風薫る道

Who never feels lonely at all under this endless sky...?

『魚屋宗五郎』『太刀盗人』 @国立劇場(10月17日)

2020-11-28 00:45:27 | 歌舞伎

@報知新聞社

 ――思い入れの強い作品だということですが。

 紀尾井町のおじさん(二代目尾上松緑)から、「これはチーム戦だぜ」って。「チームでやっていかないと面白くないよ。自分のチームをつくれよ」といわれた。それが今回、そのチームがそろっているのでありがたい。やっぱり安心なんですよね、全員いつもの顔がそろっていると、セリフの間ですとか、そんなものが違ってこないので。

朝日新聞 2020年9月)

 開幕後に話を聞いた。菊五郎にとって8か月ぶりの舞台。歌舞伎ができる喜びを「本当に身震いしたね。こんなに仕事休んだことないし、自分の体が役者の体になっているか気になったり。初日に心配は消えたけれど」。はにかみを含んだ江戸っ子かたぎ。本心をそのまま言葉にしないことの多い人が実感のこもった表現をした。歌舞伎が人生そのもので、生きている証しであることをうかがわせる。

 感染予防で制約の多い中での公演。「大向こうの声もないし、ひとつ空けての客席でしょ。思った以上に雰囲気は違う。歌舞伎がいかにお客さまの力との相乗効果で盛り上がってきたか。痛感させられるよね」

 今月は歌舞伎座、名古屋・御園座とコロナ禍では最多3劇場で歌舞伎上演中。感染リスクはゼロでなく、満員でない日が続く。特に歌舞伎人気を支えてきた高齢層が戻ってきていないことが大きい。しばらく試練の時だろう。「引っ込みグセがつくと再び出て来てもらうのは大変。どうすればいいのか。でも対策や経営まで役者が考えて神経使うと自分の本当の“お仕事”がおかしくなるからね」

 公演のない間、ウォーキングを中心に体力維持に努めた。この間、15年間かわいがっていた大型犬が死んだ。「女房(富司純子、74)と2人でいても会話が減って家の中がシ~ンとして。子猫2匹を買ってきた。うん、かわいいよ。娘(寺島しのぶ、47)や孫(寺嶋眞秀、8)もたまに顔見せるけれど、あれは完全に猫見たさで来てるな」

 現在、長男・尾上菊之助(43)の息子、尾上丑之助(6)とも共演中。「孫とも楽屋は別々なんだ。母親が心配して楽屋に来たくても自由に入れない。僕なんて第2部に出るから第1部の者が一人でもいたら入れない。3日連続で待たされた。こんなの初めて。びっくりするよ」

 ウィズ・コロナ時代の新しい生活様式。歌舞伎俳優を束ねる日本俳優協会のトップとしても悩む。「新様式に慣れないね。あいさつも元気よくできない。マスクを着けての稽古は長ぜりふだと苦しい。歌舞伎は密で始まって密、密、密。密大好きで成り立ってきたんだよな」と「密の尊さ」を改めて思うという。そして「『この方法で』と言えないもどかしさ。皆さん個々に気をつけて。人に迷惑をかけないようお願いします。それしか言えないもの」

 今月演じている魚屋宗五郎は、音羽屋の家の芸。「毎回これが最後のつもりで」の思いで臨んでいる。じわじわ酒に酔っていく過程が見せ場で至難とされる。「おじいさん(6代目菊五郎)が、昼間に芝居で飲むから『夜飲む酒がまずい』と。信じられなかったけれど、今月は、それが分かるな」。この感覚はコロナ禍もさることながら、さらに芸に磨きがかかったことを意味するのかもしれない。

 若い世代によるオンライン歌舞伎も生まれた。一方で菊五郎はアナログの力を重んじたい。「僕にできるのはただ懸命に舞台に立ち続けること。『今月面白かったよ』というお客さんの口コミの力を信じ、やっぱり大事にしたいんだよ」。原点を見つめ直しながら、踏ん張り続ける覚悟だ。

スポーツ報知 2020年10月)


【新皿屋舗月雨暈 魚屋宗五郎】
11月公演と順番が逆になってしまいましたが、10月公演の感想を。
歌舞伎座で仁左衛門さんが石を切るのも観たかったのだけれど、私は菊五郎さんの宗五郎がとっても好きで、10月は多忙でどちらか一択だったため、こちらを選んだのでありました。
ところでこの演目の正式名称の「新皿屋舗月雨暈」って、「しんさらやしきつきのあまがさ」って読むんですね。”新皿屋舗”が怪談の『皿屋敷』からなのはわかるけど、”月雨暈”とは?と調べてみたら、”暈(かさ)”とは「太陽や月に薄い雲がかかった際にその周囲に光の輪が現れる大気光学現象」のことで、「月が暈をかぶると雨」という言い伝えがあるのだそうです。へ~。歌舞伎のおかげでまた一つ賢くなった。

というわけで、菊五郎さんの『魚屋宗五郎』。
私が観るのは、2014年以来の6年ぶり。なんと、そんなにたっていたのか。
今回の菊五郎さん、一つ一つを丁寧に演じておられるように感じました。といって、もちろん不自然さはカケラもなく。この演目での音羽屋の笑いと泣きのどちらも最高に魅せる絶妙さは、流石ですよね。
前回観た際はどちらかというとお酒に酔っていく場面の至芸に見惚れて絶妙な掛け合いやポコポコした空気に笑ってという印象が強かったのだけれど、今回は妹を亡くした宗五郎の悲しみ、妹への愛情が胸に迫ったな。。。
最初の花道の出の、悄然とした姿。深い悲しみがしんみりと伝わってきた。後ろを向いて木魚を叩いているときも、前回はその姿に可笑しみを感じたのだけれど、今回は彼の心のうちを想像した。そしておなぎから真実を聞いて酒に酔って、前半の最後、殿様の屋敷へとかけていく宗五郎が花道の七三で片肌脱いで前を見据える目と姿には、「ああ、菊五郎さんだなあ」と胸がいっぱいになりました。
今回の公演には寺島しのぶさんが眞秀君と一緒に観に来られていたそうで(私とは別の日ですが)、観劇後にブログでこんな風に書かれていました。
「父の宗五郎は名人芸。酔って屋敷に乗り込む前、七三で片肌脱いで見栄を切ったときには涙が溢れて止まらなかった。・・・芝居が終わり知らないお客様が"音羽屋さんの宗五郎は天下一品ですね"と声をかけてくださった。多分私の返しは"有難うございます"でなければならなかったけど"そうですね。私もそう思います!"と興奮している私は口走ってしまいました。やっぱり劇場はいい!舞台はいい!・・・今のご時世、エンターテインメントに時間や労力を使えない!と思っていらっしゃる方や、怖くて劇場へ行けないとおっしゃる方もいらっしゃるはずです。でも、見てよかったぁーと思えた瞬間、心が豊かになることもとても大事な事だなあと思います。」
本当に、そうだよね。

