風薫る道

Who never feels lonely at all under this endless sky...?

ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団 @みなとみらいホール(11月9日)

2017-11-14 03:04:02 | クラシック音楽




「繰り返しではなく、毎回が新しい始まりでありたいと願っています。音楽家は、やはり探究者なのです。新しいものに到達することを目指して、だが、永遠に果てしがない。指揮者はオーケストラと手を取り合って、その道を進んでゆくのです」

(インタビューより)

ゲヴァントハウスの来日公演のうち、みなとみらいホール、サントリーホール、NHKホールの3つに行ってきました。

首都圏初日のみなとみらいホールは、翌々日にサントリーホールで同じプログラムが演奏されるためか、あるいは今月の来日オケラッシュのためか、これまで行ったことのあるどの演奏会よりも空席だらけでございました。P席(オケの視点)から見ると、もう本当にガラガラ。とにかくガラガラ。1階席でちゃんと埋まっていたのは前方真ん中ブロックだけで、前方左右ブロックと後方全ブロックは一人も座っていない空席。全体でも多く見積もって4割くらいだったのではないでしょうか。開演直前になってもそんななので、近くの席の高齢の男性が「なんだこれは、こんなにガラガラで演奏を始めるのか・・・」と呟いておられました。
でも、これではオケのやる気が削がれるのでは、という心配は私は殆どしていませんでした。本当に真摯な音楽家ならどんなに聴衆が少なくても最高の演奏をしようとしてくれるであろうことはこれまでの演奏会で知っていますし、きっとブロムシュテットさんはそういう指揮者に違いないと感じていたからです。


【ブラームス:ヴァイオリン協奏曲
ニ長調op.77
今回のツアーはゲヴァントハウス管弦楽団の創立275周年のアニバーサリーツアーで、演奏される作品は、全てこの楽団が初演した作品とのこと。このヴァイオリン協奏曲も、1879年にブラームス自身の指揮でゲヴァントハウス管弦楽団によって初演されています。

今回私が同じプログラムなのにサントリーホールではなくみなとみらいホールを選んだ理由は、このホールの素朴で親密な音響のためでした。以前ツィメルマンのシューベルトとチェコフィルのスメタナをこのホールで聴いて、どちらもそういう音を聴かせてくれたからです。このオケのブラームスとシューベルトは、絶対にこの音響で聴きたかった。演奏が始まってすぐに、この選択は正解だったと確信しました。

今夜のソリストは、ギリシャ出身のレオニダス・カヴァコス。先日のチャイコフスキーVn協奏曲の予習の際に、シャハムとともに、全く違うタイプだけど同じくらい好きだった演奏がカヴァコスのそれでした。その演奏はちょっとクセのある外見に反して、清廉に感じられました。内向的な情感をたたえる暗めの音色がゲヴァントハウス管の音色と同質で、ブラームスにすごくよく似合う。

このオケのブラームスはフレイレとのピアノ協奏曲の録音(指揮はシャイーさん)を聴いたことがあって、そのときは欠点のない綺麗なだけの演奏に感じられたので、今回はどうなんだろ?と実はちょっと心配していたのですが。
今夜はオケがよく歌ってる…!それも「ドイツの音」で歌ってる…!そしてオケの音もソリストの音もこのホールの音響に想像以上に合ってる…!
これだけで早々にかなり満足してしまいました。

とはいっても、2楽章の半ばくらいではまだ温まりきっていない様子だったオケ。それを豊かな音色でリードしていたのは、紛れもなくカヴァコスだったと思います。そしてそれに導かれるように次第にオケとソリストが溶け合ってゆき、最後には聴いていて涙が出そうになりました。ああ、ブラームスの音楽だ、と感じた。いつまでも聴いていたい、私にとっては天国にいるような幸福な時間でした。

そしてブロムシュテットさん。入場時はすごく小さな体に見えて、演奏が始まってもしばらくは「…この方はいま指揮をしているのだろうか…」という風に見えていたのが、演奏が進むにつれてどんどん大きく見えてきて、ああこのオケをいま指揮しているのは紛れもなくこの人なんだ、と感じました。カデンツァのときに体ごと向きを変えて微動だにせずじぃーーーーっと真顔でカヴァコスの指先を凝視している様子は、今までに見たことのない光景で面白かったです笑(普通はオケの方を向いて視線を伏せて演奏を聴いている指揮者が多い気がするので)。

演奏後の拍手は、このガラガラの会場でよくぞこれだけの拍手をしてくれました。客席エライ!


