風薫る道

Who never feels lonely at all under this endless sky...?

Frankenstein | Free National Theatre Full Play

2020-04-29 00:44:31 | その他観劇、コンサートetc

Official Trailer | Frankenstein w Benedict Cumberbatch & Jonny Lee Miller | National Theatre at Home


ナショナルシアターライブの『フランケンシュタイン』が、英国時間?の4/30と5/1にyoutubeで各バージョンが無料ストリーミング配信されるとのこと
ジョニー・リー・ミラーが怪物でベネディクト・カンバーバッチが博士の方は昔映画館で観ていて、色々思ったことがあったはずなのだけど、それがなんだったのかが思い出せない やはりブログに書いておくことは大事ね・・・。

ナショナルシアターライブは以前は時々観に行っていたけど(ハムレットとかコリオレイナスとか)、叫ぶような台詞の言い方が苦手で最近は足を運んでいないのだけれど。
でもこの作品は、ラストの終わり方が好みだった記憶がある。あとベネディクト・カンバーバッチが怪物のバージョンの方も観てみたいなあと思っていたので、今回はそちらも観られて嬉しい 
一週間配信してくれるようなので、観るのを忘れないようにしないと。
というわけで自分用リマインダーとしてここに書いておきます。ブログって便利。

巣ごもり生活中に英語の勉強もしようと思っていたんだけどなあ。色々やることが多くて(主にネット配信を観ることだけど)、全然できていない。そしていつまでも上達しない。
ていうかこの無料配信、英語字幕あるのよね・・・?ないと結構キツイのだが。


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新型コロナは地球から人類への回答か?

2020-04-26 22:30:56 | 日々いろいろ




ベランダのカメムシと闘っていたら、こんな時間になってしまった。ごめんなさい、mihanaさん。
タイトルは、昨日の記事にmihanaさんがコメント欄でくださったご質問です。
コメント欄ではご返事が長くなりそうだったのと、ちょうど書こうかな~と思っていたトピックでもあったので、こちらに書くことにしました。
「新型コロナによる今の世界の状況は、地球から人類への回答だと思うか?」

えーと、私はそうは思っていないです。
人類が自然に何らかの影響を与えた結果この新型ウィルスが発生したというなら話は別ですが、たぶんそうではないでしょうし。
人類が傲慢であり過ぎたから地球がコロナでその戒めをしているのだ、という解釈に対しても(mihanaさんのコメントはこの意味でのご質問ですよネ)、地球温暖化や異常気象はそうと言えるかもしれませんが、コロナに関してはそうとは思わないです。それなら豚コレラは自然から豚への戒めなのか?ということになる。でも豚さんは人間と違って自然に対して何も悪いことはしていないですもの、たぶん。

以上で回答としては終わりなんですが、以下は私見をつらつらと。
新型コロナによって人間の活動が停止して、世界中で空が澄んだり、動物の活動が活発化したりしている。
工場が停止し、車やバイクが走っていないのですから、まあ当然です。
そして綺麗な空や生き生きとした動物達を見て、嫌な気分になる人は少ないでしょう。経済問題を別にすれば、それ自体に対しては「いいものだなあ」と感じる人が殆どだと思う。
本当は今のような状態で人間と自然が共存できるのが、どちらにとっても理想的なんですよね。
そしてそういう世の中を人間は作れるはずだ、と私は思っています。実際のところ、ここ10年くらい?でだいぶそういう考え方に時代は移ってきていますよね。ようやく私達は気づき始めた。もちろん問題は山積みだけれど、この先もっともっと私達が努力をすれば、そういう世界はきっと実現できるはずだと私は信じています。

でもそれは地球のためなどではなく、ひとえに「人間のため」。
人類などから守られなくても、地球は勝手にたくましく生き続けるでしょう。地球は人類なんかよりずっと強いです。たとえ人類が地球規模の核戦争を起こしてあらゆる動植物が死滅しても、バクテリアは生き残る。そうそう、クマムシって知っていますか?高温でも、超低温でも、真空でも、高線量の放射線でも、死なないそうです。なかなか愛嬌のあるカタチをしているので、ご存じない方はググってみてくださいね 人類が滅びても、地球は痛くも痒くもないでしょう。地球が滅びても、宇宙は痛くも痒くもないでしょう。
でも、そんな世界に私達は住みたいか?という話。自然環境が悪化して、空がいつも灰色で、肺病の心配をいつもしていて、美しい動植物の種類も減ってしまい、美味しい魚や野菜も食べられなくて、天候は荒れていて。例えどんなに生活が便利でお金があっても、そんな世界には誰も住みたくはないはず。だから私達人間が快適に暮らし続けるためには、自然を守る必要がある。そして私達が自然と共存できる世界を作るために、私達の科学は万能ではなくとも(それでいいのです)強力な助けになるでしょう。