私はこの演目は菊五郎さん以外では勘九郎で観ていて、勘九郎も「勘九郎の宗五郎」としてとてもよかったけれど、私の大好きな菊五郎さんのタイプとは違うのよね。菊五郎さんのThe 江戸っ子な音羽屋風な宗五郎、継いでくれる人は誰かいないのか・・・菊ちゃんはタイプが違うし・・・と思っていてふと思いついた。松緑は!?おじいさん(二代目松緑)の当たり役だし、イケる気がする!私は見ていないけれど前にやってるのよね。ぜひ極めてほしい!!

脇は、殿様以外は基本的に前回観たときと同じメンバー。みんな本当に上手いよねえ。時蔵さん(おはま)と團蔵さん(宗五郎父)、しみじみとした情が滲んでいて、なんか家族っていいなあと感じました。梅枝(おなぎ)も萬次郎さん(茶屋女房)も抜群の安定感。左團次さん(家老)も、菊五郎さんの宗五郎にはこの方以外の家老はいないと感じさせる。菊五郎さんも仰っているけど、これ以上ないメンバーだと感じる。殿様役は今回は彦三郎でしたが、個人的には前回の錦之助さんのおおらかな感じの方が好きだったかも。
丁稚の登場に大きな拍手が起きていたけれど、丑之助君だったんですね。大きくなったなあ。

【太刀盗人】
この演目を観るのは今回が初めて。狂言が元になっている演目が歌舞伎には沢山あるけど、私、好きなんですよね。深刻じゃないくだらないことを延々とやっていて、悪い人が出てこなくて、というより悪い人も舞台全体のとぼけた温かな空気の中に包まれていて。トゲトゲした気分になってしまうことの多い日常生活の中で、こういうちょっと現代では体験できないような大らかさに触れるとほっとする。
なんてのんびり気分で観ながらも、松緑(九郎兵衛)の踊り、上手いなあ!ハキッと綺麗で、観ていて楽しかったし興奮しました。紀尾井町

コロナ禍で日本中が沈んだ気持ちになっている中で『魚屋宗五郎』や『太刀盗人』のような明るい気分になれる演目を選んでくれたところに「音羽屋らしさ」のようなものを感じた一日でした。
そういえば菊五郎さんのおうちで飼われていたあの真っ白い可愛いワンちゃん、亡くなってしまったんですね。菊五郎さんと並んでいると大型犬が二匹いるようで、見ていて和む光景だったなあ。「2人でいても会話が減って家の中がシ~ンとして。子猫2匹を買ってきた。」と。富司純子さんと菊五郎さんが家でシ~ンとしている光景、、、面白いと言っては失礼だけど、ちょっと面白い。

<評>菊五郎の宗五郎 胸に迫る絶品 国立劇場 10月歌舞伎公演など(東京新聞)

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『平家女護島―俊寛―』 @国立劇場(11月25日)

2020-11-27 00:34:44 | 歌舞伎

©国立劇場

 初めて岳父の「鬼界ヶ島」に出演した前回(平成30年9月歌舞伎座)、荒涼とした浜辺の小屋に岳父の演じる俊寛が現れた時に「なんて寂しい海だけしかない荒涼とした世界に、この人は生きているんだろう……」と胸にグッときてしまったことを覚えています。岳父の世界に入れば、自然と「鬼界ヶ島」の世界に入っていけたという感覚もありました。船に乗ってからの最後の別れは、本当に辛くて“断腸の思い”という感情が湧き立ってきました。
 岳父の舞台からは、役になりきって“場”を作り上げ、その世界にお客様をいざなう力を肌で感じました。私もそういう芸を目指したいと思います。
(尾上菊之助)

ぜひ目指して!菊ちゃんならきっと出来る!

というわけで、千穐楽の『俊寛』に行ってきたのです。
日本中でコロナの第三波の緊張が高まりつつあり、国立劇場の第二部も中止となったなか、劇場に入るとちょうど着到(開演30分前を劇場全体に知らせる儀礼囃子)が賑やかに聴こえてきて、歌舞伎というのは本当に本質的に‟縁起のいい”芸能なのだなあ、と久しぶりにほっとするのんびり気分を味わわせてもらえたのでした。

【序幕 六波羅清盛館の場】
吉右衛門さんの清盛(第二幕の俊寛と二役)。
エロくてワルいキッチー最高!老獪な大物感もたっぷり
吉右衛門さんのこういうお役、意外と見る機会がないから、もっと観たいな。
杮落しの『仮名手本~』では師直を観られる予定だったけど、仁左さまの出演中止で配役が変更になっちゃったのよね。代わりにオール吉右衛門さんの素晴らしい由良之助を通しで観られたのだけど。
菊之助の東屋もとてもよかった。凛とした清浄な空気に説得力があって、俊寛への愛情も感じられました。
幕切れの歌六さん(能登守教経)から滲み出る情の深さ、厳しさ、存在感も最高でした。丸本では教経が東屋の首を持って清盛の部屋に行き清盛に諌言する場面があるんですね。吉右衛門さんも歌六さんも素晴らしかったから、その場面も観たかったな。

【二幕目 鬼界ヶ島の場】

・・・近松門左衛門の作品における男女の関係といいますと、大概は色街での色っぽい話が多いのですが、本作では、離れて暮らしている夫婦、遠くにいる男女の愛を描いています。東屋は、平清盛に気に入られてしまったことで自害し、それを夫の俊寛にも知らせるなと伝えます。まさに“究極の愛”、それを受けての「鬼界ヶ島」の俊寛はどうなるか……というのが、今回の私の課題です。
 役者が喜怒哀楽に訴えて、お客様に笑ったり泣いたりして苦しみや悩みを涙で流していただく。芝居というのはそういうものじゃないかなと、私は思っております。この作品をご覧いただいて、泣いて泣いて、コロナのことも苦しいことも、人生のいろんなことを一時パッと忘れていただく。キザな言葉でいえば“カタルシス”。菊之助さんの東屋でしたら、それを感じていただけるかな、と期待しています。
 やっと9月から舞台に立てるようになりましたが、お客様が心から拍手してくださっている時は「本当に役者になって良かった、生きていて良かった」とつくづく感じます。また、そうした嬉しさは、そうでない感情を表現する上でも役立つのではないかと思います。今感じている喜びを、11月の俊寛では真逆の悲しみとしてお伝えし、お客様には涙を流して心を浄化していただければ幸いです。
(中村吉右衛門)

