風薫る道

Who never feels lonely at all under this endless sky...?

鎌倉にもあるぞ幕末史跡! 4 ~鎌倉宮~

2007-07-31 00:14:43 | 旅・散歩

<鎌倉宮(大塔宮)>

明治2年に明治天皇の命により創建された、護良親王(大塔宮)を祀る神社。
ここは親王が幽閉されていた土牢があることで有名ですが、じつは宝物殿にある展示物の多くは幕末関係なのですよ。

しかしここ、さほどの規模でもないのに拝観料が鎌倉のなかでトップレベル(といっても300円だけど)なのはなぜだろう。。。宝物殿があるから?
建長寺・円覚寺・長谷寺と同額なんですが。。。


正面


五箇条の御誓文&教育勅語の碑


宝物殿(明治天皇行在所跡)


(上)高橋泥舟 書 ※幕末の三舟
(右下)勝海舟 書 ※幕末の三舟
(左下)伊藤博文 書


山岡鉄舟 書 ※幕末の三舟


徳川斉昭 書
護良親王500年忌にあたり、したためたもの。
『愚かなる 身も古に 生まれなば 君が頼みと ならましものを』

【番外編:こんなのもあります】

東郷平八郎 書


乃木希典 書


山本五十六 書(絶筆とのこと)


護良親王が幽閉されていたとされる土牢。
親王は東光寺(現在の鎌倉宮はその跡地)に9ヶ月間幽閉されたのち、足利直義の家来淵辺義博により殺害されました。

ちなみに宝物殿には「護良親王の令旨」が展示されていますが、これは本物ではなく写しだそうです。

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鎌倉にもあるぞ幕末史跡! 3 ~上行寺~

2007-07-30 00:08:10 | 旅・散歩

<上行寺>

安養院の向かいにある小さなお寺。
桜田門外の変で井伊直弼を襲ったいわゆる桜田烈士18名のうちの1人、広木松之助の墓があります。

広木松之助(1838-1862)は、井伊大老暗殺ののち加賀へ逃れ、剃髪して各地を転々とした末、上行寺に身を寄せました。
しかし襲撃に参加した同志が悉く死んだことを知り、変後二年目の文久2年3月3日、襲撃と同じ日に、ここで自刃して果てました。
享年25。

正面


広木松之助の墓。
門を入って左手にあります。


【番外編:なにげにスゴイぞ】

門の裏側にある左甚五郎による龍の彫刻。
このひとは日光東照宮の眠り猫で有名ですね。
知らないと確実に見落とす場所にあります。。

なお、門を入って右手のお堂には、あらゆる病にご利益があるとされる瘡守稲荷と、身がわり鬼子母神が祀られています。
薬王経石という黒い石で患部をさすることで痛みや苦しみが楽になるそうです。
特に癌にご利益があるとのことですが、心の安らぎも与えてくれるそうなので、私も胸のあたりをさすってきました(^^)

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鎌倉にもあるぞ幕末史跡! 2  ~寿福寺~

2007-07-29 00:08:38 | 旅・散歩

<寿福寺>

鎌倉五山第三位の寺。
本堂裏手の墓地には、北条政子、源実朝、高浜虚子、大佛次郎などの墓とともに、海援隊士であり後に外務大臣となった陸奥宗光の墓があります。


総門。
墓地へは突き当たりの山門の手前を左へ曲がります。


陸奥の墓へと続く階段。
案内表示はありません。
そもそもこの階段は、普段は落石の危険があるため立ち入り禁止となっているのです。
でも今回はなぜか扉が大きく開いてあったので、入っていいってことかしら~?と勝手に解釈し、そぉ~っとお邪魔してしまいました(<たぶん庭師の方が閉め忘れていただけ)。


陸奥宗光の墓。
墓の写真をとるのもどうかと思ったが。。。


【番外編(墓だらけ・・・)】


大佛次郎の墓


高浜虚子の墓


北条政子の墓


源実朝の墓

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鎌倉にもあるぞ幕末史跡! 1 ~瑞泉寺~

2007-07-28 22:47:04 | 旅・散歩

鎌倉といえば鎌倉幕府、と思いきや。
意外と幕末関連の史跡もあったりするのです。
というわけで今回は、鎌倉にある幕末史跡をご紹介しましょう~。
第一回目は、鎌倉随一の「花の寺」でもある瑞泉寺です。

<瑞泉寺>

瑞泉寺の第25代住職である竹院和尚は、吉田松陰の伯父でした。
松陰は4度ここに滞在しています。
ペリー艦隊来航直前の時期にもここを訪れており、その様子は司馬遼太郎の『世に棲む日日』にも活き活きと描かれています。以下抜粋。

