風薫る道

Who never feels lonely at all under this endless sky...?

ホアキン・アチュカロ ピアノ・リサイタル @東京文化会館小ホール(1月21日)

2019-02-18 00:24:15 | クラシック音楽



今更ながらの1月の感想その2。

このリサイタルに行こうと思ったのは、ラトルの「彼が創りだす非常に独特な音色は、今ではほんの僅かなピアニストしか持っていない。それはとても稀有で、瞬時にそれと分かるものである」という言葉に興味をもったためと、アルベニスやドビュッシーというプログラムが昨年の素晴らしかったフレイレのリサイタルを思い出させたからでした。
今夜の席は鍵盤側の最前列。

【ショパン:24の前奏曲 op. 28】
マイク片手に登場された御年86歳のアチュカロさん。足腰もしっかりされていて、張りのあるお声でいきなり「ニホンゴ ハナセマセン」。そしてこれから弾くショパンのプレリュードについてゆっくりな英語で説明してくださり(開演前に配られた日本語のメッセージと同じ内容)、最後に再び「ニホンゴ ハナセマセン」で〆
それから椅子に座られるや否や始まったショパン。 
最近出されたこの曲の録音について、プログラムの中でアチュカロさんは次のように仰っています。
「確かに私は、《前奏曲集》を録音するまでにずいぶんと長い歳月を必要としました。しかしそれは、この曲集を完全に”自分のものにした”という実感を求めていたからです。いうなれば《前奏曲集》が自分の潜在意識に染み込むまで、待ち続けたのです」
しかしこの夜の私の正直な感想を書いてしまうと、、、「あと10年若いときに聴きたかった」でした。。
長調の穏やかなメロディ部分などは雰囲気があってとても素敵でしたが、指がもつれると当然だけれど音が乱れてしまうため、そのたびに現実に引き戻されてしまい・・・(ポリーニのときは、指のもつれはさほど気にならなかったのだけれど・・・)。
そういう面を別にしても、ラトルが言うような”特別な音”の感覚は、このときはまだ私の耳に訪れてはくれず。
そんなわけで、うーん・・・と少々複雑な気持ちで休憩時間となったのでありました。

(休憩)

【アルベニス:グラナダ(〈スペイン組曲〉op. 47 より)】
【ファリャ:アンダルーサ(〈4つのスペイン小品〉より)】

後半は”アラウンド・グラナダ”というテーマのプログラム。
これは最初のアルベニスから良くて。アチュカロさんの音ってラテンの濃密な色気系とかでは決してなく、むしろクリーンな音で。といってスペインの強い陽射しを思わせる音というわけではなく、むしろ日暮れ~夜の音で(でも決して細く弱い音のピアニストではないです)。それがなんだかとても素敵だったんです。

【ドビュッシー:ヴィーノの門(〈前奏曲 第2集〉より)】
【ドビュッシー:グラナダの夕べ(〈版画〉より)】
このドビュッシーの2曲は、youtubeで聴いたときはフランス色濃いめに聴こえたのだけれど、今夜の演奏はスペイン色濃いめに聴こえました。
アチュカロさんの演奏で私が最も印象的に感じたのは、ハバネラのような音楽を演奏するときに、ピアノの音がギターの音色に聴こえること。もともとそういう風に作られた曲ではあるのだけれど、複数のピアニストの録音を聴いた中ではアチュカロさんの音が一番そういう風に聴こえました。それがなんともいい雰囲気で。

【ファリャ:クロード・ドビュッシーの墓碑銘のための賛歌】
個人的には、ここからグリーグまで続く3曲が今夜の白眉でした。
この曲の終盤の音色の暗さと寂しさは、ひどく心に残るもので。予習で聴いたのはギターによる演奏だったのですが、追悼的な感じはピアノもいいですね。
この曲には直前に弾かれたドビュッシーの2曲(ヴィーノの門、グラナダの夕べ)の断片が使用されているので、プログラムの流れもよかったです。