なんかものすごかった。。。。。。。。。。。
吉右衛門さんの俊寛を観るのは2013年、2018年に続いて三度目だけど、観る度にラストの凄みが増している。演技が大袈裟になっているわけではなく、むしろその逆で、自然さと静けさが増している。だからこそ、凄みが増している。

今回の舞台では赦免船が出発するときに互いに言う「未来で」の言葉の重みも、すごく感じたな…。どちらも大袈裟に言っているわけではないのに、胸が苦しくてたまらなくなった。
赦免船の綱が俊寛の手から離れるところは、その容赦のないあっけなさがリアルで、思わず「あっ」と声が出そうになりました。この時が、俊寛と現世の間の繋がりが永遠に切れた瞬間なんだよね…。
そして俊寛が船に「おーい」と呼び掛けて、船からも「おーい」と答えがあって、それも容赦なく遠のいていって…。残ったのは、島にただ自分だけがいる究極の静けさのみ――。実際のところ島には漁師とかがいるわけだから一人じゃないはずなのだけど、もうこの場面はこの世界中に人間は俊寛一人しかいないような、それほどの凄絶な孤独が感じられて。吉右衛門さんはきっと本当の孤独というものをご存知の方なのだろうな…とそんなことを感じました。そして岩へと登る俊寛。

前回観たときは、吉右衛門さんの俊寛にはいま”弘誓の船”が見えているのだな、と感じました。そして彼はこの後に死ぬのだろうと強く感じた。この後に生きている俊寛が、生きている吉右衛門さんの姿が全く想像できなかったから。

でも今回の俊寛には、そういうものさえなかったというか。そういうものを超えた場所にいた、というか。
現世とか来世とか、絶望とか希望とか救いとかそういう名前のつく感情は、あの最後の俊寛の中にはないように見えた。
なんだか今回の俊寛を観てから、私には、俊寛があの時のまま今も鬼界ヶ島にいるような気がしてしまっているんです。彼が島で生きて生活しているような気がする、という意味ではなく。それは生きた人間ではなくて、といって彼の魂が成仏していないとかでもなく。あのラストの場面のまま、今も岩の上で彼が沖を見つめているように感じられるんです。あるいは、あの後にあったはずの現実の死はなく、あのラストの場面のまま彼は消えていったような、そんな風に感じられるんです。それは悲劇とかそういう感じではなく。
うまく言葉にできないな、、、。
と思っていたら、帰宅してから今月の筋書で吉右衛門さんがこんな言葉を仰っていることを知りました。

『赦免船を見送った後の幕切れで、実父(初代白鸚)から「石になれ」と教わりました。俊寛は全てを忘れて身も心も天に委ねたのではと考えております』

ああ。そうです、そういう感じ。。。。。
「石」というと心がないように思えるけど、そういう意味ではなくて。渡辺保さんが今回の吉右衛門さんの俊寛について「心を超えた心」という表現をされていて、うまい表現だと感じました。
吉右衛門さん、最後、涙を流されていましたね。汗じゃないよね。吉右衛門さんってこういうお芝居で涙を流さない方(悪い意味ではなく、泣かずに泣く演技をされる方)のように思っていたので、少し驚きました。
そしてこれは『義経千本桜』と同じく平家物語が元となっている演目だけれど、こういうお話や演目が普通に生まれた時代、仏教が当たり前に生活の中にあった時代というものに今回も思いを馳せ、今の時代とどちらが幸せなのだろう、と考えてしまいました。吉右衛門さんの知盛、もう一度観たいなあと強く思ってしまうけれど、考えてみたらあのお役、四の切の狐忠信と同じで歳をとったらできないお役だよね…。もしかしてもう二度と観られないということは、あったりするのだろうか…。

脇は、やっぱり菊之助の丹左衛門!ニザさまはそれはもう最高に素晴らしかったけど、菊ちゃんもいい!涼しげで爽やかで凛としていて、情もちゃんと伝わってきたよ。そして錦之助さんの成経が、柔らかくて上品でいいなと感じました。
あと葵太夫さん!私、葵太夫さんが今日出られるであろうことをすっかり考えていなくて、でも『鬼界ヶ島』の第一声で「ああ、いい」とうっとりと聞き惚れ、ふと「ん、そういえば吉右衛門さんの舞台ということは…」とオペラグラスで竹本を覗いたら、案の定葵太夫さんがおられた。

お芝居が終わった後、定式幕が引かれて、さらに緞帳が下りるまで、客席の拍手がずっと続いていましたね。よもや吉右衛門さんがカーテンコールをするだろうなんて期待をしている客は一人もいないはずだから、本当に心からの「素晴らしい舞台を有難う」の拍手だったのだと思います。
はぁ。。。。なんだか今年は舞台観劇の数は少ないけど、もの凄い舞台や演奏会を沢山経験できた年だったなあ。。。
まだ感想を書けていないものが二つあるので、近いうちにあげたいです(仕事が忙しくて)。
なんだか今も鬼界ヶ島の俊寛を思って、ぼうっとしてしまっている私がいます。
ああそうそう。今回の俊寛、『清盛館』とセットで上演されたのはとてもいいと思いました。東屋って実は『鬼界ヶ島(俊寛)』の中でとても大きな意味をもつ存在ですし、今回は前半部分のおかげで血肉を伴った東屋を思い浮かべながら後半を観ることができました。吉右衛門さんが『俊寛』を「近松門左衛門が書いた究極の恋愛物語」と仰っているのも興味深かったです。
そして私は今回初めて、『俊寛』の続きのストーリーをネットで知ってビックリ。東屋と千鳥(死んじゃうんだねえ…)の亡霊が清盛を呪い殺すんですって!?さすが文楽。ぶっとんでますね