ただ、バランスが大切だと思うんですよね、何事も。
人は極端に走ってしまいがち。
極端に走ってしまうのは、自分の意見が100%正しいと信じているから。
美しい地球で生きたいという思いは、地球上の皆が共通のはず。でも、Aさんの事情もあれば、Bさんの事情もある。Aさんの正義もあれば、Bさんの正義もある。だけど自分の意見が100%正しいと信じている人は、そういう考え方をしない。そして他者を攻撃する。
「もう時間がない」という言い分はもっとも。でも、それで一方が他方を無視していいという話にはならないはず。
互いを理解し合うための努力をすることは、やはり大切だと思うのです。
自分にとって都合のよくない言い分も含めて、互いを知ること。自分に理解できない考えを排除しないこと。自分にとっての正義が必ずしも他者にとっても正義とは限らないことを知ること。
そのためには、やはり勉強をして、自分とは異なる、敢えて自分にとって居心地の悪い世界を体験することも大切だと思うのです。できるだけバーチャルではなく、生の感覚で。バーチャルでは人はどうしても自分にとって快適な、都合のいい世界ばかりを選んでしまいがちだから。外の世界に出ていけばそんなことはしていられない。まあ、現在はそういうことは難しい状況ですが(新型コロナは本当に厄介なウィルスですね・・・)。
そうして皆が思考錯誤をしながら、手探りで進んでいけばいいのだと思う。可能な限り最大限に急いで。何事も極端に偏らないバランスが大事。広い視野が大事。柔軟性が大事。まあそれが難しいのですけれど、その手腕を発揮するのが政治家でしょう。そしてそれができる政治家を選ぶのが、私達の責任でしょう。

――と今日の私は思っている、という話です。
明日はまた違うことを言っているかもしれません笑。
新型コロナは人間にとっては本当に厄介で恐ろしいものですが、今回の件から私達が学んでいることもとても多いと思います。私自身も、色々なことを学んでいます。同じくステイホームをしている前の職場の友人が「定年後はこんな生活なのかなと思ったら絶望的になった」と言っていましたが、私も同じ笑。家族の有難みとか人間の繋がりとか、色々考えさせられています。

以下は、ステイホームな皆さんに秋のアラスカの空気を。
このうち6枚の写真にはちっちゃく動物が映っているので、探してみてね
ちなみにそのうちの1枚に写っているのは犬じゃないですから!オオカミですから!(友達に「イヌ?」って言われた。ちがうもん)
あとはラッコが2枚、シャチが1枚、トドが1枚、クマの親子が1枚です。





























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セリーヌ・ディオン、レイクテカポ、寺田寅彦

2020-04-25 21:20:45 | 日々いろいろ




GWが始まりましたね。皆さまいかがお過ごしですか?
私はおうち生活を快適に過ごすべく、掃除をしたり、作ったことのないレシピに挑戦してみたり、録りだめていた番組を見たりと色々やっておりますが、昨夜から新たに始めたのは高級美白クリームを使うこと
考えてみてくださいまし。公園のお散歩もスーパーの買い物も控えてステイホームな今、こんなに長く家の中にい続けることってそうそうないですよ。これまでの人生で初めてかもしれない。嫌でも紫外線にあたれない今こそ!高級美白クリームを惜しみなく使って朝昼晩ステイホーム!GW後にどうなっているか楽しみでございます

なんてくだらないことを呟きついでに、もう一つくだらない話を。くだらないから書くのも迷ったのですが、でも意外にくだらなくもないのかもしれない、とも思ったので。
先日セリーヌ・ディオンが歌うブラームスの子守歌の動画をご紹介したじゃないですか。あの後youtubeの関連動画にセリーヌの動画が色々表示されるようになったのですが、最新動画がセリーヌからのメッセージだったので見てみたのです
その内容自体は医療従事者や運送業者への感謝とかステイホームのお願いとか、そういうよくあるメッセージだったのですが。その割に低評価が多いな?と思いコメント欄を読んでみたところ、そこに並んでいるのは「Satan」「Devil」「Adrenochrome」といった不穏な単語の数々・・・。
一体何事とググってみたところ、こんな記事が(英語で読むのが面倒な方は、日本語のこちらの記事をどうぞ)。
「ユニセックスの子ども服を発表したセリーヌ・ディオンが悪魔崇拝で糾弾される」というタイトルで、ペンシルベニア州の教会で司祭を務めるエクソシストの方が「セリーヌ・ディオンが立ち上げた子供服ブランドには悪魔崇拝的なメッセージが暗示されている」と警告しているという記事です(エクソシストという職業が現在でも存在していることにまず驚いた・・・)。
これ自体は2018年11月の記事なので少し前なのですが、youtubeのコメントの数々はここ一週間以内のもの。

