風薫る道

Who never feels lonely at all under this endless sky...?

片岡秀太郎さん

2021-05-27 14:20:06 | 歌舞伎

©松竹

 舞台に出てくると、それだけで上方のにおいが立ち込めた。・・・
 上方歌舞伎とともに生きた人生であった。戦後、経済や文化の東京一極集中などさまざまな要因で、関西での公演が激減。多くの俳優が東京に移り住んだ。秀太郎さんの本拠地での活躍の機会は失われていく。
 それでも秀太郎さんは関西を離れなかった。父、十三代目仁左衛門さんの志を受け継いだこともあろう。東京に誘われたこともあったが、「私はここで歌舞伎をやっていく」と関西に残った。「大阪や京都の町や人が好きなんです」と。・・・
 上方歌舞伎は情の芝居。秀太郎さんはその情を体現した生粋の上方の役者であった。
2021年5月27日 産経新聞


秀太郎さん、亡くなられたんですね…。
23日に亡くなられて、今日松竹が発表とのこと。
今月5日までお元気にブログを更新されていたのに。79歳はまだ若いよ…。

お父様が長生きされたので、松嶋屋ご兄弟は皆さん長生きされるのだろうと、何故か思い込んでしまっていました。
先日歌舞伎座で六段目を観ながら、魁春さんのお才もとっても素敵だけれど、秀太郎さんの上方の廓の空気を感じさせるお才も素晴らしかったなあ、と思い出していたところでした。
お才について秀太郎さんは2009年のブログで「何度か演じていますが、仁左衛門の勘平では初めてです。京都・祇園町の置屋(遊女や芸妓を抱える店)の女将ですが、原作では才兵衛と云う置屋の主人を歌舞伎では女将に置き換えています。ともすると重く成り兼ねないところを、男性を女性に置き換えて、はんなりとした雰囲気を醸し出す、歌舞伎独特の演出です。酸いも甘いも噛み分けたお人よし。情もあり、それでいて人の扱い方も上手く、仕事はしっかりこなす女将で、私の好きなお役です。」と。
こういうお役が秀太郎さんは本当にお似合いだった。『吉田屋』のおきさも、『封印切』のおえんも。一方で、当たり役と言われていた梅川も、是非観てみたかったな…。
藤十郎さんに続いて、上方の空気を体現できる役者さんがまた一人いなくなってしまい、上方歌舞伎はもう瀕死状態といっていいのでは…(秀太郎さんの存在は私の中では最後の砦のように思っておりました)。

でも泣き言ばかり言っていてはいけませんね。
以下は、藤十郎さんが亡くなられた昨年11月の、秀太郎さんのブログ記事。
「私が尊敬する最後の先輩でした。普段も とても明るく、舞台は華と上方の芸が身体全体に染み込んだ、二人として出ないであろう大好きな兄さんでした。今は弟たちの世代から菊之助〜尾上右近、おおくの精鋭たちが活躍していますが、歌舞伎の質もどんどん変わっています。荒事はともかく、歌舞伎の基礎である上方歌舞伎を守り続けて下さった山城屋の兄さんが身罷られ、私一人、姥捨山に置き去りにされた気持ちです。とは言え成駒屋兄弟や御子息の壱太郎さん、それに虎之助君、上方歌舞伎塾の卒塾生たちがいます。私も泣き言ばかりいわず、与えられた命を彼らの為に尽くし、多くの先輩方の御恩に報わねばと思います。」

秀太郎さんの舞台を最後に拝見したのは、2019年6月の仁左衛門さんの『封印切』でした(冒頭の写真はそのときの舞台より)。
もう松嶋屋三兄弟の舞台を拝見できることは二度とないのだな…。
茶屋の戸口に立っておえんが忠兵衛にかける最後の台詞、「お近いうちに」。あの声、あの立ち姿、あの眼差し。