『平家女護島―俊寛―』中村吉右衛門、尾上菊之助が意気込みを語りました!
【歌舞伎 平家女護島】吉右衛門が示す究極の愛、菊之助が受け継ぐ芸の力 俊寛で心の浄化を

©読売新聞社
ちょっ、それラストの俊寛のマネっこですか??可愛すぎる76歳人間国宝



※追記(2021年2月)
 初代から実父、そして私と三代にわたって演じてきた芝居の数々の中でもこの「俊寛」は特に好きで、いつかヨーロッパで演じてみたいとも思っている演目です。・・・思い続けた妻がもうこの世にはいないと告げられた俊寛の気持ち。これまでは驚きと悲しみだけを表していましたが、今回は少し違った思いで演じました。実は私は十月に、あることで手術を受けました。その影響が思ったより体に響いてしまい、大声を出すと息が上がり、立ち上がるのに苦労し、歩くだけで心臓がパクパクします。そんな体調ですが七十年以上役者を続けているお蔭様でしょうか。何とか一ヶ月の公演を終えることができました。自分では気づかぬ舞台に対する執念執着かもしれません。
 手術の後、一晩中苦しく辛く、生の放棄まで頭をよぎりました。その経験を俊寛を演じるに当たって集中してみました。生きたい、生きて都へ帰り生きて妻に会いたいという、それまでの強い気持ちから一転、妻の死を知り、少将の妻となった千鳥に赦免船の座を譲り、島に残ることを決意する俊寛。百八十度思いが変わり、自分を犠牲にして若い者を生かすことにする切っ掛けとなる場面です。生き抜く事、また、次の時代に渡すことも大切な気がします。俊寛のさまざまな心情の変化を経て、浄化の域にまで到達できれば役者冥利に尽きるのですが、ご覧になっていただいた方は、いかがでしたでしょうか。コロナのことも色々な人生の苦しいことも一時忘れてカタルシスに浸り、美しい涙を流していただけたようでしたら幸いです。
本の窓「二代目中村吉右衛門 四方山日記」第十一回 俊寛の心

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藤十郎さん

2020-11-15 13:22:19 | 歌舞伎

坂田藤十郎さんがお亡くなりになりました。
『曽根崎心中』のお初ちゃん、『伽羅先代萩』の政岡、『道行初音旅』の静御前、『山科閑居』の戸無瀬、『勧進帳』の義経、『封印切』の忠兵衛、『帯屋』の長右衛門、『新口村』の忠兵衛など沢山のお芝居を観させていただきました。

藤十郎さんのお芝居を拝見していていつも感じていたことの一つは、舞台に出た瞬間から去るまで「そのお役を生きていらっしゃった」ことでした。そんなこと役者なら当たり前だろうと思われるかもしれませんが、上手く言えないのだけれど、藤十郎さんが実際に舞台の上にいるのは1~2時間だけれど、舞台に出た瞬間にその役の人間がその数時間前、数日前、これまでどういう人生を過ごしてきたのかということを感じることができるんです。藤十郎さんのお芝居からその感覚が抜けたことは、数多くの舞台を観てきた中でおそらく一度もなかったと思います。こういう役者さんって、いそうで意外と少ないんです。

次に印象的だったことは、私が本格的に歌舞伎を観始めたのは歌舞伎座が新開場した2013年からなので藤十郎さんは既にお若いとは決して言えないご年齢でしたが、いつも「そのお役の年齢」に見えたことです。若々しいというのではなく、本当にお若かった。年々若返っているようにさえ感じられました。藤十郎さんが大切に演じられていた『曽根崎心中』のお初ちゃんなんか、もう本当に可愛らしくてねえ・・・。一階席の前方で観ていても女子高生のようでねえ・・・。『道行初音旅』の静御前もそう。ふんわり麗らかな春の日差しのような静御前でした。

そしてやっぱり、上方の演目を演じられているときの藤十郎さんが大好きでした。私が観ることができた藤十郎さんの演じたお役の中で一番好きだったのは、『封印切』の忠兵衛。藤十郎さんの忠兵衛の、あの封印が切れたときの言葉で表現できない舞台上の独特の悲しさ、美しさ。文楽の空気を感じました。あの感じを体験させてくれる役者さんに今後出会えるだろうか・・・。ただでさえ上方歌舞伎は瀕死の状態なのに・・・。

そして最後に、私の印象に残っているエピソードを。
2014年の歌舞伎座での『曽根崎心中』のお初は”一世一代(そのお役の演じ納め)”とされた藤十郎さんにとって特別な公演だったのですが、私が拝見した日、クライマックスの曽根崎の森で徳兵衛が迷いの末脇差しを振り上げて刃先をお初の喉元に突き付けようというまさにそのとき、客席から「やめんといてや!」の掛け声が。そしてお芝居が終わり緞帳が降りるときには「まだまだやれまっせ!」。
・・・まあワタクシ、殺意を覚えましたよね。高い値段を出した一等席だったから猶更ね。
ところが終演後の藤十郎さん門下の扇乃丞さんのFBによると、
「一瞬、此処は道頓堀の中座か京都の南座かなという雰囲気で、師匠も"嬉しいねぇ"と言いながら楽屋へ小走りに戻って行かれました(^○^)」
とのこと。こうなるとこちらも苦笑してあの客を許さざるを得なくなっちゃうというか、この緩さも歌舞伎の良さと思えてしまうというか、少なくともこういう藤十郎さんが私は好きだ、と感じたのでありました。

藤十郎さんのお芝居をもう観られないことがまだ信じられませんが、心からご冥福をお祈りいたします。
たくさんの素晴らしいお芝居と時間をありがとうございました。
山城屋!!!

【妻の扇千景さん「芝居一筋の人」】
坂田藤十郎さんが亡くなったことについて、妻の扇千景さんはNHKの取材に対し、
「まるで眠っているように亡くなりました。10歳から去年12月の87歳まで一度も休演したことがなく、役者のために生まれて役者として死ぬ生涯でした。『曽根崎心中』という当たり芸もでき、いろいろな役をやらせていただき、本当にありがたいことでした。昭和33年に結婚し、62年間になりますが、怒ることがなく、人の悪口も言わず、“芝居一筋”で、ほかのことは何もできない人でした。役者のために生まれた人と結婚しましたが、私が政界に30年いた間もとても協力してくれました。こうして2人で62年もいられたことは、本当に縁だと思います」と話していました。

【鴈治郎さん 扇雀さん「父はスター」】
坂田藤十郎さんの長男、中村鴈治郎さんは、「最後まで若々しく、ずっとスターでいたのを目の前で体感させてくれた人です。そしてそのままスターのままで逝ってしまいました。家の中でも親父という印象ではなかったです。世界中で一番お袋が親父のファンだったと思います」とコメントしています。