で、「Satan」「Devil」についてはわかったけれど、「Adrenochrome」って?とググってみたところ、今年3月のこんな記事が。
ニュージーランドのマガジンで、記事のタイトルは「Down the rabbit hole with the Covid-19 conspiracy theorists(Covid-19陰謀論者と迷宮に迷い込む、といった感じでしょうか)」。
ハリウッドセレブ達がトランプ支持派によるCovid-19陰謀論に巻き込まれている、という内容です。
その陰謀論の一つが「アドレノクロム中毒のトム・ハンクスは、サタン教会の高位に就いているセリーヌ・ディオンからアドレノクロムを入手したことによりCovid-19に罹患した。トム・ハンクスはハリウッドのリベラルエリートの秘密結社にゴールデングローブ賞の受賞スピーチで暗号を送り…」云々というものだそうで
この記事の著者はCovid-19に関係する陰謀論の数々を羅列し、今このような陰謀論が広まっている理由として、2018年にラデン博士という心理学者が書いた「Why Do People Believe in Conspiracy Theories?(なぜ人々は陰謀論を信じるのか?)」という文章を引用しています。これがなるほどなあ、という内容で面白かったのでご紹介。例によってワタクシによる訳なので、間違っていたらゴメンナサイ。
博士曰く、人が陰謀論を信じる理由は主に3つあり、それは①理解と確実性への欲求②コントロールと安心感への欲求、そして③ポジティブな自己イメージを維持したいという欲求であると。
そしてこう続けます。
「ある出来事に対して説明を求めるのは、人間の自然な欲求です。だから私達は質問をし、また質問をするだけでなく、その答えをすばやく見つけます。それは本当の答えである必要はなく、自分を慰める、または自分の世界観に合う答えです。殆どの人は自分が信じていたものが真実ではなかったとわかると、ただそれを受け入れて次に進みます。しかし陰謀論者は偽りの信念を簡単に放棄することができません。彼らは午前4時まで起きていて、トムハンクスが異星人の血を持っていることについて読み、それを理解できる賢い人間は自分だけだと思っています。不確実性は不愉快な状態であり、陰謀論は理解しているという感覚と安心感を提供します」

新型コロナウィルスによる現在のような状況においては、私達は自身の生活をコントロールできているという感覚を持てず、周囲を恐れ、未来も不透明な非常に不安定な状態に置かれています。そういうときに何を信じればよいのか。この記事は言います。「実際のところ、Covid-19はウィルスです。私達はただウィルスが蔓延しないよう努めている専門家を信頼し、彼らに従えばよいのです。真実はそれだけです。でも、それは決して刺激的ではありません。」だから陰謀論は消えないのだ、と。

以上です。
くだらないと思いつつこんなに長く書いてしまったのは、youtubeのコメントが冗談を冗談として楽しんでいる状態を超えているように感じられたからです。実際のところ真実がどうであるかは誰にもわかりません。トム・ハンクスは本当に秘密結社の会員なのかもしれないし、セリーヌ・ディオンはサタン教会に属しているのかもしれない。しかし、その証拠も根拠もどこにもないのです。あくまで想像の域を超えていないのに、人を傷つけうることを公言して楽しんでいい権利は誰にもありません。初めは冗談でも、それが冗談では済まなくなる状況というのは実際に存在します。まあ上記記事によれば、この陰謀論はトランプ支持派により故意に流されているものとのことですが(真偽は不明)。

さて。
こういう不安定なときに私達は何を拠り所として生きればいいのか?ですが。
私は答えはシンプルだと思うんですよね。
世界に対する謙虚さ、柔軟さ、そしてバランス感覚を持つこと、ではないでしょうか。
科学の専門家の最新の意見に従うことはもちろん大切で、それは大前提。そしてそれは当然日々変わっていきますから、柔軟な頭で従う。
その上で私達人間に大切なことは、人間が出す答えを信じすぎないこと、だと私は思います。人間の脳が出せる答えには限界があります。これは悲観的な意味で言っているのではなく、むしろ肯定的な意味で、どんな答えも人間の脳が出した答えに過ぎないということです。科学の役割はこの世界の仕組みを解明し尽くすことにあるのではなく、そんなことは不可能であること、この世界は決して科学では解明しきれるものではないということを知ったうえで、そこから始まるのだと私は思っています。私は完全文系人間ですが、自然科学の世界が大好きです。だからずっとそういう職場で働いてきました。そして科学は人間が自然を支配するためにあるのではなく、人間が自然と共に、自然の一部としてよりよく生きていくためにある。そう思っています。
ベランダからでもなんでもいいのです。空や雲や木々や雨や風や星といった自然をじっと感じ、私達もそれらの一部であるということを肌で感じる。そうすると世界に対する謙虚さが生まれます。世界に対する謙虚さを持っていれば、世界に対する柔軟さ、バランス感覚は自然に身につきます。私達は人間世界の中だけで自分の立ち位置を探そうとするとどうしても不安定になってしまうけれど、それより遥かに大きな世界(自然界)の中での自分の立ち位置を実感できれば、ちょっとやそっとでは揺らがない安心感を手に入れることができます。この世界はちょっとやそっとでは揺らがないものだからです。

科学と人間と自然と世界の関係について考えながら、寺田寅彦のことを思い出したので、以前もご紹介した文章を以下に再掲したいと思います。寺田寅彦が亡くなった後に、和辻哲郎が彼との思い出を書いたものです。
亡くなった友人(彼女はリケジョでした)が寺田寅彦が好きで、よく話をしたなあ。もっともっと色んな話をしたかったです。私にとっての彼女は、ここに書かれている和辻にとっての寅彦のような人でした。