【ファリャ:アンダルシア幻想曲】
またの名を「ベティカ幻想曲 Fantasia Baetica」
「ベティカ」とは、古代ローマ時代に遡るアンダルシアの名称である。遥か昔のアンダルシアに思いを馳せたファリャは、原題をラテン語で綴っている。(ピティナ解説より)
これ、よかったなあ。これが聴けただけでも今夜来た甲斐があった。
youtubeに唯一上がってるこの曲のアチュカロさんの演奏がオモチャのピアノのような音質でイマヒトツに感じられたので、今宵はどんなもんだろう?と思っていたのだけれど。今夜の演奏は濃くてとってもよかった。
濃いと言っても、決して日本人がスペインという国に想像するようなフラメンコながっつり色気濃厚濃密熱気というわけではなく。といって無色透明淡泊なのでもなく。ドビュッシーの2曲もそうだったのだけど、清潔感のある澄んだ空気と人間の生活の気配を一緒に感じさせるような。夜の帳の向こうに色んな色が鮮やかに蠢いているような。あるいは陽の煌めきと翳の昏さを入れ替わり感じさせるような。そんな音。それはアチュカロさんに特徴的な低音の暗い響きだけが理由じゃなく、全体的にそうで。私に見えたのは、そんな”アンダルシア”でした。素晴らしかった。ブラヴォー!

【グリーグ:作品54-4 抒情小曲集第5集-4 夜想曲(アンコール)】
英語リスニング力の弱い私は演奏前のアチュカロさんの説明が「not to by リック」と聴こえてなんじゃらほい?だったのですが。「ノクターン by グリーグ」だったんですね^^;
この演奏、しっとりと澄んだ、でも温かみのある美しさがとても素敵だった。アチュカロさんの音色はノクターンがよく似合う

【ファリャ:火祭りの踊り(アンコール)】
曲名が告げられると、後ろの席の熱心なファンらしき男性から小さな歓声が^^
演奏は、小綺麗に理性的にまとめていないところがいいなと思いました。

【ショパン:夜想曲 変ホ長調 op.9-2(アンコール)】
私は有名すぎるこの曲がとても好きなのだけれど(聴くのも弾くのも好き)、今夜の演奏、とてもよかった。おやすみなさいな音色。優しい夜のイメージでリサイタルを締め括ってくださいました



在日スペイン大使館のtwitterより



Joaquín Achúcarro plays De Falla Cuatro Piezas Españolas

アンダルーサは12:00~

Chopin Nocturne in E-flat Op.9 no.2 - Joaquin Achucarro (bis)

夜の音色、伝わります?

Albéniz - Iberia / Navarra (recording of the Century : Alicia de Larrocha)
フレイレの予習のときに名前を知ったスペイン人のピアニスト、アリシア・デ・ラローチャ。
2009年に他界されていますが、この方の演奏するスペイン音楽の、ダイナミックで鷹揚とした温かな音色がとても好きです。
こういう音も「今ではほんの僅かなピアニストしか持っていない」音だと思う。
彼女が弾くアルベニスのイベリアとナバーラ(1:23:53~)。大好きな演奏です。生で聴いてみたかったな。

Alicia de Larrocha plays Manuel de Falla "Andaluza" from -Piezas españolas- (LIVE, Sydney 1973)
同じくデ・ラローチャによる、ファリャのアンダルーサ。

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初春花形新派公演『日本橋』 @三越劇場(1月19日)

2019-02-17 02:50:26 | その他観劇、コンサートetc




だいぶ時間がたってしまいましたが、1月の舞台の感想を。※2列目中央
シネマ歌舞伎で玉三郎さん主演の舞台を観て以来、ぜひ生で観たいと思っていた『日本橋』。ようやく観られて嬉しかった。しかも日本橋で日本橋
生で観たいと思った理由の一つは、舞台のセットや設定の諸々がとても素敵だったから。それらはもちろん鏡花の原作(小説/戯曲)によるところが大きいのだけれど、地蔵尊の縁日とか、天秤棒をかついだ植木売りとか、桃の節句のあくる晩に栄螺と蛤を川に放す放生会とか、桜の枝を袖にのせた京人形とか、夜の生理学教室に祭られた雛人形とか。ああ大正…ああ鏡花…な世界にうっとりです。