また、次男の中村扇雀さんは、「子どものころから、父はスター街道をひた走っていました。そして自分の芸のことにはとても厳しく、自分の芸を高めていくことに人生をささげていて、その背中をずっと見続けてきました。『一生青春』をモットーに、息子も孫もライバルに思っている人でした。そして最期は苦しむことなく安らかに眠りました」とコメントしています。

【片岡仁左衛門さん「関西歌舞伎の旗頭」】
同じ上方の歌舞伎俳優として共演するなど親交が深かった片岡仁左衛門さんは、「私も先ほど悲報を知ったばかりで言葉が出てきません。われわれのような関西出身の歌舞伎俳優の旗頭で、心の支えのような存在でしたので、非常にさみしく、残念に思います」とコメントしました。
その上で、「大阪のにおいというのが体に染みついている方で、昔の素晴らしい大先輩の芸を盗んで吸収し、アレンジした独特の雰囲気は我々にはまねできないものだった。これまで兄さんが頑張ってくれたように、関西歌舞伎の芸を残すことに尽力していきたい」と、話していました。

(2020年11月15日 NHK)

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ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 @サントリーホール(11月9日)

2020-11-12 21:40:59 | クラシック音楽




youtubeで聴いて大好きだったゲルギエフ×ウィーンフィルの『火の鳥』をどうしても生で聴きたい。ゲルギエフがウィーンフィルと来日するのは16年ぶりとのことだし(どちらも毎年のように来日しているイメージがあるので意外)、今を逃したら二度と聴ける機会は訪れない気がする。でもでも、色んな意味で39000円はムリ。ああ・・・と未練がましくしていたら、クラシックの神様が微笑んでくれました
直前に9日の最安席(といっても19000円)のチケットを譲っていただけることに。9日ならマツーエフのピアノ協奏曲も聴ける\(^〇^)/

オーケストラの演奏を聴くのは、1月のサロネン&フィルハーモニア以来。
行く前はブログにこんなことを書くことになるのかな、いやあんなことかなとか色々思っていたのだけど、聴き終わった今は言葉がないです。
音楽の都から来たオーケストラは伊達じゃなかった。
そもそも音が独特で、今まで聴いたことのあるオケと全然違う。このオケを聴くのは今夜が初めてで、開演前の音出しのときから音が違うと感じたオケは、アムステルダムで聴いたコンセルトヘボウに続いて二度目です。コンセルトヘボウがビロードなら、こちらはシルク。サントリーホールでこんな音が聴けるなら、ウィーンの楽友協会で聴いたらどれほどの音を聴けるのだろう。巷で「ウィーンフィルはウィーンフィルというものであって、それ以外のオケとは別もの」と良くも悪くも言われている理由も理解できる気がしました。
やる気のないときには全くやる気を見せない気まぐれなオーケストラであることでも有名だけど(ゲルギエフと似た者同士ね)、今夜はマジメに演奏していました。今夜の演奏を聴いてウィーンフィルのファンになっちゃいそうと思ったのだけど、twitterの感想を読んでいると「今回は本気のウィーンフィル!」という言葉が溢れていて、それほどの気まぐれオケなのかと思うと来年もチケットを買う勇気を持てるかどうか・・・ でも今日の演奏を聴いて、そういう気まぐれなオケだからこそ出ている音の魅力というものもあるように感じられました。音が自由というか。うまく言えないのだけれど。

今夜はコロナ対策のためいつもより早く18時にホールが開場し、いつもどおり19時開演。ゲルギエフ、今回は遅刻しなかった
オケも客席もソーシャルディスタンス一切なしの密。日本的にも世界的にも異例尽くしの演奏会。
今夜はP席で、そういえばP席って管楽器の飛沫とか大丈夫かしらと一瞬思ったが、4日に1度PCR検査を受け続けているオケに囲まれている方が客席の日本人に囲まれているよりよほど安心であることにすぐに気づいたのであった。

【プロコフィエフ:ピアノ協奏曲第2番 ト短調 作品16】
朝にマツーエフのFBで、彼の長年の友人であるチェリストが8日に急死したことを知りました。
マツーエフは「悪い夢」「身体がその事実を受け入れられないでいる」「絶対的な空虚」と書いていて、その感覚が私には覚えがありすぎるほどあって、読んでいて辛かった。心より身体がその事実を理解できない、理解することを拒否している、そういう感覚。私が少しずつ事実を受け入れられるようになったのは(受け入れざるをえなくなったのは)、ずっと後のことだった。
あくまで個人的な感想だけれど、今夜の彼の演奏、私には一楽章も二楽章も三楽章も四楽章も強音も弱音も、みんな悲しみの音に聴こえました。というより悲しいという感情にもまだ心が辿り着いていない、あの日の自分がそのまま音になっているように聴こえて、特にカデンツァは聴いていて辛かった。カデンツァの最中に何度も彼を振り返っていたゲルギエフが心配して見守っている父親のように見えました。
なので聴き終わったときは興奮!とかそういう感覚はなく、よく頑張って弾ききったね、と言ってあげたい気持ちでした。
この曲をこんな気持ちで聴くことになろうとは…。

※マツーエフによるとこの曲はウィーンフィルのレパートリーにはない曲だそうで、彼らがこの曲を演奏したのは2018年にマツーエフと、2004年にブロンフマンと演奏したときのみなのだとか。この曲は自分にとってエヴェレストに登るようなものだが、彼らにとっても同じなのだとマツーエフは言っています。そしてウィーンフィルとの共演ではいつも素晴らしい一体感を感じることができるのだと。※ん?でも2017年にトリフォノフともやってますね
またこの状況下ではブラヴォーを言うことが禁止されているが、その声がなくても日本の聴衆の心は舞台の上で強く肌で感じることができる、と。自分もマエストロもウィーンフィルも日本との間には長い歴史があり、我々はみな彼らの文化と人々に敬意を抱いている、と言ってくれています。

