風薫る道

Who never feels lonely at all under this endless sky...?

フィルハーモニア管弦楽団 @東京文化会館(1月24日)

2020-01-26 16:56:47 | クラシック音楽

 

フィルハーモニア管は、2008年にアシュケナージ指揮でロンドンで一度だけ聴いたことがありました。
以前も書きましたが観光気分で行ったプロムスでハイティンク&シカゴ響の演奏に猛烈に感動してクラシック音楽に恋に落ちてしまった私は、勢いでロンドンフィルやフィルハーモニアのチケットを買ったのでありました。指揮者やオケに全く詳しくなかったので、とりあえずロンドンぽい名前のオケを買ってみたのだけれど、結果、どれも肩すかしをくらってしまい。
今思えばシカゴ響と他のオケを比べること自体がおかしかったのだけど、なにせ初生オケ体験だったのでオーケストラというものからはみんな同じような音が出るのかと思い込んでいた(オケが指揮者によって違う音を出すことももちろん知らなかった)。
そんなこともあってフィルハーモニア管が来日しても慎重になってしまっていたのですが、今回試しにサロネン指揮のマーラー9番をyoutubeで聴いてみたところ素敵な感じに端正で凶暴な音が聞こえてきたので「こういう音のストラヴィンスキーが聴きたい」と思い、メインプロ2曲を一度に聴けるお得なこの日のチケットを買ったのでありました。あ、マーラー9番@芸劇も買いましたよ。
この日は7分遅れでの開演でした。

【ストラヴィンスキー:バレエ音楽「春の祭典」】
ああ、やっぱりこの音のストラヴィンスキーは良い
クールさと熱さの同居!凶暴さと美しさの同居!
金管とパーカッションの鋭さ(ティンパニ破れそう笑)、興奮しました~~~。弦はもう少し密度の濃い音を聴きたかった気もしたけれど、このホールのせいもあるのかも。でも東京文化会館の音響はストラヴィンスキーには合っているように感じました。
それにしてもサロネンの指揮姿、すっきりしていてかっこいいなー。姿勢も動作も青年のようだ。

入口で配られたプログラムによると、私が聴いた2008年頃のフィルハーモニアは不調だったそうで。個人的な印象ではオケの音自体が当時から飛躍的に変化したとまでは感じられなかったけれど(そもそも10年前も1回しか聴いてないし)、今回はサロネンの音楽作りが私にはとても魅力的に感じられ、その魅力をちゃんと音で伝えられているフィルハーモニアもよいオケであるのだろうなあと感じたのでした。息もぴったり合っていて良いコンビのように思うのだけど、今シーズンで契約終了なんですね。ちょっと惜しい気もするけど、次のサンフランシスコ響と聴かせてくれるであろう音楽も楽しみです。ご本人、ロサンゼルスに家があるんですよね。お子さん達もあちらにいらっしゃるらしいですし、良い選択なのではないでしょうか。

今日の客席は都民劇場公演にしては珍しく行儀が良くとても静かだったのだけど、それでも私の周囲(格安で譲っていただいたので珍しく2階席)は曲調が変わるたびに無料配布のプログラムを取り出して読み、ソロになる度にオペラグラスを取り出しては覗く人達のオンパレードで・・・。プログラムで確認しながらじゃないと聴けない人達が、奏者をオペラグラスで見て一体何がわかるというのだろう・・・。

そうそう、予習でマリインスキーバレエによるバレエ・リュス版春の祭典をyoutubeで観たのだけれど、ストラヴィンスキーによる音楽以上にニジンスキーによる振付の斬新さに感心し(知ってはいたけど、よくああいう振付が浮かぶものだなあと)、何よりもあれを上演することにしたディアギレフの手腕に感心した。いつか生で観てみたいな、もちろん生オケで。

(20分間の休憩)

