弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

忍城訪問

2024-05-07 15:27:23 | 趣味・読書
5月3日、埼玉県の行田にある忍城を訪問しました。
東京から忍城を訪問するのにはいくつかのルートがあります。
新幹線か高崎線で熊谷まで行き、秩父鉄道で押田または行田市まで行って徒歩で忍城に向かう。
高崎線で吹上または行田まで行き、そこからバスで忍城近くまで行く。
秩父鉄道もバスも本数が少ないので、東京からの出発時刻次第で、お勧めのルートが変化するようです。
ゴールデンウィーク中で新幹線指定席が取れなかったので、高崎線(または湘南新宿ライン)で熊谷に出て、そこから秩父鉄道を利用するルートとしました。秩父鉄道は行田市駅で下車しました。

忍城に到着です。

御三階櫓と木橋

下の地図と照合すると、現在の内堀は城の東側に残っており、その堀にかかった木橋を渡って東門から城内に入場することになります。

現在の忍城(上が南東)


東門

御三階櫓の中に、当時の忍城のジオラマが飾られています(下写真)。

戦国時代の忍城(上が西)


戦国時代の忍城(上が北)

戦国時代の忍城の絵図としては、こちらの絵図がわかりやすいです。この絵図からも、当時の御三階櫓は、本丸の敷地ではなく、本丸からはるか南、三之丸よりもさらに南の領域に建っていたことが明らかです。しかし現在、城跡公園として使えるのは本丸領域のみですから、やむを得ず、御三階櫓を再建するに当たって本丸に設置したのでしょう。

御三階櫓


御三階櫓

本丸領域の北端角に鐘楼が建っています。

鐘楼


鐘楼

    赤城山                             白根山

遠望


伝進修館表門

忍城の来歴(ウィキ
『室町時代中期の文明年間に成田氏によって築城されたと伝えられており、北を利根川、南を荒川に挟まれた扇状地に点在する広大な沼地と自然堤防を生かした構造となっている[2]。数度の城攻めを受けて、一度も落城しなかった要害堅固な城として知られる。』
『1590年(天正18年)、豊臣秀吉の関東平定の際、城主・成田氏長は小田原城にて籠城。『忍城戦記』などによれば氏長の叔父・成田泰季を城代とし、約500人の侍や足軽のほか、雑兵、農民、町人など3,000人が忍城に立てこもった(忍城の戦い)。豊臣方の忍城攻めの総大将は石田三成で、大谷吉継、長束正家、真田昌幸等も加わった。三成は、本陣を忍城を一望する丸墓山古墳(埼玉古墳群)に置き、近くを流れる利根川を利用した水攻めを行うことを決定し、総延長28kmにおよぶ石田堤を建設した。しかし忍城は落城せず、結局は小田原城が先に落城したことによる開城となった。このことが、忍の浮き城という別名の由来となった。』
『湿地帯を利用した平城であった。元々沼地だったところに島が点在する地形だったが、沼を埋め立てず、独立した島を曲輪として、橋を渡す形で城を築いた。』

行田は足袋が名産であると知られ、私も小学生の時代から知っていました。現在、足袋は廃れましたが、足袋の産地としての記憶が街の中に残っています。街中に足袋に起因する蔵が点在しているようです。
ぎょうだ足袋蔵ネットワーク
たまたま、そのうちの一つである、「旧小川忠次郎商店店舗及び主屋」を通りました。
『足袋の原料を商っていた小川忠次郎商店の店舗及び主屋として昭和4年頃に完成した、行田の足袋産業隆盛期を象徴する近代化遺産。内部1階は店舗南側を土間のミセとし、北側に帳場、主屋部分のナカノマ、オクヘと縦1列に並べる間取りで、2階に格式高い座敷を設けている構造で、こうした構造は明治・大正期の行田の店舗型町屋に共通する。
足袋原料を扱った小川忠次郎商店が大正14年(1925)に棟上した土蔵造りの店舗併用住宅。現在はNPO運営の蕎麦店となっている。』
そこで、この店でそばをいただくこととしました。

蕎麦 忠次郎蔵


蕎麦 忠次郎蔵


ざるそばと天ぷら

こうして、忍城訪問の一日が終了しました。
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