【ショパン:ワルツ第7番 嬰ハ短調 作品64-2(ピアノ・アンコール)】
アンコールは無理に弾かなくていいから早くホテルに帰って休んでいいよ・・・と思ったけど、客席からの拍手にこたえて出てきてくれました。
弾いてくれたのは、ショパンが書いた最後のワルツ。マツーエフがショパンを弾くのは非常にレアなのだという情報をツイッターで見ましたが、今年2月にアンコールでこの曲を弾いている映像がyoutubeにあがっているので(こちら)、最近の彼のレパートリーなのでしょう。
ポゴレリッチでも感じたけれど、ワルツというのは時に他の形式の音楽よりも遥かに悲しみや寂寥を感じさせますね。
この曲のマツーエフの音はものすごく美しくて、だから一層悲しくて…。
そして帰宅した後、その亡くなったチェリストが昨年12月にゲルギエフ&マリインスキー管と来日したアレクサンドル・ブズロフAlexander Buzlovであることを知りました(google翻訳では違うスペルで翻訳されていたので気付かなかったんです)。あの日サントリーホールで自然な柔らかな音でチャイコフスキーの協奏曲を奏でていたブズロフ。あれから1年もたっていないのに…。死因は脳卒中でまだ37歳だったそうで、3歳の娘さんがいらっしゃるそうです。ゲルギエフもよく共演していたようなので、辛いでしょうね…。前回の来日中にはヤンソンスさんが亡くなって、そのとき一緒にいたブズロフが今回の来日中に亡くなるなんて…。
今日私が座った席は、3年前のゲヴァントハウス管の演奏会のときに友人が座っていた席の真後ろでした。その時にゲヴァントハウスがtwitterにあげてくれた映像には、拍手をしている私と友人の姿が映っています。そして友人が最後に聴いた演奏会は、おそらく2017年12月のゲルギエフ&マツーエフだと思います。亡くなる3ヶ月前。人間の命の儚さを感じずにはいられません。

【チャイコフスキー:ロココ風の主題による変奏曲 イ長調 作品33】

チャイコフスキーはロマン派の時代に生まれたにもかかわらず、ロココ風の主題による変奏曲、いまでは「ロココ変奏曲」と呼ばれるこの作品で、一度でいいから、内なる葛藤や派手な色使いを避けた作品を書きたかったのだろう。
(プログラムノートより)

ソリストは、サントリーホールの館長でもある堤剛さん。78歳のご高齢で、6日の大阪公演を聴いた人達のツイの感想は散々なものでした。
堤さんのチェロ、音を引き伸ばし気味で軽やかな演奏ではないのに、何故か粘着質の嫌な感じがないのが不思議。ご高齢なのが良い意味で音に出ていらっしゃるのかも(音がギラついていない。弱いともいえるが…)。私はこの曲のチェロはもう少し軽やかな方が好きなので決して好きなタイプのこの曲の演奏ではないし、オケとの相性もいいとは言えないように感じたけれど、マツーエフと過去の自分が重なって痛みとも悲しみともつかない気持ちの中に沈んでしまっていた私は、この単純で朗らかなメロディーに心からほっとして、沁みて、なんだかこの曲そのものに感動してしまったのでした。
それはウィーンフィルの音によるところも大きかったと思います。こういう曲の演奏をするときにウィーンフィルが出す音の美しさは、ちょっと言葉では表現できません。
昨年マリインスキーで聴いたこの曲はロシア色を強く感じたけれど、今夜のこの曲からは軽やかなロココ色を強く感じました。お天気のいい日にウィーンの森の中を散歩しているような気分になった
この曲を聴いていると、チャイコフスキーの人生の中にも確かにあった心の安らぎ、小さな幸福のようなものを感じて、慰められます。ブズロフで聴いたのがこの曲でよかったな、と今思います。

【J.S. バッハ:無伴奏チェロ組曲第3番 ハ長調 BWV 1009(チェロ・アンコール)】
この演奏は私には少々長く感じられてしまったのだけれど、いつものように舞台の端に立って聴いているゲルギエフの姿勢が綺麗で、遅刻魔だけど礼儀正しい人なのだな、と妙な感心をしてしまった。変な感想ですみません…。

(20分間の休憩)

【ストラヴィンスキー:バレエ音楽『火の鳥』(全曲、1910年版)】
今回の来日記者会見で「未来」を強調していたウィーンフィル。火の鳥は不死鳥。そういう意味では今回の来日にピッタリのプログラムといえるのではないでしょうか。終わらないかのように見える闇の、その先にある夜明け。
この曲を聴くのはヤンソンス×バイエルン放送響(組曲1945年版)、サロネン×フィルハーモニア(全曲1910年版)に続いて3回目で、見事にそれぞれ個性が違い、3者3様で素晴らしい。
今夜はウィーンフィルの出す芳醇で柔らかな音色とゲルギエフの作るロシア的な色彩感と物語感が見事にマッチして、極上としか言えない演奏でした。ゲルギエフがどんなに凶暴で鋭い音を出させてもちゃんと残る、うっとりと夢見るような甘い美しさ。それはウィーンフィルの個性ゆえなのだろうと想像する。そんな異質な両者のケミストリーが最高で、目の前に極上のファンタジー世界が立ち上りました。物語が目に見えるようなのは、さすが歌劇場の指揮者&オケ。
とはいえ王女達の踊りまではオケに若干手探りな気配もあり(火の鳥の歎願はよかった)、息が止まるような圧巻が訪れたのはカスチュイの手下の登場以降。カスチュイの踊り~子守歌では客席中が一人残らず火の鳥の魔法にかけられていたのではないでしょうか。体にビリビリ伝わってくる美の塊のような音圧(子守歌に入るところやカスチュイの卵が割れるところのダンッという音圧)も、凄かった。子守歌の美しさには陶然としました。火の鳥の笑っちゃうくらいの最強具合も最高。ウィーンフィルの音だと、この世を超越した絶対的存在である神のようなこの鳥のゾクゾクする怖さがあるのです。力業ではない桁外れな美しさゆえの怖さ。この鳥を敵に回して勝てる気が全くしない。
そして夜明けの静けさから壮麗な愛のフィナーレへ――。
この素晴らしさを表わす言葉はない。。。。。。
こんな『火の鳥』を生で聴くことができて、最高に幸せです。
今回も予習はヴィシニョーワ。この映像は何度も観ているけど、カスチュイの踊りのヴィシ様は最強すぎ。大好き。
そうそう、トランペットのバンダはサロネンのときは客席からでしたが、今回は舞台裏からでした(この状況下ではそりゃそうよね)。