寺田さんは最も日常的な事柄のうちに無限に多くの不思議を見出した。我々は寺田さんの随筆を読むことにより寺田さんの目をもって身辺を見廻すことができる。そのとき我々の世界は実に不思議に充ちた世界になる。
 夏の夕暮れ、ややほの暗くなるころに、月見草や烏瓜の花がはらはらと花びらを開くのは、我々の見なれていることである。しかしそれがいかに不思議な現象であるかは気づかないでいる。寺田さんはそれをはっきりと教えてくれる。あるいは鳶が空を舞いながら餌を探している。我々はその鳶がどうして餌を探し得るかを疑問としたことがない。寺田さんはそこにも問題の在り場所を教え、その解き方を暗示してくれる。そういう仕方で目の錯覚、物忌み、嗜虐性、喫煙欲というような事柄へも連れて行かれれば、また地図や映画や文芸などの深い意味をも教えられる。我々はそれほどの不思議、それほどの意味を持ったものに日常触れていながら、それを全然感得しないでいたのである。寺田さんはこの色盲、この不感症を療治してくれる。この療治を受けたものにとっては、日常身辺の世界が全然新しい光をもって輝き出すであろう。
 この寺田さんから次のような言葉を聞くと、まことにもっともに思われるのである。

「西洋の学者の掘り散らした跡へ遙々(はるばる)遅ればせに鉱石のかけらを捜しに行くのもいいが、我々の脚元に埋もれてゐる宝を忘れてはならないと思ふ。」

 寺田さんはその「我々の脚元に埋もれてゐる宝」を幾つか掘り出してくれた人である。
(和辻哲郎 昭和十一年 『寺田寅彦』)

寺田さんと話しているうちにこのような偶然よりも一層強く自分を驚かせるものがあった。何か植物のことをたずねた時に、寺田さんは袖珍(しゅうちん)の植物図鑑をポケットから取り出したのである。山を歩くといろんな植物が眼につく、それでこういうものを持って歩いている、というのである。この成熟した物理学者は、ちょうど初めて自然界の現象に眼が開けて来た少年のように新鮮な興味で自然をながめている。植物にいろんな種類、いろんな形のあることが、実に不思議でたまらないといった調子である。その話を聞いていると自分の方へもひしひしとその興味が伝わってくる。人間の作る機械よりもはるかに精巧な機構を持った植物が、しかも実に豊富な変様をもって眼の前に展開されている。自分たちが今いるのはわびしい小さな電車の中ではなくして、実ににぎやかな、驚くべき見世物の充満した、アリスの鏡の国よりももっと不思議な世界である。我々は驚異の海のただ中に浮かんでいる。山川草木はことごとく浄光を発して光り輝く。そういったような気持ちを寺田さんは我々に伝えてくれるのである。こうしてあの小さい電車のなかの一時間は自分には実に楽しいものになった。
 あの日は寺田さんは非常に元気であった。電車へ飛び込んで来られる時などはまるで青年のようであった。自分などよりもよほど若々しさがあると思った。その後一月たたない内に死の床に就かれる人だなどとはどうしても見えなかった。これから後にも時々ああいう楽しい時を持つことができると思うと、寺田さんの存在そのものが自分には非常に楽しいものに思われた。それが最後になったのである。
(同 『寺田さんに最後に逢った時』)


※先ほどご紹介したニュージーランドのマガジンに、テカポの街についての記事が載っていました。やはりロックダウン中なんですね。
以下は、数年前の9月に行ったときの写真です。ステイホーム中の皆さまにも早春のテカポの風を感じていただければ
そういえばニュージーランドは友人が学生時代に留学していた国で、私が旅行に行く前に色々話をしたものでした。ロードオブザリングのロケ地のこととかですけど笑。























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ブラームスの子守歌

2020-04-23 22:39:42 | クラシック音楽

Céline Dion - Brahms' Lullaby (Official Audio)



Can you live without music?

(音楽なしで生きられますか?)

今日は岡江久美子さんがお亡くなりになりました。悲しいニュースが続きます。突然こんな風に別れを迎えて、ご家族はどれほど辛いことだろう…。
自分が罹るかもしれないことももちろん怖いけれど、こういう悲しい思いをしている人達が世界中に溢れているという状況がやりきれません…。

先日のNHKクラシック音楽館は、「いま届けたい音楽 〜音楽家からのメッセージ〜」でした。
ブロムさんはスイスのルツェルンのご自宅から出演され、メッセージをくださいました。
過去の演奏から「いま聴いてほしい音楽」としてブロムさんが選んだ一曲目は、ベートーヴェンの交響曲第7番の第1楽章(2018年)。
その演奏は私もサントリーホールで聴いていて、ブロムさんの指揮によるベートーヴェンの生き生きとした生命力は強く心に残っています。先日ピリスも「いま聴いてほしい音楽」としてベートーヴェンを選んでいましたね。ピリスの最後の来日のときに演奏されたのも、ブロムさんとのベートーヴェンのピアノ協奏曲でした。
そしてブロムさんが選んだ二曲目は、ブラームスの交響曲第2番の第1楽章(2013年)。というよりも、この中でも使われている子守歌のメロディー(Op.49-4)。ブラームスの音楽を知らないという人でも、この曲を知らない人はいないでしょう。youtubeにセリーヌ・ディオンが歌っているものがあったので、上に載せました。
以下は、Can you live without music?に続くブロムさんからのメッセージです。