数えきれないほどの舞台で秀太郎さんが感じさせてくださった歌舞伎の空気。忘れません。
心からご冥福をお祈りいたします。

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高知のカツオ

2021-05-16 01:54:29 | 旅・散歩

同じカツオが同じでない。「なぜ高知で食べるとおいしいの?」。県外の観光客が驚く。ごく身近なスーパーでも新鮮な刺し身やたたきに出会える。・・・捕る人、売る人、食べる人。3者の力がこれほど高いレベルで保たれているのは、世界を見渡しても、高知のほかにない。・・・「高知の人は子どもの頃から食べている。質の高い味覚が受け継がれ、品質も淘汰されていく」と説明。
読売新聞:30年前は「安い魚」だったのに…高知のカツオが「特別な存在」になった「契機」

「同じカツオが同じでない」。
私の経験から、これは本当
親戚がいるので子供の頃から食べているけれど、高知の鰹は関東のスーパーで売っている鰹とは完全に別物。高知で食べるのはもちろん美味しいけれど、真空パックの冷凍で送ってもらう鰹でも生臭さが全くない。
それと、タレに使う酢みかん。定番の柚子もいいですが、高知の日曜市で買えるぶしゅかんや直七の柑橘酢は本当に美味しいです。

”江戸の鰹”も浮世絵にも出てくるし歴史は古いはずだけど、やっぱり高知の鰹は特別に美味しいのだよなあ
東京でも土佐料理の店や、銀座にある高知のアンテナショップのレストランの鰹のたたきは美味ですよ。厚切りなのに臭みがないの😋 早くコロナ落ち着いてくれ~~~

家で食べるときは、私は醤油を使わずに鰹のたたき、みょうが、細葱、玉葱の薄切り、にんにくの薄切り、穀物酢、柑橘酢、水、塩、砂糖を和えて食べるのが好きなんですが、、、ちゃんとしたレシピを探そうと思ってネットで検索しても一件もヒットしない。あれ~・・・?敢えて言うなら酢〆と塩たたきの間な感じ?こんな食べ方してるのは私だけなのだろうか。

高知はお酒も美味しいよ
佐川町で作られている純米酒「司牡丹」は吉田茂が愛飲していた酒で、先日行った大磯の邸宅の棚にも酒瓶が展示されていました。

戦後日本復興の立役者、「ワンマン宰相」吉田茂首相もまた、土佐が生んだ偉人でありますが、彼の著書「世界と日本」の中には「味のお国自慢」として以下の文章があります。『先年、はじめて選挙に出ることになって高知へ渡った際、「土佐の酒はまずいから、よい酒を東京から持っていこう」と語ったことがある。これを伝え聞いた選挙区の有志たちから「土佐には自慢の酒がある」と叱られた。なるほど、土佐に着いて飲まされた酒は上等だった。「司牡丹」という名の酒で、以来その酒を愛用している。』昭和35年、遊説のために来高した吉田元首相は、司牡丹酒造を訪ね、当時取締役会長であった竹村源十郎と快談しました。この時、現会長の竹村維早夫が撮った記念写真と吉田元首相揮毫の色紙は、今も社宝として司牡丹酒造に所蔵されています。
司牡丹酒造公式ページ

実父が土佐出身で自身も高知県から立候補したけれど、吉田茂自身は東京で生まれて横浜の貿易商の養父のもとで神奈川で育ったので「高知が生んだ偉人」は少々言い過ぎな気がするけども
佐川は昔行ったことがありますが、酒蔵の白壁が趣があって素敵な町でした。宮尾登美子さんが小説『蔵』を書いたきっかけも、司牡丹の酒蔵の雰囲気に憧れたからだそうです。

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映画『タイタニック』と『銀河鉄道の夜』

2021-05-15 01:02:00 | 映画

 

このアニメ映画のジョバンニの「どこまでも一緒に行くよ」は、『タイタニック』の「あなたを忘れない」という台詞と響き合っている。残されたものは、先に逝ったものから何かを受け取っている。それを忘れない限り、死者は死ぬことはないのである。