【バッハ:無伴奏ヴァイオリン・パルティータ 2 -3 「サラバンド」(ソリスト・アンコール)】
しっとりと落ち着いた音色が、サラバンドの旋律にとてもよく合っていました。美しかった。
客席は無音。今日の客席、マナーがすごくいい。客自体が少ないせいもあるでしょうけど
演奏後はだいぶ長い時間、楽器を下げませんでしたね。
先日のシャハムと今回のカヴァコスには、ヴァイオリンの音の魅力をいっぱい教えてもらえました。


【シューベルト:交響曲第8 ハ長調 D.944 「ザ・グレート」】

ものすごく感動しました。

こういう演奏にやっと、やっと出会えた。。。。。。

ハイティンク×LSOのミューザでのあのブルックナーからずっと、こういう演奏にもう一度出会いたくて、今日までクラシック演奏会に足を運んできたんです。素晴らしい演奏には沢山出会えてきたけれど、どうしても出会うことのできなかった一つの感覚があって。諦めかけていたんです。あの感覚に出会えなくても他の魅力をもった素晴らしい演奏は沢山あるし、と。でも心のどこかで、どうしてももう一度出会いたいと思ってしまっていた。
それがどういうものかを言葉で説明するのは難しいのだけれど、言うなら、全体としての「一つの交響曲」の世界。四つの楽章の集まりではなく、一楽章から最終楽章へと続く一つの完結した世界。そしてそこに当たり前に自然に存在している、作曲家の心。この世の苦しみも悲しみも後悔も、全てを包み込む、音楽の温かさと軽みと美しさ。そんな音楽を作ることのできる、人間の崇高さ。愛らしさ。
演奏が進むにつれ次第に漂い始める、ゆっくりゆっくりと「どこかへ向かっている」気配。

全てがここにある、と感じた。
ずっとずっと聴いていたかった。でもその気配は、決して焦ることなく、でも着実に歩みを進めていて。
長い息で幾度も繰り返される旋律は、永遠に続くようでどれ一つとして同じではなく、ゆっくりゆっくりと、やがて還るべき場所へと向かっていた。
「天国的な長さ」とはきっと、この世界とは異なる時間の流れなのだと感じた。
そこではおそらく、シューベルトの一生も、ブロムシュッテットの一生も、どんな人間の一生も、その長さは同じなのだ。
シューベルトの人生は短かった?
違う。
どんなに短い一生でも、どんな人の一生にも、きっとそこに「全てはある」のだ、と。

最後の方にはブロムシュテットの体に光が見えました。本当ですよ。あの日のハイティンクに見えたのと同じ光(ちなみにあの時のミューザもガラガラでした)。どんどん思うとおりの、あるいはそれ以上の音を出していくオケの音に包まれた指揮者の、なんて幸福そうな表情。P席から見ると、ブロムシュテットが「音楽そのもの」に見えた。
この日の客席は最前の二列が中学生か高校生の学生さん達で(とても行儀がよかったです)、これからの生きる時間の方がずっと長いこの子たちと、今こういう演奏をしてくれている90歳の、まるで少年のような表情で指揮台に立っているブロムシュテットと。そんな光景を見ながら、この演奏を聴いていました。

今日のオケの集中力は、ちょっと言葉にならないものでした。
幾度同じフレーズが繰り返されても、その度により一層心動かされる、いつまでもいつまでも聴いていたい「音楽」がそこにありました。上手下手を超越していた。
これは今しか聴けない演奏だ、と聴きながら強く感じていました。例え二日後に同じ曲をサントリーでやるとしても、これと同じ演奏はきっと聴けない、となぜか強くそう感じたんです(どちらが良い悪いではなく)。「今」しっかりと聴いておかなければいけない、と。

こんなに大きくて温かな世界を見せてくれたブロムシュテットさんとオケには感謝しかありません。
そして今日この会場でこの演奏に感動した人とは、今後どんなことがあっても、全てを許し合えると感じた(実際知り合いはいませんでしたが)。声高な主張はなくとも、こういうものこそが本当の「音楽のもつ力」なのではないだろうか。