どんな音楽でもいいのです。音楽がないと人間らしくいられません。幸い大編成の交響楽団がなくても、音楽で心を満たすことができます。私たちは自ら音楽を作ることができるからです。子どもに歌ってあげられます。家事をしたり在宅で仕事をしたりするときに音楽を口ずさむこともできます。歌うことを忘れないでくださいね。
(中略)
好きなメロディーを口笛で吹いたり、口ずさんだりしてください。ベートーベンでなくてもよいのです。好きなメロディーを口ずさむだけで気持ちが朗らかになります。お子さんが幼い頃、子守歌を歌ってあげませんでしたか?ご自身も小さい頃、親に歌ってもらったでしょう?私は今でも母の歌が忘れられません。
ブラームスはすばらしい子守歌を書きました。交響曲2番にもそれが使われています。第1楽章はまさに子守歌です。
自宅にいても心を音楽で満たしてください。
好きなメロディーを口ずさみ、お子さんがいる場合には一緒に歌ってみてください。
音楽を楽しんでください。
再びコンサートホールで演奏できるようになったら、これまで以上にみなさまの心に届く音楽を演奏したいと思っています。
音楽には癒やしの力があります。こんな時だからこそ音楽が必要なのです。
みなさまもどうぞご自愛ください。

(ヘルベルト・ブロムシュテット)

Omaggio a Palladio 2012. Schiff plays Brahms Intermezzo op.117 no.1

ブラームスによる子守歌つながりでもう一曲。
彼が晩年に書いた『3つのピアノ曲 Op.117』の第1曲の冒頭には、スコットランドの子守歌の歌詞の一節が載せられています。ただしこのOp.117は子守歌は子守歌でもブラームス自身が「わが苦悩の子守歌」と呼んだ作品で、冒頭の歌詞も「ある恵まれない母親の子守歌」という題の歌から引用されたもの。ブラームスらしい、辛く悲しいことの多い私達の人生と、それに対する優しい慈しみを感じさせてくれる音楽です。Op.49-4が子供への子守歌なら、こちらは大人への子守歌といえるかもしれません。
上は、先日の演奏会でも演奏されたシフによるOp.117-1の演奏。シフは以前のアンコールでもこの曲を弾いてくれました。後ろにいるのはカペラ・アンドレア・バルカの皆さんですね
ていうか会場がなんか物凄いんだけど・・・・・(動画の2:50あたりから全体像が映ります)。調べたら、イタリアのヴィチェンツァという街にあるオリンピコ劇場という建物だそうです。ルネサンス期の建築家アンドレーア・パッラーディオの設計により1580年から1585年に建てられた劇場で、カペラ・アンドレア・バルカはよくここで演奏会を開いているようですね。こんなところで聴いてみたいなあ。

Brahms - Intermezzo Op.117-1

こちらは、グールドによる同曲の演奏。
先日真夜中に作業をしながらヘッドホンで色んなピアニストによるこの曲の演奏をランダムに聴いていたのですが、「ああ、これはいい演奏だなあ」とうっとりとしていたら突然耳元でハミングが聞こえて「うぎゃー」と飛び上がるほど吃驚してふとタイトルを見たら、グールドによるこの演奏だったのでした。ああ、よかった(幽霊じゃなくて)。。。グールドさん、驚かさないでおくれよ。。。それはそうとグールドの間奏曲集、いいアルバムですね。1960年というと28歳のときの録音か。

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Inspire High 谷川俊太郎

2020-04-16 05:47:09 | 

【特別公開】谷川俊太郎 Inspire Highライブ配信セッション|#InspireHigh


3月1日のInspire Highライブセッションより。

谷川:(21歳の時に出版したデビュー作の『二十億光年の孤独』について)十代の終わり頃ってすごく不安な時期じゃないですか。これからどうすりゃいいんだ、みたいな。で、僕は自分がどういう地点に立ってるのかということを考えたんですね。自分は杉並区に住んでいて、杉並区は東京にあって、東京は日本にあって、日本はアジアにあって、アジアは地球のどこかにあって、っていう風にだんだん広げていったんですよ。そして結局宇宙に行っちゃったわけね。宇宙はその頃の常識では二十億光年という大きさだったんですよ。だから僕は二十億光年の大きさの宇宙の中にいるんだっていう感じがしたわけね。それであの詩が生まれたわけです。(最後のくしゃみという表現について)くしゃみでもする他しょうがないんじゃないかという気持ちだったんですよね。人間の中の孤独ならどうにかなるんだけど、宇宙の中の孤独じゃどうにもならないわけだから。

ここであげられた3つの詩の中では私は『うんち』の朗読を一番聴きたかったんですが笑、10代だったらやっぱり『二十億光年~』を選ぶのだろうなと。それはさておき。
上のお話を谷川さんはご自身の本の中でも仰っているんですが、へぇ、と思った部分なんです。
私は今もですが子供の頃は星空を眺めるのがすごく好きで、一晩中でも眺めていられる子供でした。子供なので「なんで好きなんだろう」とかはあまり考えなくて、ひたすら宇宙の中の自分を感じることが楽しくて。〇〇光年(という定義は知っていたので子供といっても小学生ですね)という気の遠くなるような時間の中にいる自分。そういう自分を感じると、わくわくもしたし、安心もした。そういう感覚は今もありますけど、当時はそれまで生きた時間よりも先の人生の方がずっと長かったですし、死もどこか現実味のないものでしたから、今と違いひたすら明るい気分で空を眺めていました。なので私の場合は、自分の存在から宇宙へと意識を広げていったという感覚はなく、その逆で、いま目の前にある宇宙の広さから自分の存在を思ったという流れだったのでした。
谷川さんとは意識の流れは逆だけど、最後のくしゃみの部分の感覚はよくわかる。「宇宙の中の自分」を思っているときはまだ心は宇宙の大きさの中にあるけれど、意識せずくしゃみをして我に返ったその自分は「日常の中の、社会の中の自分」。でもどちらも同じ自分で。
そして日常の中でも「宇宙の中の自分」を無意識に感じられる自分でいられたことで私はなんとか今日まで生きてこられた、ともいえるのでした。それが果たして自分にとって良いことだったのかどうかはわからないけれど、それにより私が救われてきたことは確か。その「宇宙」は私にとっては道端の花であり、草木であり、虫であり、動物であり、そして自分なのでありました。言い換えれば、自分という存在は道端の花であり、草木であり、虫であり、動物であり、宇宙なのでありました。そしてその世界は、谷川さんの詩と私が重なる場所なのでした。