(「タイタニック」の悲劇はなぜ『銀河鉄道の夜』に描かれたのか 一人の日本人乗客が結ぶ2つの“残されたものの物語” @文春オンライン


いい記事↑。
猫版アニメ映画『銀河鉄道の夜』の音楽を担当した細野晴臣さんは、タイタニック号の生き残りの日本人のお孫さんだったんだね。

映画『タイタニック』が日米同時公開された1997年12月、私は大学3年生でした。ご存じのとおりこの映画は日本でも空前の大ヒットで、映画館へ何度も足を運ぶ人が続出。
私が初めて観たのは翌1998年の2月だったかな、日本ではなくハワイの映画館ででした。
春休みを利用して北米の複数都市を周遊したのですが、ホテルはエイビーロード(懐かしいねえ)に掲載されていた旅行会社を通じて予約していて、ノースカロライナとかナイアガラとかは問題なく旅したのだけど、ラスベガスのホテルで突然「予約は入っていませんよ」と言われ。ホテルを予約した旅行社がその日倒産し、私達の予約も勝手にキャンセルされていたんです。代金は旅行社が持ち逃げですよ。ひどい!当時はスマホなんてなく、ホテルから旅行社に電話しても誰も出ない。親に電話して初めて、その旅行社の倒産が日本でニュースになっていることを知ったのでありました。
最後に寄ったワイキキのホテルも当然キャンセルされていて、仕方なく予約をとり直しました。
そんなこんなあった旅行でしたが、パニクりながらもさほど身体的&精神的ダメージを受けずに飄々と旅行を続けていたのは、若さゆえだろうか。せっかくアメリカに来ているのだから楽しまなきゃ損、と私も友人も思っていたことは確かです。

で、そのとき映画『タイタニック』はまだ公開二ヶ月目だったのでハワイでも上映されていて、日本で既に一度観ていた友人が「観たい!」とのことだったので、ワイキキの映画館で観たんです。レイトショーだったので空いていたけど、現地のアメリカ人らしき人達も数組いました。
でね、英語が完全には聞き取れないながらも私は「うわぁ・・・」と大感動して観ていたら、傾く船の甲板でカルテットが讃美歌を奏でる例のシーンでアメリカ人達がゲラゲラ爆笑したのですよ あの場面で爆笑するって信じられます???「こいつらの感性って一体」とゲンナリですよ。しかし映画が終った後に彼らを見ると、ポロポロ泣いてるんですよ。アメリカ人って・・・。

まあそれはそれとして映画にはすごく感動して、夜の海沿いを友人とホテルまで歩いて帰ったのですが(よい子はマネしちゃだめですよ)、生温かい風が吹いていて、波の音がしていて、それが『タイタニック』を観た直後だったのでなんともいえない気分になったのを覚えています。そしてそれは今振り返ると『銀河鉄道の夜』から受ける空気とどこか似ていたな、と。
それは『銀河~』の中にタイタニック号のエピソードが出てくるからというよりも、あの南の島の生温かい風と夜の空気と波の音の中で、夏の夜の死者達の物語である『銀河鉄道の夜』と、氷山の海に沈んだ死者達の物語である『タイタニック』の世界がどこかで繋がっていたような、そんな感じを覚えるのでした。そういえば吉本ばななさんの『アムリタ』も、同じ空気だな。

以上、今夜の金曜ロードショーは観ていませんが、23年前を少しだけ懐かしく思い出させてもらいました。
ちなみに文春のこちらの記事にある「幻の3つ目のエンディング」はニコ動で観られますが、この記事に書かれてあるのと同じように、私もラストシーンは劇場公開版の方が断然好きだな。それにしてもこの頃のレオ様の無敵さよ。。。。
私レオ様大好きなのに、どうしてロンドンのレスタースクエアで「もう少しでレオがここに来る」と聞いていたのに待たないで家に帰ってしまったのだろう。私のバカバカバカ。悔やんでも悔やみきれん。あのときは頭痛がひどくて少しでも早く家に帰って横になりたかったのよ。あと、どうせ見られても豆粒ほどでしょ、と思っていたのよ。そしたら後日に同じ場所でローリング・ストーンズを目の前50センチくらいで見られて(ファンの友人はミックに触れていた)、「ああ、レオ様をこの距離で見られたかもしれなかったのか・・・」と。。。。。。。
ハワイの思い出とともにロンドンの痛恨の思い出まで蘇ってしまった。

