風薫る道

Who never feels lonely at all under this endless sky...?

谷川俊太郎 『虚空へ』

2022-01-29 04:46:21 | 



少しお久しぶりです。
新年明けまして、と書くには既に今年の12分の1が終わってしまった
年末にようやく一年が終わってほっとして、一年頑張って生きた自分を褒めてあげたくて、そしたら一夜明けてまた365日が始まってしまうなんて。生きるってなんてメンドクサイんだろう。

先ほどNHKのSONGS総集編のみゆきさんのラスト・ツアーのドキュメンタリー映像を見ていたんです。コンサートの一曲目は『一期一会』だったんですね。
忘れないよ 遠く離れても
短い日々も 浅い縁も
この一節でもう号泣。いや号泣は大袈裟ですが、涙がこみ上げました。
そして、『誕生』。
Remember 生まれたこと
Remember 出逢ったこと
Remember 一緒に生きてたこと
そして覚えていること
昔この曲を初めて聴いたときの涙ポイントは「けれどもしも思い出せないなら」の部分だったのだけど、もちろんそこも大好きだけど、今はこの「そして覚えていること」が胸に沁みます。
これは先日谷川さんの詩について書いたことだけれど、谷川さんやみゆきさんがこの世界にいてくださっただけで、その作品に出会うことができただけで、それだけで私の人生は十分に幸運だったと感じられる。

年明けに、谷川さんの新作の詩集『虚空へ』を読みました。
本屋さんに行ったのは昨年だったんですけど、なんと置いてない 三省堂書店ですよ いくらオフィス街とはいえ三省堂が谷川さんの新作を置かないって、あり得ますか そもそも文学&詩のコーナー自体がほんのちょびっと、申し訳程度にしかない。売り場の95%が実用書です。これが日本の現状。
そんなわけで取り寄せてもらい(図書カードを使いたかったのでネット購入はできなかった)、ようやく手元に届いたのでありました。冒頭に載せたのは、その帯の画像。
詩集の感想は某所にレビューを投稿したので、横着してそのまま下に載せさせてください。

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詩人でありながら、詩人だからこそ、常に言葉を疑い、言葉にできないものを言葉で表現されてきた谷川さん。夥しく言葉が氾濫する今の世の中だからこそ、できるだけ少ない言葉で詩を書きたいという谷川さんのお気持ち、痛いほどわかる気がします。少ない言葉でしか表現できないものがあることを、この詩集は教えてくれる。
今回の詩集は、谷川さんの今を強く感じることのできる詩集です。そこには人生の終盤にある詩人の心が滲んでおり、これまでと同様の透徹した眼差しや飾らない率直さゆえに静かな凄みさえ感じさせ、読み終わった後、しばらくその空気が後を引きました。

※追記
2021年3月の糸井重里さんとの対談を読みました。谷川さんはリアルな”現場”に根差した職業の方達の言葉と詩人であるご自身の言葉を比べて「詩にはリアルは言葉しかない」と、「じゃあ俺の現場はどこなんだってことになっちゃう」と仰っています。またこの詩集にも詩人の現場についての詩があり、「身を怠って 心は迷う」とあります。ですが私にとっては、谷川さんの詩の現場はこの世界そのものに感じられ、そこから生まれ出た詩は他のどの現場の方達の言葉とも同じかそれ以上にリアルなものに感じられます。少なくともその詩は私という一人の人間の、いつか「誰の哀しみの理由にもならずに宙に帰る」であろう私の今を励まし、自死を思いとどまらせる力を持っています。谷川さんが常々仰っている「言葉には意味が伴ってしまう」「言葉は嘘をつく」というのは私も同意ですが、それでも詩人は言葉を武器に、この世界を現場に、ここで生きるしかない私達の日常を豊かにしてくれる素敵な職業だと思います。
「詩は道端に咲いている野の花のようであればいい」と仰る谷川さん。谷川さんの詩もいつも静かにそこにあり、この世界の美しさを私と共に感じてくれて、そしてどんな声高なメッセージよりも強く今日も生きようと思わせてくれる。私にとって、そんな存在です。

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谷川俊太郎、詩人の命がけ。 - ほぼ日刊イトイ新聞(2012年4月)
谷川俊太郎 詩人の気持ち。 - ほぼ日刊イトイ新聞(2021年3月)


ところで上記2012年の対談で、谷川さんはこんな風に仰っています。
「現代詩はみんな、韻文を忘れて、意味にかたよっちゃった。日本語にもけっこう豊かな音楽性があるんだけど、それを無視して、意味だ、意味だ、ということでやってきちゃったわけです。」
日本語の”意味”を離れた音楽性は、たしかに昔の日本人は日常的に持っていたものですよね。たとえば文楽の浄瑠璃にも、日本語の音楽性をすごく感じることができる(浄瑠璃の場合は”意味”を完全に離れているとは言えないけれど)。明治・大正期までの文学にもそういうものが多い。江戸の名残なんでしょうね。散文と韻文の境が曖昧で、言語の音楽性を自然に表しているような。泉鏡花や、谷川さんが解説を書かれている中勘助の詩などもそう。
最近は広告のコピーやポピュラー音楽の歌詞も散文的なものが多すぎるように感じます。それでも数年前よりはほんの少しマシになったかな。そうでもないかな。
きっと今の日本人は詩を特別視しすぎているのではないかしら。もっと日常の中に詩があると素敵だと思うんですよね。散文じゃなくて詩が。ただし上質な詩が。
特別視といえば、クラシック音楽もそうで。デパートのBGMで流せばいいという意味ではなく(あれは最悪)、例えばバッハのソナタやパルティータなんて、イヤフォンで街路樹の街中を散歩しながら聴いたりすると最高なんですけどね。世界の全てが鮮やかに感じられて。谷川さんは車の運転をしながら流れる景色の中でクラシック音楽を聴くのが好きだと以前エッセイに書かれていたけれど、それも同じ感覚ではないかなと想像する(追記:車のスピード感で次々移り変わる景色の中で聴くのが好きなのだそうです。別のインタビューより)。ちなみにそのエッセイの中にある、谷川さんが好きな曲を編集して車の中で流していたら友人の武満徹から「おまえの好きな音楽はみんな賛美歌みたいだ」とからかわれたというエピソードが好きです
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