シューマン:独唱、合唱、管弦楽のためのオラトリオ「楽園とペリ」
指揮:ゲルト・アルブレヒト
管弦楽:チェコ・フィルハーモニー管弦楽団
独唱:ソプラノ カリタ・マッティラ/ソプラノ カタリン・ピッティ/メゾ・ソプラノ ガブリ
ーレ・シュレッケンバッハ/アルト アンネ・ギーヴァンク/テノール ヨゼフ・ク
ンドラーク/バリトン ジョン・ブレヒェラー
合唱指揮:ルボミール・マートル
合唱:チェコ・フィルハーモニー合唱団
CD:日本コロムビア CO-4599→600
来年は、シューマン生誕200周年の記念すべき年に当る。シューマンは、私の最も好きな作曲者の一人である。ピアノ曲、歌曲、室内楽曲、交響曲などどれをとっても、こくのある作品群が揃っており、いずれもロマンの香りをふんだんに持ったところが何ともいい。青春の息吹というか、昔の懐かしさに溢れた雰囲気が好きだ。そんなシューマンの作品群は、不思議なことに、大曲になればなるほど音楽評論家には人気がないのである。4曲からなる魅力的な交響曲にしても、音楽評論家には評判があまり良くない。シューマンは、素晴らしく美しいレクイエムもミサ曲も作曲しているのであるが、音楽評論家に取り上げられることが少ないないせいか、あまり知られていない。どうもクラシック音楽は、音楽評論家の意見がその曲の存在価値を決めてしまい、クラシック音楽リスナーは音楽評論家の顔色ばかりを窺っているように見える。
そんなシューマンの大曲の一つが、今回のCDの独唱、合唱、管弦楽のためのオラトリオ「楽園とペリ」である。この曲はあまり知られてはいないが、一度聴くとそのメロディーの美しさと、誰にでも口ずさめそうなやさしさ(大衆性)が印象に強く残る、シューマンの隠れた名曲だと言ってもいいであろう。曲は第1部(1~9番)、第2部(10~17番)、第3部(18~21番)、第4部(22~26番)からなり、全部を通して聴けば、ゆうに1時間半にも及ぶ長さとなる。通常、1時間半もの長い曲だと、中だるみといおうか最後まで聴き続けるのは、なかなかしんどいものであるが、このシューマンの「楽園とペリ」だけは、そう長いとも感じられずに聴き通すことができる。理由は、美しく、やさしいメロディーが次から次えと現れては消えていく、といった按配で、アキが来ないからだろう。音楽評論家にあんまり受けが良くない原因は、どうもこの通俗性にあるらしい。クラシック音楽リスナーにとっては、音楽理論よりも聴いて楽しい方がずっとよい。
ところで、オラトリオ「楽園のペリ」のペリとは一体何かというと、ペルシャ神話に登場する妖精のことで、本来はゾロアスター教の悪魔に使える身分であるため、救済を必要としている。彼女はひとえに救済を待ち望んでいる。楽園に入るためには、ペリは“天の最も愛する贈り物”をもってこなくてはならない。そこでペリは、いろいろなものを持っていくが門は開かない。最後に、罪深い男が汚れない子どもを見て流した涙を持っていき、ペリは救済されるのである。シューマンは、この物語をアイルランドの詩人トマス・ムーアが書いたメルヘン集「ララ・ルーク」によった。当時のヨーロッパ人は多かれ少なかれオリエント趣味があったようで、この物語も好んで受け入れられていたようだ。
当初、シューマンはこの曲にオラトリオとは付けずに、ただ単に「独唱、合唱、管弦楽のための」と付けていたようだ。オラトリオは教会や修道院における説教音楽のようなもので、聖書からとった台詞に様々な様式の音楽が付けられていた。その後、オペラの形式も取り入れられて行った。シューマンは当初「楽園とペリ」をオペラにする構想があったようだが、最終的にはオラトリオ形式(オペラとは違い演劇の要素はなく、独唱と合唱それにオーケストラ演奏)にしたが、多分、宗教性を薄めるためにオラトリオという名前を使用しなかったのではなかろうか。いずれにしろ、この曲はシューマンにとっては、チャレンジ目標であったオペラへの挑戦であり、しかも大衆性を狙った誠に革新的な記念すべき作品なのだ。多くの人がこの「楽園とペリ」を、先入観なしに聴いてみてほしいものである。きっと気に入ってもらえると思う。このCDの録音は、1987年4月7-12日、プラハ「芸術家の家」。
(蔵 志津久)