弁理士の日々

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松本城訪問

2024-05-04 15:55:09 | 趣味・読書
4月29日30日、松本に一泊し、1日目に松本城、2日目に諏訪の高島城を訪問しました。
まず、松本城訪問について記します。
松本城は、江戸時代からの天守閣が現存している貴重なお城として有名です。

天守


現在の松本城(上が北)


戦国時代の松本城(上が北)

内堀の南側に配置された橋を渡ると、門の先に券売所⑥があります。門に名前はついていないのですが、形式は高麗門のようです。

高麗門(城外側から)


高麗門(城内側から)

高麗門の先に、いわゆる黒門があります。形式は櫓門です。高麗門と黒門に囲まれた領域が、枡形を形成しています。

黒門(城外側から)


黒門(城内側から)

黒門をくぐると、そこは本丸の敷地内です。

天守
天守の拝観待ち時間は40分と表示されていました。ただし、立って待つのではなく、テントで雨よけされたベンチに腰掛けて待つことができました。

天守の内部

城から北西方向には、北アルプスの山々を見ることができました。

天守から埋橋(うずみばし)と北アルプスを望む
写真中央の右にそびえるのが常念岳、その右が横通岳と東天井岳です。中央左奥の雪が見えるのが大滝山です。


天守


天守

100名城のスタンプを押印し、、松本城訪問を終えることができました。

お昼は、おそばをいただきました。松本に到着してホテルにチェックインし、そのときにお勧めのお店を教えてもらいました。出かけてみると、やはりお勧め店は行列ができています。比較的行列が短かったので、たかぎで食べることとしました。

そば定食

それでは、松本城の来歴をウィキで確認します。
『戦国時代の永正年間(1504-1520年)に、信濃守護家小笠原氏(府中小笠原氏)が林城を築城し、その支城の一つとして深志城が築城されたのが松本城の始まり。
甲斐の武田氏に攻略され、その後武田氏が滅亡し、徳川家康の麾下となった小笠原貞慶が旧領を回復し、松本城と改名した。
徳川家の関東移封と松本城主小笠原秀政の下総国古河への移動により、代わりに石川数正が入城し、石川数正とその子康長が、天守を始め、城郭・城下町の整備を行った。
江戸時代初期には大久保長安事件により石川康長が改易となり、小笠原秀政が再び入城。大坂の陣以後は、松平康長や水野家などの松本藩の藩庁として機能した。水野家の後は松平康長に始まる戸田松平家(戸田氏の嫡流)が代々居城とした。
1872年(明治5年)に天守が競売にかけられ、解体の危機が訪れるが、市川量造ら地元の有力者の尽力によって、買い戻されて難を逃れる。
明治30年代頃より天守が大きく傾き、これを憂いた松本中学(旧制)校長の小林有也らにより「松本天守閣天主保存会」が設立され広く修理費の寄付を募り、1903年(明治36年)より1913年(大正2年)まで「明治の大修理」が行われた。』
明治維新後の廃藩置県により、日本全国のお城のほとんどが破却される中、松本城の天守閣はよくぞ保存されたものです。明治期の有識者たちの活躍に感謝です。

この日は松本のホテルで一泊しました。翌日の諏訪高島城訪問については次号で紹介します。
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