 瑞泉寺は、鎌倉宮から東へ八丁行ったところの山腹にあり、名刹である。足利家の菩提寺のひとつで、徳川期に入っても、ここの住職になるのは幕府の官命による。
 この日、よく晴れて夕焼けがあざやかであった。松陰が山門へ近づくと、たまたま竹院上人は門外に出て路上を掃いていた。齢は五十を越えている。
「上人っ」
 松陰は、こどものような無邪気さで駈けだした。むやみに路を駈けることはこの当時の武士のしつけにはずれることであったが、松陰はこういうあたり、少年とかわらない。
「寅次郎か」
 竹院も、松陰自身の表現によると、ヨロコブコトハナハダシ、で、すぐ松陰の肩を抱くようにして山門に入れ、松陰がふと気づいてちゃんとあいさつをしようとすると、
「まあまあ、あとで」
 と、庫裡の土間でわらじをぬがせ、運よく湯が沸いているぞ、このまま湯にはいれ、湯あがりであいさつを受けよう、といってくれた。・・・・・・

世の中が大きく動き出そうとしていたこの時期、松陰はここでどんな思いをめぐらし過ごしていたのでしょうか。


山門へと続く石段。


山門脇にある『松陰吉田先生留跡碑』


本堂側から見た山門


客殿も本堂も残念ながら大正期以降の移築・再建ですが、裏手の庭は、鎌倉に存する鎌倉期唯一の庭園といわれており(夢窓疎石作)、昭和45年に復元されました。

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日野へ行ってきました

2007-07-19 00:12:45 | 旅・散歩


先週日曜日、午後には台風も落ち着いたため、小雨のなか日野へ行ってきました。
というのも、このところ幕末小説を読み返していて、はたと気付いたのですよ。
わたしってば、京都は何度も行ってるし、函館だって鹿児島だって高知だって会津だって行ったのに、なぜか新選組の故郷である日野には行ったことがない!こんなに近くに住んでいるのに。
考えてみたら日野って昔の職場のすぐ近くだわ。定期を持ってるときに行っときゃよかった。

早速ネットで調べたところ土方歳三資料館の開館日は第1・3日曜のみだったため、幸い雨も小降りになったことだし出かけることにしました。
晴れていたら日野をゆっくり歩きたかったのですが、まだ小雨が降っていたので今回はここだけ。

場所わかるかな~?と少し不安でしたが、万願寺駅を出てすぐに案内板があり、問題なく着くことができました。
いつもこうなのか台風のせいなのか、とても空いていてゆっくり観られてよかったです(混んでいる博物館ほど嫌いなものはないのである)。数人いた客は男性が殆どで、すこし意外でした。

ここは歳三の生家で、29歳で上京するまでの17年間をここで過ごしました。現在は当時の建物はありませんが、生家にあった大黒柱と長者柱が資料館正面の梁や柱として残されています。
ドラマ『新選組血風録』の最終回で、明治になり斉藤一が土方の生家を訪ね「ここで土方さんは生まれて育ったんですねえ・・・」と言うシーンがあるのですが、そのシーンが大好きなので、今回こうして訪れることができたのは嬉しかったです(^^)
またこの資料館は歳三の子孫の方々が運営されているため、そういった方々にお会いできるのも嬉しいですよね。説明をされるときに「歳三さん」とおっしゃっていたのが印象的でした。

小さな展示室には歳三関係の遺品が所狭しと展示されていて、想像以上に見応えがありました。
見所は、和泉守兼定、豊玉発句集、池田屋事件で使用された鎖帷子、歳三が稽古に使っていた天然理心流の木刀(極太・・)、「東照大権現」の旗、歳三や清河八郎の書簡など色々あるのですが、私のお目当ては、新撰組隊士安富才介が歳三戦死の様子を生家に知らせるため認めた書簡。
これは歳三戦死の直後に五稜郭内にて書かれたものですが、その字の乱れ具合から瓦解直前の城内の切迫した様子がありありと伝わってきて、実物を前にすると胸に迫るものがありました。
安富から手紙を託され五稜郭を脱出した立川主税は途中新政府軍に捕らえられたため、結局この手紙が日野へ届けられたのは明治5年のことでした。