【ストラヴィンスキー:バレエ音楽「火の鳥」全曲(1910年版)】

あいかわらず周囲は「曲調が変わる度にプログラムで確認」さんばかりで、確認してもよくわからなかったようで(そりゃそうでしょう)段々飽きてきて指輪を外して眺めはじめたり、寝てカクカクし始めたりな人達のオンパレードだったのだけれど、にもかかわらずこの『火の鳥』、とっても楽しめました。
『春の祭典』に続いての良い意味での凶暴さ!弱音と強音のコントラスト!色彩的な音の楽しさ!にもかかわらずの流れの自然さ!やっぱりこのコンビのストラヴィンスキー、とても好きだなあ。ドライだけど醒めていなくて、激しいけど美しくて。ただ、ところどころヤンソンスさん&バイエルン放送響の表情豊かだったこの曲の音色を懐かしく思い出してしまったのも正直なところではありましたが。
この曲の全曲版を聴くのは初めてでトランペットのバンダがあることを知らなかったので、そして私の席はバンダさんが見えない角度だったので(右サイドの上層階にいらした模様)、突然サロネンが客席を振り返ったときは何事と驚きました。へ~全曲版にはこんな仕掛けがあるのか。すっごい楽しい(バンダ好き)。しかも中盤と終盤に2回も聴ける!
そしてフィナーレのあの輝かしさ たっぷり時間をかけて、サロネン、キザだなあ(跪いてオケに求婚するかに見えた)。でもカコイイぞ。といってだらだら均等に上げていく感じではなく、最後に更にぐわーっと上げるあのドライブ感 最高に幸せな気分になれました。ありがとー
サロネンってその風貌から端正なイメージがあったのだけど、「演奏会を思い切り楽しませてくれる」タイプの指揮者だったんですね。知らなかったなあ。ラトルみたいだなあ。
そういえばこの演奏が終わった後、サロネンがオケにしっかり礼のお辞儀をしてましたよね。指揮者のああいうの、珍しい気がする(コバケンさんはしてたけど)。

【ヒンデミット:ラグタイム(アンコール)】
『火の鳥』が終わって指揮台から降りるときにさっと勢いよくスコアを捲ったので(いちいち絵になる)アンコールやってくれるんだろうな~と思っていたら、やっぱりやってくれた
客席に向かって両手を口にあてて曲名を叫ぶサロネン。
このヒンデミットも、楽しかった!ストラヴィンスキーに続いて、とっても好みなヒンデミットの音!!クールな現代性と熱の同居!!このコンビはきっとこういう曲が得意なのだなあ。

【ラヴェル:マ・メール・ロワより《妖精の園》(アンコール)】
そして再び拍手で呼び出されて、さすがにもうアンコールはないだろうと思っている止まない客席の拍手を軽く手で止めて、楽しそうに笑って「One more, OK?」と。いちいちカコイイ。「Yeah!!!」とはさすがに返さなかったが、みんな大喜びで拍手 
この曲はラトルで聴いているけど、ラトル&LSOのキラッキラのおもちゃ箱をひっくり返したような多幸感に対して、こちらはもう少し大人な感じの妖精の園で、これはこれでよき このしっとりした滑らかな音色を聴いて、マーラー9番も楽しみになりました。

帰りの京浜東北線内はカジュアル服装の楽団員さん達がうじゃうじゃ。ストラヴィンスキーの演奏のここはdifficultとかnot difficultとか色々話していたので興味津々だったけど、サラリーマンさん達の声で聴こえない。旅の栞を取り出して、「明日は朝早いよ」と6時だ7時だと話してるから一体何があるんだろうと思っていたら、なんと翌日(25日)は西宮公演だったんですね。皆さん品川で降りたので、朝イチの新幹線で新大阪へ向かうのでしょうね。ご苦労さまです。。なのに2曲もアンコールをしてくれてありがとう。

そういえばバービカンは新ホールを建てるそうですが、ロイヤルフェスティバルホールは建て替えはしないのでしょうか。今の時代にあの音響はオケがちょっと気の毒な気がする

※追記

フィルハーモニア管のインスタより。
彼らにとっては東京文化会館もsome of the finest concert halls of the worldだったのか。。。

エサ=ペッカ・サロネン、フィルハーモニア管との日本ツアー2020を語る!