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私たちは春の中で

2021-05-11 21:34:30 | 旅・散歩




4月の歌舞伎座の感想とか色々書きたいことはあるけれど、仕事が忙しく余裕がなくて、なんとなく日々が過ぎてしまっています。

先日TVをつけたら、サバンナのチーターの番組をやっていたんです。群れの元リーダーだったオスが色々あって群れの下位に落ちるんですよ。で、昔は弱かったチーターから情けをかけられて優しくされたりもするのだけど、彼には昔のプライドが残っているのか、せっかく優しくしてくれる仲間のチーターに嚙みついたりしちゃうんです。そして現リーダーから怒られてしまう。その場面しか観ていないので、その後どうなったかは不明なのですけど。

動物にもプライドというものがあるのだなあ、と。それは人間の持つプライドと同じものなのだろうか。
人間という生き物が持つ感情の中で最も厄介なものの一つは、「誇り」というものではなかろうか、と思うことがあります。
自分自身のことだけではなく、様々な人達を見ていてそう思う。
どんなにのろまであったり、あるいは世間的に底辺と呼ばれる生活をしている人であっても、いつも顔を上げていたい、人から笑われたり恥ずかしい思いはしたくない、何かに怯えることなく生きていたい、という感情は必ずあるはずで。それは自分で捨てようと思って捨てられるものではないと思うし、捨てる必要もないものだけれど、でも、とても厄介な感情だ。捨てることができればどんなに楽か。
自殺をしてしまったり心が病んでしまう人は、自分で自分自身のことがどうしようもなく嫌いになって、自信を失くして、他の人と同じように生きられない自分が辛くて、消えてしまいたくなって、死を選んでしまう、あるいは心が病んでしまう、そういう人も多いのではないだろうか。

私たちは春の中で 遅れることに怯えていた

中島みゆきさんの「私たちは春の中で」。

もしも1人だったならば 
もしも孤独だったならば
もしも虚ろだったならば
もしも自由だったならば

(こんな風に苦しまずに済んだのに)、そんな言葉が後に続いて聞こえる気がします。
そうではないから、そうなれないから、なりたくはないから、人は苦しむ。
でももしそうであることができたとして、私達は幸福なのだろうか。
京極夏彦さんの『魍魎の匣』や『嗤う伊右衛門』のあのラストシーン。「人」であることをやめて、「幸福」になった人達。ずっと終わることも巡ることもない永遠の春の中で生きる人達。
だからどうというわけではないし、答えなんて出ないのだけれど。

私たちは春の中で 失くさないものまで失くしかけている



「私たちは春の中で」が主題歌の『大いなる完』は田中角栄元首相をモデルにした映画だそうですが(私は未見)、この写真は大磯にある吉田茂元首相の邸宅です。GWに地元の魅力再発見ということで行ってきました。同じ県内でも江の島や鎌倉は大混雑だったようですが、大磯はガラガラでした

近代の大磯は軍医・松本順によって海水浴場が開かれ、政財界や華族、文士など様々な人々が集う別荘地として発展してきました。

吉田と大磯とのつながりも明治までさかのぼります。茂の養父であった健三が、明治17年(1884)大磯町の西小磯に土地を購入し、別荘を構えたのがはじまりです。健三亡きあと、吉田家唯一の継子であった茂は健三の財産を受け継ぎました。

