ドビュッシー:交響詩「海」/牧神の午後への前奏曲/遊戯/管
弦楽のための「映像」/神聖な舞曲と世俗的な舞
曲/夜想曲/交響組曲「春」/クラリネットと管弦
楽のためのラプソディ第1番
指揮:ピエール・ブーレーズ
管弦楽:ニューフィルハーモニア管弦楽団/クリーブランド管弦楽団
CD:CBS/SONY 73DC 242-4
日本人はクラシック音楽というと、まずドイツ・オーストリア系音楽を思い浮かべ、次にイタリアのオペラを考え、さらにチェコなどの東欧音楽、そしてフランス音楽が続くといった按配で、日頃フランス音楽とあまり付き合いが深いとはいえない。私もフランス音楽はあまり聴いてこなかったし、直ぐに何を思い出せるかと言われるとぐっと詰まってしまう。そして出てくるのがドビュッシーとラベルの名前だ。私はこれまでは、ドイツ・オーストリア系クラシックをさんざん聴いた後に、一時の気分直し的な感覚でフランス音楽を聴いてきた。ところが、それを根底から覆させられたのが、このブーレーズによるドビュッシーの管弦楽を収めたCDなのである。
学生時代から、ラジオから流れてくるドビュッシーの「海」とか「牧神の午後への前奏曲」などは、何回聴いたか分からないほどであるが、それほど心酔したこともないし、モーツアルトとかベートーベンとかとは大分雰囲気が違っていることに戸惑いを感じつつ聴いてきたというのが実情であった。ところが、このブーレーズのドビュッシーの管弦楽のCDと出会ったことで、これまでのクラシック音楽に対する考え方が大きく変わってしまった。私にとってそれまでクラシック音楽というと、バッハなどの音楽を純粋に突き詰めていくバロック音楽、それにベートーベンやシューベルトなどにみられる人間としての愛とか憎しみとか怒りだとか喜びだとかの感情の表現、さらにはイタリアのオペラのような人生の機微を感じさせるドラマがすべてであった。ところがこのブーレーズのドビュッシーの管弦楽のCDは、これまでのクラシック音楽では得られない、自然の描写が克明に描かれ、あたかも印象派の絵画を見ているような感情に体全体がとらわれ、まったく新しいクラシック音楽像が私の前に忽然と現れたのである。
ブーレーズの指揮ぶりは、精緻を極めるといった趣で自然の息吹が部屋いっぱいに広がり、例えようのない幸福感といおうか満足感で心が満たされる。よく考えてみると人間の感情は、人間と自然のかかわりと比べるとその次に位置づけられるものであろう。あくまで人間と自然の出会いがあり、その後に人間同士の葛藤が生まれてくるのである。ドビュッシーは何かそんなことがいいたくてこれらの傑作に位置づけられている管弦楽集を書いたのにちがいない。この考え方は我々日本人に近いものがある。日本人は万葉の時代から、自然と一体とした考え方を基本に据えてきた。逆に言うと論理的に詰めていくことに対しては一線を画してきたし、さらに人間としての感情をあまり露骨に表すことのない環境に身を置いてきた。そのことが、自分の欠けているものをドイツ・オーストリア系クラシック音楽に求めるという結果を、これまで及ぼしてきたといってもいいのではないか。
ドビュッシーは今後クラシック音楽が発展を遂げるのに、絶対欠かせない作曲家であると思う。それまでのクラシック音楽の限界を超え、何か宇宙的な広がりを持つ可能性を我々に投げつけているとも思える。残念ながらその後の現代作曲家は、ドビュッシーの持つ健康で雄大なスケールを歪曲し、何か病的で小さな世界に閉じ込めてしまった。唯一ドビュッシーの世界を押し広げさせて見せたのが、世界でただ一人、わが武満徹だと私は考えている。武満の音楽は、クラシック音楽だけでなくジャズミュージシャンなどにも支持者が多く、大きな広がりを見せている。年を経るに従い武満の評価はさらに高まると私は確信している。そしてその原点にドビュッシーがいる。冬の夜長、暖かくしてドビュッシーの管弦楽曲の音楽に浸ってみませんか。素晴らしい世界が目の前に広がってきますよ。
(蔵 志津久)