「鏡花は、あの当時の作家全般から比べると絵空事を書いているようでいて、なにか人間の真相を知っていた人だ、という気がしてしようがない」

これは三島由紀夫の言葉ですが、鏡花の描く世界に「人間の真相」を感じる三島もまた、鏡花と同じくらいに純粋な部分をもった人だったのだろうなと思う。私達の生きる世界は決して美しいばかりではないけれど、少なくとも、こういう作品(三島は「天使的世界」という言葉を使っていますが)を生み出した鏡花という人がいたこと、その作品世界に惹かれる玉三郎さんのような人達がいること、そのこと自体に私は決して美しいばかりではないこの世界の美しさを垣間見せてもらえる気がするのです。

舞台は、高橋恵子さんの清葉が素晴らしかった
品、透明感、奥ゆかしさ、清らかに香る色気、芯の強さ。その姿も仕草も空気も清葉そのものに感じられて、彼女の存在だけで『日本橋』という物語が立ち上ってくるよう。

勝野洋さんの巡査も、生理学教室に雛を祭る葛木の行動を「自分の知らない別世界を見せてもらった」とお孝に語るところは、本当に感銘を受けているのだなあということが伝わってきて、ちょっとじぃんとしてしまった。いい場面だなあ、と。

春猿さん改め雪之丞さんのお孝は、決して悪くはなかったのだけれど、玉三郎さんと比べると意地を通す女の可愛らしさのようなものがあまり感じられず。。纏う空気が健全すぎるのかな。。鏡花の台詞や仕草を美しく感じさせるゆったりとした間のようなものがあまりなく、現代的に感じられてしまったのも残念でした。雪之丞さん、好きな女形さんなんですけどね。

緑郎さんの葛木も決して悪くはなかったのだけれど、どころか結構よかったのだけれど。お孝に対する優しさや愛おしさが感じられて。雪の橋をお孝と二人相合傘で歩いてくる場面なんて、二人の雰囲気が本当に素敵で、切なくて、泣きそうになった。のだけれど。『婦系図』のときと同じく鏡花の登場人物にしては演技が少々逞しすぎる(熱すぎる)ような気がするのよね・・・。今回の席は最前列だったのでめちゃくちゃ目の前で熱演を見せてくださって、何度も目が合う錯覚もさせてくださって、カテコも爽やかだったので、悪く書きたくはないのだけれど。。

最前列といえば、火事のシーンの前に下手の舞台裏で待機している役者さん達(火事で騒ぐ役の人達)がずっと普通の声で話をしているのが客席に聞こえてしまっていて、今の時代は役者もマナーをキチンとしないとダメでしょうよ、と思ってしまった。この緩さも新派の魅力というわけでもないでしょうに。

ところで、葛木がお孝に対して「葛木晋三の妻となろう者がなぜ熊の如き男を弄んだ」と吐き出す場面(小説になく戯曲にだけある場面)、葛木と出会う前からの関係を今更責めても仕方がないでしょうに、と以前は思ったのだけれど。
彼は伝吾を弄んだお孝を責めているというよりも、妻子も人としての誇りも何もかもを捨てて土下座をしてお孝から手を引いてくれと泣き縋る伝吾の姿に、呆然とし、やりきれない気持ちになってしまったのだろうな、と。お孝のために妻子を捨てた伝吾、伝吾を弄んだお孝、お孝と恋仲である自分。そんな浮世が嫌になり、かねてから考えていた姉を探す巡礼の旅に出ようと思った。お孝のことを嫌いになったから離れたいわけでない(葛木は伝吾に「私にきっぱりと『女と切れない』と言わせてくれ」と言っている)、でも共にいることはできなくなってしまったからこその、あの狂おしいまでの「口惜しい、残念だ」なのかな、と。この場面の緑郎さんは叫びすぎ&悶えすぎに感じられたのだけれど、おかげでそういう葛木の心情の流れが理解できたような気がするのでした。
とはいえお孝の元にあんな危険人物を残して自分だけ旅に出るってどうなのよ、とは思いますがね。葛木のような人間に「いやそこは心を強くもってお孝のために残ろうよ」というのも酷なのでしょう。葛木のそういう純粋すぎる弱い部分もお孝は愛したのでしょうし。