Lunch with the FT: Esa-Pekka Salonen (Dec 16, 2014)
 “Many of my colleagues say, ‘Well, you know, music is above or beyond politics,’ ” he continues. “I have the opposite view. I would very much like to be in the centre of the political debate. And I think one of the problems of classical music, or whatever you call it, is that we have been marginalised as part of the uppermost crust of society. We play our Mozarts and our Beethovens, and it’s quite pretty and it doesn’t annoy anybody.”
5年程前のものですが、この記事、面白い(食べ物の描写がやたら多いが。サーモン美味しそう…)。友人でもあるゲルギエフに絡めて語られるサロネンの政治観と芸術観。
本当に向こうの人達のインタビューって率直ですよね、聞く方も答える方も。いつも感心する。
しかし以前ボリショイバレエの来日キャスト(ザハ様)がプーチンさんの肝いりだとか安倍さんが言っていたことがあったけど(こんな舞台挨拶の後に日露政府の人達と同じ客席でジゼルを観させられた私の気持ちを察してくださいまし…)、政治と芸術って永遠に切り離されることのできない宿命のものなのだろうなあと最近改めて思う。
私自身はそれらを切り離すべきとは考えていない人間なので、芸術は雲の上にいて社会に無関心でいるようでは駄目だというサロネンの主張は理解できるし、確かにそう思う。シフやツィメルマンのような行動力も尊敬はしている。芸術を政治の支配下に置かせないようにするためにも、そういうものと能動的に関わっていく姿勢は必要なのだと思う。
でも一方で、そういうものから離れた場所でしか生まれないものもあるような気がする。誰にも気づかれない場所でひっそりと咲いている花のような、そういうあり方の芸術もある気がする。うまく言えないのだけれど。どちらも支持したくなってしまう私は・・・やっぱり卑怯なのだろうなあ・・・。まあサロネンが特に問題視しているのはクラシック音楽の「marginalised as part of the uppermost crust of society」な部分なのだろうけれど。
いずれにしても私にも一つだけはっきりと言えることは、芸術は”人間”に根差しているもので、”人間”から離れては決して存在しえないものだということ。

朝日新聞『オケ×VR、サロネンの挑戦 芸術は崇高、孤高ではない』(2020.1.28)
 テクノロジーが生み出す新たな相互作用に注目している。「iPadには自由に作曲できるアプリがある。子どもたちに作曲してもらい、ネット上でコンクールをやったりしてもいい」。幼い頃、オーケストラによる学校公演を退屈に感じた経験が礎になっているという。「自分も一緒に何かやりたい、音楽に参加したいと思った。あの頃の自分が今この時代にいたら、その夢をかなえてあげられるかもしれない」
 サロネンが見据えるのは、音楽を仕事にしている人々があらゆる「特権」を捨てた先にある未来だ。「指揮者の仕事とは、矛盾するようですが支配ではなく、奏者たちが自由になるためのコンセプトを授けること」
 テクノロジーに触れることによって音楽家たちが、自分たちが社会の一員だということにもっと意識的になってもらいたい、と願っている。「いつの時代も、芸術は最先端の技術と影響を与え合っている。ベートーベンの楽曲がピアノという楽器の発展に大きく寄与したように。音楽家は社会に無関心であってはいけない。安易に価値を下げず、複雑なまま、芸術と一般の人々を出会わせることに、私たちはもっと使命感を抱くべきだと思う
 (中略)
 「私は芸術の未来については楽観的です。問題があるとすれば、芸術を崇高で孤高なものとする音楽業界の『売り方』のみではないでしょうか。私は芸術の力を信じます」



おまけ
東京文化会館に来るときの恒例。シャンシャン
中国へ還ってしまうまでにできるだけ会いに来ようと、年パス(2400円也)買っちゃった。




一巡目


二巡目


父(左)&娘(右)


リーリー(いつもちゃんとポーズとってくれる


シンシン


パンダ舎前のプレーリードッグ


お持ち帰りシャン @演奏会前に上野公園内のスタバ
しかし持ち帰ってから気付いたけれど、このコはシャンよりも彩浜(白浜)に似ていた笑。

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エリソ・ヴィルサラーゼ ピアノリサイタル @神奈川県立音楽堂(1/13)、浜離宮朝日ホール(1/17)