他に興味深かったのが、歳三の甥?が歳三の最期の様子を知ろうと榎本武揚を訪ねた際に、榎本が歳三の人柄を詠んで書いた『入室清風』という書。「部屋に入ってくると清らかな風が吹くようであった」という意味だそうです。すでに新しい時代を生き新政府の高官となっている榎本が、どういう想いで五稜郭の頃を振り返ったのだろうかと想像すると、切ない・・・。

次回はぜひともお天気のいい日に行って、高幡不動から日野駅までのんびり歩きたいなぁ。


※以下、安富の書簡全文
(書かれた日付は私には12日と読めたのですが、16日としてる資料もあります)。

一筆啓上つかまつり候。雨天の節に御座候得ども、揃われてご安泰、賀し奉り候。しからば土方隊長御義、江戸脱走のとき伝習第一大隊を率い野州宇都宮に戦われ、その後戦のとき手負い、会津でご養生ご全快、同所東方面を司られ後、同所瓦解のとき入城なりかね仙台に落ち、同所大君お逢いこれあり、説刀を贈られ、奥州福島へご出張のはず、また同所国論生通にて止む。
辰十月、榎本和泉殿と誓い蝦夷に渡られ、陸軍奉行並海陸裁判を司られ後、巳の四月、瓦解のとき二股という所に出張、大勝利。
そのほか数度戦い、松前表街ついに利なくしてついに引き揚げ、同五月十一日函館瓦解のとき、町はずれ一本木関門にて諸兵隊を指揮遊ばされ、ついに同処にて討死せられ、誠にもって残念至極に存じ奉り候。
拙者義いまだ無事、何の面目やあるべく候。今日至り候よう篭城に軍議相定まり、いずれも討死の覚悟に御座候。
ついては立川主税義、終始付き添いおり候間、城内を密かに出してその御宅へ右の条々委細お物語いたし候よういたしたき存念に御座候。いずれ其御宅へまかり出で候間、さようご承知くださるべく候。右は城中切迫に取り紛れ、乱筆ご容赦くださるべく候。まずはお知らせのみ、別に貴意を得、かくのごとくに御座候。恐惶謹言。

五月十ニ日
安富才助 正義(花押)
土方隼人様

なお以って、折角ご自愛お厭い、かつお目に係り申さず候得ども、ご惣客様方へよろしく御伝言下さるべく候。

隊長討死せられければ
早き瀬に 力足らぬか 下り鮎

封 五月十ニ日認

日野宿脇にて 土方隼人 様 貴下
箱館五稜郭内 安富才介


※写真

資料館前の道。


資料館正面。ご自宅の一部が資料館となっています。
表札はもちろん「土方」。なんだか不思議な感じです。


歳三が武士になることを夢見て植えたといわれる矢竹。右の建物が資料館。梁は生家の大黒柱だったもので、これに手をついて歳三は相撲の稽古をしていたそうです。


資料館の隣。幕末の石田村名主の屋敷。

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知ってる?現代っ子「雨ニモアテズ」

2007-07-12 22:45:03 | 日々いろいろ
今日のYahoo!ニュースから。
おもしろい(笑)!
にしても、さっき更新した尾崎の文章とならべると、考えさせられますなぁ。
コンナ現代ッ子ニ ダレガシタ

-----------------------------------
知ってる?現代っ子「雨ニモアテズ」
7月12日8時8分配信 産経新聞


 詩人の宮沢賢治に「雨ニモ負ケズ」という有名な詩がある。東北地方で貧しい農民たちと生活をともにした賢治が、こういう人になりたい、と自分にいいきかせた素朴で力強い詩だ。

 そのパロディーに「雨ニモアテズ」というのがある。賢治のふるさと・岩手県盛岡市の小児科の医師が学会で発表したものだそうである。職業上多くの子供たちに接していて、まさにぴったりだと思ったという。作者はどこかの校長先生らしい。