質問:人とうまくやるためにどうしていますか?
谷川:その人を自分の基準で判断しないようにしてますね。その人にはその人の必然性があると思うから、その人の意味とかじゃなくて、その人が存在している存在自体を受け入れたいというふうに思って人と付き合ってますね。

私はこういう谷川さんがとても好きだけど、谷川さんのこういうところが佐野さんは我慢できなかったのだと思うな笑。
佐野さんは谷川さんに谷川さんの基準で判断して佐野さんの意味を受け止めてほしかったのではないかしら。人工的に喧嘩にもちこんで衝突した後は上機嫌だったというのもそういう理由ではないかしら、と遠い遠い部外者である私は想像するのである。
でも佐野さんは谷川さんとの離婚後に谷川さんの北軽井沢の別荘の隣に土地を購入して移住し、谷川さんが来ているか気にするそぶりを見せていたそうですAERA 2018年3月19日号)。人間の感情って面白いね。佐野さんの前夫との間のご子息の広瀬弦さんは、谷川さんや谷川さんのご子息の賢作さんと今も仲良しだとか。

谷川さんがラジオ作りについて仰っている「遠くから聞こえてくる微かな音に耳をすます」のが好きだという感覚、わかるなあ。今の時代は全てが見えすぎて&聞こえすぎて、だから本当に大切なものが見えにくく&聞こえにくくなってしまっているように感じられるから。谷川さんのラジオについての詩はこちら

谷川さんもまたすぐにお会いできると思っていたのになあ。まさか世界がこんなことになろうとは。。。


谷川さん、お元気そうで安心しました!賢作さん、ありがとう!その2も楽しみにしています!
それにしても谷川さんの朗読はほんといい。。。。。。

★オマケ★
先日うちの近所の散歩コースで撮ったお花たちです








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OPEN CLASS (Silvia Azzoni)

2020-04-11 22:11:01 | バレエ




皆さま、ご無事ですか(=「お元気ですか」@コロナ界)。
私はたぶん無事です(=「はい元気です」@同上)。
のどが痛い…まさかとなったり、寒気がする…まさかとなっても、一晩たっぷり寝ると治っているので、たぶん無事かと。でも今は誰もが自分もそうかもしれないと思って行動しなきゃ、ですね。
私はひと月以上前からスーパーで購入したものはみんなヤシノミ洗剤で洗うかアルコール消毒するかしているんですが、意外とそれをしていない人が私の周りに多くて驚いてます。絶対にした方がいいですよ~!
そうそう、先週末に92歳の誕生日を迎えた祖母がコロナのことを「コロ」って呼ぶんです。コロ、なんだか犬みたいで可愛いではないか。。

うちの会社は社食メニューがカレーのみになる日を待つことなく、今週末から一か月間、一部の部署を除き全職員が強制的に在宅勤務になりました。もともと引きこもり派なので在宅勤務は全く苦じゃないのですが、思っていた以上に在宅での仕事が忙しくて想像していたのとちょっと違う。基本の業務は止まっているはずなのに何故なのだ。
でも今日は土曜日。週末は意地でも社用メールは見ない。社のネットワークにも繋がない。メリハリが大事。

さて、明日(4月12日)は、イースターなのだそうです。アメリカやイギリスでは普通に経験したけれど(アメリカの力の入れようは凄かった…)、私はキリスト教徒ではないので、日本でその日を意識することは全くなく。欧州からのSNS情報で今週末なのか、と知ったのでありました。
上記のOn Danceのインスタ記事のイタリア語→英語のgoogle翻訳は次のとおり。

Tomorrow morning at 11, an exceptional open class! We will do an intermediate classic with Silvia Azzoni from Hamburg, accompanied on the piano by Shino Takizawa in live connection from Vienna!
An international super class to spend the Easter Saturday morning together.