2020-01-25 23:54:39 | クラシック音楽



今年最初の演奏会は、エリソ・ヴィルサラーゼのピアノ・リサイタルを聴きに神奈川県立音楽堂へ行ってきました(13日)
それがあまりに素晴らしかったので、チケットを買い足して浜離宮ホールにも行ってしまった(17日)。計画外の出費だったけれど、後悔はなし。
両日を比べると、13日の方が聴衆のマナーがよく(17日は咳が多かった)、また響きが派手やかな浜離宮ホールより素朴な神奈川県立音楽堂の方がより凄みと深みを感じさせ、今回のプログラムには合っていたように感じました。
でもヴィルサラーゼのあの演奏を2回聴くことができて、本当に嬉しい。13日は舞台向かって左側、17日は右側だったので、鍵盤とお顔の表情とそれぞれ堪能できたのもよかったです

【チャイコフスキー:四季 op. 37bis より 1月~8月】
13日は、椅子に座るか座らないかで弾き始めたヴィルサラーゼ(17日は弾く前に呼吸を整えている感じだった)。
彼女の演奏を聴くのは初めてでしたが、今回のプログラムについてはどの曲の演奏も本当に素晴らしくて、良くないと感じたものが一つもありませんでした。
”ロシア・ピアニズム”というものについて私は詳しくないのだけれど、音の歌わせ方やスケールの大きさ、温かみ、そしてダイナミックさがレオンスカヤによく似ているなと感じました。そして地の底から響いてくるようなあの低音。あの音をこれまで聴いたことがあるのは、ポゴレリッチ、レオンスカヤ、そしてヴィルサラーゼが3人目です。それがロシア奏法と関係あるのか否かはわからない。
「1月:炉端にて」からもうヴィルサラーゼが描く世界にうっとりと聴き入ってしまった。あの音の温かみと深み。チャイコフスキーのこういう温かさが大好きです。先月マリインスキーによる交響曲1番でも感じさせてもらった、ロシアの冬の温かさ。
他の月もどれもみんなよかったけど、「5月:白夜」の白々とした透明感(白夜の空がコンサートホールの天井に広がっているようだった・・・)、そして「6月:舟歌」の孤独と悠久を同時に感じさせるような旋律ではロシアの夜に小舟に揺られながら宇宙に心を遊ばせているような、そんな錯覚を覚えました。ヴィルサラーゼの表現力、素晴らしすぎる・・・。

【プロコフィエフ:風刺(サルカズム) op.17】
プロコフィエフの演奏は、17日も決して悪くはなかったですが、13日の方がより凄みを感じました。ステージの上に物凄いものが出現していた。
サルカズムは、この曲のタイトルである「風刺」の意味を強烈に感じさせられた演奏だった。
風刺というのは大声で何かを批判したり自分の思いを叫ぶのとは全く違うものなのだな、と。自嘲と皮肉と知性で包んで表現されるそのコアの部分の重い暗さ・・・・・。日本の文化にあるそれとは違うロシアという国の凄みを見た。
どの曲も素晴らしかったけど、特に第三曲の表現の深み。そして第四曲の最後の音の、静かであるがゆえの凄みと余韻。もっともここは17日は殆ど余韻をもたせずに第五曲へと繋げていました。

【プロコフィエフ:トッカータ ニ短調 op.11】
サルカズムが終わると「拍手はまあお待ちなさい」という風に掌を蓋にかざして客席を制し、そのままトッカータへ。
これが物凄かった。
この曲はユジャ・ワンで聴いたことがあるけれど、全く違う曲に聴こえました。長いスパンでクライマックスを築き上げていく見事さはどちらも同じだけれど、ヴィルサラーゼのそれは完全に「音楽」になっている。
例の地の底から響いてくるような音でじわじわじわじわと始まりから終わりへと向かっていくあの凄み・・・・。
その音が全く機械的じゃなく、音楽そのものが語っている。といって感情的というのとも違って。
その現代性と人間味のバランス。
目の前でプロコフィエフ本人が弾いているように感じられました。
いやあ、凄かった。それしか言えない。

(休憩20分)