【J.シュトラウスⅡ世:ワルツ『ウィーン気質』 作品354(アンコール)】
この9分間のためだけでも19000円払えるわ私、と思ったアンコール。
音楽が人間にどれほどの幸福感を与えてくれるのかを、体中で感じました。
やっぱり音楽は人間にとって不要不急なんかじゃなく必須なものなのだと、心と同じくらいに体がはっきりと感じていた。
ニューイヤーコンサートを観たことがないので、これがニューイヤーコンサートでよく演奏される曲だということは帰宅後に皆さんのツイで知りました。というよりJ.シュトラウスがニューイヤーコンサートでメインで演奏される作曲家なのか。彼らが演奏し慣れている曲であることがすぐにわかる、素晴らしく完成度の高い演奏でした。そして本日の中では最もTheウィーンフィルという音と演奏。
コンマスさん(シュトイデさん)と隣のvnさん(ダナイローヴァさん)の天上の音・・・・・・・。楽器の音じゃなく、もはや別の何ものかに感じられた。でもそれは良い意味で”人間が作り出している天上の音”で。オケの音も、祝祭的な華やかさと、美しいという言葉はこういう音のためにあるのだろうという優雅で泣きなくなるような美しさなのに、最高に良い意味で”人間的”な温かみがあって。私は決して人間好きとはいえない人間だけど、こんなものを生み出すことができる人間という生き物が心底好きだと感じさせてもらえました。ウィーンフィルに感謝。ゲルギエフからは昨年マリインスキーのアンコールでくるみ割り人形というクリスマスプレゼントをもらったけれど、今年は一足早いニューイヤーのプレゼントをもらっちゃいました

21:40終了。
ゲルギエフ、マツーエフ、堤さん、ウィーンフィルの皆さん、一生心に残る音楽を本当にありがとう。
沈みがちだった私の心にあなた達の生の演奏が与えてくれた力は、想像を超えるものでした。
今夜の私がもらうことのできたこの幸福を世界中の人達も共有できる日が、一日も早く訪れますように。
そしてブズロフのご冥福と、マツーエフの心が少しずつでも癒されていくことを祈っています。

※覚書:ゲルギエフは今回もオケのP席への挨拶はなしで、ソロカーテンコールの時には笑みをくれました。

来日したウィーン・フィル「未来への道筋」~記者会見で受け取った強いメッセージ(ONTOMO)
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団が無事に来日~会見で語られたコトとは⁈(SPICE)
バレエ・リュス×音楽 30の共犯関係 – ショパンからストラヴィンスキーまで(NAXOS JAPAN)
DIE QUARANTÄNE-TOURNEE (BR KLASSIK)
ウィーン・フィルが日本ツアーを終え、記者会見でニューイヤーコンサートにも言及(ontomo)







Johann Strauss - Wiener Blut, Waltz (Vienna Philharmonic Orchestra, Zubin Mehta)

1999年5月のメータ指揮の野外コンサートでの『ウィーン気質』。
この映像でコンマスさんの隣にいらっしゃるのは、今日のコンマスのシュトイデさんかな。
この曲、夕暮れの野外コンサートにすごく合いますね。ロンドンにいるときに何度か行きましたが、ヨーロッパの野外コンサートっていいですよね。日本と違って空気が乾いていて、太陽が沈んでくると涼しい風が吹いて、空が次第に夜色のグラデーションに変わっていって。
それにしてもウィーンフィルのこの音色よ・・・・・・。華やかで柔らかくて艶やかで自由で、でもそれだけじゃなく長い歴史も感じさせて。やっぱり言葉で上手く表現できない。「言葉にできない音」とはこういうものかと知った夜でした。

※追記①:この曲をアンコールで演奏してくれたのは、今回の来日ツアーでこの日だけだったようです。他の日は『眠れる森の美女よりパノラマ』か『皇帝円舞曲』のいずれか。この日は一応オープニングスペシャルプログラムということになっていたので、アンコール曲も特別だったのかもしれません。ちょっと忘れがたい素晴らしい演奏だったので、聴くことができてよかったです。
※追記②:この曲は今年9月にコロナ禍のなかゲルギエフ指揮で行われた「シェーンブルン夏の夜のコンサート」のアンコールで演奏されていたんですね!wikiによると、このサマーナイトコンサートは必ずこの曲を演奏して締めることになっているそうで。完成度が高かったわけだ。うんうん、やっぱりこの曲は野外が似合うよねえ





14日と16日のウィーンフィルFBより。
”We were deeply moved by the reactions we received from the audiences at the concert halls throughout Japan.”とあるのは、案外本当じゃないかな。今回の客席は、奏者がステージに登場する際も最後の一人が出るまでしっかり拍手をし続けていたり(普通はだんだん尻すぼみになる)、とても温かかったもの。
そして、”We are well aware that the voices and instruments of many musicians have to stay silent at the moment. We felt privileged that we were able to share our music with the Japanese audience as a sign of hope…"と。そう、まさに希望という言葉がぴったりの演奏会でした。
今回のウィーンフィルはチャーター便で4日に福岡着で、5日北九州、6日大阪、8日川崎、9~14日東京で公演し、14日深夜(15日1時55分)の便で羽田からウィーンに帰国したそうです。本当に演奏をするためだけに日本に来てくれたんですね。オーストリアはこれからロックダウンに入るそうで、ロシアも感染者数が増加しています。どうかご無事で。再び日本で皆さんの音楽を聴ける日を楽しみにしています。
って、ゲルギエフ、15日夜はモスクワでマリインスキーと演奏会らしいですよ!プライベートジェットでモスクワへ直行したのかな。あいかわらずのワーカホリックですね。ここまでくると尊敬する。 そういえばサロネンがインタビュー(2005)で"Performances for him are oases of peace and quiet. It's the only time his phone isn't ringing."と言っていた
同じ記事でサロネンはゲルギエフのリハーサルの仕方についてこんなことも言っています。

Esa-Pekka Salonen describes the process as follows: "Most other conductors hear the orchestra produce a certain type of sound, then react to it. Valery has a preconceived idea, and he works toward that goal until he reaches it. In the rehearsal, he micro-manages, works very hard on one particular phrase or passage. He leaves the macro-managing to the concert. Sometimes the whole form of the interpretation is revealed only in the concert. This keeps the orchestra on its toes."

What he does have is an ability to galvanise musicians and bring fresh impetus to familiar scores. The music critic Alex Ross observes: "Most conductors can hold a score in their head. Many can reproduce an orchestral score on the piano. Some, like Gergiev, have a kind of photographic memory, which enables them to recall scores they looked at years ago. Gergiev's talent is rarer: he can form an idea of the music's emotional texture and bring it viscerally to life."