 雨ニモアテズ 風ニモアテズ

 雪ニモ 夏ノ暑サニモアテズ

 ブヨブヨノ体ニ タクサン着コミ

 意欲モナク 体力モナク

 イツモブツブツ 不満ヲイッテイル

 毎日塾ニ追ワレ テレビニ吸イツイテ 遊バズ

 朝カラ アクビヲシ  集会ガアレバ 貧血ヲオコシ

 アラユルコトヲ 自分ノタメダケ考エテカエリミズ

 作業ハグズグズ 注意散漫スグニアキ ソシテスグ忘レ

 リッパナ家ノ 自分ノ部屋ニトジコモッテイテ

 東ニ病人アレバ 医者ガ悪イトイイ

 西ニ疲レタ母アレバ 養老院ニ行ケトイイ

 南ニ死ニソウナ人アレバ 寿命ダトイイ

 北ニケンカヤ訴訟(裁判)ガアレバ ナガメテカカワラズ

 日照リノトキハ 冷房ヲツケ

 ミンナニ 勉強勉強トイワレ

 叱ラレモセズ コワイモノモシラズ

 コンナ現代ッ子ニ ダレガシタ

 賢治が生まれて100年あまり。そのころ日本中はどこも貧しかった。

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司馬遼太郎 『花神』

2007-07-10 13:28:51 | 



「そなたとこうしているとき、いつも自分の一生というものを感ずる。――季節には寒暖があるが、ひとの一生というのはどうなのだろう。わしの一生は、どうも寒かった。寒い風がずっと吹きつづけていて、いまも吹いている。一生吹いていくような気がする」
――蔵六はこの世を楽しむために生まれてきたのではなく、この世に追い使われるためにうまれてきたような一生で、なにやらそういう息せき切った感じを、寒いとかれはいっているのであろう。
蔵六がイネに言いたかったのは、自分の寒い一生のなかで、イネの存在というただ一点だけが暖気と暖色にみちているということを言いたかったのだが、それをぬけぬけという衒気は蔵六になく、あとは闇の中で沈黙しているだけであった。
「この船は、闇夜も進んでいるのだなぁ」
と、蔵六はふと別なことをいった。和船は夜間の航海ができない。蔵六のこのことばは、この世から自分がいなくなっても自分がこの時期に参加した文明が進みつづけてゆくという意味にも、とりようによってはとれた。
(司馬遼太郎『花神』)

司馬作品に共通してあるのは、人の一生を「寒い人生だから不幸」とか「幸福な一生だから意味があった」とか、そういう感情的な一面だけで決めつけない冷静さ、現実的なおおらかさだ。また、後世に貢献する何事かを成したかどうかもあまり関係はない。

物語は村田蔵六(のちの大村益次郎)が、長州の片田舎で町医者をする百姓の子として生まれ、大坂の緒方洪庵塾にて医学とオランダ語を学び、その知識を買われ宇和島藩上士、幕府教授、そして故郷の長州藩にて軍事総司令官となり、戊辰戦争の終息とともに非業の死をとげるまでを描いている。

大村益次郎というと華やかな人物の多い幕末の中では地味なタイプの主人公なので、読もうかどうか迷う方もいるかもしれませんが、司馬さんは彼を非常に合理的で無骨だが妙な面白みも感じさせる人物としてとても魅力的に描いています。
人が「お暑うございます」と挨拶すると「夏は暑いのがあたりまえです」と顔色を変えず返すような人物。
司馬さんはこういうタイプの人物を描かせると本当にうまい。
また、桂小五郎や高杉晋作も登場しますし、吉田松陰や久坂玄瑞などについても触れられているので、彼らのファンの方も十分に楽しめると思います。ぜひ『世に棲む日日』とあわせてどうぞ。

『花神』という題名ですが、魅力的な題名の多い司馬作品の中でも絶品だと思います。その意味はラスト数ページでさり気なく語られるのみですが、今まで読んできた長い物語が一気に蘇ってきてそして終息したような、なんとも爽やかでそして切ない気分にさせられて、ふと読む手を止めてしまいました。
ちなみにその最終章につけられたタイトルは「蒼天」。『花神』を含めた司馬作品全体に流れるこの澄んだ青空のイメージこそ、私が司馬作品に惹かれてやまない理由です。

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木内 昇 『地虫鳴く』

2007-07-04 22:59:49 | 




善悪も正誤も軸すら世にはない。そのなかで残るものはなんだろうか。



「僕には行きたいところがある。そこからもう、ぶれたくはないんだよ」



「案じられることなんぞ無用だ。俺はなにひとつ満足にできねぇし、理由だって見つからねぇ。なぜここにいるかもよくわからねぇんだ」
どうせこうやって、誰も迷わねぇようなところで一生迷い続けるんだ、と思ったら、急に視界がぼやけてきた。



「今までと同じようにやったらええんちゃいますか。利を見て動くなぞ、そんな器用なこと、ここにおる人たちにはでけへんでしょう。万全を尽くしたらあとは勝ち負け考えず、どーんと己のやり方を貫くゆうのもええもんでっせ。──鳥とか見てるとな、一日中あっちゃ行きこっちゃ行き餌をついばんどるでしょう。まあ麗しき生き物の姿やけどなぁ、たまに、お前ら生き延びるためだけに生きてんのんか、と思うわ。いい餌探して一生終えるんは、人間様にはキツイでっせ」



