<NHK‐FM「ベストオブクラシック」レビュー>
~アメリカ出身の名ピアニスト マレイ・ペライア ピアノリサイタル~
バッハ:フランス組曲 第4番変ホ長調BWV815
ベートーヴェン:ピアノソナタ第23番「熱情」
シューマン:ウィーンの謝肉祭の道化
ショパン:即興曲第2番
ショパン:スケルツォ第2番
ショパン:練習曲 作品25第1「エオリアン・ハープ」
ショパン:練習曲 作品10第4
ショパン:ノクターン 作品15第1
ピアノ:マレイ・ペライア
収録:2013年10月24日、東京・サントリーホール
放送:2014年5月23日(金) 午後7:30~午後9:10
今夜の「ベストオブクラシック」は、昨年10月に東京・サントリーホールで行われた“マレイ・ペライア・ピアノリサイタル”。マレイ・ペライア(1947年生まれ)は、ニューヨーク出身のピアニスト。1966年、17歳の時にニューヨークのマネス音楽大学へ入学し、ピアノ、指揮法を学ぶ。その後、ゼルキンおよびホルショフスキーらの大御所に師事。1972年リーズ国際ピアノ・コンクールにおいてアメリカ人初の優勝者となる。これにより一躍脚光を浴び、世界的な演奏活動を開始する。1981年から1989年までは、オールドバラ音楽祭の共同芸術監督を務めた。その後、1980年代に入ると、ペライアは、ホロヴィッツに招かれることになるが、この時ホロヴィッツから強い影響を受けという。ところが、1990年に右手が敗血症に侵され、演奏家活動から身を引かざるを得なくなってしまったという。数年間の療養の後、一旦は復帰を果たすが、2005年に再び発症し、療養生活に戻ることとなる。2006年には、再度復活を果たし、その後、世界各国での演奏活動を再開し、現在に至っている。つまり、もともと世界的に高い評価を得ていたピアニストにもかかわらず、手の故障のため、満足な演奏活動が続けられなかったブランクの期間があったようだ。今後、手の故障さえ再発しなければ、世界を代表するピアニストの一人としての活躍が大いに期待できる。これまで、グラミー賞最優秀室内楽演奏賞および独奏楽器演奏賞を受賞しているほか、2012年にはグラモフォン誌の初代殿堂入りも果たした。2004年には、アメリカ人のペライアは、名誉大英帝国勲章 ナイト・コマンダーKBEに叙されている。
今夜のマレイ・ペライア・ピアノリサイタル第1曲目は、バッハ:フランス組曲第4番変ホ長調BWV815である。1720年6月にバッハは、レオポルド公のお供で湯治場として有名なボヘミアのカルルスバートに出かけるが、1か月後、ケーテンに戻って来ると、妻のマリア・バルバラが亡くなっていたことを知らされる。今のように情報網が発達していない当時のことだから、仕方のなかったことなのだろう。既に葬儀も執り行われていたという。暫くし、心の傷が癒えたバッハは、再婚することを決意する。当時バッハは4人の子供がいた。再婚相手は、宮廷トランペット奏者の娘で、ソプラノ歌手のアンナ・マクダレーナ・ヴィルケン。当時20歳。結婚後、彼女は、4人の子供を育てると同時に、バッハの作品の写譜もこなすなど、バッハを陰で支えたのだ。そんな彼女に感謝の念を込めてバッハが作曲したのが6つの曲からなるフランス組曲である。楽譜には「おまえといると、わたしは喜びに満たされる。天に召されて永遠の休息につくときも、私は怖くはないであろう。きみの美しい声を聴き、きみの優しい手で目を閉じてもらえるのだから」という詩が書かれてあるという。バッハ:フランス組曲を聴くときに、これらの背景を知って聴けば、バッハの作曲の核心に触れることができる。ここでのマレイ・ペライアの演奏は、実に伸びやかに、穏やかに、ゆっくりとしたテンポで繰り広げる。全体が光り輝くようなピアノ演奏である。この演奏は、バッハへ深い尊敬の念を持つペライアが、自身の持つ特徴である自然な音のつくりと豊かな音楽性を発揮した名演となった。やはり、マレイ・ペライアは、凄いピアニストであったのだと改めて認識させられた。