でも観終わって不思議と心に残るのは、葛木&お孝と同じくらいかそれ以上にお孝&清葉の関係であり生き様なのよね。結局この舞台は、誰が主人公という見方をしない方が面白いのかもしれない。
演出の齋藤雅文さんが会見で仰っていたように「笠原信八郎のような無骨な登場人物さえ、純粋な魂の持ち主です。そのような人たちが、日本橋の上で出会い、別れることにより、転落する人、成功する人、狂気に陥る人、殺人を犯してしまう人、それを背負って生きていく人もいる。人生のさまざまなバリエーションをみせています。」と。
そんな浮世の、人間のどうしようもなさ、やるせなさの全てを浄化するような清葉の笛の音。

また新派で鏡花ものがかかるときは観に行かせていただきます
玉さまもまた鏡花の演出をしてくださらないかなあ。玉さまの鏡花作品の演出がとても好きなんです。『外科室』のような短編映画ももっともっと観たい。

劇団新派の取材会レポート! 泉鏡花の悲恋物『日本橋』に喜多村緑郎、河合雪之丞、高橋惠子らが挑む
新派『日本橋』喜多村緑郎、河合雪之丞、高橋惠子に聞く悲恋の先に描く世界

三越劇場 初春花形新派公演 『日本橋』ダイジェスト公開




先日訪れた小石川植物園にて。
鏡花をはじめ多くの文豪にゆかりの場所
次は『外科室』と同じツツジの季節に来たいな。


園内にある旧東京医学校本館。
東京大学の前身である東京医学校の施設として明治9年に本郷キャンパス鉄門の正面に建てられ、明治44年に赤門わきに、さらに昭和44年に現在の地に移築されたそうです(国指定重要文化財)。
葛木もこういう建物で研究していたのでしょうか


ずっと我慢していたのに結局手に入れてしまった『日本橋』の初版復刻版。
雪岱の装幀が好きすぎて我慢できなかったの。。




表見返し(春・夏)


裏見返し(秋・冬)
上下の赤い帯は屏風絵のように見せる効果があるのですって
昔の本の装幀はほんっとうに素敵ですよね。もっと欲しくなってしまうけれど、この辺でガマンガマン。

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2月文楽公演 『鶊山姫捨松』『壇浦兜軍記』 @国立劇場(2月8日)

2019-02-10 04:13:03 | その他観劇、コンサートetc




ひさしぶりの文楽。第三部に行ってきました。

【鶊山姫捨松(ひばりやまひめすてのまつ)~中将姫雪責の段~】
幕が開くと、雪の庭に紅梅と白梅。空から降る雪。
私の好きな”雪のお芝居” 文楽の舞台って本当に綺麗。。。。。
同じかしらなのに性格が異なるのがちゃんとわかる桐の谷(一輔さん)と浮舟(紋臣さん)。

後半は舞台が変わって、雪の庭での中将姫の雪責め。
中将姫(簑助さん)が上手袖からよろよろのていで登場した途端に、舞台の空気が一変する。というより、中将姫の人形の周りだけ空気がはっきりと違う。人形が「生きている」。
毎度経験していることながら、登場の瞬間からこれだけのものを観させられてしまうと、改めて簑助さんという人形遣いの特別感を痛感しないではいらない。この「まるで生きているような」人形の動きを他の人形遣いさん達はしたくてもできないのか、敢えてしていないのか、それがいまだに本当にわからないのです。それくらい簑助さんの人形だけが全然違う(そういえばyoutubeで観た先代玉男さんの人形も、同じように「生きている」ようだったな)。