【シューマン:ノヴェレッテ op.21 より 第8曲 嬰へ短調】 
【シューマン:幻想曲 ハ長調 op.17】

休憩前には目の前でプロコフィエフが弾いているようにしか見えなかったのに、今度はシューマンが目の前で弾いているようにしか感じられなかったことに吃驚。
ヴィルサラーゼがシューマンに見えるというのもおかしなことなんだけど、彼女から生まれる音楽がシューマンの根っこのところに根差していると感じさせる、その強烈な説得力。これはレオンスカヤのシューベルトの『さすらい人幻想曲』を聴いたときに感じたのと同じ感覚でした。演奏が「この曲そのもの」に聴こえる。全ての音が自然で、どんなに曲調が変わっても全てが「シューマン」に聴こえる。シューマンという人間を感じる。表面的な「シューベルトらしい演奏」「シューマンらしい演奏」というものとは別次元の、彼らの魂から聴こえるような音楽。
そしてとてつもなく美しいんだけど、賑やかなところでさえもどこか透明で寂しい音がする彼女の演奏を聴いて、シューマンの音楽の独特な美しさが少しわかったような気がしました。
シューベルトの親密さとも、ベートーヴェンの大きな人間愛とも、ブラームスの内省的な音楽とも違う。
決して内向的なわけではない、音は内側に向かっていないし積極性も温かみも感じさせるのに、不思議と外の世界とは繋がっている感じがしない、「彼の世界」のスケールの大きさを感じさせるというか。
シューマンの音楽にファンタジーという言葉がよく使われるのはそういう理由もあるのかな、と。
そしてこれは深読みしすぎと言われてしまうかもしれないけれど、こういう音楽を作る人が長生きできるわけがない、とも感じたのでした。
例えばブラームスの音楽には地に足がついた現実的な部分も感じる。それはきっとこの世界を生きていくために必要なもので、それゆえの美しさがあって。でもシューマンにはそれが欠けているような。そしてこちらにも、だからこその美しさがあって。

いずれにしても、ハイティンクが『マーラーを語る』の中でマーラーについて「彼の音楽を聴きましょう、すべてはその中に」と仰っていたように、どんな伝記や研究書よりも今目の前で弾かれている彼の音楽以上にシューマンを語るものはないに違いない、と強く感じた演奏でした。
最後は長い長い静寂。
今回のリサイタルのチケット代は13日が6千円で17日が9千円だったけれど、特に幻想曲はこの曲を2回聴くためだけにこの金額を払っても全く惜しくないと感じた演奏でした。

アンコールは、13日がシューマン1曲、17日がショパン2曲。

【シューマン:『森の情景』op.82 より第7曲「予言の鳥」(1/13 アンコール)】
この演奏がまた、メインプログラムのシューマン2曲に劣らず素晴らしくて・・・・・。深い深い森の中に一人彷徨い歩いているような、そんな感覚にさせられる演奏でした。
なので13日のリサイタルが終わった後は私の心はずっと深い森の奥に取り残されたままで、こちらの世界に戻ってくることができなくて、それもいいかなと思ってしまっている私もいて。

【ショパン:マズルカ 第45番 Op.67-4 イ短調(1/17 アンコール)】
【ショパン:ワルツ 第2番 華麗なる円舞曲 Op.34-1 変イ長調(1/17 アンコール)】
17日のアンコールはショパン。もう一度あの『予言の鳥』を聴きたかった気もしたけれど、最後にこちらの世界に戻してもらえて、やっぱりちょっとほっとしました笑。
このショパンも、2曲とも素晴らしかった。マズルカ、スタインウェイであんな暗く深みのある音色がでるなんて・・・。そしてワルツの温かな華やかさ!