吉田は養父が築いた莫大な財産を外交官時代に使い果たしたといわれていますが、それでもこの大磯の邸宅は手放すことがありませんでした。

総理大臣時代、激務だった吉田の気分転換は、週末を大磯で過ごすことだったといいます。吉田自身が言うように、大磯の開かれた海、明るさ、暖かさは、戦後日本のかじ取りという大きな使命を担った吉田を癒しました。

昭和20年(1945)頃より、吉田茂は大磯を本宅として暮らすようになりました。

昭和29年(1954)内閣総理大臣を辞任し大磯に隠棲したのちも、吉田のもとには政財界の要人を筆頭に様々な人々が訪れました。吉田邸を訪れる人が絶えないために「大磯詣(もうで)」という言葉ができたほどです。

また、吉田は自身の邸宅を海外の賓客を迎えるための迎賓館として改築し、世界各国からの賓客を多く受け入れました。
(公式サイトより)



母屋は2009年に火事で焼け2017年に再建されたものですが、サンルーム(写真右奥)は焼失を免れたためオリジナルだそうです。


「金の間」(賓客のための応接室)からの眺め。
右を向けば雪を頂く富士が見え(写真右奥の雪山が富士山。少し雲がかかっていますが。)、


左を向けばキラキラと光る相模湾。
吉田茂はこの部屋から見える富士山を大層気に入っていて、毎日のように眺めていたそうです。
そりゃあこんな眺望の部屋が自分の家にあったら最高だよねえ。
でも一緒に行った友人はこういう家は好みじゃないそうで、住むなら同じ大磯にある質素な島崎藤村邸の方がいいそうです(笑)。とはいえ藤村も当時のサラリーマンの約30年分の給料の値段であの家を買ったそうですが。
上の写真に写っている礎石部分は、再建されていない部分(全体の3分の2が再建されているそうです)。
ダイヤルのない首相官邸直通の黒電話が置かれたプライベートの書斎(掘り炬燵の和室)や、大磯の船大工が作ったという舟形の風呂、広い庭園には吉田茂が飼っていたワンコ達のお墓などもあり、何気に見所は多いです。
吉田茂は1945年頃から20年以上この家を本宅として暮らし、1967年にここで亡くなりました。その寝室も見学できます。

死去前日の10月19日に「富士山が見たい」と病床で呟き、三女の和子に椅子に座らせてもらい、一日中飽かず快晴の富士山を眺めていたが、これが記録に残る吉田の最期の言葉である。
(wikipedia「吉田茂」)


邸内では、ただいまこんな↑パネル展が開催中。このデレデレな表情 
吉田茂は大のワンコ好きだったそうで、周囲からはワンマン宰相ならぬワンワン宰相と呼ばれていたとか。
展示では、自作の「ワンちゃんのアルバム」(←本当にそういう名前。可愛いつき)などを見ることができます。
サンフランシスコ講和会議の際にはケアーン・テリアという珍しい犬種のつがいを連れ帰り、つけた名前は「サン」(♂)と「フラン」(♀)。二匹の間に生まれた仔は「シスコ」。他に「ブランデー」、「ウィスキー」、「シェリー」なんていう名前の仔も

吉田茂邸の近くには伊藤博文、大隈重信、西園寺公望、陸奥宗光、山縣有朋などの邸宅やその跡地が一ヶ所に集中して残っていて、「明治記念大磯邸園」として整備が進められています。
大磯は空気が開放的で時間がゆっくりと流れるとてもいい町なので、ご興味のある方はコロナが落ち着いた頃にぜひ



今回訪れた場所の中で唯一密だった(といってもこの程度ですが)のが、こちらのパン屋さん。大磯駅からすぐ近くにある、アメリカ人女性がオーナーの人気のパン屋さんです。
自分用に買って帰りましたが、良い意味で個性的な味で、とっても美味しかったです

吉田茂と旧吉田茂邸について
邸内各部屋のご案内

旧吉田茂邸 邸内紹介編



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