モーツァルト:レクイエム(死者のためのミサ曲)
指揮:カール・ベーム
管弦楽・ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
独唱:エディット・マティス(ソプラノ)/ジュリア・ハマリ(アルト)/ウィスロウ・オフマン(テノール)/カール・リッダーブッシュ(バス)
合唱:ウィーン国立歌劇場合唱連盟
CD:ユニバーサルクラシックス(独グラモフォン) UCCG‐4639
私にとってモーツァルトのレクイエムほど不思議な曲はない。最初に聴いた時から、今に至るまでこれは本当にモーツァルトの作品であろうかという疑念が常に頭をよぎる。今でこそ、モーツァルトはクラシック音楽の代表的作曲家であることに間違いないのであるが、モーツァルトが生きていた時代、それに亡くなって暫くは、必ずしも今ほど著名な作曲家ではなかった。それがケッヘルなどの努力により、作曲した作品の全容が人々の前に明らかになるにつれ、その偉大な作曲家像が築かれていったのである。このことは、モーツァルトの前の作曲家であってもそうである。よく、バッハの作品はメンデルスゾーンが再発見したかのように書かれているが、その前に、モーツァルトも盛んにバッハのフーガなどを研究していたし、そのモーツァルトの研究成果をベートーヴェンが学んだことも知られている。つまり、モーツァルトはバロック音楽を勉強し、その成果の上に立って古典美としてのクラシック音楽を完成させた大作曲家だったわけである。
古典美のクラシック音楽の特徴は、中世音楽やバロック音楽の基づいた宗教的音楽あるいは王侯貴族の音楽とはことなり、ある特定の使命感を持つ音楽でなく、普遍的な美学に基づいた音楽である。要するにどんな人が聴いても「美しいな」と感じることの出来る客観的な音楽なのある。そこには、些細な曖昧さもないし、節度を持った音楽が構築されたわけである。我々が現在、モーツァルトの音楽に魅了されるのは、正にこのためなのである。ところがである。モーツァルトの全作品中、このレクイエムだけは、それまでのモーツァルト像をぶち壊してしまうほどのエネルギーに満ちた特異な作品だ。そこには、中庸を心得た節度のあるイメージはない。あるのは、怒りであり、激しい慟哭であり、そして祈りである。もうモーツァルトのトレードマークの古典美などというイメージは、吹っ飛んでしまう。モーツァルトはレクイエムの作曲について、次のような手紙を書き残している。「・・・人はだれも、自分の生涯を決定することは出来ないのです。摂理の望むことが行われるのに甘んじなくてはいけないのです。筆をおきます。これは僕の死の歌です。未完成のまま残しておくわけにはいきません」。
実際にはモーツァルトは、このレクイエムの作曲を半分にも行かないほどで生涯を閉じてしまう。後は、弟子のジェスマイアーなどが補作したものが、現在、我々が聴いているモーツァルトのレクイエムである。つまり、モーツァルトのレクイエムといっても、半分以上はモーツァルト以外が作曲した曲であり、このことも「レクイエムは本当にモーツァルトの作品なのか」という原因になっている。つまり、これまでジェスマイアーの補作をベースに幾人もの人が自己流に解釈してモーツァルトのレクイエムを“作曲”するという大変変則的な作品となっているのだ。それでも、今日に至るまでモーツァルトの代表作と言われるのは、そんなマイナス面をも凌駕するほど、我々現代人の心を捉えて離さない何かがこの曲には込められているからだ。もう古典的な美意識などはかなぐり捨てたモーツァルトの心の底からの叫びが聴こえてくる。日本は今年、国難とも言われる東日本大震災に見舞われ、多くの方々の命が奪われてしまった。このモーツァルトのレクイエムを聴いていると、あたかもモーツァルトが、日本の東日本大震災で亡くなった方々の御霊に向かい作曲したかのようにも聴こえ、涙を禁じえなくなる。それほどモーツァルトのレクイエムは、時空を超えて、我々一人一人の胸に訴えてくるものがある。
そんな、古今のレクイエムの名曲中の名曲を、カール・ベーム指揮ウィーン・フィルそしてソプラノのエディット・マティスをはじめとした独唱陣および合唱陣が、考えうる最高の演奏を披露しているのが今回のCDである。1971年にLPレコードとして発売されたもので、今ではもう歴史的名盤の1枚に入るのかもしれない。その演奏は、白熱の限りを尽くしたものとなっており、ベームの指揮は、曲の核心を突く。少しもリスナーに媚びることなく、さりとて、独りよがりの世界にのめり込むこともない。独唱、合唱陣を含め、正統的な重々しい響きが辺りを覆い尽くし、聴いていて厳粛な気分に引き込まれてしまう。これほど分厚く、重々しく演奏されたケースは稀であろう。そして、そんな激しい感情の渦巻く間に、わずかな救いの音楽が時折聴こえてくる。あたかも、砂漠の中に迷い込みながら一時、オアシスで休息し、清流の水で喉を潤す思いがする。全ての演奏者がカール・ベームの棒に集中して一糸乱れない、見事としか言いようもほどの演奏には、ただ脱帽するしかない。集中度の高さ、完成度の高さ、緻密さ、どれを取っても一級の仕上がりを見せている名盤である。(蔵 志津久)