<NHK‐FM「ベストオブクラシック」レビュー>
~アンドラーシュ・シフ ピアノ・リサイタル~
メンデルスゾーン:厳格な変奏曲
シューマン:ピアノ・ソナタ第1番
メンデルスゾーン:幻想曲Op.28
シューマン:交響的練習曲(1852年改訂版)
メンデルスゾーン:無言歌「甘い思い出」「紡ぎ歌」(アンコール)
ピアノ:アンドラーシュ・シフ
収録:2014年3月19日、東京オペラシティ・コンサートホール
放送:2014年6月30日(月) 午後7:30~午後9:10
今夜のNHK‐FM「ベストオブクラシック」は、2014年3月19日、東京オペラシティ・コンサートホールで行われた「アンドラーシュ・シフ ピアノ・リサイタル」の放送。アンドラーシュ・シフ(1953年生まれ)は、ハンガリー出身のピアニスト。リスト・フェレンツ音楽大学で学ぶ。これまで1974年第5回チャイコフスキー国際コンクールのピアノ部門第4位入賞、1975年リーズ国際コンクール第3位入賞、1991年バルトーク賞受賞、1996年ハンガリー最高の栄誉であるコシュート賞受賞、1997年コペンハーゲンでレオニー・ゾンニング音楽賞受賞など、数々の受賞歴を誇る。シフは、コチシュおよびラーンキとン並びハンガリーを代表する若手ピアニストとして注目を集めたが、当初シフは、ほかの2人と比べて地味な存在であったようだが、大器晩成型らしくその後徐々に実力を発揮し、現在では、世界を代表するピアニストの一人に数えられている。妻でありバイオリニストの塩川悠子が第一バイオリン奏者を務める室内楽団「カペラ・アンドレア・バルカ」の創設者、指揮者でもある。録音にも熱心に取り組んでおり、これまでモーツァルトのピアノ・ソナタ全集、バッハの一連の作品、シューベルトのピアノソナタ、バルトークのピアノ協奏曲全曲、そして最近ではベートーヴェンのピアノソナタ全曲の録音で高い評価を得ている。シフの演奏は、演奏する曲を一旦自分の中に取り込み、それを基に再構築するように演奏するので、決して平板に流れることなく、常に演奏内容が新鮮で、深みがある。
今夜は、メンデルスゾーンとシューマンの二人の作曲家に絞ったプログラムとなった。これについてシフは「二人ともほぼ同年代の作曲家で、互いに係わりをもっている。そしてこれらの作品はその価値の高さの割には、十分に評価されていないことから取り上げた」と語っている。最初演奏されたのは、メンデルスゾーン:厳格な変奏曲とシューマン:ピアノ・ソナタ第1番。メンデルスゾーン:厳格な変奏曲は、1841年に作曲されたピアノ独奏曲で、バロック的な形式に基づいた作品で、その演奏には難易度が高いことで知られる。主題の提示とロマン的な雰囲気を漂わす17の変奏とコーダからなる。ここでのシフの演奏は、明快に、一つ一つ曲想をほぐしていくようにゆっくりと進めていく。17の変奏は、ロマン派のメンデルスゾーンの作品らしく、ファンタジーが鍵盤から零れ落ちるような気分が感じられ、シフの本領が如何なく発揮された演奏を聴かせてくれる。一方、シューマン:ピアノ・ソナタ第1番は、1832年から1835年にかけて作曲され、1836年に出版されたもので、シューマンの初めてのソナタ形式の大作。初版には「フロレスタンとオイゼビウスによるピアノソナタ、クララに献呈」と題され、如何にもシューマンらしく、文学と音楽の融合を狙った曲となっている。全部で4つの楽章からなる。観念的で技巧にはしり過ぎた曲と批判を受けたこともあるが、現在では正統な評価がなされている。この曲のシフの演奏は、シューマンを得意としていることがひしひしと感じさせられる内容だ。細部にわたり磨き抜かれ、彫の深い演奏内容に彩られ、さすがシフだけのことはあると、納得させられる内容だ。一音一音が引き締まり、躍動感ある印象を強く受ける。この曲は、しばしば巨大で威圧的な演奏をするピアニストが少なくないが、シフは、それらとは、まるで無縁であり、心の通った、温かくも厚みを持った演奏を繰り広げ、リスナーを夢心地に誘うかのようであった。
3曲目は、メンデルスゾーン:幻想曲Op.28。この曲は、メンデルスゾーンとしては、あまり知られた曲ではないが、「スコットランド・ソナタ」と名づけられ、哀愁のある内容の充実した作品。メンデルスゾーンは、幾度となくイギリスに行ったが、その時に受けたイギリスやスコットランドからのイメージを基に書かれたものであり、あの「スコットランド交響曲」と軌を一にする作品。最初、1828年に書かれたが、その後、5年間書き直しを続け、1833年に完成、1834年に出版された。全3楽章からなる。第1楽章は、物語を始めるかのようなゆっくりとしたテンポで始まる。この辺のシフの語り口の上手さに思わず耳は自然とピアノに集中する。次第にテンポが速まり、シフは、風景画を眺めるような遠近感を持った演奏を繰り広げる。第2楽章は、あたかもピアノが歌を歌が如く、滑らかに進む。シフの歌心が前面に溢れ、清々しい。第3楽章は、古典的な構成の楽章で、メンデルスゾーンが持つ古典的な側面を覗かせる。シフの演奏もそのような楽章に相応しく、激しく厳格に展開していく。安定したシフの演奏技術が聴いていて心地よい。この第3楽章によって、この曲全体がスケールが大きいものに感じられる。シフがこのコンサートでこの曲を選んだ理由が、聴き終えてみると分かる。
最後の曲は、シューマン:交響的練習曲(1852年改訂版)。この曲は、1834年から1837年にかけて作曲され、主題と12の練習曲からなり、ピアノのための練習曲であると同時に、変奏曲の傑作として広く知られている。シューマンと交際関係にあったエルネスティーネ・フォン・フリッケンの父フリッケン男爵の「フルートとピアノのための『主題と変奏』」の旋律を主題としている(出版に際しては「あるアマチュアの主題による」とだけ表記)。1852年の第2版では主題とは関連をもたない第3番と第9番がカットされ、「変奏曲形式による練習曲」のタイトルが付けられた。さらに、ブラームスの校訂により1890年に出版された第3版では、第1版に入らなかった5曲が「遺作」として加えられた。現在はほとんどが第1版か第3版のいずれかで演奏されるようであるが、今回のコンサートでは、シフは、敢えて第2版の「1852年改訂版」採用した。この辺にシューマンに愛着を持つシフの強い意志が感じられ、興味深い。「交響的練習曲」と名づけられている通り、全体にピアノの響きというより、交響曲を思わせるような、力強く、スケールの大きなピアノ演奏が特徴の曲だ。その間に挟まったように、繊細な変奏曲が出てきて、演奏効果を一層高める。シフの演奏は、正に乾坤一擲と言った全力投入の演奏が印象的。ただこんな場合でもシフは、ただいたずらに鍵盤を強打しない。背景には詩が常に流れているのだ。文学をこよなく愛したシューマンのように、シフの演奏もその背景には、常に文学的な響きが強く漂う。やはり、シフは一流のピアニストであることを強く印象づけられた。アンコールで弾かれた2曲のメンデルスゾーン:無言歌は絶品ともいえる演奏内容であった。(蔵 志津久)