復活祭前日の土曜日はEaster Saturdayと言うんだね。と思って調べてみたら、キリスト教的にはEaster Saturdayは復活祭の"次の"土曜日を意味し、復活祭前日の土曜日(聖土曜日)はHoly Saturdayが正式なのだそうです。
しかし一般的にはEaster Satudayという言葉がHoly Saturdayを意味するものとして広く使用されてしまっているため、混同を避けるために復活祭の6日後の土曜日にはBright Saturdayという言葉が使われているとのこと(by wikipedia)。

インスタの記事はハンブルク・バレエ団のシルヴィア・アッツォーニがハンブルクの自宅(ということはリアブコの自宅でもあるのか)でオープンクラスをする動画がライブで公開されるよ、という内容。そして見てみたわけですが
アッツォーニ、あいかわらず女神さま
なんて美しいんだろう。。。。。。。。。。。。。。。。。。
アッツォーニって私より3つ年上なんですよね。なんて美しい体。。。。。なんて美しい動き。。。。。彼女はいつも「人間という生物の美しさ」をいっぱいに感じさせてくれる。
作品を踊っているわけでもなく、ご自宅の一室でレッスンをしているだけなのに(お嬢さんのお部屋?可愛らしい)、あの体の動きの美しさを見ているだけで一時間があっという間。
ウィーンからの志野さんのピアノもとっても素敵(なので音質がイマイチなのが残念ではある)
このお二人を東京で観たのは、えーと、ちょうど1年前か。

はぅ、バレエが観たい。
来月のベジャール・バレエ団の来日キャンセルの情報はまだ来てないけど、まあどう考えてもキャンセルですよね。私的に最高の席がとれていたのになあ スイスも感染者が多いし、皆さん大丈夫かな。などと他国の心配をしている余裕は、もはや今の日本にはないのであった。
うちの近所のデパートやショッピングモールはスーパーとドラッグストアを除いて悉くクローズしています。こんなことは私のこれまでの人生で初めて。あ、子供の頃の正月の三が日の街はこんな感じだったな。
でも人通りが減り、春の花が満開で、心なしか街の空気が澄んでいる気がします。

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ベルリンフィル デジタルコンサートホール

2020-04-04 18:31:40 | クラシック音楽

皆さま、ご無事ですか。私は今のところ無事です、たぶん(もうそういうレベル)。
感染拡大警戒地域と言われている4都府県の一つに存するわが社の社食は、対面を避けて座るようにとのアナウンスに誰も従わなかったため、ついにテーブルの片側の椅子が撤去され、強制的に皆が片側着席をさせられております。食堂のカトラリーも昨日から姿を消し、強制的にMy箸持参となりました。食堂利用者の減少に伴いメニューの種類も減少。そのうちカレーとラーメンのみになるのではなかろうか。ていうかそろそろ社食クローズした方がよくない?と思ふ。また、テレワークをしろと上から言われているにもかかわらず出てきてしまう輩がいるので(電子化しきれていない我が社のシステムが悪いのだが)、近いうちに強制在宅勤務となる気配です。強制というのはやはり強力ですねえ。感染拡大防止に協力するため、私もできる限りテレワークをしております。やってみると意外に仕事がはかどっていいですね。上司から声をかけられて邪魔されることもないし。コロナが終息してもこれは続いてほしい。でも仕事をしながら妙に気合の入ったランチを作って食べたりしているので、太りそうです。ただでさえ運動不足になりがちなのに。


ドイツのクラシック音楽には日頃から膨大な公共の助成金が出ているのだとか。
今年の夏はドイツを周ろうとガイドブックも買ってあったのになあ。ベルリンフィルを聴きにいったり、田舎町でのんびりしたり、森を散策したり、ドイツビールを飲んだり、いろいろ計画をたてていたのになあ。。。

こんな状況では当然ドイツには行けないので、そして外出自粛引きこもり生活継続中なので、ベルリンフィルのデジタルコンサートホールの無料配信はとてもありがたいです。やっぱりyoutubeとは音が全然違いますね。
早速2018年6月のラトル&ツィメルマンの『不安の時代』を視聴してみました
東京でもそうだったけど、ツィメさんはラトルと一緒にいるとどうしてあんなに可愛くなるのだろう(seven stagesでのあの笑顔)。
そしてこれも東京と同じだけど、エピローグのピアノの美しさよ・・・・・。あそこであれほどこの曲の世界を表現できる人が他にいるだろうか。
ツィメさんが演奏後に貰った花束を指揮台のスコアを閉じてその横に置いたのは、あの花束をバーンスタインに捧げたのだろうな。この数日後にベルリンフィルを去るラトルにかなとも思ったけど、ラトルになら目の前の本人に直接渡せばいいわけだし、やはりバーンスタインにではないかな。
以下、以前もご紹介した2018年秋のラトル&LSOとの『不安の時代』の演奏ツアー中のツィメルマンのインタビューの言葉です。ザルツブルクにて。

「サイモンは『彼がここにいた気がする』と、昨日も含めて、ツアー中に何度も言っています。バーンスタインはこの曲の中に信じられないほど存在し続けているのです。私はツアー中に何度も涙がこみ上げてきましたが、ラトルは音楽にのめり込んでいました。彼は全身全霊をかけていたので、そのまま死んでしまうのではないかと心配になるほど、すべてを捧げていました。私がいつも生徒に繰り返し聞かせるように『私たちが音楽の最初の犠牲者にならなければならない』のです。その信念が一番大切で、それがない人は職選びを間違えたと言えましょう」(『音楽の友』2018年12月号)

