてしまいました。生で聴いて、その素晴らしさを実感。
前半の恋の高まりにシンクロできるか否かは重要ですよね。ここで一緒に高まることができないと、後半に感動できなくなってしまう。
大野さんの繊細で雄弁な音もブラボーでした。
また大野さんは以前聴いたトゥーランガリラでもそうでしたけど、色彩感をバランスよく美しく聴かせるのがお上手ですね。今回も美しい色が客席を満たしていました。

今回のラストはしっかり盛り上がりつつ劇的になりすぎないで静かな美しい余韻を残して終わったのも、よかったな(ロドルフォの叫びも、オケの演奏も)。
あの場面ってぐわ〜っとドラマチックに盛り上げすぎると昼ドラのようになってしまう気がするので、私は今回みたいな方が好きかも。
最後に建物の外に降る雪も印象的でした。最初の出会いから1年が過ぎて、次の冬が巡ってきたんですね・・・


【指揮】大野和士
【演出】粟國 淳
【美術】パスクアーレ・グロッシ
【衣裳】アレッサンドロ・チャンマルーギ
【照明】笠原俊幸
【舞台監督】髙橋尚史

【ミミ】アレッサンドラ・マリアネッリ
【ロドルフォ】スティーヴン・コステロ
【マルチェッロ】須藤慎吾
【ムゼッタ】ヴァレンティーナ・マストランジェロ
【ショナール】駒田敏章
【コッリーネ】フランチェスコ・レオーネ
【べノア】鹿野由之
【アルチンドロ】晴 雅彦
【パルピニョール】寺田宗永
【合唱指揮】三澤洋史
【合 唱】新国立劇場合唱団
【児童合唱】TOKYO FM少年合唱団
【管弦楽】東京フィルハーモニー交響楽団



大野:
プッチーニという作曲家を考える時に、ある一人の作曲家といつも比べてしまうんです。

プッチーニは1858年に生まれているんですが、その2年後の1860年に誰が生まれたかというと、グスタフ・マーラーなんです。

マーラーの1880年代から1900年初頭までの諸作品というと交響曲の1番から5番ぐらいまでなのですが、プッチーニの『マノン・レスコー』から『蝶々夫人』までのオペラ作品と、ほぼ同時期に作曲されています。

その最初に放った成果は偉大なもので、その中に『ラ・ボエーム』というのが入っているわけです 。

そこで私がいつも思うのは、二人とも改革者であったということです。マーラーはワーグナー以降の調性をもっと広げていったり、管弦楽法も発達させていった。一方、オペラ作曲家としてのプッチーニは登場人物全員をあたかも主役のように書き続けた人です。

例えば『蝶々夫人』を見ても蝶々夫人、ピンカートン、スズキ、それからシャープレスも、出てくる4人の中で、この人はなんとなく付け足しだなというような人はいないんですね。登場人物のパーソナリティが非常に強いという作風でした。それまでのオペラ作曲家は時代の制約もあったかもしれませんが、王宮や神話をテーマにすることが多かった。そして2人の恋人が主役ならばそれ以外の人々は廷臣たち、といった役割が多かったんですが、その意味で『ラ・ボエーム』はなんといってもミミ、ムゼッタ、ロドルフォ、マルチェッロ、コッリーネ、ショナールという個性がある。・・・それは合唱を含めてですが、それぞれに力を発揮させるという意味でのオペラの登場人物の性格の改革を行った。それが一番よく見えるのがこの『ラ・ボエーム』ではないかと思います。

【質問】第1幕でロドルフォが「冷たき手を」を歌ってたった1曲でミミは"落ちて"しまうわけですが、ミミはロドルフォのどこに惹かれたのでしょう?

大野:
Che gelida manina!
Se la lasci riscaldar...
「手を温めましょう」と言って歌い始める冒頭も素敵なんですが、彼は詩人の卵ですから、そのうち興が乗ってきて
Chi son?
「私は誰でしょう」
とミミの前で歌います。ミミはお針子で、寒い中気を失いかけて彼のところに来るわけですが、そこで静かに聞いていると彼が大きな声で

Chi son?
Sono un poeta.
Che cosa faccio? Scrivo.
E come vivo? Vivo.

「私は誰でしょう」「私は詩人です。そして生きているんです(Vivo.)」って言うんですね。初めて息を深く吸ってびっくりしながらも、自分の中に凄烈な息を吸い込んだミミの姿が浮かんでくるように思います。

・・・


大野:
私が強調したいのは、プッチーニの作曲技法が巧みなところですが、とにかく1幕から2幕にかけての盛り上がり方。2幕には大きな合唱が入って、児童合唱も入ってきます。
その盛り上がりのカーブたるや、急カーブで最後の鼓笛隊のところまで一挙にいってしまうんですね。そして3幕と4幕は、それとは反対に、ミミの最後の息が消え去るまで、(1,2幕と)同じ時間で降りていくんですね。体感としてテンポは遅いんですが、時間軸から見るとこの盛り上がりと悲劇的な段階が同じぐらいの時間の中で収まっているというのがプッチーニの天才的な筆、そして創造力だと思います。

大野監督6/30プレトーク


今ならもっとうまく愛せたかも知れない、そのように思い返す恋もあるでしょうか。

美化しきれないもの、それを後悔として持ち続けることも、また一つ、愛のかたちなのかも知れません。

山本まりこ【開幕】新国立劇場「ラ・ボエーム」 凛としたモダンなヒロイン像に共感 愛に満ちた永遠の別れに涙 @美術展ナビ

この作品に魅かれる理由はまさにこういうところかもしれないなぁ。
若くて、うまく生きられなくて、社会の現実に直面して、でも精一杯愛して・・・。そして生き残った者達は成長し、この先の人生を生きていく。
今回ボエームを観て、ミュージカル『RENT』もより好きになれた気がします。『RENT』のミミはオペラと違って最後に生き返るけれど、当然だけど彼女は快癒しているわけではないんですよね。HIVはあの頃は不治の病だったのだから。彼女に残された時間は長くはない。それは皆がわかってる。それでも”今この瞬間”、彼女は生きている。そして歌われるNo day but today。ボエームもレントも、どちらも素敵。

































新国立劇場オペラ「ラ・ボエーム」ダイジェスト映像 La Bohème-NNTT

2020年公演の映像ですね。

Comment
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする