風薫る道

Who never feels lonely at all under this endless sky...?

「カーライル博物館」のページ

2020-06-29 23:27:24 | 日々いろいろ



ホームページの倫敦漱石散歩の「カーライル博物館」のページを更新しました。
初版本の挿絵との見比べなど、追記。
訪問時の写真を見ながら、とても親切にしてくださった男性のスタッフさんとの時間を思い出して、旅=人との出会いだな、と改めて思うのでした。
その国でたった一人でもそういう出会いをもてたなら、少なくとも「〇〇人は嫌い」というようなカテゴリーでその国の人を判断しようなどとは絶対に思わなくなる。旅先の国の人との出会いは、私が旅をする理由の一つです。

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ホームページを更新しました。

2020-06-25 22:55:07 | 日々いろいろ



8年ぶり(!)に、ホームページを更新してみました。
「くまのプーさんの舞台を訪ねて」、「ピーターラビットとワーズワースの舞台を訪ねて」、「嵐が丘の舞台を訪ねて」の3つを新たに公開。「高村 薫『リヴィエラを撃て』の舞台を訪ねて」のケンブリッジのページに写真を追加。
8年も更新していないのに今でも意外とアクセスをいただいていて、ありがたいことです。

2008年時点の内容ですが、そう大きくは変わっていないかと思います。
東京の感染者数も再び増加して、次に海外に行けるのはいつになることやらですが。
よろしければお楽しみください

※PC用に作っているページなので、スマホの方はめちゃくちゃ見ずらいと思います。すみません

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『みをつくし料理帖』

2020-06-15 10:37:48 | テレビ




「源斉先生。道が枝分かれして迷いに迷ったとき、源斉先生ならどうなさいますか?」

「私なら心星を探します」
「心星…?」
「そう、心星です。あそこに輝くあれが心星ですよ。あの星こそが天の中心なんです。すべての星はあの心星を軸に回っているんですよ。悩み、迷い、考えが堂々巡りしているときでも、きっと、自身の中には揺るぎないものが潜んでいるはずです。これだけは譲れないというものが。それこそがその人の生きる標となる心星でしょう」

見逃しドラマ視聴プロジェクト第6弾は、『みをつくし料理帖』(2017年、2019年)。
2012年にテレビ朝日でもドラマ化されているようですが、私が観たのはNHKの方です。
脚本は『漱石悶々』『夫婦善哉』『ちかえもん』に続き、藤本有紀さん。髙田郁さんによる原作は未読です。

面白かった
そもそもタイムスリップしたらやってみたいことの一つが「江戸の街で美味しいものを食べる」である私。このドラマが楽しくないわけがない。

キャストも、皆さんよかったです。
原作との比較はできないけれど、澪役の黒木華さんはこの役にとても合っていたように感じましたし、『夫婦善哉』では上方のぼんち風味が足りずワタクシ的に不満だった森山未來さんは、今回の小松原は江戸の二枚目風な役なのでピッタリ。大変よかった。
ていうかあれだよね、私の見逃しドラマ視聴プロジェクトはまだ6弾でしかないのに、俳優さんが被りすぎてるよね。異なる作品で既に2回観ているのが、森山未來さん、尾野真千子さん、富司純子さん、麻生祐未さん、松尾スズキさん、国広富之さん、伊武雅刀さん、林遣都さん。NHKがドラマで使う俳優さんってこんなに範囲が狭いの・・・?まあいいですが。

ところで、(原作を読んでいないのでドラマだけの感想ですけど)澪が小松原に恋に落ちたとき、そして小松原への嫁入り話が出たとき、周りの大人達はあまりに無邪気に二人を応援しすぎじゃないかい?ふつうだったら即座に「小松原(旗本)との結婚=澪は好きなように料理ができなくなる」と結びつけるよね。まあ百歩譲って彼らも澪も町人だし、武家のしきたりに疎かったとする。
でも小松原!あんたは旗本でしょ!武家のしきたりを骨の髄までわかってるでしょ!「ともに生きるなら下がり眉がよい」とか洒落たプロポーズをしていないで、「これからはお前の好きなように料理はできなくなるが、それでも俺とともに生きてくれるか?」とかそういう現実的なプロポーズをしなさいよ!又次が世間話のついでに教えて初めて澪がその事実に気付くって、どーゆーことよ!
と思ったのだけど。
澪から断られたときの小松原の表情に(ここの森山さん、よかった…)、でも本当に辛いのは澪よりもこの人の方なんだなぁ、と。これまでも、そしてこれからも市井で自由に生きられる澪より、身分のしがらみの中で生きるこの人の方が可哀相だ。澪のことを本当に愛していたし、自由に生きたい人なのに、ね。

あと気になったのは、富三の料理の味の「気持ち悪さ」を客の多くが気付いていたのに、つる家の主人はどうして気づかなかったん・・・?とか。

セットは、今回も素敵だった


この早朝の雪の場面、美しかったですねえ。
ワタシ、浮世絵や歌舞伎や文楽で一番好きな演出が雪なので、感動が倍増でございました・・・


第2話のこの場面も、まるで広重の絵のようじゃないですか

©歌川広重『名所江戸百景 猿わか町よる之景』
ね?
ああ、江戸にタイムスリップしてみたいっっっ。
ちなみに浮世絵や日本画に描かれるワンコはめちゃくちゃキュートなので、そればかりを集めた画集も出ているほどです(私も持ってる) 
さらにちなみに、この絵はゴッホが蒐集していた浮世絵のうちの一枚です。一昨年アムステルダムのゴッホ美術館で観た企画展でも、沢山の浮世絵が展示されていました(ちょうど2年前の今頃だった。次に海外へ出られるのはいつだろー・・・)。

ドラマに出てくる料理はみんな美味しそうで、観ていてお腹が空いて困ってしまいました。
公式ページでは、澪が作っていた料理のレシピが公開されています
「はてなの飯」、作ってみたいなあ。


★オマケ★
江戸時代へのタイムスリップといえば、先日再放送もされていたTBSのドラマ『JIN-仁-』。
ドラマでは武田鉄矢さんが演じていた緒方洪庵が開いた適塾は、今も大阪市内に保存されています。内部見学も可能。
以下は、昨年訪れたときの写真です。





この適塾の教育法と比べたら、今の時代のそれはユトリのユトリのユトリといったところ。
塾生が寝るスペースは一人一畳と決められていて、成績のいい者から好きな場所を選べたそうです。最も不人気だったのは出入口付近で、夜中にトイレに立つ人達に踏まれて大変だったとか
また数に限りがある貴重な本は、書き写して使用していたとのこと。気が遠くなるような作業ですよね。私も少しは見習わないとなあ、とそのときは思うのですけれど、なかなか。。。
なお私は適塾というと、司馬遼太郎さんの小説『花神』の印象が強いです。

Comments (2)
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『夏目漱石の妻』

2020-06-10 11:57:28 | テレビ



関東も今週には梅雨入りですかねえ
緊急事態宣言は解除されましたが、まだ在宅勤務をしております。もう私の体は普通出勤には戻れない。
そんな私の見逃しドラマ視聴プロジェクト第5弾は、『夏目漱石の妻』(2016年)。

脚本は、『麒麟がくる』の池端俊策さん。このドラマで放送人グランプリというものを受賞されたそうです。
が。
んー、ワタクシ的には微妙なドラマでありました
まず気になったのは、全4話でトーンが一貫していないこと。例えるなら『吾輩は猫である』と『道草』という全く作風が異なる作品を無理やり一つのドラマに詰め込んでしまったような不自然さ、といったらいいだろうか。ユーモアの中にシリアスがあって、シリアスの中にユーモアがあるのは漱石の小説も同じだけれど、漱石の小説はその作品ごとのカラーがしっかりあって、統一感がある。でもこのドラマは、その辺りがどうもギコチナイ。。。大塚楠緒子が漱石宅を訪ねてくる場面は「え、ここでコメディ!?」だったし(直前までの鏡子は物凄い深刻だったのに)、4話冒頭の空気の重さには「3話と4話の間で彼らに一体何が・・・」状態であった。なので登場人物の言動にも「あなたそんな性格だったっけ?」と感じることがしばしば。
いっそ『道草』等の作品は無視して、鏡子さんの『漱石の思い出』のトーンに統一してドラマを作った方がよかったのではなかろうか(『漱石の思い出』の空気はこのドラマほど重くないし、統一感もある)。

鏡子役の尾野真千子さん&漱石役の長谷川博己さん。
どちらも迫真の演技だったのだけれど、鏡子&漱石か?と言われるとワタクシ的には違い。特に尾野さん。『夫婦善哉』でも少し感じたことだけど、尾野さんの演技はどことなく空気が神経質というか重い(一見そうは見えないし、ご本人も明るい方だそうですが)。尾野さんの鏡子は上手くいかない夫婦関係への投げやり気味な諦念が常にあって、漱石という人間への愛情はあまり感じられない。史実の鏡子は漱石の死後に「いろんな男の人をみてきたけど、あたしゃお父様が一番いいねぇ」と孫の半藤茉利子さんに語っているけれど、尾野さんの鏡子は後年そういうことを言いそうには全く見えない。今生では漱石と添い遂げる決意をしているけれど、次の生で選択肢があるなら違う結婚を選びそう。鏡子がこうなってしまうと、なんだかんだいって史実の鏡子&漱石にはあったように感じられる夫婦の安定感が皆無になってしまい、ラストの長野旅行(だっけ?)の仲良し場面もおさまり悪く感じられてしまった。まあ漱石の「あたまの調子が悪いとき」に焦点を当てすぎている脚本のせいも大きいと思いますが。

一方、鏡子の父親役の舘ひろしさんと漱石の養父役の竹中直人さんは悪くはなかった気がする。主役二人と同様に『道草』や『漱石の思い出』に書かれているイメージとは違ったし、「あなたそんな性格だったっけ?」展開もなきにしもあらずだったけど、主役じゃないせいもあり、さほど違和感なく見られました。
第二話の相場に手を出して身動きがとれなくなった鏡子の父親(舘ひろしさん)が、保証人の判をついてくれるよう鏡子から漱石に頼んでほしいと借金の借用書を持ってくる場面は、見ていて辛かったな。貴族院の書記官長にまでなった人なのに今は落ちぶれて愛する娘にこんなことを頼まざるを得ない父も、それを断るしかない娘も、辛いよね。翌日、漱石が鏡子の弟に四百円を包んで渡してあげる場面に救われました。まあ史実ではこの父親はお妾さんもいて、鏡子のお母さんも苦労されたそうですが。
漱石の養父役の竹中直人さんも、いやらしさ加減、下劣さ加減がよかった。鏡子に言う「わかりますか、落ちぶれるということの忌々しさが…」。お金があれば持てたかもしれない他人への優しさ、立派な人格、人としての誇り。それらを全て捨てねば今日を生きられない人間達の惨めさというのは、現実の一面としてきっとある。

引っ越し時のネコの運搬係な鈴木三重吉くん、ちゃんと再現してくれていましたね
漱石の娘たちが髪に大きなリボンをつけていたのも、史実に忠実。漱石自身も身なりを気にするお洒落な人で、美しいものが好きな人でした。

挿入曲は、シューベルトのピアノソナタ21番の第一楽章
最初は合っているような合っていないような?微妙な選曲に感じられたけど、観終わった今は、合っていたような気がします。無垢で絶えず死のイメージが付き纏う、でも決して暗いだけではない光のソナタ。シューベルトらしい明るい中に不意に現れる不穏な低音も、ストーリーによく合っていた。

ドラマの原作の『漱石の思い出』は以前読んだことがあって、今回再び読み返しながら、悪妻の評判が高い鏡子だけど、そしてこの本はあくまで鏡子から見た主観的な内容ではあるけれど、漱石のような人には結局は鏡子のような奥さんが合っていたのではないかなと感じるのでした。100%合っているとはいえなくても、では100%合っている夫婦なんてどれだけいるのか?と。独身の私が言うのもなんですが。
ただね、ドラマとは関係ないけど、鏡子さんにこれだけは言いたい・・・。
漱石はあの墓は絶対に不満に感じてると思うよ。「菫ほどな小さき人に生れたし」と言っていた人よ。さりげない上品なお洒落が好きだった人よ。それがあの墓・・・。漱石も子規みたく自分の墓のことを生前に細かく指示しておけばよかったのにねえ(漱石の墓は漱石の死後に鏡子の妹の旦那さんが設計して作りました)。

負けん気強くて夫思い!夏目漱石の妻・夏目鏡子さんに関する記事まとめ【日めくり漱石 号外編 @サライ】
日めくり漱石@サライ
村上春樹さん「もし筆を折ったら」 創作への思い、私生活を語る(2020.3.6)
「夏目漱石を愛する村上さんは、15年の取材時に漱石の旧居を訪れた縁で、被害を受けた旧居復旧のために基金から600万円の提供を決めた。」と(ありがとう村上さん!)。
「好きな作品は『三四郎』と『それから』、嫌いな作品は『こころ』」と。
村上さん、『こころ』お嫌いですよね。ご自身の小説の中でもそう書いていましたし。「完璧すぎるから」でしたっけ?。私はそうは感じないのですけれど。先生の遺書の異様な長さから言っても、完璧すぎるとは感じないなあ。完璧というなら『三四郎』の方が完璧ではなかろうか(私は『三四郎』大好きです)。

 健三は実際その日その日の仕事に追われていた。家へ帰ってからも気楽に使える時間は少しもなかった。その上彼は自分の読みたいものを読んだり、書きたい事を書いたり、考えたい問題を考えたりしたかった。それで彼の心は殆ど余裕というものを知らなかった。彼は始終机の前にこびり着いていた。
 娯楽の場所へも滅多に足を踏み込めない位忙がしがっている彼が、ある時友達から謡の稽古を勧められて、体よくそれを断わったが、彼は心のうちで、他人にはどうしてそんな暇があるのだろうと驚ろいた。そうして自分の時間に対する態度が、あたかも守銭奴のそれに似通っている事には、まるで気がつかなかった。
 自然の勢い彼は社交を避けなければならなかった。人間をも避けなければならなかった。彼の頭と活字との交渉が複雑になればなるほど、人としての彼は孤独に陥らなければならなかった。彼は朧気にその淋しさを感ずる場合さえあった。けれども一方ではまた心の底に異様の熱塊があるという自信を持っていた。だから索寞たる曠野の方角へ向けて生活の路を歩いて行きながら、それがかえって本来だとばかり心得ていた。温かい人間の血を枯らしに行くのだとは決して思わなかった。

・・・

「だけど、ああして書いたものをこっちの手に入れて置くと大変違いますわ」
「安心するかね」
「ええ安心よ。すっかり片付いちゃったんですもの」
「まだなかなか片付きゃしないよ」
「どうして」
「片付いたのは上部だけじゃないか。だから御前は形式張った女だというんだ」
 細君の顔には不審と反抗の色が見えた。
「じゃどうすれば本当に片付くんです」
「世の中に片付くなんてものは殆どありゃしない。一遍起った事は何時までも続くのさ。ただ色々な形に変るから他にも自分にも解らなくなるだけの事さ」
 健三の口調は吐き出すように苦々しかった。


(夏目漱石 『道草』)

村上さんがフィッツジェラルドの作品について「深い内省はないが、それをはるかに凌駕する鋭い洞察がある」と書いていたことがあったけれど、この表現を借りると、漱石の後期の作品には「深い内省も、鋭い洞察もある」と私は思うのである。「ありすぎる」といってもいいそういう性質を持って生まれてきたことが漱石という人にとって幸福だったかどうかはわからないけれど、それがなければ作家漱石は生まれていなかったであろうことは確かでしょう。
ちなみに何度も書いて恐縮ですが、漱石やフィッツジェラルドやポゴレリッチが好きという部分は私と村上さんは共通しているけれど、私は村上さんの小説は苦手なのである(エッセイは好き)。

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