そしてベートーヴェンの月光ソナタからのハッピーバースデー。この展開はわかっているのに、月光の音色に聴きほれてしまう。ツィメさんのベートーヴェンの音、いいよねえ。今年の協奏曲での来日は、やっぱり無理なのだろうなあ…。
ツィメさん、この動画でめっちゃ流暢にドイツ語で話してるけど、そして「フランス語は得意じゃない」とか冗談で言っているけど、フランス語で話している別の動画ではフランス人が「彼の発音はネイティブ並みだ」とコメントしていたし、ポーランド語は母国語だし、もちろん英語も流暢だし。シフもそうだけど、指揮者やピアニストの多言語を操る能力の見事さといったら。。。シフは「その国の作曲家の音楽を演奏するならその言語を知らないとダメだ」というスタンスだけど、ツィメさんもそうなのかな。光子さんもそうですよね。まあ彼らのように世界中に住んでいれば自然と覚えてしまうのかもしれないけども。ツィメさんは一年の何分の一かを日本で過ごしていらっしゃるのよね。日本語も意外に話せたりするのだろうか。でもツィメさんが日本で関わっている日本人ってみんな英語やドイツ語を話せてしまいそうだから、なかなか覚えないかも。
ツィメさんは今どこにいるんだろう。スイスのご自宅かな。まさか東京ということはないよね。ないと思いたい。

ちなみに月光ソナタからのハッピーバースデーはツィメさんの持ちネタで、2012年に東西ドイツの統一記念日に同じくベルリンフィルハーモニーの大ホールでリサイタルをしたときも、この曲が披露されています(Japan Arts記事ねもねも舎さんの記事では音源も聴けます)。短調から平和な長調へ。ツィメルマンから統一ドイツへ贈るバースデーソング。ツィメさんらしい粋なプレゼントですね
ベートーヴェンの月光って映画『戦場のピアニスト』でナチスのドイツ人将校が夜のワルシャワゲットーの廃墟でピアノを弾く場面で登場していましたよね。主人公のユダヤ人ピアニストとの出会いの場面。好きな場面です。そういえばツィメさんはユダヤ人ではないけれど、ポーランド人。私がアウシュヴィッツに行ったとき、収容所内の死の壁(収容者達が処刑された壁)にポーランドとドイツの国旗が一緒に薔薇の花と共に置かれていたのを思い出します。今思うと、あのポーランド国旗はユダヤ人に対しては加害者側でもあったという意味も込められていたのかもしれないな(ポーランドでもユダヤ人への迫害は行われていました)。どの国もあの戦争の傷跡から色々なものを乗り越えて、長い年月をかけて今の状態まで辿り着いたんですよね。最近どの国も不穏な空気が再燃していますが、決して簡単には壊れてほしくないです。


※ドイツ政府「アーティストは必要不可欠であるだけでなく、生命維持に必要なのだ」大規模支援(2020年3月30日)
※日本政府「チケット払い戻し求めなければ税優遇など 政府支援策」(2020年4月2日)

さて、今回の新型コロナで文化芸術分野が大打撃を受けているのは、ドイツも日本も同じ。ドイツの文化相さん(上記twitterでペトレンコと一緒に写っている女性)は「アーティストは生命維持に必要な存在である」と明言し、国を挙げての大規模支援を打ち出しました。一方の我が国はというと、「公演のチケット購入者が払い戻しを求めなければ、それを寄付とみなして税負担を軽減する。払い戻しを減らすことで主催者の資金繰りを支える」という政策を発表しました。
以下は、あくまで私の個人的意見です。

この日本政府の政策に喜んで従うことは、「文化芸術に対して国の限られた財源を割く必要はない。文化芸術は国民や国の生命維持のために必要なものとはいえず、ある特定の人達が楽しむための二次的なものである。今回の主催者らの損害は国の要請により発生したものではあるが、その補填はその特定の国民達にまずはしていただくのが望ましく、彼らも喜んで行うはずだ」という政府の考えを肯定したことになると思うのです。その国民自身もこの事態で困窮していることを政府は承知しているにもかかわらず、ファンがアーティストを支援したい気持ちを政策に利用する。自分達の身は削らずに。この政策に協力したい人達はしていいと思います。でも個人的には国のこんな政策には反対です。こんな前例を作ってはいけない。
私達は国の政策に従って払い戻しを控えるのではなく、どんどん払い戻しをして、国が出すべきお金はきちんと出させるべき。私達は個々人で別途、国の政策とは関係なく、支援したい対象に寄付をすればいい。だから困窮している団体やアーティストはどんどん寄付を募ってほしい。あるいは募金を兼ねてストリーミング配信を高めの金額に設定してもいいと思います。遠慮は一切いりません。実際、存続の危機に瀕している新日フィルからの寄付の呼びかけには多額の寄付金が集まったと聞いています。これが健全な、正しい方法だと思う。また、国がすべきことをきちんとしたうえで文化芸術分野の募金活動にも協力するのなら、それは構わないと思う。

しかしそもそも政府がこういう方策を平気で言い出すのは、結局のところ日本人一般の文化芸術に対する意識の未熟さに原因があるのでしょう。文化芸術は国全体で支えるものという意識が殆どの日本人にはない。それを政府は熟知しているから、こういうことをする。大阪の文楽問題のときの世間の反応の冷たさを思い出す。何度もこのブログで書いていますが、文化というものは国を支える柱です。文化を捨てた国に未来はありません。私はそう思っています。
以上、あくまで個人的意見を書かせていただきましたm(__)m

さて、と。ベルリンフィルの続きを見ようっと



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