あれからこの夜のグレートの響きがずっと耳の奥で鳴り続けています。本当に、一生ものの宝物をいただきました。ありがとう、ブロムシュテットさん。

サントリーホール、NHKホールの感想はまた後ほど。

※今日の演奏はブロムシュテットがSKDと録音している演奏より全体的に早めで若々しかったです。でも勢いで押すことは一切なく、私は今日の演奏の方が好きでした。

※ブロムさんて元々はヴァイオリニストだったんですね(こちらの記事より)。カヴァコスの指先凝視はそういう理由もあったのかな。この記事によると、ブロムさんがタイムスリップして会ってみたい作曲家はバッハとシューベルトだそうです

※予定されていたカヴァコスのサイン会は「熱演による疲労のため」中止。本当に素晴らしい熱演だったものなあ。。。お疲れさまでした。


~ブロムシュテットの言葉(kajimoto公式ページより)~

「ゲヴァントハウス管は、まずなによりも、典型的なドイツのオーケストラです。どういうことかと言うと、音色がかなり暗めで、ずっしりとした豊かな響きをもっている。低音が土台であるためコントラバスは5本の弦をもっています。4本であるのが普通で、たとえばアメリカでは、5弦をもつコントラバスはほとんど見かけません。4本のものばかり。しかしドイツのオーケストラは、低音を基盤に響きをつくるため、さらに低いC音の絃を備えた楽器を用いるわけです。
 ゲヴァントハウス管の第二の特徴は、古典的なレパートリーに腰を据えて取り組んでいるということです。演奏会は録音されて放送されることになっていますが、ゲヴァントハウス管は、(公共放送の文化役政策上の役割を考慮して)新しい作品を優先的に紹介しなければならないという義務を負っていません。ゲヴァントハウス管のレパートリーの中心にはドイツ音楽があります。ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、メンデルスゾーン、シューマン、ブラームス、ブルックナー、マーラー…。もちろん近・現代の音楽も演奏しますし、さまざまな国の音楽を取り上げてきました。ゲヴァントハウス管のフランス音楽の演奏はとても素晴らしいし、イタリア音楽も見事です。さらにロシアのもの、北欧やイギリスのものも一流です。でも中心は、やはりドイツ音楽にあります。

 したがって11月の日本公演で演奏するのも、すべてドイツ音楽です。それどころか、すべてライプツィヒで、ゲヴァントハウス管によって初演された作品です。ブラームスの《ドイツ・レクイエム》も、そのヴァイオリン協奏曲も、シューベルトの大ハ長調の交響曲も、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲やブルックナーの第7交響曲も、すべてがライプツィヒ・ゲヴァントハウス管の演奏によって産声をあげた作品ばかりです。もちろん時代は変わりましたが、このオーケストラの演奏様式は世代から世代へと引き継がれて、それほど大きく変わってはいません。新しい世代の楽員たちは、つねに演奏をとおして経験から伝統を身に着けてゆきます。この伝統は、とくに楽節のつくり方に顕著です。私たちは「バーン」と荒々しく音を出すことはなく、「ティー」とつねに美しく音をつくります。つねに美しく柔らかで、非常に力強い音を出すときにも、「ビャン!」と突発的な乱暴な音ではなく、「ブワァーン」と温かく柔らかです」


「私が80歳を過ぎてからウィーン・フィルと初共演をすることになったとき、友人の或る音楽批評家が、きみは大丈夫さ、楽員たちはみな君のことを尊敬しているから自動的にうまく進むよと言ってくれましたが、無論これは冗談で、演奏が自動的に進んでしまうのは、けっして望ましいことではありません。音楽の演奏に必要なのは表現の密度の高さなのです。しかも、それは物理的な音の密度ではなく、精神的なそれなのです。そこに音楽の芸術としての偉大さもあります。大きな動きを伴った物理的活動は音楽とは無縁のもので、そのエネルギーは芸術家の個性に由来するものなのです。指揮者が及ぼす物理的な作用が少なければ少ないほど、精神的な密度がより高ければ高いほど、よい結果が生まれることはよく知られています。オーケストラというのはタクシーではないのですから、あっちへ行け、こっちへ行けと次々に指示されてもうまく走れるわけではありません(笑)。よい結果は高度な集中から生まれるものなのです」


「たとえば演奏旅行ですと、同じ作品を繰り返して何度も演奏しますが、そのひとつひとつが違ったものでありたい。もっとよいものでありたい。いつも、そう念じています。繰り返しではなく、毎回が新しい始まりでありたいと願っています。音楽家は、やはり探究者なのです。新しいものに到達することを目指して、だが、永遠に果てしがない。指揮者はオーケストラと手を取り合って、その道を進んでゆくのです」

聞き手・文: 岩下眞好(ドイツ文学・音楽評論家)

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