両日ともサイン会あり。CDがなくても無料のパンフにもサインしてくださるという気前のよさだったけれど、私は「捨てられない物」はできるだけ持たないようにしているので(心の財産だけで十分)、並びませんでした。でも握手だけはしてもらいたかったなー。「サインはいらないので、握手だけお願いします」とも言いにくく。

4月のテミルカーノフ&サンクトペテルブルクフィルとのシューマンの協奏曲も聴きたくなってしまったけれど・・・・・お財布が・・・・・。うー・・・・・・。悩ましいです。

でも今回のヴィルサラーゼのリサイタルは本当に一生ものの宝物になりました。
そして演奏だけでなく、ヴィルサラーゼという人の高潔な空気も素晴らしかったな。その演奏を聴いていると、そして舞台の上の彼女を見ていると、この人は私なんかよりずっと精神的な次元の高いところで生きているのだなと感じて、すごく良い「気」をもらうことができました。そんな気高さと、演奏後やサイン会での気さくな笑顔(横から拝見していた)のギャップも素敵だった

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キング牧師の日

2020-01-20 21:05:49 | テレビ

Martin Luther King's Last Speech: "I've Been To The Mountaintop"


We've got some difficult days ahead. But it doesn't really matter with me now. Because I've been to the mountaintop. I don't mind.
Like anybody, I would like to live - a long life; longevity has its place.
But I'm not concerned about that now.
I just want to do God's will. And He's allowed me to go up to the mountain.
And I've looked over. And I've seen the Promised Land.
I may not get there with you. But I want you to know tonight, that we, as a people, will get to the Promised Land.
So I'm happy, tonight.
I'm not worried about anything. I'm not fearing any man.
Mine eyes have seen the glory of the coming of the Lord.

前途に困難な日々が待っています。でも、もうどうでもよいのです。私は山の頂上に登ってきたのだから。
皆さんと同じように、私も長生きがしたい。
長生きをするのも悪くないが、今の私にはどうでもいいのです。
神の意志を実現したいだけです。
神は私が山に登るのを許され、
私は頂上から約束の地を見たのです。
私は皆さんと一緒に行けないかもしれないが、
ひとつの民として私たちはきっと約束の地に到達するでしょう。
今夜、私は幸せです。心配も恐れも何もない。
神の再臨の栄光をこの目でみたのですから。

(April 3, 1968, at the Mason Temple in Memphis, Tennessee)


今日はキング牧師の日なのだそうです。
なので以前ご紹介したことのあるこの映像を再掲。
二十世紀が終わる頃、TVでは激動の100年を振り返る番組がいくつも放送されていました。
なかでも特に秀逸だったのが、1995年にNHKが作成したドキュメンタリー『映像の世紀』。
私がキング牧師の最後のスピーチを初めて見たのは、このドキュメンタリーででした。
あのときTVから受けた衝撃は、今も忘れられません。
有名な"I Have A Dream"の映像は何度も見たことがありましたが、この映像を見たのはそのときが初めてでした。
キング牧師の1968年4月3日、暗殺される前日の演説です。
なんという表情でしょう。
なんという説得力でしょう。
演説を終えた後の、すべてを言い切ったというような、生き切ったというような、そんな姿も印象的でした。
キング牧師はこのとき39歳。

Martin Luther King - I Have A Dream


One day we will have to stand before the God of history, and we will talk in terms of things we've done. ……It seems I can hear the God of history saying, "That was not enough! But I was hungry, and ye fed me not. …
(August 28, 1963, Washington D.C.)

そしてこちらは、1963年8月28日の有名な"I Have A Dream"(私には夢がある)の演説。
キング牧師の生家があるジョージア州アトランタも、この演説が行われたワシントンD.C.のリンカーン・メモリアルも、20歳のときに初めて訪れました。三ヶ月間の交換留学をしていたときです。
アメリカって世界の嫌われ者のようなところがありますが、以前も書いたことがありますが、私は誤ったことが行われるときに必ずはっきりと「NO」と声を上げる人間が現れるこの国のそういう面が好きでしたし、それは今でも私の中でひとつの指針となっています(何をもって「誤ったこと」とするか、という問題はまた別にありますが)。
私自身が黄色人種としてアメリカ人から露骨な差別を受けたことが幾度かありましたが、多くの場合それに即座に「NO」を突きつけてくれた人達もまたアメリカ人でした。どちらも私の知人ではない通りすがりの人達でした。
あれから23年。
私自身は少しは成長できたのだろうか、と振り返る日にもなったキング牧師の日でした。

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