「うまくいかんかったことを他人に押しつけるのは容易いんじゃが、わしはそれをするのが怖いんじゃ。そういうことを繰り返すと、他人の人生を生きとるような気にならんかのう。わしゃそれが一番怖い。理不尽だとしても自分の関わったことじゃ、受ければいいんじゃ。わしはしばらく、人を怖ぇと思うとった。それが一番苦しかったぞ。でもようやくそこから抜けられるような気がする。ぬしのお陰じゃ。信じねば開けんのじゃな。やはり、世は辻褄がおうておるぞよ」

(木内 昇 『地虫鳴く』)


敵・味方という括りで描かれることの多い伊東派と近藤派の対決を、両者の視点から同時に描いた斬新な作品。
物語は明治32年、史談会で阿部十郎が新選組時代を回顧する場面から始まる。この部分は実在の速記録からうまく引用しており(有名な文章なので読んでピンとくる方も多いはず)、これから始まる物語に現実味と厚みを与えている。
私はこの時点で阿部が主役の話と勘違いし、近藤派は出番がないのではと心配になったのだが、それは無用だった。この物語は誰が主役という描き方をしていない。伊東派、近藤派ともに多くの隊士が登場するが、その誰を悪者にすることなく、ただその時代を懸命に生きた者としてそれぞれの姿を見事に描いている。

善悪も正誤も軸すらない世の中で、人は何を信じて生きればいいのか。
この物語は問いかける。
保身だけを考えるのなら、得のある方に流れていればいい。
だが、人は生き延びるために生きてるわけではない。自分自身の「行きたい処」、自分自身の納得できる理由が必要なのだ。ときに命より大事なものが。
沖田は言う。

「どんどん変わってしまうんだね、世の中は。でもさ、やることがあるんだよね、それぞれに。その理由がさ。それがいつでも時流とまったく一緒だったら気味が悪い。その人の流れがあるからね」

そしてそれは、近藤派も伊東派も、会津も薩摩も長州も、そして現代に生きる私達も同じなのである。
この物語は阿部十郎で始まり阿部で終わるが、自分の信ずべきものを最後まで必死で摸索し続ける彼の姿はとりわけ印象深く心に残った。

読み終えた後、私の「行きたい処」はどこだろう?とふと考えこんでしまった。そして、混迷の時代を必死に生き抜いた彼らがとても愛おしく感じられた。
こういう時代の転換期を必死で生き、そして今はこの世にはいない人たちの姿を、その結果が既に出ている後世の目線から眺めるときにつきまとう不思議な切なさというのは、歴史小説ならではの醍醐味ですね。
新選組を描いた小説は多々あるけれど、イチオシの作品。

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大内美予子 『土方歳三』

2007-07-03 02:19:24 | 



―――近藤さん、一緒に来てくれ。新選組の連中を一人残らず連れて――
馬の速度を上げながら、俺は心の中でつぶやいていた。
行手には、一本木関門が見え、その向こうに箱館の街と、左右に広がる海があった。

(大内美予子『土方歳三』)


『沖田総司』がなかなかよかったので、こちらも読んでみました。

うーん・・・・・・。
決して悪くはないんだけど、焦点がぼやけたまま淡々とストーリーが進み、そのまま終わってしまったような印象でした。
せっかく歳三の一人称で書いているのに、彼の心情を深くまで描きこんでいるわけでもなく。
大内さんがこの小説で表現したかったことは、あとがきによると「近藤と別れた以降の一人の男としての土方の魅力」とのことだけど、私にはそれがぼんやりとしか伝わってきませんでした。
婚約者のおことさんの役割もなんだか中途半端だったし。
小説ではなくちょっと詳しめの人生記録を読んだような読後感、、、。

ただ、上で引用したラストシーンはすごくいいと思った。
いくらでも感動的にできる死の場面を描かず、一本木関門へ馬で駆けてゆくところで切った終わり方は、爽やかな余韻が残っていい。

あと、あいかわらず好感の持てる文章を書く人だなぁとは思いました。
たとえば司馬さんの作品などは、時々意地の悪い人物描写があったり、女性にとって不愉快に感じる言葉が使われたりするのが読んでいて気になるのだけど、大内さんにはそういう部分が全くないから安心して読むことができる。これは女性作家の良さですね。

※写真は函館の碧血碑へ向かう道からの眺め。函館はどこにいても海が見えるのがいい。素敵な洋館も多いし(私は洋館マニア)、大好きな街です。

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