簑助さんの人形って、息遣い(その呼吸もただ規則的なんじゃないの…!)だけでなく、あらゆる動きが驚くほど自然なんですよね。「まるで人間みたい」というのともちょっと違って、「人形自身が魂をもって生きているよう(人形遣いの魂が人形に入っているよう)」に感じられる。何かにはっと反応する動きの表情とか、あまりに自然な感情が感じられて、いったいどういう風に遣うとこうなるのだろうと(しかも三人で!)。
これは簑助さんの人形を見ていていつも感じることなのだけれど、たとえば上演中に突然火災報知器などが鳴ったとして、その瞬間に簑助さんの人形だけは人形が反応するのだろうなと。他の人形達は反射的に人形遣いさんだけが反応するのではなかろうかと。実際にどうであるかは別にして、そういうような違いを感じさせるのです。人形遣いの心と人形の体が乖離していないから、人形遣いと人形が一体になっているから、人形のどんな動きも自然で、不自然な動きが一つもない。こういうものを前にすると至芸という言葉も生温く感じられてしまう。
加えていつも素晴らしいなと思うのは、ただリアルに演じているだけではなくて、型として魅せる華やかさがあること。
姫の健気さ、可愛らしさ、凛とした意思の強さ、清廉さ、透明感。のレベルが物凄いがゆえの神々しさ。
簑助さんの芸って本当に唯一無二だ。。
そして簑助さんご自身はいつも無表情なのだけれど、人形が可愛くて仕方がないのだろうなあという愛情も伝わってくる

靖太夫さん(前半)&千歳太夫さん(後半)、よかったように思います。玉也さんの父ちゃんも温かい感じが出ていてよかったな

【壇浦兜軍記(だんのうらかぶとぐんき)~阿古屋琴責の段~】
特設サイトのインタビューで勘十郎さんが「阿古屋」をー_ _と発音されていて、津駒太夫さんは_ーーと発音されていて(浄瑠璃の中の発音もこっちですね)、なんだか人形遣いさんと太夫さんの違いのようなものを感じて面白かったです。

中将姫の強い余韻が残るなか阿古屋は少々ぼんやり気味で観てしまったのだけれど、勘十郎さんの阿古屋は切なさはあまり感じられなかったけれど、凛とした空気はいいなあと思いました。
そもそも私はいまだこの演目に切な系の感動をもてたことがなく。。歌舞伎で玉さまの阿古屋も観ているのだけれど。やっぱり歌の言葉の意味をもう少ししっかり勉強しないとなのだろうなあ。。
そのせいもあり私にはどうも人形が楽器を弾いている姿というものは見ていてそれほど楽しいものではなく・・・(床と手の動きがリンクしているのは凄いと思ったが)、それよりは床近くの席から人間の実際の楽器の演奏を間近で見て&聴いている方が楽しく感じられてしまって、演奏中は殆ど床を観ていたという邪道な観客になっておりました。小劇場は歌舞伎座よりも音の響きが美しいですねえ
胡弓の演奏をあんなに間近で観た&聴いたのは初めてではなかったかしら。でも感動という意味では、中将姫で裏から流れてきた胡弓の使い方の方がしっとり泣いた。ということは、やっぱり私はまだ阿古屋という演目からそういう種類の感動を得られる域には達せていないということでしょう。

三曲を担当された寛太郎さんが琴などの楽器を弾いてるときも、伴奏で清介さん達の三味線が入ってきて、その合奏が楽しかったです。
そういえば三味線の寛治さん、昨年9月に亡くなられたのですよね。89歳とのことなので大往生ではあられますが、清治さんとはまた違うタイプの豊かな表情の音色の方だったなあ。太夫の声はもちろんだけれど、三味線弾きさんも亡くなられるともう同じ音色は聴けなくなってしまうのだな、と当たり前のことを今更ながら感じたのでありました。寛太郎さんは寛治さんのお孫さんなんですね。

そうそう、一年半文楽から離れているうちに、咲甫太夫さんが織太夫さんになられていた。今回は重忠をご担当。でもやっぱり私はちょっと苦手でした。。

幕間に小腹が空いたので劇場の売店で杏の砂糖がけを買ってみたのですけど、美味しかったです





特設サイトより。昨年11月の文楽劇場のお写真。




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今日は旧暦の大晦日

2019-02-04 22:49:35 | 旅・散歩



今日(4日)は旧暦の大晦日なんですって
明日は元旦

写真は、先週末の東海道新幹線より。
こんなところ↓に行ってきました 




彩浜&良浜


元気いっぱい
ただいまの体重は9kg


永明さん


桃浜


桜浜



結たん
ああ、みんな可愛いっ(実はここ来たの11か月ぶりの2度目)