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ゲルギエフ、ウィーンフィル、ラトル、ロンドン響

2020-11-04 00:03:01 | クラシック音楽



あぶないあぶない、一日にサンクトペテルブルクで行われたマツーエフのゲルギエフ&マリインスキーとの演奏会の映像(ショパンのピアノ協奏曲第2番)を彼のインスタで観て、思わず来週のサントリーホールのチケットをポチりそうになってしまった。
あぶないあぶない、チケット代に39000円なんていう記録を更新してはいけない(これまでの最高記録はパリオペの25000円也)。来週のサントリーホールは住む世界の違う人達の場所であることを思い出すのだワタシ。

しかしウィーンフィルが本当に来日するとはねえ
オケはウィーンからチャーター便で来るそうだけど、マツーエフとゲルギエフはサンクトペテルブルクから日本に来るのかしら?でも今は入国できないはずじゃ?と思っていたら、なんと一旦ウィーンに行ってから、オケと一緒にチャーター便で来るそうで。ていうかそもそもこのチャーター便自体が特別扱いなわけだけど、マツーエフのFBによると今回の来日公演が可能になったのは「オーストリアと日本の首相の合意が得られた」からだそうで。ほぅ。つまりロンドン響が来日できなかったのは英国と日本の首相の合意が得られなかったからなわけね、なんてちょっとイヤミの一つも言いたくなったりもするけども(マツーエフに対してじゃなく政府に対してね)。
しかしこういう状況を見ていると、ゲルギエフがプーチンと仲良しになっている理由も理解できる気がしたり。ヤンソンスさんが言っていたauthorityという言葉や、音楽は政治と無関係なところにあるべきではないというサロネンの言葉も思い出したり。
いずれにしても来週の演奏会を聴ける人達は羨ましいなあ。ゲルギエフ&ウィーンフィルの火の鳥、youtubeで聴いたことがあるけどすごくよかったものなあ。でもゲルギエフの指揮は天と地のどちらにでるか大きすぎる賭けだから、39000円はやっぱり払えないワタクシ。。。経験的には勝率のが高いのだけども。。。

ところで先日、ラトル&ロンドン響がバルトークのオペラ『青ひげ公の城』の演奏を日本の聴衆に宛てて先行配信してくれましたね。わたくし見逃してしまい、後でyoutubeで観られるからいいや~と思っていたら先行配信にはあった日本語字幕がない 英語字幕もない オペラを見慣れていない私は字幕がないととても理解するのはムリ。なので演奏後のラトルの挨拶だけ見ました。

Bartók Duke Bluebeard's Castle // London Symphony Orchestra & Sir Simon Rattle


日本への愛のこもったメッセージ(1:06:10~)を、ありがとう
ヨーロッパでは感染者数が増加し、フランスやウィーンではテロが起きて。世界中がまだまだ落ち着きませんが、再び皆さんの演奏を日本で楽しめる日が遠からず来ますように。ウィーンフィルの皆さんも、無事に来日公演を終えられますように。

※追記①:ウィーンフィル、どうにも諦めきれず、11月9日に行ってしまいました。。。感想はこちら

※追記②:
私のゲルギエフ&プーチン仲良し説の根拠はクリミア半島問題のときの署名と(これはマツーエフもですね)サロネンのインタビューからだったのですけど、昨年のマリインスキーとの来日のときのこんな記事↓を見つけました。

すぐに打ち解けたゲルギエフに小林氏は、国家の混乱の中で文化が崩壊する懸念を伝えると、彼は「政治や経済がダメになって、一緒にダメになるようなものは文化とは言わない。本物の文化によってロシアを再生させてみせる」と言い放ったという。・・・聴講者から、ゲルギエフとプーチン大統領の関係について質問された小林氏は「2人は仲がいい」と明かし「プーチンは文化に根差した強い国、国民が信頼する国を作ろうとしている。それは私の考えと同じ」というゲルギエフの言葉を紹介した。
元NHKモスクワ支局長が指揮者・ゲルギエフの素顔を紹介!

へえ。
じゃああのボリショイバレエの公演で安倍さんが「プーチン大統領の肝いりのキャスト」と紹介していたのも、案外本当だったのかな。あのときは一国の大統領がバレエ団のキャストにまで詳しいものだろうか?と思ったのだけど。まあ考えてみればそもそもソ連がそういう国でしたしね。良くも悪くも文化が国にもたらす価値の大きさを知っていて、西側に対抗できる文化的に強い国を作ろうとしていた。どの学生をコンクールに参加させるかまで政府が決めていたような多分に歪んだ方法ではあったけれど。それはやりすぎだとしても、政府が文化の価値に無関心すぎる日本のような国も問題だよね。。

ちなみにゲルギエフによると、彼はクリミア問題で署名自体はしていないのだそうです(そうだったの??)。以下、ロシア・ビヨンドのインタビューより。
まず、私は何も署名しなかったということを申し上げたい。文化大臣のウラジーミル・メジンスキーが電話をかけてきて、「クリミアの事件をどう思いますか?」と聞くので、「人々を救わなければなりません」と答えたら、「プーチン大統領への手紙に署名されますか?」と言うので、「文面を送ってください。まず目を通さないとね」と言いました。それっきりです。何も送ってこなかったのに、その数時間後には、マスコミ報道で、私が最初の署名者にされていたことを知ったのです…。

私の考えでは、こういう連署の公開書簡は、まったく何の役にも立ちません。ソ連時代の残滓ですね。プーチンには明晰で透徹した論理が、クリミア、ウクライナのみならず、他の問題にもあります。大統領は、自分でちゃんと説明し、納得させることができますよ。ロシアは、こういう強力なリーダーがいて、幸運です。彼は、文化人の助けなんか必要としません。いわんや、こんな公開書簡という形ではね…。

 私見では、この種の手紙は、全体の立場を強めるどころか、逆に、我々一人ひとりの足場を掘り崩すのが落ちです。手紙なんて、余計なお節介ですよ!私は市民ですが、“署名屋”じゃありません。我々は、必要だと思うことは自分で発言する覚悟があります――くどいようですが、どんな相手に対しても。私はかつて、アメリカ議会図書館で、上院議員、軍人、専門家の前で演説したことがあります…。そのなかの多くの人とは個人的に知り合いでした。カナダでも南米でも日本でも同じことです…。

Valery Gergiev: 'Putin is cleverer than most'
Is maestro Valery Gergiev being scapegoated for Russia’s anti-gay laws?(Los Angels Times, Dec 30, 2013)
Valery Gergiev wants to make music, but the West brings up Putin(Los Angels Times, Feb 19,2015)
クリミア問題を含むゲルギエフの意見は、このLos Angels Timesのインタビューでかなり率直に述べられています(本心かどうかは本人にしかわかりませんが)。
For Valery Gergiev, boos and cheers at Bayreuth and Salzburg(Los Angesl Times, Aug 21, 2019)

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