2曲目は、ベートーヴェン:ピアノソナタ第23番「熱情」。この曲は、ベートーヴェン中期の最高傑作の一つに数えられ、ベートーヴェンの三大ピアノソナタの1つに数えられている。この曲の完成以後は、ベートーヴェンは、4年間ピアノソナタを書かなかった。この曲へ投入したエネルギーがいかに巨大であったことを感じせる。全曲を通して、ベートーヴェンの力強い意志の力が感じられる曲であり、「苦難を克服して歓喜を得る」という、ベートーヴェンの根底に流れる思想を直接肌で感じさせてくれる曲でもある。1805年の春に集中的書き、完成させた。ベートーヴェンの闘争心が旺盛なことは、「熱情」の完成直後のエピソードに表れている。1806年の夏に、ベートーヴェンはシレジアのリヒノフスキー侯爵の居城であるグレーツ城に滞在していた。ある日、侯爵からベートーヴェンに、滞在客のフランス軍将校のためにピアノを弾いてほしいと要請があったが、ベートーヴェンが断ったため喧嘩となり、怒ったベートーヴェンは、雨の中帰ってしまったという。ナポレオンに失望し、「英雄交響曲」の楽譜を破り捨てたというエピソード(こちらはどうも事実ではなさそうだ)を髣髴とさせる。この場合、ベートーヴェンは、信念を貫き通すというより、どうも直情型性格にその原因がであったのだろう。ベートーヴェン:ピアノソナタ第23番「熱情」は、そんな背景を思いながら聴くとよい。ここでのマレイ・ペライアの演奏は、他のピアニストのように激情を無造作に叩きつけることはない。どんなときにも豊かな音楽性を保ちながら、理性の範囲で音楽を構築するのだ。そこには、いつもと違う「熱情」描き出される。仄かな陰影を含んだ静かだが、信念を持った「熱情」が表現されていた。
3曲目は、シューマン:「ウィーンの謝肉祭の道化」。この曲は、シューマンが1839年に作曲した全5曲からなるピアノ曲で、“幻想的絵画”という副題が与えられている。演奏時間は20分を超す曲で、当初「ロマンティックな大ソナタ」と名付けようとしていたようである。同時期に作曲され、今でもしばしば演奏される「フモレスケ」にちょっと似た感じの曲である。ただ、この「ウィーンの謝肉祭の道化」は、「フモレスケ」に比べると影が薄い理由は何であろうか。「フモレスケ」ほど完成度が高くなく、ピアニストとしては、効果が発揮しづらい曲なのかもしれない。ペライアが敢えてこの「ウィーンの謝肉祭の道化」を取り上げた理由は、自分の個性が発揮できる曲であることを、ペライア自身が気付いたからなのではなかろうか。抒情的であり、自然の流れの中に大きな構成力を持った曲である。そこがペライアの個性が発揮されるところだ。あまり聴く機会がない曲であるが、今夜ペライアの演奏で聴けたことにより、この曲の新たな魅力を聴き取れた。多分、ペライア以外のピアニストがこの曲を演奏したら、印象の薄い曲に終わっただろう。そして、今夜のピアノリサイタルの最後のプログラムであるショパンの曲がアンコールを合わせて全部で5曲演奏された。それらは、スケルツォ第2番、練習曲作品25第1「エオリアン・ハープ」、練習曲作品10第4、ノクターン作品15第1である。これらのショパンの曲の演奏では、ペライアの持てる力がこれまでの曲以上に発揮されたように私には聴こえた。美しい音そのものに加え、その根底には豊かな音楽性に基づいた力強さが潜んでいる。これは、長い経験を積んだピアニストにしか表現しえない、ショパンならではの世界だ。久しぶりに美しいショパン演奏が聴け、大なる満足感に浸れた。また、マレイ・ペライアのピアノでショパンを聴きたいものだ。(蔵 志津久)