広々した、すばらしい環境ですよね~~~


これ、意外に美味だった


★おまけ(上野の森より)★

ちょうど1年前の今日のシャンシャン&シンシン
やっぱり今と比べるとシャンさんちっこい(この頃の体重は17kg)
しかしそうか、シャンを初めて見てから今日で1年なのだなあ。まさか1年たってもこんなにパンダ熱が冷めないとはねえ。
今の体重40kgのまん丸シャンも可愛くて大好き 
上野は入園料が安いのも助かる(上野600円、白浜4500円



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Colm Wilkinson ”Oh Danny Boy”

2019-02-01 00:04:52 | ミュージカル

Colm Wilkinson Oh Danny Boy


Oh Danny boy, the pipes, the pipes are calling
From glen to glen, and down the mountain side
The summer's gone, and all the roses falling
'Tis you, 'tis you must go and I must bide.
But come ye back when summer's in the meadow
Or when the valley's hushed and white with snow
'Tis I'll be here in sunshine or in shadow
Oh Danny boy, oh Danny boy, I love you so.

But when ye come, and all the flowers are dying
If I am dead, as dead I well may be
You'll come and find the place where I am lying
And kneel and say an "Ave" there for me.
And I shall hear, tho' soft you tread above me
And all my grave will warmer, sweeter be
For ye shall bend and tell me that you love me
And I shall sleep in peace until you come to me.

来日公演でも歌ってくれた、コルムさんのDanny Boy。コルムさんはイギリス人ではなくアイリッシュなのだなあと強く感じたのが、この歌が歌われたときでした。アイルランドの渓谷や緑の牧草地が目に見えるようだった(まぁ舞台演出もそういう風だった記憶がありますが)。
今日久しぶりにyoutubeで聴いて、その歌詞になんだか泣きそうに。。。
親とか祖父母とかって決して良いことばかりじゃなくて色々あるけれど、それでもやっぱり温かくて、有難い存在だよね。。。と。若い頃は鬱陶しく感じるばかりで、そんなこと思いもしなかったけれど。
コルムさんの声がすごく温かくて優しいから。。。
しかしこの動画の客、拍手が早すぎだわ。いいところで咳もするし、どこの国よ全く!と思ったら、カナダだった。。コルムさんの今のホーム
コルムさんは、1番のrosesと2番のflowersを逆に歌っているんですね。CD録音でもそうなので敢えてそうしていらっしゃるのだと思うけれど、なぜなのかな
そしてwikipediaで知ったのですが、この歌はアイルランド人ではなくイングランド人による作詞なんですね。曲はアイルランド民謡ですが。このちょっと土臭くて懐かしい感じのメロディがとても好きです。アイルランドという国も、そういう感じのする国ですよね。

そういえば少し話が逸れますが、年末に漱石の『草枕』を読み返していて、「お?」と思ったことがあって。
山路を登りながら、画家がシェリー(漱石はシェレ―と書いてますが)の雲雀の詩を口ずさむところ。
”Our sweetest songs are those that tell of saddest thought.”
漱石は「うつくしき、極みの歌に、悲しさの、極みの想、籠るとぞ知れ」と訳していますが、より直訳すると「この世界の最も美しい歌は、最も悲しい想いを歌った歌である」となりますよね。
これ、高村薫さん(最近の作品は全く読んでいませんが…)の『神の火』の中の「世界じゅうの悲しい歌がみんな美しい旋律をもっているのは不思議なことです」という言葉に似ているなあ、と。『神の火』にはジョイスの『ダブリン市民』についても書かれていたりしますし、高村さんなら普通にシェリーとか読んでおられるだろうし。だからどうというわけではないのだけれど、高村作品初読から20年目にしてのちょっぴり嬉しい発見(?)だったのでした

下の写真は、昔訪れたアイルランド


『ダブリン市民』に出てくるダブリンのバッキンガム・ストリート。
コノリー駅側より 



アイルランドも、またぜひ行きたい国の一つです。
死ぬまでにもう一度、行けるかなあ。



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